更新日2016/9/23

長野県北部の旅
その7
 長野市4
大室古墳群1
2016/5/5〜5/7

三日目・最終日の午後に、大室古墳群に到着。

地図g

大室古墳館そばの東屋で、急いで昼食を済ませ、古墳館の見学へ。


大室古墳館

古墳見学のガイダンス施設

近辺の古墳の説明もある。



大室古墳群について 長野市松代町大室

インターネット上で「国史跡 大室古墳群史跡整備事業に伴う遺構確認調査概要報告書(2007)」
   が公開されているので、参考にさせていただいた。

大室古墳群・全体図  (パンフを参考に作成したイメージ図)

大室古墳群は
長野盆地の南東部、千曲川東岸の松代町大室地区を中心とした約2.5km四方の範囲に分布する、
 5世紀から8世紀につくられた総数500基の群集墳。
東部山地の奇妙山から派生した三つの尾根とこれにはさまれた二つの谷に古墳が集中し、
  東から「北山」「大室谷」「霞城」「北谷」「金井山」の五つの支群に分けられている。
このうち、大室谷と北谷の二つの谷には約450基の古墳が分布している。
大室古墳群の最大の特徴は、
 積石塚・合掌形石室という全国的に珍しい構造をもつ古墳が集中して存在すること
大室谷支群が国の史跡指定を受けている。

北平1号古墳は、平成3年に上信越自動車道建設の際の土取場として発掘調査された。
 尼飾山系から北行する尾根支脈の頂部にある  主軸長さ14mの前方後方形墳丘墓
 埋葬主体は2基の石槨状石積みが検出され、箱形木棺が想定されている。
 土器、ガラス小玉が出土している。
 3世紀後半の築造と推定されている。

大室谷支群
オオムロダニ
 東側の支脈と中央支脈とにはさまれた谷部に分布し、古墳数241基を数える。
 古墳の分布範囲は谷入ロの標高360mから最深部の660m地点までの総延長約2qに達し、
    著しく細長い帯状の分布を示している。
霞城支群
カジョウ
 奇妙山から派生する中央支脈先端部の尾根頂部、標高360〜410m付近に分布している。
 250〜263、472、473号墳の16基の古墳により構成されている。
 中世山城の霞城が構築されたため、一部の地形が大幅に改変されている。
北谷支群
キタダニ
 中央支脈と尼厳山の支脈である金井山(標高495m)にはさまれた谷部に位置し、
   全長約1kmの谷あいに古墳総数208基を数える。
 支群内はさらに、大道東山手地 区の扇状地上と、北谷・中谷・臼窪と呼ばれる
   3つの谷に分岐している。
 谷裾部の扇状地上には266〜430号墳の80基が分布、
  このうち1969(昭和44)年に県農業大学 校建設工事に関連する43基が
  調査対象とされ、うち9基が現状保存された。
 北谷には標高465〜500m付近に 286〜347号墳の27基がある。
 さらに谷奥の東側となる標高455〜500m付近の通称チガヤ窪には、
   32〜333 号墳の4基が分布している。
 墳丘の残存状態が良好な古墳が多い中谷には、
   標高400〜500m付近で、356〜420号墳の64基が分布して いる。
 このうち、356・357・394・395・396・399号墳の6基が合掌形石室といわれてい る。
 臼窪の谷には437〜453号墳の22基がある。
金井山支群
カナイヤマ
 奇妙山から南東〜北西方向に派生する金井山の尾根頂部
   標高400〜495m付近を中心として分布している。
  鳥打峠周辺を含めて18基の古墳により構成されている。
 金井山の突端付近には456〜458号墳の3基が立地し、
   中世山城が築かれた頂部には459〜460、455号墳が ある。
 尾根上に立地する3支群の古墳の多くが盛土墳である。
 鳥打峠には46〜464号墳の4基があり、
   道沿いに東側に下った標高370m付近には465〜 467号墳がある。
 金井山の東裾標高355〜365m付近には、468 〜47号墳の4基が分布している。

大星山古墳群・和田東山古墳群は、大室古墳群とは別の古墳群である。

大星山古墳群
オオボシヤマ
 長野市若穂川田地区に所在していた。高速道路建設の土取りに先立ち発掘調査された。
 円墳1基・方墳3基の古墳群
 大室古墳群とは尾根の反対側に位置する東側の派生尾根上にある。
  直下の水田からは比高差40m。
 3号墳は 4世紀第3四半期の築造と推定され、 付属の埋葬施設は合掌形石室がある。
 1号墳は 4世紀第4四半期の築造と推定されている。
 4号墳は 5世紀初頭の築造と推定されている。
  尾根上に並んだ3基とは若干離れた山腹に位置し、唯一の石積み塚で竪穴式石室がある。
 2号墳は 5世紀第2四半期の築造と推定され、合掌形石室がある。 
和田東山古墳群
ワダヒガシヤマ
 長野市若穂保科の扇状地をのぞむ奇妙山からの派生尾根にある。
 昭和59年、前方後円墳3基・円墳2基が確認された。平成2年墳丘測量調査。
 1号墳は、全長38mの前方後円墳 (標高414m)
 3号墳は、全長46mの前方後円墳 (標高447m)
 4号墳は、全長43mの前方後円墳 (標高472m)

 平成4〜6年、3号墳の発掘調査で
  墳丘から多量の円筒埴輪、後円部から主体部直上にて壺・高杯・器台などの土器片が出土。
  木材の天井蓋の可能性がある竪穴式石室から
    鏡・太刀・鉄剣・鉄槍・鉄鏃・ヤリガンナ・鉄斧・砥石ガラス小玉・管玉などが出土。
  当地における古墳出現期の築造の可能性がある。
  1号墳は3号墳に先行、4号墳は3号墳に後続すると推定されている。

                       (2007年発行の、大室古墳群報告書から)
      

大室古墳群・大室谷支群  配置図
  (現地・古墳館内のパンフ3枚を合成)

今回私達は
エントランスゾーンの見学と
そこからムジナゴーロ遊歩道にある154号墳まで歩いてみた。

緑色の道がムジナゴーロ遊歩道

多くの古墳を見学したので、
 「エントランスゾーン」と「ムジナゴーロ遊歩道周辺」
   に分けて写真を紹介する。

大室谷支群
通称清水尻(シミッチリ)と呼ばれている
  大室谷の最下部にあたる標高360〜380m付近は、
   村東単位支群 としてグルーピングされている緩斜面で、
   東側に21〜29、249号墳など14基が、
   西側には236〜247号墳など13基が分布
している。
   
標高390〜420m付近は通称ヨーメと呼ばれ、
   現在はガイダンス施設の大室古墳館が
   史跡指 定地外に建設されている。

北側斜面には
  鳶岩単位支群として30〜36号墳の6基が分布している。

ここからさらに谷の奥へは、
  植林されたスギ林となり鬱蒼とした雰囲気となる。
通称ムジナゴーロと呼ばれる 標高430〜500m付近は、
  たくさんの積石塚が密集する大室古墳群を代表する地域であり、
  ムジナゴーロ単位支群
とされている。

ここからさらに 谷をのぼった標高480〜495m付近の通称八丁ノ沢、標高50〜535m付近は通称丸山と呼ばれ、
  さらに最奥地 となる標高640〜660m付近には  112〜1177号墳の6基が分布している。
ヨーメから南へ延びる支谷筋は通称小林と呼ばれており、
  大石単位支群として218〜230号墳など15基が分布 している。
221・225号墳は尾根上に築かれた積石塚で 合掌形石室を内蔵している。
        (2007年発行の、大室古墳群報告書から)

大室古墳群・大室谷支群
エントランスゾーン
長野市大室
撮影日2016/5/7

エントランスゾーンでは、大室谷の開口部の23基の古墳が、古墳群全体のガイダンスの場として整備されている。
大室古墳館の周辺。


エントランスゾーン 配置図
      
   (現地パンフから作成)

30号墳は整備区域外で、
  見て来なかった・・・

古墳館の近くの古墳から。

 235号墳
墳形  円墳 (規模不明)   
埋葬施設  無袖形横穴式石室
年代  6世紀後半
 墳丘が半分失われ、本来埋まっている横穴式石室の裏側が露出している。

前から見ると古墳の形が残っているが・・・
エントランスゾーンで一番高いところにある。

壊れかけた石室が露出・・

半分以下になった墳丘

エントランスゾーンの山際にある古墳31〜33号墳は、「大室古墳群大室谷支群 鳶岩単位支群」と呼ばれている。
明治時代の開墾で段々畑の石垣と一体化した古墳の姿をそのまま公開している。

  33号墳   
墳形  径10mの円墳   
埋葬施設  横穴式石室
年代  7世紀前半
 整備前は墳丘の西側が近代以降に開墾された段々畑の石積みと一体化し、
       東側の墳丘は流出して、横穴式石室が露出していた。
 石室は壁面に多数の亀裂がみられ、非常に危険な状態だったので、
       石を補強して、墳丘を一部復元した。

西側の墳丘斜面は、段々畑の石積みとなる

石室

石室内部


32号墳から見た33号墳


 32号墳
墳形  径10mの円墳  
埋葬施設  横穴式石室
年代  7世紀前半
 近代以降の開墾により大きく改変されている。
 横穴式石室は奥壁側に盗掘坑が開き、中を覗くことができるが、入口は埋まっている。

残った墳丘

盗掘坑

盗掘坑から見た石室内部
入口は埋まっている。


 31号墳 
墳形  径14mの円墳    
埋葬施設  両袖式横穴式石室
年代  7世紀前半
 整備前には露出した横穴式石室の上に小屋組みが、
         墳丘を掘りこんで階段状の沈殿槽が設置されていた。
 発掘調査の結果、土のみによる墳丘が確認された。大室古墳群では、盛土墳は少数例。

元の墳丘と石室を、地面の色の違いで示している。
墳丘の半分しか残っていないということ。

石室

石室内部


 238号墳
墳形  円墳 (規模不明)      
埋葬施設  胴張り形の横穴式石室
年代  7世紀前半
 横穴式石室があるが、
      天井石が全て崩落するなど壊れていたので、埋め戻して、土石混合の墳丘を復元。

墳丘

発掘された横穴式石室  (説明板から)


 239号墳
墳形  径15mの円墳   
埋葬施設  無袖形の横穴式石室
年代  6世紀後半
 斜面下方の石列は八角形に近く、多角形墳の可能性もある。
 横穴式石室は全長6.7m 玄室長4.7m・奥幅1.1m・中央幅1.4m・高さ1.7m

墳丘

石室内部

石室内部から外を見る


 240号墳
墳形  径13mの円墳     
埋葬施設  横穴式石室
年代  7世紀前半
 土石混合の墳丘
 整備前は墳丘や石室羨道部が失われていた。
 古墳端部の大型石列は発掘調査で確認された本物による表示がなされている。
 横穴式石室は 玄室長4.1m・奥幅1.9m・中央幅2.03m・高さ2.23m

土石混合の墳丘を観察できるように整備されている。

石室入口

石室奥壁


 241号墳
墳形  径14mの円墳     
埋葬施設  合掌形石室
年代  6世紀前半
 合掌形石室がある積石塚古墳としては、大室古墳群で最も標高の低い位置にある。
 墳丘上から埴輪や土師器、須恵器
   合掌形石室内から剣菱形杏葉や環状雲珠などの馬具、鉄鏃、ガラス玉が出土
 ガラス玉は100個以上出土している。
 合掌形石室を埋め戻した後、失われた天井石を復元した。

積石塚の墳丘 左奥は27号墳

失われた天井石を復元して展示している。 

発掘時の合掌形石室(南から) (説明板から)


 29号墳
墳形  墳形不明    
埋葬施設  埋葬施設不明
年代  5世紀後半〜6世紀前半
 墳丘上に埴輪がならぶ積石塚古墳
 埋葬施設は痕跡も残っていなかったが、241号墳と同じ合掌形石室だったとも考えられている。
 以前の状況のままの展示

破壊が激しい 

発掘調査の様子  (説明板から)


 27号墳
墳形  径12mの円墳       
埋葬施設  横穴式石室
年代  古墳時代後期
 整備前は墳丘の半分が開墾で失われ、横穴式石室が露出していた。
 石室は崩落が進んで埋まっていた。
 整備では全体を埋め戻し、発掘調査で見つかった墳丘裾部の石列を復元した。

墳丘

発掘調査の様子 (説明板から)


 242号墳
墳形  径10mの円墳    
埋葬施設  両袖形横穴式石室
年代  7世紀前半
 整備前は墳丘の上部が削平され、天井石を失った横穴式石室が露出していた。
 墳丘には握りこぶしほどの小さな石が多く使われていることが特徴。
 横穴式石室を埋め戻して範囲を表示し、墳丘は表面に小型の石を積み上げて積石墳丘を復元した。

242号墳   (奥は27号墳)


 ハ号墳
墳形  径8mの円墳    
埋葬施設  横穴式石室
年代  7世紀
 土石混合墳
 東側を中心に改変され、原型をとどめていない。
 横穴式石室の上部も失われていたため、遺構展示


ハ号墳は
  説明板の左後ろの、
   2本の木がくっついているあたり



ハ号墳の後ろにC号墳
    C号墳の右にB号墳が見えるが、
  よくわからないかも・・・


木の根の間に石が見え隠れしている。

ハ号墳のそばに、穴が!?


未確認の石室か?

HP「古墳とかアレ」様には
炭焼きの跡だと書かれている・・・・


   

 26号墳
墳形  径14mの円墳    
埋葬施設  胴張り形横穴式石室
年代  7世紀前半
 整備前は墳丘の盛土石の一部が失われて、横穴式石室(全長4.25m)が露出していた。
 石室の天井石は1石だけが石室内に落ち込むように残っていた。
 失われた墳丘を復元して、上から石室が観察できるようにした。

墳丘は土石混合かな

石室が露出したまま展示

整備前の26号墳 (説明板から)


 A号墳
墳形  規模不明の円墳    
埋葬施設  胴張り形(?)横穴式石室
年代  6世紀後半〜7世紀前半
 かつては26号墳の一部とみられていたが、発掘調査で別の古墳とわかった。
 26号墳の墳丘がこの古墳の上に一部重なっているとみられることから、
    26号墳に先行してつくられたと考えられている。
 残存状況が悪いので、遺構展示

A号墳   左奥は26号墳

石室石材が露出した状態か? 奥は26号墳


 C号墳
墳形  径8mの円墳    
埋葬施設  胴張り形横穴式石室
年代  7世紀
 土石混合の墳丘
 墳丘の北西側が削平されて、原型をとどめていない。
 石室の上部も失われていた。復元はしないで、遺構展示

よくわからない墳丘


 B号墳
墳形  径7mの円墳   
埋葬施設  胴張り形の横穴式石室
年代  7世紀
 積石塚古墳
 墳丘の残存状況はあまり良くなかった。
 小型の横穴式石室が確認されているが、天井石が失われるなど
         破損が激しいため、埋め戻して保護し、積石墳丘を復元した。

墳丘

B号墳の列石  奥は26号墳


 D号墳
墳形  径12mの円墳    
埋葬施設  横穴式石室
年代  6世紀後半か
 積石塚古墳
 横穴式石室は壊れていたが、
  石室下段の石を立て、その上に石を平積みして壁面を構築する特殊な形態だとわかる。
 同様の石室は187号墳で見ることができる
 石室は埋め戻し、墳丘を復元した



D号墳



 E号墳
墳形  径10mの円墳   
埋葬施設  横穴式石室
年代  7世紀後半
 平成19年に確認された古墳
 墳丘はすでになく、横穴式石室も羨道の一部と玄室の床面だけだったが、
     床面から鉄鏃・刀子・耳環などの副葬品や人骨が出土。
 墳丘の範囲の表示



E号墳


 243号墳
墳形  径12mの円墳     
埋葬施設  無袖形横穴式石室
年代  6世紀後半
 整備前は墳丘の半分は失われ横穴式石室が露出していた。
 石室の奥壁近くでは、石を抜き取った盗掘坑が開いていて、崩壊寸前の危険な状態だった。
 盗掘坑から横穴式石室を覗けるように整備した。
 横穴式石室は全長6.16m 玄室長4.9m・奥幅1.5m・中央幅1.45m・高さ1.47m


手前:大室243号墳、
   奥に大室244号墳




東から見る

整備された墳丘

盗掘坑から石室内部を見る


 244号墳
墳形  周溝を含む復元径
  30mの円墳
  
埋葬施設  両袖形横穴式石室
年代  7世紀前半
 2段築成で周囲には大室古墳群で唯一周溝がある。
 横穴式石室全長12m  玄室長7.2m・高さ2.5m
 将軍塚とも大平塚とも呼ばれ、大室古墳群最大規模の古墳
 急角度の上部墳丘の外面に露出する「石垣状石積」はこの古墳の特徴




北東から見た墳丘


高さ8mもあるドームのような墳丘は
シンボル的存在だ!

2段築成

墳丘

発掘調査時の244号墳 (説明板写真から)

石室内部

石室内部から外を見る


 23号墳
墳形  18m×13mの円墳   
埋葬施設  両袖形横穴式石室
年代  7世紀前半
 北側の高速道路用地にあったが、発掘調査の後、移築・復元
 石室を解体すると、奥壁の一枚岩は自立していて、重さが5トンある。
 巨石を自立させることは難しく、古墳時代の石工技術が非常に優れていることがわかる。
 横穴式石室は 全長6.1m
   玄室長さ4.1m・奥幅1.3m 中央幅1.35m・高さ2.1m

整備された墳丘

244号墳そばから見る

発掘調査時の23号墳

石室開口部

羨道部から玄室を見る

玄室内部

玄室内部から外を見る


 245号墳
墳形・大きさ  規模や形は不明   
埋葬施設  横穴式石室
年代  古墳時代後期
 破壊が激しく、詳細不明
 散乱する石材から横穴式石室があったと考えられている。
 「死人塚シビトヅカ」と呼ばれているが、古墳上の石祠に由来するのかもしれない
 そのままの姿として整備した

崩れてしまっている墳丘
奥に244号 243号墳が見える

墳丘上の石祠
  

 

 246号墳
墳形・大きさ  径12mの円墳
埋葬施設  無袖形横穴式石室
年代  6世紀後半
 整備前は墳丘がほとんど失われ、奥壁がない状態で横穴式石室が露出していた。
 発掘調査の結果、墳丘内に埋められた3列の石列が確認された。
 墳丘内からは底に穴をあけた壺形土器が出土している。
 整備では3列の石列を復元し、築造途上の姿を再現した。
 横穴式石室は 玄室長5.48m・奥幅1.2m・中央幅1.22m・高さ1.53m

墳丘

方向を変えて1

方向を変えて2

石室

奥壁外から見る石室


大室古墳群・大室谷支群 ムジナゴーロ遊歩道周辺 へつづく

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