更新日 2017/7/16
2017春・静岡西部・愛知県東部 その4 浜松市1 |
2017・3/29〜4/1 |
二日目です。
朝食後、8時15分、ホテル玄浜松インター、発。
浜松市の入野古墳から。
入野古墳 浜松市指定史跡 |
浜松市西区入野町 撮影日2017/3/30 |
佐鳴湖の南の住宅街に、「入野古墳緑地」として残されている。
入野古墳は 径44m・高さ5.9mの円墳 葺石あり 埴輪はない 主体部は不明 5世紀前半の築造と推定されている。 1993年に、墳丘裾部分の発掘調査 墳丘図 (説明板から) 円墳としては市内最大級。 海岸部を広く望むことができる 三方原台地の南端に築かれている。 |
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入野古墳緑地入口 緑地にしか行けない、 行き止まりの道に駐車させてもらい見学。 |
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墳丘 |
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丸いきれいな墳丘 |
北東側は削られて崖になっている。 |
蜆塚古墳 (シジミヅカコフン) 蜆塚遺跡 国指定史跡 |
浜松市中区蜆塚 撮影日2017/3/30 |
国指定史跡・蜆塚遺跡と浜松市博物館の周辺が、蜆塚公園となっている。
古墳があると聞き、見学に来た。
蜆塚遺跡 配置図 (説明板から) 蜆塚遺跡は、 縄文時代終わりごろの集落の跡で、 北・西・東の三方に貝塚が残り、 その内側に住居跡と墓地が発見されている。 住居跡は平地式で中央に炉をもち、掘っ立て柱で屋根を支える構造となっている。 墓地は楕円形の穴に手足を曲げて遺体を葬ったもの。 貝塚の貝がほとんど蜆だったので、古くから蜆塚といわれてきた。 その貝塚からの生活を示す出土品は、博物館に収蔵展示されている。 |
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第三貝塚と住居跡 第三貝塚は面積約420u・厚さ20m 住居跡は柱穴・炉跡など |
貝塚の蜆 |
復元された村 昭和30年(1955)から4年間にわたる発掘調査で、 6本柱と4本柱の四角な家の跡と、 8本柱の丸い家の跡が20数軒みつかった。 調査後30年の記念として、 昭和60年(1985)に数軒が復元展示された。 |
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墓地跡 昭和45年(1970)ごろまで墓地として利用されていた。 貝塚の上である。 現在は「蜆塚諸霊之碑」が建てられている。 |
蜆塚古墳はよく分からないが、「蜆塚古墳群」という説明板があるのて、このあたりか・・・。
蜆塚古墳は 貝塚のある丘陵の南斜面にある。 3基の古墳が確認されている。 いずれも径10mほどの円墳で、1、3号墳は墳丘が一部重複している。 昭和10年(1935)に、地元の人々により発掘調査されて、 勾玉・ガラス玉・刀・鉄鏃・馬の飾り・土器などが出土した。 |
蜆塚古墳跡 人が住んでいたのは縄文時代、 そのあと人が住まなくなるが、 古墳時代になって古墳がつくられた。 (説明板から) |
案内板をよく見ないで、蜆塚古墳を探したが、なかなか見つからず、時間がかかってしまった・・・。
住吉南古墳 | 浜松市中区住吉4丁目 撮影日2017/3/30 |
浜松市立青少年の家の西隣りにある。
元は「住吉墓苑南古墳」と呼ばれていた。
現在は、付近一帯が、住吉墓苑平和記念広場となっていている。
住吉南古墳は 直径28m、高さ4,4mの円墳 幅4mの周溝がある。 葺石なし 埴輪なし 墳丘の内部は、赤土と黒土を交互に盛り上げた盛り土によって構成されている。 古墳時代中期末の築造と推定されている。 墳丘図 (説明板から) 三方原台地の先端につくられている 浜松市としては、7番目の大きさの古墳。 |
北から見た墳丘 標柱は「住吉墓苑南古墳」となっている。 前方後円墳と考えられていたが、 発掘の結果円墳とわかった。 古いもののと新しいもの、 二つの説明板がある。 |
西から見た墳丘 |
元々は、眺望の良い場所につくられたというが、現在は全く見通しがきかない・・・。
住吉古墳 | 浜松市中区住吉 撮影日2017/3/30 |
浜松中央警察署裏の丘陵先端にあるが、警察側からは見えないのて、
北の高台に上がろうとするが、なかなか上がれない。
2回ほど、周りの狭い道をぐるぐる回ってようやく古墳のそばへ。
住吉古墳は 径20mほどの円墳 古墳時代中期の築造と推定されているが、未調査のため詳細は不明。 |
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西から見た古墳のある林 |
高まりがあるようだが、藪で入れない・・・ |
せっかく、そばまで行ったのに・・・残念です。
千人塚古墳群 | 浜松市中区有玉西町 撮影日2017/3/30 |
静岡県立三方原学園(地図では積志中学校萩原分校となっている)の敷地内にある。
学園の受付で、見学のお願いをして、受付簿に記帳、「古墳見学者」という名札をもらって、見学。
千人塚古墳群は 三方原台地の縁辺部に築かれた古墳群で、9基が確認されている。 前方後円墳3基・円墳6基 5世紀中頃〜6世紀前半の一世紀近くにわたって続けてつくられたと考えられている。 |
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千人塚古墳群配置図 古墳辞典から引用したが、 古墳辞典では「学園内古墳群」と名付けられている。
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学園の門を入ってすぐ右側に7号墳。
7号墳 径30mほどの円墳 墳頂に祠がある。 | |
墳丘 |
墳頂の祠への参道 |
7号墳のすぐ北西に、9号墳(円墳・葺石あり・埴輪あり)があるというが、わからなかった・・・
小さな谷をはさんで東に6号墳。墳丘はあるが、かなり変形している。
6号墳 | |
全長31mの前方後円墳 前方部を西に向ける 後円部径20m・高さ2.3m 前方部先端幅17.5m・高さ1.1m 葺石なし 埴輪もなし 詳細は不明 |
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後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
6号墳の後円部 5号墳側(東側)から見る |
6号墳のすぐ東に5号墳(千人塚古墳)がある。
5号墳(千人塚古墳) | |
千人塚古墳 墳丘図 径49m・高さ7mの円墳 西遠地域最大の円墳 2段築成 北西方向に長さ9m・幅12m高さ0.7mの造出しがある。 幅8.5mの周濠が巡る。 全面に葺石あり 埴輪あり 墳頂に2基の木棺直葬の埋葬部があり、中央部は盗掘のために破壊されていたが、 南側からは、短甲・刀剣・鉄鏃などが出土。 造り出しからも、刀剣や鉄鏃などの武器類と若干の農工具類、祭祀的な石製斧頭が出土 須恵質埴輪が含まれることから、5世紀中頃の築造と推定されている。 群中では最初に築かれたと考えられている。 徳川と武田の三方原合戦の死者を葬ったという言伝えが、「千人塚古墳」の名前の由来である。 |
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北東から見た千人塚古墳 右方に造出しがある。 |
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造出しから墳丘に上がる。 |
墳頂には石碑がある。 |
4号墳は5号墳の北東前にある。
4号墳 | |
径25m・高さ4mの円墳 1978(昭和53)年に学園生が発掘し、七鈴鏡・鉄刀・鹿角製刀子・管玉が出土。 1985年の発掘調査で、円筒埴輪が確認された。 5号墳に続いての築造と推定されている。 |
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4号墳 墳丘 |
3号墳は5号墳の北にある。
3号墳 径15mの円墳 | |
小さくなってしまっている。 |
方向を変えて見る |
3号墳の北隣りにあった2号墳は消滅している。
2号墳は 全長28mの前方後円墳で須恵器・土師器・砥石が出土している。
1号墳(ひょうたん塚古墳)はグラウンドの北にある。
1号墳(ひょうたん塚古墳) | |
前方部が一部道路のため削り取られているが、元は 全長45mの前方後円墳 後円部径28m・高さ4.7m 前方部幅25m・高さ2.3m 周堀なし 葺石なし 、埴輪あり 1948(昭和23)年に調査、3基の木炭槨が発見されて、円形轡鏡板・辻金具・鉄鏃・鉄刀が出土。 |
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南から見たひょうたん塚古墳 かなり形が崩れている。 |
後円部側に説明板がある。左奥が前方部。 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
8号墳はプールの西にある。
8号墳 径12mの円墳 |
8号墳 墳丘はほとんどない。 |
春休み期間だったせいか、大部分の墳丘を見ることができた。
受付に、名札を返して、お礼を言って、見学終了!
うちの古墳めぐり パンフレットから |
浜松市浜北区内野台地区周辺 |
三方原台地の東の縁にある、浜松市浜北区南西部の内野台地区周辺は、
これまでに100基近くの古墳が発見され、内野古墳群と総称されている。
「うちの古墳めぐりコース」というパンフレットが、現地に置かれている。
赤門上古墳・山の神古墳・稲荷山古墳・二本ヶ谷積石塚群を紹介する。
うちの古墳めぐりコース
(パンフレットから)
赤門上古墳・山の神古墳
・稲荷山古墳・二本ヶ谷積石塚群を
徒歩で見学するコースを紹介している。
全長はおよそ2km。
サークルK浜北内野店で昼食を準備し、二本ヶ谷積石塚群の公園で食べることにするが、まず住宅街の中の古墳の見学。
赤門上古墳 アカモンウエコフン 県指定史跡 |
浜松市浜北区内野台4丁目 撮影日2017/3/30 |
内野台4丁目のマンションの横から入ると、駐車スペースがある。
赤門上古墳は、南に突き出た丘陵の先端部に立地している。前方部を南に向けている。 全長56.3m・高さ4.9mの前方後円墳 前方部が低く幅が狭い。 墳丘の裾部分には1〜3mの幅で、川原石が帯状にめぐっている。 後円部中央付近で全長5.6mの割竹形木棺(材質はクスノキ)を納めた跡がみつかり、 中からら三角縁神獣鏡や鉄剣、太刀、鉄鏃、鉄斧、鎌、ヤリガンナ、管玉などが出土している。 4世紀末頃の築造と推定されている。 昭和36年発掘調査。
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出土した三角縁神獣鏡は、中国大陸からの舶来品と考えられていて、 同范鏡は、兵庫県吉島古墳で2面出土しているほか、 奈良県の黒塚古墳や佐味田宝塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの近畿地方から出土している。 |
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赤門上古墳 全景 パノラマ写真 |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
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後円部脇から前方部を見る |
後円部からの眺望 |
山の神古墳 | 浜松市浜北区内野台4丁目 撮影日2017/3/30 |
路肩に駐車しての見学となる。
階段を上がったところに墳丘がある。
だが、
周囲が住宅地として造成されてしまったので、
独立丘陵のようになった。
山の神古墳(別名「内野上2号墳」)は、 現在は 切り立った単独の小山の上に立地しているように見えるが、 元の地形は、稲荷山古墳・赤門上古墳まで、ほぼ同じ高さのなだらかな丘陵だった。 墳丘図 (説明板から) 直径15.8m・高さ2.3mの円墳。 古墳の北側に周溝があり、 南側には平坦(テラス)が広がっている。 テラスから横穴式石室の閉塞石によく似たひとかかえ程の石がまとまって見つかった。 須恵器も出土。 内部構造は未調査のため断定はできないが、6世紀中頃〜後半の築造と推定されている。 平成20年に確認調査。 墳丘の上には祠が祀られていて、古墳名の由来になっている。 |
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北から見た山の神古墳 |
南から見た山の神古墳 |
墳丘上の祠? 屋根しかないような・・・ |
墳頂から南裾を見る テラス部分か? |
稲荷山古墳 浜松市指定史跡 |
浜松市浜北区内野台4丁目 撮影日2017/3/30 |
路肩に駐車しての見学となる。
稲荷山古墳は 崖沿いにあり、東側に平野部を見渡すことのできる好立地の古墳 古墳の南側には、稲荷神社が鎮座していて、古墳名の由来となっている。 墳丘図 (説明板から) 径36.8m・高さ4.2mの円墳 かなり変形している。 2段築成 墳丘の上段に葺石あり 周溝あり 内部構造は未調査のため不明。 周溝部で出土した土師器から 4世紀末〜5世紀中頃の築造と推定されている。 平成20年に確認調査 |
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北から見た墳丘 |
墳頂 小さな祠とお供え台 |
墳頂から南裾を見る |
東から見た墳丘 |
二本ヶ谷積石塚群 ニホンガヤツミイシヅカグン 県指定史跡 |
浜松市浜北区染地台 撮影日2017/3/30 |
内野緑地という公園になっていて、駐車場完備。
説明板も充実している。「うちの古墳めぐり」のパンフレットに紹介されている。
二本ヶ谷積石塚群は、 三方原台地の縁にある二本の谷に分布している5世紀後半〜6世紀前半の積石塚群 東谷で22基、西谷で6基の計28基が確認されている。 保存公開されているのは、東谷支群の6基 墳丘は径10〜40cmくらいの丸い石を積み上げてつくられている。 多くは方墳で、墳丘の裾の部分や埋葬施設の周りに大きめの石を何重かめぐらせていて、 一辺3〜9m・高さ推定0.5m〜1m程度のもの 埋葬施設はいずれも竪穴系で、地面を掘りこむものと、地面をそのまま床面にするものがある。 どの積石塚も保存状況が悪いため、上部の構造は分からないが、 棺を直接石で覆っていたと推測されている。 副葬品は、群の中で最大規模をほこる東谷4号墳で、銅鏡、鉄剣、鉄刀、勾玉などが出土。 ほかの積石塚では、鉄器や装身具類がわずかに発見される程度で、 まったく副葬品のない積石塚も珍しくない。 墳丘からは須恵器・土師器が出土しているが、出土遺物は多くない。 積石塚は日本国内では、九州北部・四国東部・甲信地方・群馬県などに多くみられるが、 静岡県内では、唯一ここだけ。 石で墳丘をつくることや、通常古墳をつくらない谷に立地することなどから、 渡来人の墓である可能性もある。 |
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二本ヶ谷積石塚群分布図 地形は昭和33年(1958)当時のもの :現在残っているものが、赤で示されている。 |
保存公開されている東谷支群の配置図 8・9・12・13・14・18号墳の6基が、 復元展示されている。 16・17号墳は推定位置を表してある。 |
池の周りを時計回りで見学。
8号墳 墳丘の残り具合が極めて悪く、墳丘や埋葬施設の形態は不明 墳丘から、須恵器・土師器、副葬品とみられる勾玉・臼玉・石製紡錘車が出土 5世紀後半ごろの築造と推定されている。 発掘調査で検出された状態を 見学用に再現したもの 実際の積石塚は直下に保存されている。 1954(昭和29年)及び1995(平成7年)、2004(平成16年)に発掘調査。 |
12号墳 墳丘の残り具合が悪く、上部が失われているが、一辺6mの方形の積石塚で、裾の部分に2〜3重に石をめぐらせている。 墳丘中央部が大きく破壊されているが、 埋葬施設は 全長2.52m・幅0.6mの規模で、地面が掘りこまれている。 墳丘から土師器が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 見学用に再現したもので、 実物は直下に保存されている。 発掘調査で検出された状態に 失われていた部分を推定復元している。 1995(平成7年)、2004(平成16年)に発掘調査 |
13号墳 墳丘の残り具合が悪く、上部が失われているが、5.3m×4.7mの方形の積石塚 裾の部分に2〜3重に石をめぐらせている。 埋葬施設は地面を掘り込み、全長2.21m幅0.6mの規模で、その周囲に石をめぐらせている。 墳丘から須恵器や土師器が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 見学用に再現したもので、 実物は直下に保存されている。 発掘調査で検出された状態に 失われていた部分を推定復元している。 1995(平成7年)、2004(平成16年)に発掘調査 |
14号墳 残り具合が極めて悪く、墳丘の形態や規模は不明だが、径6m程度の範囲に石が集中している。 埋葬施設は全長2.23m幅0.3mの規模で、地面を掘り込み、その内部の側面に石を配している。 墳丘から須恵器や土師器が出土。 5世紀後半の築造と推定されている 見学用に再現したもので、 実物は直下に保存されている。 発掘調査で検出された状態に 失われていた部分を推定復元している。 1995(平成7年)、2004(平成16年)に発掘調査 |
16号墳 墳丘から須恵器・土師器が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 調査記録をもとに、 墳丘の推定地をブロックで表わしている。 昭和32年に墳丘の一部の発掘調査が行われたが、その後消滅したため詳細は不明 |
17号墳 墳丘から土師器が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 調査記録をもとに、 墳丘の推定地をブロックで表わしている。 軽トラの後ろは、16号墳 昭和32年に墳丘の一部の発掘調査が行われたが、その後消滅したため詳細は不明 |
18号墳 東谷支群の中では、現存する最も南の積石塚 残り具合が悪く、墳丘の形や大きさは不明だが、径5.5m程度の範囲に石が集中している。 埋葬施設は、全長2.32m幅0.5mの規模で、地面を掘りこまずに、周囲に石をめぐらせる構造。 。 墳丘から土師器が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 発掘調査で検出された状態を 見学用に再現したもの 実際の積石塚は直下に保存されている。 幌付トラックの後ろは17号墳 1957年(昭和32年)1995(平成7年)、2004(平成16年)に発掘調査 |
9号墳 現存する東谷支群の積石塚で、1基のみ谷の西側に位置している。 墳丘の残り具合が極めて悪いが、 裾の部分に石をめぐらせた、一辺7mの方形の積石塚と推定されている。 埋葬施設は、全長2.6m幅1.2mの規模で、 地面を掘りこまず、周囲に石をめぐらせる構造であったとみられている。 埋葬施設の辺りから鉄刀などの鉄器の破片が出土。 5世紀後半の築造と推定されている。 見学用に再現したもので、 実物は直下に保存されている。 発掘調査で検出された状態に 失われていた部分を推定復元している。 1954(昭和29年)及び1995(平成7年)、2004(平成16年)に発掘調査 昭和29年の調査以後に墳丘東側の半分以上が失われた。 |
どれもよく似た墳丘で、区別がつかない・・・・
南から見た赤門川調整池
右の出っ張りに16・1718号墳、
中央奥に8・9・12・13・14号墳が保存されている。
天気も良く、すばらしい景色を楽しめた。
光明山古墳につづく