更新日2016/7/30

長野県北部の旅
その3
 小布施町・須坂市・長野市1
2016/5/5〜5/7

第一日目、小布施町に入る。

地図g

古堂塚古墳
町指定史跡
上高井郡小布施町中松
撮影日2016/5/5

果樹園と畑に囲まれているが、南の道路から古堂塚古墳への遊歩道がある。

 古堂塚古墳は 北信濃地方最大の土盛りによる 
  径38.4mの方墳(八角形墳)
。高さ2.5m
  墳頂は明治初期に削平され、畑となった。
  その時、直刀3本と土師器片が出土した。
  6世紀ごろの築造と推定されている。


南から見た墳丘


手前が古墳に続く道

低くなってしまった墳丘

西から見た墳丘

墳頂部
方形の角はとがっていないので、
八角形墳と納得できる。

説明板では方墳となっている。
航空写真で見ると、八角形だ。
墳丘が低くなっているのが、とても残念だ。

本郷大塚古墳
市指定史跡
須坂市日滝
撮影日2016/5/5

県道54号線本郷交差点にある。
この古墳があるために、道を広くできないようだ。

 
 本郷大塚古墳
は 元は径16m・高さ5mの円墳
  昭和61年の農道開設に伴う緊急発掘調査時には、
  墳丘の大半と横穴式石室の上部や奥壁がすでに失われていたが、
    石室の基底部は原形をとどめていて、大量の太刀、鉄鏃、馬具、玉類、鏡などが出土。
  特に10組の馬具、17の太刀の出土は異例の多さ。
  珠文鏡と圭頭太刀、三輪玉がセットで出土しているのはまれである。
  出土した人骨などは鑑定を終えて、容器に収納して、再び玄室に戻し埋葬した。
  6世紀後半〜7世紀初頭の築造と推定されている。
 副葬品は保存処理をして、須坂市立博物館で展示している。
                    (説明板から)

墳丘実測図 (説明板から)

石室内遺物出土状況 (説明板から)
  

出土した太刀 (説明板から)



南から見た本郷大塚古墳

北から見た墳丘

墳丘上には石材が露出している。


八丁鎧塚古墳
1・2号墳は市指定史跡
鮎川古墳群
須坂市八丁鎧塚
撮影日2016/5/5

八丁鎧塚1・2号古墳を総称して、八丁鎧塚古墳とよばれている。
史跡公園として保存されている。 駐車場がある。

 八丁鎧塚古墳は、 鮎川古墳群のほぼ最上流部に位置し、現在は6基で一群をなす
  日本の代表的積石塚で、貝釧が東シナ海原産の貝であること、
  帯金具の文様が朝鮮半島出土のものに似ていることなど、大陸文化の影響を色濃く示している。



八丁鎧塚1・2・6号古墳配置図

(説明板の写真に加筆)


南西から見た八丁鎧塚1・2・6号古墳
  左端2号墳と張出部
  中央6号墳
  右奥1号墳



左奥の緑の丘は単なる展望台



2号墳墳頂からみた
 奥から   1号古墳
        6号古墳
        2号古墳張出部

 一番手前は2号古墳円丘部


 1号古墳
  直径25.5m・高さ2.5mの円墳
  鏡片、スイジガイ釧片・ゴウホラガイ釧片、碧玉製釧片、勾玉、管玉、ガラス小玉
  鉄鏃、鉄鉾、直刀、円筒埴輪、家形埴輪などが出土
  4世紀後半の築造と推定されている。
                        (説明板から)



北東側にとんがった部分がある。

北から見た墳丘  左にとんがり部

南西から見た墳丘


 鎧塚2号古墳
 直径25.5m・高さ3.5mの積石塚で、張出付円墳
 南側に張出部がある。
  鍍金銅製獅噛文か板とよばれる帯金具、
    ガラス小玉、刀剣、鉄鏃、鈴、杏葉、轡、不明鉄片、糸巻き形鉄片
     家形埴輪、器財埴輪、円筒埴輪、土師器などが出土
 2号墳本来の主体部は不明であるが、造り出しから箱式石棺が発見されている。
 5世紀後半の築造と推定されている。 
                      (説明板から)



北から見た墳丘
   奥に張出部がある。

墳頂部

墳頂部から見た張出部

張出部の中に箱式石棺がある。

赤い点線で囲んだ部分

この箱式石棺は
鎧塚2号古墳の南側張出部に設けられている。
 長辺に板石6枚を、短辺に各1枚で箱形に組み立てられ長さ2.5m・幅0.5mの大きさ
 石棺底にも西側では平らな川原石を2枚、東側では平らな板石を2枚敷いている。
 石棺内部から遺物は出土していない。
 築造当初は石棺の上に板石で蓋がされていたと考えられている。
 この石棺は2号古墳から南に延びる張出部分に東西に造られていて、
   2号古墳本体に埋葬された被葬者との関わりは大変深かったことがうかがわれる。
                      (説明板から)


 鎧塚6号古墳 
       1号墳と2号墳の間に築かれている。墳丘はすでに無い。
 平成6年の1・2号古墳範囲確認調査で偶然確認された。
 径12mの円墳
  古墳の一番裾、最下部の石積みが発見され、
   一緒に円筒埴輪片、土師器片が古墳の外側にあたる部分からまとまって出土。
  盛土の上に葺石を施したもので、積石塚ではない。
  埋葬施設は失われているが、
    明治時代に古墳の中心部から板石を運び出したという言い伝えがあり、
     石室は板石で造られた箱式石棺だった可能性がある。
 6世紀中ごろの築造と推定されている。1号墳より1世紀以上後のものだ。  
                                  
(説明板から)



鎧塚6号古墳



立派な積石塚の見学ができて満足です。

 鮎川古墳群配置図  天神1号墳の現地案内板から

       立派な積石塚が鮎川の北岸に並んでいる。
須坂市の地形は、東方の山地から流れ出した松川・八木沢川・百々川・鮎川等の河川によって造られた複合扇状地である。
この扇状地の最も南を流れる鮎川の北側沿いには古墳がたくさんあり、鮎川流域古墳群と総称されている。
これらの古墳のほとんどは「積石塚古墳」と考えられ、古墳時代(3世紀〜7世紀)に造られたもの。
現在40基ほどが残されているが、昔は今の倍近くあったと推定されている。
八丁鎧塚1・2号墳や天神1号墳はこの鮎川流域古墳群の代表的な古墳で、
         出土品がたくさん発見されていて、須坂市立博物館に展示されている。
                (説明板から)

米持天神1号墳
市指定史跡
鮎川古墳群
須坂市米持
撮影日2016/5/5

現在は基壇しか残っていない。墳丘上は中世の墓地とその後の開墾で削平されてしまった。
1976年の発掘調査で、上円下方墳と推定されている。

 須坂市の南を流れる鮎川のまわりは、市内で一番積石塚の多い地域であり、
 この天神1号墳も鮎川の北側段丘上に位置している。
 現状は東西30m、南北35mの四角形だが、
 調査の結果、墳丘のすそ部から約15m離れたところに溝が掘られていたことがわかったので、
 元は東西50mあったと考えられている。
 形は、方形に土芯を築いた後に積石で段状に囲んだ上に、円墳を築いた「上円下方墳」と考えられている。
  円筒埴輪、家形埴輪や椅子形埴輪の破片が出土し、墳丘上に、埴輪が並べられていたとみられている。
 5世紀代の築造の古墳としては最大級の大きさといえる。
 1976年の発掘調査 
                 (説明板から)

出土した埴輪

墳丘想定復元図

西側にある展望台から見た天神1号墳
上部が削られてしまっているのは非常に残念だ。

南から見た墳丘
裾には積石が見られる。


南向塚古墳
ナンコウヅカコフン
長野市指定史跡
長野市高田
撮影日2016/5/5

天神1号墳から西へ、長野オリンピックのメーン会場となったエムウェーブの前を通り、南向塚古墳近くの芋井神社に駐車。
小道が南向塚古墳まで続いている。
長野駅から東に約2kmのあたりにある。
周りは大型店や民家が密集していて、芋井神社と南向塚古墳の周りだけ農地が残る。

 南向塚古墳は、善光寺平沖積地のほぼ中央にある。、
 上高田の産土神芋井神社と田一枚を隔てた隣接地にある。
 全長46mの前方後円墳 後円部直径33m、高さ4.8m、前方部長さ13m、幅8m(平成8年測量)。
  東側が特に崩れており、左右対称ではない。
  西半分が原形を残しているものの、
    前方部は、西にかなりねじれていて、芋井神社に続く小道に接続している。
  後円部には、馬頭観音堂があり、墳上は整地されて変形している。

 宝暦9年(1759)に描かれた図が残っている。
  そこに記された寸法は、平成8年の測量の寸法とほとんど同じであり、
  この古墳は、近世中期以後手を加えられていないらしい。
 出土品は、明治43年ころ、後円部東北斜面の木の根から、勾玉が2個発見されたのみである。

 これまでのところ、善光寺平の前方後円墳は、山上や岡の上にあるが、
    この古墳は例外で、6世紀ごろの築造と推定されているが、はっきりしない。

 民間の伝承では、
  8代孝元天皇の皇子・少名日子建猪心尊(スクナヒコタケイゴコロノミコト)の墓だといわれていて、
   大塚と称し、塚上に社殿を建設して三面観世音を祀ったという。
 戦国武将上杉景虎が戦勝を祈願したといわれている。




西から見た南向塚古墳

前方部斜め後ろから後円部を見る

前方部から後円部を見る

塚上のお堂
元の社殿は
元禄10年に消失した後の仮殿である。

後円部から前方部を見る



芋井神社


社殿の両側には、ケヤキの大木がある。


 創建は明らかでないが、
   正和年間(1312〜1316)には南向塚の頂上と若宮との2か所に鎮座していた。
 天文年間(1532〜1554)に戦火で焼失したので
  、1社に合併し現在地に建立したと伝えられている。
 元諏訪社と呼ばれていたが、明治13年芋井神社と改称され、産土神として崇敬が高い。 

埋葬施設は不明のようだ。

午後6時を過ぎて、
  南向塚古墳から、10分ほど、長野駅そばの長野電鉄駐車場に駐車、
第一日目の宿泊は、長野駅前の「ホテルアベスト長野駅前」。
夕食無料・朝食無しのプランでゆっくり休んで・・・・

翌日、5月6日
朝7時にホテルを出て、駅前からバスで善光寺へ。

善光寺 長野市長野
撮影日2016/5/5

長野へ来たら善光寺は外せない!実は初めての見学です。


仁王門
1918年に再建されたもの
高村光雲作の阿像・吽像が安置されている。
手前の石敷の参道は1714年に完成している。
敷石は山門上が幅4間、
山門下から二天門跡までが幅3間で、
7777枚といいならわされているが、
現在はおよそ7000枚。

釈迦堂(世尊院)

仁王門と山門の間の
 脇道に入ったところにある。

鎌倉時代の銅造釈迦涅槃像(国重文)がある。

山門 国重要文化財  1750年造営
扁額「善光寺」は、
字の中に5羽の鳩が見えることから
鳩字といわれている。

扁額「善光寺」拡大
字の中に隠れた「鳩」が見つかるだろうか?

本堂 国宝
1707年完成の全国でも最大級の木造建築物だ。

本堂西側は庭園となっている。
奥の建物は、東から見た本堂

土産は善光寺名物八幡屋磯五郎の唐辛子の一味と七味をひとつずつ。
帰りは歩いて駅前に戻る。
9時すぎ 駅前駐車場出発。

妻女山へつづく

長野県のトップ

トップページ