北村さんちの遺跡めぐり
更新日2017/9/14

静岡県西部と愛知県東部

その9 愛知県豊橋市2・豊川市・蒲郡市
撮影日2017/3/29〜4/1

静岡県の見学を終え、三日目、3月31日午前11時過ぎに、愛知県豊橋市に入る。

周辺の地図g

東田古墳
アズマダコフン
豊橋市御園町
撮影日2017/3/31

東田地区の氏神様・東田神明社の西約50mの住宅街に残されている。

 東田古墳は 全長40mの前方後円墳
    後円部径25m・高さ3m 前方部先端幅16m・高さ4m
  現在は、墳丘の上に御嶽社が建っているが、この社造営の時に、鏡と直刀が出土したという。
  5世紀の築造と推定されている。



生垣で囲まれている

左側が前方部



南から見る

後円部に御嶽社がある

後円部頂の御嶽社社殿

高さは、前方部より後円部が低いようだが、これは社殿造営で削られたせいかな?

三ツ山古墳 豊橋市牟呂町坂津
撮影日2017/3/31

三ツ山児童公園の中に1基だけ残されている。
標柱に簡単な説明がある。
豊橋市美術博物館のホームページに、この三ツ山古墳のデータがあったので、参考にさせていただいた。

 三ツ山古墳は 全長36mの前方後円墳(説明板では全長31.5m)  北西側に前方部がある。
  後円部径15.5m・高さ3.5m 前方部幅15m・高さ2.5m
 古墳は前方部がよく発達し、周囲には周溝が巡る
 古墳上には円筒埴輪や形象埴輪などが立てられていた
  埴輪の大半は破片となって周溝や表面の土から出土したが、
  一部で原位置を保つ円筒埴輪が立ったまま出土。
 後円部と前方部とでそれぞれ1基ずつ石室がある
  後円部のものは大きく破壊されていたが、
  前方部のものは比較的残りが良く、無袖型の横穴式石室と考えられている。
 前方部石室の副葬品として、大刀1、短刀1、轡1、鉄鏃50本以上、
    須恵器の脚付有蓋壺や提瓶、土師器の壺などが出土。
 5世紀後半の築造と推定されている。
 平成10〜12年度に発掘調査。

 三ツ山古墳は、台地の端に築かれた前方後円墳で、かつては周辺に6基の小古墳があったというが、
  現在は1基だけしか残っていない。

左・後円部 右・前方部

後円部手前から見る  左奥に前方部

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

  

豊川市に入る。

観音山古墳
市指定史跡
豊川市小坂井町大塚
撮影日2017/3/31

JR東海道本線とJR飯田線と名鉄名古屋本線の線路が集中しているあたりのテニスコートのすぐ南にあるが、
  テニスコート側から行けない。住宅に囲まれてしまっている。
南の住宅の間の狭い通路からしか行けない。

 観音山古墳は 径19mの円墳
  頂上に石碑と祠が建ち、大木が茂っている。
  この古墳の石が吉田城の修築に使われたといわれていて、一部の石材が残っている。
  「西国三十三ヵ所巡礼観世音」と彫られている石は、
               玄室の奥の鏡石であったと考えられている。
 その前方に少し出ている石は天井石と考えられている。
 古墳時代後期の築造と推定されている。

 鏡石に江戸時代に「観世音」と彫られたことから、  観音山と呼ばれるようになった。
                                 (説明板から)

南からの狭い通路を抜けると墳丘が見える。

小さな祠もある。 

奥壁だと考えられている石
「西国三十三ヵ所巡礼観世音」
ほかの石は見えない

西から見た観音山古墳。
 ここからは道がない。

まず、古墳に行く通路をしっかり確保してほしかった・・・・。

五社稲荷古墳
糖塚古墳

どちらも市指定史跡
豊川市207小坂井町欠山
撮影日2017/3/31

観音山古墳の東約1kmのところにある五社稲荷は古墳の上にある。

 「三河国 白狐ヶ丘 五社稲荷社」由緒
 白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られている。
 欠山遺跡
といわれている。
 五社稲荷社は、明暦年間(1656年頃)に、この遺跡の中央前方部大古墳上に
  この古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため
  「保食神(ウケモチノカミ)」を斎祀したのが始まり
と伝えられている。
 延享四年(1747年)、御本殿の造替の棟札には「稲荷五社 大明神」とあり、
  その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されているが、
  古文書から見みると、
  伏見稲荷大社から文政十三年二月(1830年)正式勧請し、
  五社稲荷社と称され今日に至っている。
 当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に画かれており
    境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえる。
                         (HPの由緒から)
 五社稲荷古墳
  現在、五社稲荷社の本殿のある山が、五社稲荷古墳である。
  径32.5m・高さ4.75mの円墳。   埋葬施設は木棺直葬
  墳丘内には多量の弥生土器が含まれていたことから、
   周囲の土を盛り上げてつくられたことが分かった。
  埴輪や葺石、周溝などは確認されていない。
  遺物が出土していないが、古墳時代中期の築造と推定されている。
   昭和56年、本殿建設時に発掘調査。

 五社稲荷古墳の北東(奥の院の裏側)には、糟塚古墳がある。
 糟塚古墳は 径17.5mの円墳



五社稲荷古墳
・糟塚古墳
 測量図

  (現本殿改築前) 

 (説明板から)

五社稲荷神社鳥居

墳丘上に五社稲荷神社の本殿が建っている。

東側裾から五社稲荷神社の墳丘を見る。

糟塚古墳

雨が降っているが、参拝の人がぼちぼち訪れている。
この辺りでは有名な神社なのかな。

御津船山古墳
ミトフナヤマコフン
市指定史跡
豊川市御津町広石船山
撮影日2017/3/31

もとは御津町の指定史跡
御津町は、2008年に豊川市御津町となった。
比較的新しい住宅街の中に保存されている。

 御津船山古墳は  全長37mの前方後円墳
    後円部径21m、前方部幅15m   前方部と後円部の比高差は現状で0.5m

墳丘図   (説明板から)

墳丘の周囲に濠の痕跡が認められる。


 埋葬施設については明らかになっていないが、
   後円部墳頂には直径3mの大きな陥没部分がある。(盗掘坑か)
 かつてこの古墳から須恵質の円筒埴輪が出土したというが詳細は不明。
 6世紀中頃の築造と推定されている。



西から見る墳丘

左奥・後円部
   右手前・前方部

後円部墳頂の大穴

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

後円部脇から前方部を見る

後円部側に説明板がある

民家の間から見た墳丘

墳丘がしっかりあると、写真が多くなります・・・・。

船山第1号墳
市指定史跡
豊川市八幡町上宿
撮影日2017/3/31

豊川信用金庫国府支店上宿出張所の駐車場の脇に説明板と埴輪棺の復元展示がある。
この場所は元は船山第1号墳の前方部だった。
午後5時を過ぎていたのて、この信用金庫の駐車場に駐車させてもらって見学開始。

 船山第1号墳は  全長95mの前方後円墳   東三河最大級の前方後円墳。
  後円部径56m、前方部幅65m、高さ6.5m、
 葺石あり  埴輪あり
 5世紀頃の築造と推定されている。

 昭和20年(1945)の防空壕が掘られた際、鉄製品(鉄刀3・鉄鉾3・鉄鏃70)が出土した。
 昭和63年(1988)に前方部先端部が発掘調査され、埴輪棺2基が見つかっている。
 平成20年の調査で南側のくびれ部に8.3×4.0mの造り出しが付くことが確認されたが、
 平成27年の調査で北側のくびれ部にもほぼ対称形の造り出しがあるとわかり、円筒埴輪が出土した。
   全長94mとされてきた墳丘は、平成27年の調査で、全長95mと訂正された。


船山第1号墳の現在の墳丘図


前方部が昭和4年の平尾街道開削、
後円部が戦前の採土により削平されている。

その後も、道路拡張や建物建設で、
少しずつ削平され現在に至る。


 かつて北側には陪塚と思われる2号墳1辺19.5mの方墳)が存在していたが、
     昭和39年(1964)の調査後消滅。


埴輪棺展示

墳裾付近で、
墳丘に飾られた円筒埴輪を棺に転用した埴輪棺が
2か所で検出された。

豊川信金駐車場横に展示されている。

北東から見た墳丘

左・後円部
右・前方部


くびれ部の上り口 上宿神社鳥居

後円部墳頂  上宿神社の小社がある

後円部から前方部を見る

前方部

前方部から後円部を見る

前方部前面の切断面

豊川市には2つの船山古墳があって、先に紹介したのは、「御津船山古墳」、
こちらは「船山第1号墳」と呼んで区別することになっているのかな。

三日目はここで終了。
ホテルクラウンヒルズ豊川に、宿泊。
4日目・最終日を迎える。

豊川稲荷 豊川市豊川1
撮影日2017/4/1

日本三大稲荷のひとつで、商売繁盛の神として知られている。
豊川稲荷というが、実際は妙厳寺というお寺の境内の鎮守として祀られたもの。

 豊川稲荷は 室町時代に創建されてから、
  今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将や、
   江戸時代は、大岡越前忠相、渡辺崋山などの武人・文人たちからの信仰を集めてきた。
  庶民の間で、商売?盛や家内安全、福徳開運の神として、参拝者は全国に広がっている。 

総門
  明治17年に改築竣工したもの

山門
天文5年(1536)今川義元が寄進した建物で、
境内の中では一番古い建物

 左右の仁王像は昭和41年寄進されたもの

豊川稲荷 鳥居  奥は本殿

豊川稲荷本殿 昭和5年竣工の建物
 霊弧塚
  もともとは納めの狐像を祀る場所だったが、
  現在は信者から献納された大小1000点以上の狐の石像がずらりと並ぶ。

奥の院
旧本殿のもので、文化11年(1814)の建立

景雲門(奥の院の門)
安正5年(1858)の建立で旧奥の院の中雀門

豊川いなり寿司が有名だというが、まだ午前9時半!
お腹、すいてないなぁ・・・・

三河国分尼寺跡
国史跡
豊川市八幡町
撮影日2017/4/1

国分尼寺では、中門と回廊の一部か実物大復元されていて、史跡公園となっている。
そばには、「三河天平の里資料館」というガイダンス施設もつくられていて、ちょうど会合が開催されていた。
展示の見学ができ、資料も頂いた。

 国分寺と国分尼寺は、奈良時代に聖武天皇の命令で全国の国ごとに建てられた寺院である

三河国分尼寺の配置図   (説明板に加筆)

かつては150m四方の敷地に、
本尊を安置した金堂
尼僧が勉学した講堂
尼僧の共同宿舎であった尼房
時刻を知らせた鐘楼
仏教経典などを納めた経蔵
中門と講堂をつなぐ渡り廊下としての回廊
寺院正面の門である南大門
などの建物があった。


 三河国分尼寺は、奈良時代から平安時代の中ごろにかけて、
  三河国分寺とともに三河国の仏教文化の中心施設として繁栄するが、
  やがて役目を終えると建物は朽ち果て、
  後に跡地に建てられた清光寺の境内にわずかに残る礎石に当時の面影を残すだけとなっていた。

 平成11年度から保存整備工事を始めて、中門と回廊の一部の実物大復元を行い、史跡公園とした。



中門と回廊の実物大復元

発掘成果をもとに新築
 奈良時代の建築様式を再現した

中門から見た金堂跡

金堂跡 東西26.1m・南北13.7mの瓦葺きの建物
基壇の中央から               
  仏像を安置した須弥壇の跡が発見された
奈良の唐招提寺の金堂に匹敵する規模   

手前・金堂跡 中央・講堂跡 奥・築地塀

掘立柱塀跡

築地塀跡

北方建物跡から見た中門

三河国では、国分寺跡、国分尼寺跡が確定している。

三河国分寺跡
国史跡
豊川市八幡町
撮影日2017/4/1

国分尼寺とともに国史跡となっている。
三河国分寺の遺産といわれている「梵鐘」が置かれている。
広い空き地の片隅には、後世の国分寺がある。

 国分寺とは、聖武天皇が天平13年(741)に発した「国分寺建立の詔」により各国に建立した寺院で、
  僧20人を置くことが定められていた。

三河国分寺 配置図

三河国分寺跡は180m四方で築地塀に囲まれ、

その東寄りに南大門、金堂、講堂が
 南北一直線に並び、
 西寄りに塔が位置している。


10世紀代以降に建物が廃絶していき、
 寺院機能が衰退したと推定されている。
国分寺跡の北側(国分寺北遺跡)では、
 建物跡などの多くの遺構が検出されている。

現在ある国分寺は
 16世紀に再興された曹洞宗の寺院。



「史跡三河国分寺址」と刻まれた
     大きな石碑がある。

西回廊跡

現在の国分寺
 三河国分寺の銅鐘
  大正11年(1921)に国の重要文化財に指定された。
  製作年代は、奈良時代ともいわれているが、
   デザインから平安時代に入ってからのものと考えられている。


梵鐘の模式図  (説明板から)

高さ118cm、下帯周り256cm、重さ678kg、口径82.4cm

80個あった乳もいつしか駆け落ち(弁慶の引きずり伝説)、
 20個を残すだけとなっている。

銅鐘 覆い屋

銅鐘 拡大

国分尼寺跡は礎石なども、復元されているが、国分寺跡は整備されていない。空き地が広がっている。
「弁慶の引きずり伝説」を検索したら、滋賀県三井寺が出てきたが、ここにも同じような伝説があるようだ。

三河国総社
三河国国府跡
豊川市白鳥町
撮影日2017/4/1

総社と国府推定地が並んでいる。
もとは、白鳥遺跡と呼ばれていたあたりだ。

 総社とは、国司が国内の神社を巡拝する労を省くため、祭神を一か所に合祀した神社
  平安時代になると各国の国府近くに設けられた。

 国府は、総社に先立ち、8世紀に全国60余りの国に設置された国の役所でその中心施設は国庁と呼ばれる
 
 古代三河国の国府は、国府町の的場遺跡(守公神社周辺)と白鳥遺跡(総社周辺)の2か所が候補地とされてきた。
 平成3〜9年度の確認調査で、
   総社及び東側の曹源寺一帯にかけて正殿。後殿・東西脇殿からなる国庁が存在したことが確認された。

 この三河国府跡から、「国廚」や「介□□」と墨書された土器、陶製印、羊形硯など
    国府跡ならではの遺物が数多く出土している。
 この台地一帯(白鳥遺跡)に三河国府の関連施設があったことが明らかとなった。

確認された国庁跡 (説明板から)
国府跡ならではの出土品

 羊形硯 右は複製品  (パンフから)
  

陶製印
「賀」という文字が陽刻されている。
(パンフから)
 総社神社    祭神は 国内59大明神 大木食命(オオギクイノミコト)

 平安時代の嵯峨天皇の御世(弘仁年間・9世紀前半)に、
 三河国内神名帳の59社の神霊をこの社に祀り、国司巡拝の代わりとした。(総社)


 大化改新前の穂国(三河国の一部)の国造の祖で、
  物部氏の系譜にある「大木食命」を総社の祭神に合祀したのは、
  政治的配慮がうかがわれる。
                        (三河国総社由緒記 パンフから)

総社神社 正面

「三河国総社・三河国府(国庁)跡」
の立派な説明板がある。

総社神社 本殿

総社神社から国府跡の方向を見る
 国府跡
  現在は、国庁の後殿跡辺りに曹源寺が立っている。

南から見た国庁跡
奥正面が曹源寺

曹源寺の周りは、畑や民家だ
曹源寺も民家と変わらない造りだ。

平成24年の企画展「よみがえる古代三河国の歴史舞台}(於:三河天平の里資料館)のパンフレットをもらえたので、
参考にさせていただいた。

穴観音古墳
市指定史跡
豊川市御津町豊沢字松ノ下
撮影日2017/4/1

御津高校の西の「穴観音公園」に残されている。

 穴観音古墳は 直径20m・高さ約5mの円墳
  外護列石が3段にめぐらされている。
  1段目と2段目は高さ1〜1.2m、
    3段目は高さ10〜20cm(築造時は40〜50cm)のほぼ垂直の石積がされている。
        (現在は埋まっている。)
  このような古墳は東海地方では初めてである。

 埋葬施設は横穴式石室で全長約8m、
   玄室部長さ4m・幅2.1m・高さ2.5m、羨道部長さ4m・幅1.7m・高さ1.6mを測る。
   奥壁や天井には巨石が使われている。 
 7世紀初頭の築造と推定されている。
 石室内には観音像が祀られ、信仰の対象となっている。

穴観音古墳

右側にも
小さな石室があるが、
 これは一体?
何にも説明が無い…
 後世のものなのかな

石室入口

石室内部
暗くて観音様はよく見えない・・・

雨が降り、周りも工事中だが、桜の名所ということで、人が絶え間なく訪れている。

三月田古墳群
サンガツデンコフングン
蒲郡市指定史跡
蒲郡市相楽町三月田
撮影日2017/4/1

墳丘が復元されているというので、見学に行く。
立派な説明板が2つある。

 三月田第2・3号墳
  御堂山(標高363.5m)の南斜面につくられている。
  海抜79mのほぼ同じ高さのところに、二つ並んだ状態でつくられている。


三月田2・3号墳
山裾に保存されている。


向かって左側が第3号墳
  右側が第2号墳



石室内に砂を入れ、
墳丘には土を盛って
保存されている。


発掘調査後の三月田2・3号墳
   (説明板から)

平成8年に発掘調査


三月田第1号墳はここから北東200mの丘陵地にあった。
斧磨(ヨキトギ)1〜4号墳は、南東の丘陵にあったが、開墾で消滅。
 三月田第2号墳は  径14mの円墳
  墳丘には、高さ1mの外護列石がめぐらされている。
  横穴式石室は、長さ5.6m  
    玄室長さ3m・幅1.5m・高さ2.2m   羨道長さ2.6m・幅1.4m
    がある。
  金銅製耳環1、須恵器の破片が出土
  7世紀末の築造と推定されている。

2号墳石室 (説明板から)

現在の2号墳
 三月田第3号墳は  径13mの円墳
  外護列石はない。
  横穴式石室は、長さ7.2m
    玄室長さ3.3m・幅1.5m・高さ2.4m  羨道長さ3.9m・幅1.4m
  玄室から、須恵器片や土師器片が多量に出土した。
  7世紀中ごろの築造と推定されている。

3号墳石室 (説明板から)

現在の3号墳

石室が見れないのは残念だ・・・・。

正法寺古墳へ つづく

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