更新日 2017/7/2
2017春・静岡西部・愛知県東部 その3 磐田市2 |
2017・3/29〜4/1 |
第一日目、午後2時半となったが、磐田市の古墳見学はまだまだ続く。
磐田市の中心街には、古墳のほか、遠江国分寺跡もある。
この旅で、遠江国の中心が磐田市だったということを知る。
遠江国分寺跡 国特別史跡 |
磐田市見付 撮影日2017/3/29 |
磐田市役所の北側にある。
国分寺西駐車場(市役所駐車場)に駐車、築地塀跡を乗り越えて、国分寺跡の見学。
昭和26年に、全国の国分寺調査に先がけて発掘調査が行われ、 昭和27年に国の特別史跡に指定された。 南から、南大門、中門、金堂、講堂が一列に並び、 金堂と中門を方形にめぐる回廊の西外側に塔があった。 昭和43〜45年に整備されて、往時の建物の基壇などが復元された。 これらの建物を取り囲んで東西180m南北253mの範囲に築垣がめぐらされていた。 |
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遠江国分寺跡 中央が金堂及び石段跡 右奥に現・国分寺がある。 |
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南大門跡 今は収蔵庫がある |
塔跡 |
講堂跡 |
築地塀跡 |
国分尼寺は、国分寺の北にあったそうだが、保存はされていない。
国府の場所は、まだ確定していないようだ。
遠江国分寺跡を中心にして、半径約2kmの範囲に大きな古墳が集中している。
北に兜塚古墳、西に土器塚古墳・京見塚古墳、南に澄水山古墳・丸山古墳
東に堂山古墳群、安久路古墳群
安久路古墳群からさらに東約1kmには、御廚古墳群(国史跡・松林山古墳ほか)がある。
遠江国分寺跡周辺の古墳配置図 (代表的なものだけ)
実は、松林山古墳の北約2kmには、「二子塚古墳」がある。
今回、見学し忘れた・・・。
二子塚古墳(磐田市三ケ野台)は、全長55mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されている。
兜塚古墳 | 磐田市見付 撮影日2017/3/29 |
かぶと塚公園に保存されている。総合運動公園となっていて、駐車場、体育館、グラウンドなどが完備。
駐車場のすく北が兜塚古墳。
古墳の形が、兜を伏せた状態に似ていることから、この名前が付けられたといわれている。
兜塚古墳は 直径80m・高さ8mの円墳 昭和19年に古墳の上に塹壕が掘られ、その時に鏡や玉類などが発見された。
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駐車場(南)から見た兜塚古墳 なだらかな墳丘 |
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墳丘では子供たちが遊ぶ |
古墳を上がって頂上へ ノルディックコースになっている。 |
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1段目のテラスから、2段目の墳丘をみる。 |
墳頂はぼこぼこになっている。 |
もう何も残っていないだろうから、子供達の遊び場として有効活用してもらえぱいいのかもしれない。
澄水山古墳 (市指定史跡) と 丸山古墳 |
磐田市中泉 磐田農業高校内 撮影日2017/3/29 |
磐田農業高校内には、2基の古墳がある。
東側の校門から入り、通りかかった先生らしき男性に見学と駐車のお願いをしてから見学。
澄水山古墳が市指定史跡となっているが、実は東側校門近くには、もう一つの丸山古墳がある。
丸山古墳 | |
径45m・高さ5mの円墳 古墳時代中期(4世紀末〜5世紀)の築造と推定されている。 壺形土器が出土したと伝えられている。 校内東側にあり、旗掲揚台として利用されている。 |
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西から見た丸山古墳 四角く見える |
「農は万業の大本なり」と刻まれた掲揚台 レンガの後ろには三角点(標高18.3m)がある。 |
校舎の南にあるのが澄水山古墳。
「自然教育ゾーン・澄水山古墳」という説明板がある。
澄水山古墳 チョウスイザンコフン 市指定史跡、 | |
全長55mの帆立貝形の前方後円墳。 後円部径45m・高さ5m、前方部長さ10m・幅36m、 後円部は2段築成 葺石あり 埴輪あり 1944(昭和19)年、防空壕を造るため後円部を掘った際、 地下2m下から鉄塊と頭椎大刀などが出土したという。 5世紀前半の築造と推定されている。 |
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澄水山古墳 |
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登り口。墳丘はかなりくずれている。 |
墳頂には石碑が建つ |
墳頂から墳裾を見る |
前方部 |
土器塚古墳 カワラケヅカコフン 県指定史跡 |
磐田市中泉・国府台 撮影日2017/3/29 |
住宅街の中に保存されている。
「戒成皇子伝説」の中で、皇子や従者が捨てた土器が塚になったと伝えられることから、その名前がある。
土器塚古墳は 直径36m・高さ5mの円墳 周囲を幅約7m・深さ1mの堀がめぐる 埋葬施設は、墳頂に長さ7〜8m・幅1mの穴に棺を納めたものと推定されているが、中の様子はわかっていない。 周辺から管玉1点とよろいの破片がみつかっている。 5世紀前半の築造と推定されている。 土器塚古墳復元図 (説明板から) 平成12年に発掘調査 私有地だったが、 平成14年に所有者が磐田市に寄付したそうだ。 |
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西から見る |
南から見る |
「戒成皇子伝説」ってなんだろうか?
「戒成(カイジョウ)皇子伝説」とは 戒成皇子は、桓武天皇の第4皇子で、皇位を継ぐ予定だったが、 病気になり、悲観して旅に出て、遠江に着いた。 上野原に館を建てて、土地の人たちの世話も受けて生活して、11年後亡くなられた。 その墓が京見塚(古墳)である。 そして、皇子や従者が捨てた土器が塚になったと伝えられるのが、土器塚(古墳)である。 (HP「磐田むかしばなし」から引用) |
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でも、桓武天皇には、戒成皇子という皇子はいない。 天皇の叔父に海上王、兄に開成がいたといわれていて、 遠江土師氏の伝える応神天皇の皇子・大山守皇子と、その子津布良子王伝承(土方家家系図)とが 統合されて生まれた言い伝えと考えられている。 (説明板から) |
京見塚古墳 | 磐田市国府台 撮影日2017/3/29 |
住宅街の中の京見塚公園に保存されている。公園北側に駐車場がある。
公園内には、方形周溝墓・群集墳・埴輪窯なども復元公開されて説明板もあるが、
一番大きな京見塚古墳の説明板が見あたらない・・
京見塚古墳 | |
径47mの円墳 高さ8.7m 2段築成 葺石あり 埴輪あり 幅9mの周溝がめぐる 主体部は、粘土槨か木棺直葬と推定されていて、直刀が出土している。 5世紀中頃の築造と推定されている。 大正11年(1922年)に調査 墳丘からは、天竜川が一望できる。(今は見えない) この地に住んだ戒成皇子(恒武天皇の第四皇子)が、 塚の上から京を偲んだため、「京見塚」と呼ばれるようになったとも言われている。 |
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京見塚古墳は 公園の南側に保存されている。 元は畑だった。 女の子たちが、 段ボールで墳丘を滑って遊んでいる。 |
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墳頂 三角点(標高33.6m)がある。 |
墳丘の北側は藪だ。 |
周溝外提部で埴輪窯が発見され、1基が移築復元されている。
埴輪窯 |
京見塚古墳の周堀を一部拡幅して作られた埴輪窯が2基発見され、 1基を調査したところ、中から焼台として使用された礫が数十個見つかった。 焼かれた埴輪は京見塚古墳の表面に並べられたり、古墳の周囲に棺として置かれた。 窯とその製品が使われた場所がわかる珍しい例で、 東海地方で初めて発見された埴輪専用の窯として重要。 |
埴輪窯 復元された窯跡は、 全長5.5m・最大幅2.0m、床面の傾斜角は14度。 窯の内部は多量の焼け土や灰で埋まっていて、 その中から埴輪の破片が数点みつかっている。 |
京見塚古墳の北に隣接して、群集墳の小古墳がある。
京見塚古墳群 | |
古墳時代後期の群集墳 京見塚古墳周辺には、13基の小規模な古墳時代後期の古墳がある。 径10m前後のもの 6世紀後半〜7世紀後半の築造と推定されている。 北側の古墳は調査された姿で、南側の古墳はつくられた当時の姿で復元されている。 |
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北側の古墳 調査された姿で復元 |
南側の古墳 つくられた当時の姿で復元 |
方形周溝墓がある。
方形周溝墓群 | |
台地の縁に南北に5基の方形周溝墓が並んでいる。 それぞれ区切りの溝を共有し連結している。 そのうち3基を調査したが、埋葬部は見つかっていない。 出土した壺形土器から、弥生時代中期後半の築造と推定されている。 古墳時代になると、 この3基の方形周溝墓のうち、南と北の方形周溝墓の上に古墳がつくられてしまう。 |
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方形周溝墓 |
京見塚古墳から見た方形周溝墓群 |
見どころいっぱいです!!
堂山古墳群 遺物は県指定文化財 |
磐田市西貝塚・東貝塚 撮影日2017/3/29 |
東海道本線と東海道新幹線にはさまれたところにあるが、一番大きな堂山古墳(1号墳)は、破壊されている。
県内最大級の前方後円墳の堂山古墳と、径20m位の古墳6基で構成されている。 堂山古墳群配置図
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堂山古墳(1号墳) 全長110mの前方後円墳 3段築成 葺石あり それぞれの平坦面には埴輪が並べられている。 葺石あり 明治25年ころ、中心部が土取りされ、その時に鏡や玉類・刀・金銅製帯金具が出土。 昭和31年の発掘調査では たくさんの埴輪、棺専用の円筒埴輪棺が2基と、埴輪を利用した棺が3基見つかった。 その一つから農工具・武具などの鉄製品が出土。 5世紀中ごろの築造と推定されている。 「薬師堂の山」として古くから知られていた。
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2号墳は 径17.5mの円墳 堂山古墳の北200mにある。 船・水鳥・家などの埴輪が出土 堂山古墳に近い時期の築造と推定されている。 昭和55年に発掘調査 現在、墳丘はなく、空地となっているようだ。 |
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3号墳は 1辺が24mの方墳 堂山古墳の北西200mにある。 周溝がある。 2段築成 上段には葺石あり 中段テラスには埴輪が並べられて、上段にも 埴輪がある。 円筒埴輪や盾・鎧・キヌガサ形などの形象埴輪がみつかっている。 埋葬部は調査時、すでになかった。 堂山古墳に近い時期の築造(5世紀中ごろ)と推定されている。 墳丘部と周溝内から埴輪を利用した棺が見つかったが、100年ほど後に埋葬されたものと考えられている。 平成11年に発掘調査
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4号墳 3号墳の南40mにある。 3号墳より少し大きいサイズの方墳か?
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5・6・7号墳は見学していない。
1号墳の残骸が長ーく残されているのには、とっても驚いた。
御厨古墳群 ミクリヤコフングン 国指定史跡 |
磐田市新貝・鎌田 撮影日2017/3/29 |
鎌田神明宮周辺に点在する。
御厨古墳群 太田川西岸台地上の磐田原台地の南東部、新貝から鎌田地区にかけては、多くの古墳が分布している。 市内には900基を超える数の古墳が知られているが、 とくにこの地域には4世紀代という古い段階の、しかも大型の古墳が集中している。 御廚とは、寺社に稲を供給した場所を示す言葉で、鎌田地区はかつて伊勢神宮の御廚だった。 かつては、この地域を御厨村と呼んでいたことから、古墳の名称とした。 |
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御厨古墳群配置図
この5基の古墳が、「御厨古墳群」として国指定史跡になっている。
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松林山古墳は、東海道新幹線の線路の南側に隣接していて、前方部が一部削られている。
松林山古墳 「御厨古墳群」として国指定史跡 | 磐田市新貝 | ||
全長107mの前方後円墳 後円部径66.5m 高さ10.6m 前方部幅48m 後円部3段築成 墳丘表面には葺石があり、 埴輪がめぐらされていた。 後円部墳頂に長大な割石積みの竪穴式石室(内法全長7.9m・幅1.3m・深さ1.6m)があり、 三角縁神獣鏡1、 内行花文鏡2、四獣鏡1、勾玉・管玉・石釧・貝釧などの宝器、 、 剣・直刀・鉄鏃・銅鏃・短甲などの武器・武具類 斧・鎌・鋸などの農工具類が多数出土した。 4世紀後半の築造と推定されている。 昭和6(1931)年に発掘調査
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松林山古墳 左・前方部 |
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前方部から後円部を見る |
くびれ部から前方部を見る |
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ミラーの左に後円部登り口が見えている。 |
後円部頂には、松林山古墳慰霊碑が建てられている。 |
松林山古墳の南一帯はには、うさぎ山公園になっていて、
公園内に高根山古墳・神明古墳・兎山古墳・御厨堂山古墳・八王子古墳が公園内に取りこまれている。
高根山古墳 「御厨古墳群」として国指定史跡 | 磐田市鎌田 うさぎ山公園内 |
径52mの円墳 高さ8m 2段築成 葺石あり 壺形埴輪や円筒埴輪がめぐらされていた。 4世紀後半の築造と推定されている。 |
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西から見た高根山古墳 |
高根山古墳登り口 |
南側の登り口は天楠神社参道となっている。 |
古墳中腹に天楠神社の小さな社殿 |
墳頂 |
周溝跡は遊歩道になっている。 |
北東から見た高根山古墳 よく見えないな・・・・ |
高根山古墳の南に神明古墳。神明古墳の西隣りには鎌田神明宮の社殿がある。
神明古墳 | 磐田市鎌田 うさぎ山公園内 | ||||
神明古墳の小さな墳丘 詳細不明 |
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鎌田神明宮は 遠江二之宮 祭神は 豊受姫命 旧御厨村の総鎮守である。
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神明古墳の南の尾根先に、兎山古墳がある。2基。
兎山古墳 2基 詳細不明 | 磐田市鎌田 うさぎ山公園内 |
兎山古墳 その1 |
兎山古墳 その2 |
兎山古墳の南東の小さな独立丘陵の山頂に、御厨堂山古墳がある。
御厨堂山古墳 「御厨古墳群」として国指定史跡 ミクリドウヤマコフン 北に2号墳がある。 |
磐田市鎌田 うさぎ山公園内 |
御厨堂山古墳は 全長34.5mの前方後円墳 高さ4m 鏡、太刀、銅釧、耳環、鉄斧、土器などが出土 |
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御厨堂山古墳のある山をふもとから見る |
御厨堂山古墳 登り口 |
御厨堂山古墳 墳丘 |
御厨堂山古墳 前方部から後円部を見る |
御厨堂山古墳の登り口(南側)には、穴神社(アナガミサマ)、夜泣き石がある。
夜泣き石 石から赤子の鳴き声が聞こえたので、 「子育て石」と名付けられ、信仰を集めたそうだ。 |
穴神社 御祭神・大穴持命 御神得・・・子授、子育ての神 諸々の婦人の病から守る女人守護の神 |
松林山古墳から、新幹線・東海道本線の線路をはさんで北側にも、古墳がある。
秋葉山古墳と稲荷山古墳だ。
この2基の古墳のある山のふもとにある連城寺の説明板に、
秋葉山古墳・稲荷山古墳と、消滅した経塚古墳の事も書かれている。
連城寺の説明板 連城寺は、寺伝によれば、 平清盛が遠江守の時に建立したと伝えられている。 墓地には、平清盛と平重盛の供養塔や中泉代官大草太郎左衛門の墓があり、 裏山には、秋葉山古墳と稲荷山古墳がある。 南には明治時代に東海道線の工事で消滅した経塚古墳があった。 経塚古墳から出土した三角縁四神四獣鏡は県指定有形文化財として連城寺で保管されている。 |
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連城寺墓地 墓地の奥に平清盛の供養塔がある。 背後の森に秋葉山古墳、 その奥に稲荷山古墳がある。 |
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墓地の奥に石段、平清盛・重盛両公供養塔の標柱 |
平清盛・重盛両公供養塔 |
この奥に秋葉山古墳。
秋葉山古墳 「御厨古墳群」として国指定史跡 | 磐田市新貝 |
長軸50m 短軸46mの円墳 高さ8m 葺石がある。 土器が出土している。 4世紀後半の築造と推定されている。 |
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秋葉山古墳 墳丘 |
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秋葉山古墳の標柱 |
墳丘を削って山道が造られている。 |
秋葉山古墳のすぐ北に稲荷山古墳がある。
稲荷山古墳 「御厨古墳群」として国指定史跡 | 磐田市新貝 |
全長46.5mの前方後円墳 高さ6m 壺形埴輪が出土している。 4世紀後半の築造と推定されている。 |
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稲荷山古墳 標柱 |
後円部 |
稲荷山古墳 左・前方部 |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
秋葉山古墳と稲荷山古墳の西側の木が少し整理されていて、墳丘を見ることができた。
経塚古墳 消滅 |
蓮城寺西側の丘陵上には、秋葉山古墳・稲荷山古墳などがつくられたが、 経塚古墳はこの丘陵の先端部に最初につくられた古墳である。 明治年間に、東海道線工事の土取りのため破壊された。 三角縁神獣鏡や多量の朱が発見されたと伝えられている。 |
東海道線の南に不自然に残った土盛りは、この経塚古墳の名残りではないだろうか?? 経塚古墳の残骸か?? 奥に見えるのは、松林山古墳のある山 左奥が、高根山古墳などがある山 |
この土盛りについては、情報がないので、根拠はない・・・。
安久路古墳群 アクロコフングン 国指定史跡 |
磐田市西貝塚 撮影日2017/3/29 |
ヤマハ発動機の工場の駐車場の横に安久路古墳群の1号墳が保存されている。
駐車場に入らせてもらい、写真を撮る。
安久路古墳群は 安久路川東岸の段丘上に分布する3基の円墳からなる。 かつては北側にもう1基存在していたといわれている。 安久路古墳群 配置図
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安久路丸山古墳(1号墳) 南から見る 手前はヤマハ発動機の駐車場 詳細は情報がなく不明だ・・・・。 |
航空写真を見ると、ヤマハ発動機の工場の中に2号墳・3号墳が残っている!
見学したいのだが、見せてもらえるのだろうか・・・・
実は、午後6時を過ぎている。
安久路丸山古墳を見たときは、真っ暗・・・。
午後7時、ホテル玄浜松インターにチェックイン。
一階のレストラン「玄五郎」にて夕食。
今日は、本当にたくさんの古墳を見た・・・・
入野古墳につづく