更新日 2017/8/17

2017春・静岡西部・愛知県東部
その6 浜松市3
2017・3/29〜4/1

大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台に行ってきました!!。
今回は浜松市北区の引佐町井伊谷と細江町気賀の遺跡と観光編です。
二日目の最後と三日目の最初に見学。

シリーズ「遺跡を学ぶ」聖なる水の祭りと古代王権・天白磐座遺跡(新泉社)
       という本が図書館にあったので、参考にさせていただきました。



浜松市北区引佐町井伊谷の遺跡

シリーズ「遺跡を学ぶ」から引用




静岡県の地図g

まず、井伊谷の古墳から・・・。

井伊谷では、昭和9年(1934)に馬場平古墳が発見されていた。
昭和54年(1979)には、北岡大塚古墳や白山古墳群などが確認された。

馬場平古墳
市指定史跡
浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/30

車幅ギリギリの狭い道の奥にある。
案内表示や説明板は、立派だが、古墳自体は破壊されていて、わかりにくい・・・

昭和9年に発見された古墳。土取りで埋葬施設が露出し、遺物が出土してしまったそうだ。

 馬場平古墳(バンバヒラコフン)は  全長47.5mの前方後円墳
  後円部径33m・高さ4.6m 前方部幅15m・高さ2.1m
  後円部に比較して前方部が短い
 後円部背後から南東部にかけて幅8〜9mの周濠かめぐっている。
 全長6m、幅北側2.2m・南側1.7m・厚さ0.7mの粘土槨に
  全長5m、北側幅0.87m・中央幅0.71m・南側幅0.6mの組合式箱形木棺が納められていたと考えられている。
  木棺の材質はカヤだと考えられていて、中は赤色顔料が塗られていた。
    (現在は保存のため砂を入れて埋め戻してある)
 5世紀初めの築造と推定されている。


馬場平古墳 墳丘の復原


井伊谷盆地を見下ろす、
     海抜57m付近の丘陵端部にある


  昭和9年の削土により、後円部の4分の1と前方部の一部が破壊されたが、
  その時、
   画文帯神獣鏡、内行花文鏡、大型柳葉形銅鏃3、鉄剣3以上、鉄鏃9のほか
   勾玉、管玉、巴形石製品など多数の遺物が出土、
   出土物は県指定文化財となっている。
  昭和56年測量調査、翌年一部発掘調査


正面奥に墳丘がある。
南から見る

馬場平古墳 右に後円部

馬場平古墳 くびれ部から後円部を見る

近くには、谷津古墳というのがあるが、見学できるのか…?
直径36m の円墳で5世紀の築造と推定されている。

北岡2号墳
市指定史跡
浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/30

引佐運動公園の西にある北岡大塚古墳登り口に駐車、山を登る。まず2号墳。

 北岡2号墳は 径5.7mの円墳で、墳丘の両脇から背後にかけて幅2〜2.5mの空堀がある。
   南に開口する横穴式石室は 羨道をもたず、玄室と玄門からなり、
      玄門の閉塞に大きな1枚の板石を使用していることを特色としている。
   石室全長3.2m 奥壁幅0.55m・中央幅1.0m 奥壁高さ0.75m・中央高さ推定1.0m
   石材はチャート 
  
  石室内から、鉄刀1、鉄鏃2  玄門前から、須恵器の壺と平瓶などが出土
  7世紀初頭〜7世紀中ごろの築造と推定されている。

  昭和54年発掘調査                           (説明板から)


北岡2号墳

閉塞石の板石が、そばに置かれている。


丘陵の南斜面、海抜57.5m付近にある。

石室入口 初めから羨道はない

石室内部

墳丘上から見た石室
5枚の天井石があったと考えられているが、  
    現在は奥と玄門部の2枚しか残っていない。

背後には空堀跡が確認できる


北岡大塚古墳
市指定史跡
浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/30

北岡2号墳からさらに登って、墓地のそばにあるのが北岡大塚古墳。

 北岡大塚古墳は 全長49.5mの前方後方墳
  後方部長29.5m、同幅29.0m、前方部幅23.5m 
 土師器片多数、ガラス小玉1などが出土
 特に二重口縁を持つ壺形土器(土師器)から、4世紀中葉の築造と推定されている。
 三岳山から南西方向に延びる小支脈の先端部近くの海抜80mを基底としてつくられている。


墳丘図

(シリーズ遺跡を学ぶから引用)


昭和54年発見され、55年測量調査
平成6年発掘調査

後方部前に説明板
右に前方部

後方部頂

左・後方部
右・前方部

後方部から前方部を見る

前方部から後方部を見る

  

白山1号墳・2号墳
1号墳は市指定史跡
浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/31

龍潭寺の西約500mにある白山神社周辺の丘陵南斜面には白山古墳群がある。
白山神社境内に駐車したが、「浜松市指定文化財 白山1号墳」という説明板もここにある。

白山神社の駐車場から山を見上げると、フェンスで囲まれた白山2号墳が見える。
1号墳は、2号墳からさらに上に行ったところにある。

 白山古墳群は、6基からなる古墳群だが、元は10基以上あったと考えられている
  6世紀後葉〜7世紀前半の築造と推定されている。

   

 白山2号墳
  径5mほどの円墳 詳細不明


白山2号墳


白山神社駐車場から見上げる



山の上の
  緑色のフェンスで囲まれた部分



西側斜面から見た2号墳

石室のあった辺りはくぼんでいる。

山側から見た2号墳

2号墳からさらに上に行った所に、1号墳がある。

 白山1号墳       浜松市指定文化財
 径6mの小円墳   古墳群中最も高い所に立地する
 南に開口する横穴式石室は1987年に発掘調査。
   玄室全長3.3m・高さ1.2m・奥壁幅0.6m・最大幅1.0m  羨道長さ3m・幅1m
   玄室は、地山を掘り込んで平坦な床面を作っていて、元は天井石があったと考えられている。
   羨道は、25〜30度の急傾斜となっていて、始めから天井石はなかったとみられている。
 調査時に出土はなかったが、過去の盗掘で銅製耳環が出土している。
 北岡2号墳(1979年調査)と同一規模で、石室構築に一定の規格が存在したと考えられている。
                           (説明板から)


フェンスで囲まれた1号墳


墳丘は、2号墳とよく似ている。

    横穴式石室が露出している。

横穴式石室 
羨道には、始めから天井石はなかった?!

奥壁周辺

山側から見た墳丘

そばに「白山大権現跡」という石碑がある。

3号墳は神社の東側に残されているそうだ。

井伊谷宮 浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/31

井伊谷宮は  御祭神・宗良親王(後醍醐天皇第4皇子)で、
 宗良親王は南北朝時代にこの地を本拠地にして、50年余の間、吉野朝のために活躍した人物だ。
元中2年(1385)に73歳で亡くなった地と伝えられている。
お墓が本殿背後にある。

明治元年明治政府によって、当宮創立の勅旨が出され、陵墓のある龍潭寺境内を分割し、
     彦根井伊氏によって社殿が造営された。
明治5年鎮座し、翌年同6年に官幣中社に列せられた。
境内には親王を支えた井伊道政、顕父子を祀る井伊社がある。
学問・心願成就・開運の神として信仰されている。


井伊谷宮

「慈母観音石」

摂社 井伊社
親王を支えた井伊道政、顕父子を祀る

宗良親王御墓

   

龍潭寺 浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/30

正式名は萬松山龍潭寺。 宗派は 禅宗臨済宗妙心寺派
本尊は 虚空蔵大菩薩
井伊家菩提寺、  宗良親王菩提寺である。
小堀遠州作龍潭寺庭園は国指定名勝。
金沢文庫錦繍万花谷は 国重要文化財。
山門、庫裡、本堂、開山堂、井伊家霊屋、稲荷堂などは県指定建造物。
湖北五山のひとつ。天平5年(733)に行基によって創建された。
井伊家初代の共保に始まり、直虎や徳川四天王の直政、幕末の大老井伊直弼など井伊家歴代の祖霊を祀っている。
また境内には、直虎を支えた家臣団の墓所もある。
城を出た直虎は仁王門前の松岳院で母と過ごしたと伝えられている。


山門 額には「萬松山」とある。

仁王門
仁王像が安置されている。

左・鐘楼   右・東門(旧鐘楼堂)

左・開山堂  右・本堂

龍潭寺歴代住職と
戦国時代の井伊家を支えた家臣団の墓所

家臣の新野氏、奥山氏、中野氏や松下氏などの墓。
桶狭間で、直盛とともに討ち死にした重臣の墓。
  (小野玄蕃など)
徳川家康の遠州侵攻を援けた井伊谷三人衆の墓。
  (鈴木重時・菅沼忠久・近藤康用)
井伊氏が彦根に移ってからは、三人衆のうち近藤家が、幕末まで井伊領を治めていた。
 井伊家墓所

井伊家歴代墓所 配置図 

22代直盛 初代共保の墓が並ぶ

左から24代直政、直親夫人、23代直親
  直虎(次郎法師)、直盛夫人
 の墓

井伊家歴代之墓
 地蔵堂と神木「なぎ」
  24代井伊直の母が、我が子の安泰を念じて、お地蔵様を造り、その傍らに神木「なぎ」を植えた。
  永禄11年(1568)の事だ。

 なぎの木には、湖北五山古木・御神木巡り」の説明板がある。
  なぎの木は、いぬまき科の常緑高木 樹齢推定400年
  樹高19m 幹周2.67m(直径85cm)
  井伊家24代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃、井伊家の安泰を念じて植えられた御神木
       (説明板から)
 「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるといわれている。

地蔵堂

なぎの木

7月23日の「おんな城主・直虎」の中で、虎松の母しのが、このなぎの木を植えるという場面があった・・・
なぎの木を植えてから、7年後、「虎松」改め「直政」は、徳川家の家臣となり、井伊家は幕末まで連綿と続くこととなる。

共保公出生の井戸
市指定史跡
浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/31

龍潭寺から歩いて2分。南の田んぼの中。

 龍潭寺の山門近く、田んぼの中の白壁に囲まれた石組の大きな井戸。
 井伊家の初代「共保」が1010年にここで生まれたと伝えられている。
 井伊直弼が、当地で詠んだ歌が歌碑に残る。

 「共保」は、地名にちなみ姓を「井伊」とし、
  生まれた井戸より旗印を井桁に、
   井戸のかたわらで咲いていた橘の花を家紋にした。



共保公出生の井戸



井戸

 

井戸の横にある  
   井伊直弼の歌碑
「八幡宮云々」と刻まれている。

  

天白磐座遺跡
県指定史跡
浜松市北区引佐町井伊谷
撮影日2017/3/30

渭井神社本殿の背後にある薬師山の頂上にある。頂上といっても標高40m。


渭井神社
延喜式に名がある
祭神は 品陀和気命(ホンダワケノミコト)
      息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)
      玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)
境内社も10社ほどある。

由緒や創立の年代は明らかではない。
もとは龍潭寺境内にあったが、南北兵乱のときに現在の地に移ったといわれている。
井伊27郷の大産神である。

 天白磐座遺跡は、薬師山の頂上に位置し、約40m四方にわたって群在する巨石群を磐座とした古代祭祀遺跡
 三方を川に囲まれ、渭伊神社本殿の後方にある薬師山の頂上に、
   3個の巨石を中心に中小の石が散在する形で展開している。
 古墳時代から鎌倉時代まで「水神」「井の神」を祀った祭祀場と考えられ、
   これまでに土器や祭具が多く発見されている。
 平成元年(1987)の発掘調査で、
   4世紀後葉〜平安時代に連綿と続いた祭祀場だったことが明らかとなった
 とくに高さ7mにおよぶ最大の磐座の西壁直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、
   多量の手こね土器や滑石製勾玉などの祭祀に用いられた遺物が出土した。
 12世紀末には末法思想による埋経のための経塚が巨石群の中央に営まれ、
   渥美製の経筒外容器が和鏡とともに出土している。


天白磐座遺跡の測量図
  シリーズ「遺跡を学ぶ」天白磐座遺跡(新泉社)
     から引用

西側の巨岩(A)は、南北10.3m、東西6.8m、高さ7.4m
 その西壁は幅7m、高さ5.5mで
  その下からいくつもの手こね土器が採集された、
東側の巨岩(B)は、東北から南西の長さ7m、
   それに直交する長さが4.1m、高さは5.1m

AとBの中間やや北寄りにある巨岩(C)は、
  三角形で、高さ2.7m、底辺3.5m



天白磐座遺跡  南から見る


左の巨岩(A)の西壁直下が古墳時代の祭祀場
ふたつの巨岩の間に経塚が営まれた。

B岩野手前にある岩は、
  岩が割れて落ちたものと考えられている。



北側から見た天白磐座遺跡の巨岩群



 その他にも巨岩がある。
 すくそばを流れる神宮寺川の岸にはいくつもの巨岩がある。



鳴岩

神社側からはそうでもないが、
  川側からは8mをこえる高さがある。

周辺からは古墳時代の須恵器や
  中世の山茶碗が採集されている。

その他の巨岩1

その他の巨岩2

近年はパワースポットとして注目されている。

「おんな城主直虎」では、主人公おとわと亀、鶴の三人が遊んだり、内緒の話をする場所として、天白磐座遺跡が描かれている。

気賀関所 浜松市北区細江町気賀
撮影日2017/3/31

実は、本当の気賀関所は、気賀の町中にある。
これは、いわばテーマパークというべきものだ。





気賀関所

気賀関所 敷地内

本番所 再現

牢屋 再現

気賀関所 制札
関所取り締まりの原則を掲げたもの

隣りには姫街道関連の博物館や総合案内所、田空直虎ショップがある。


博物館内の様子

浜松市マスコットキャラクター
出世法師直虎ちゃんと出世大名家康くん

(人物は、ぼかして、掲載しています)

田空直虎ショップにて、お土産を購入!。

愛宕平古墳へつづく

静岡県トップ

トップページ