北村さんちの遺跡めぐり
更新日2023/5/3
坂井市 地図g
椀貸山1号墳 |
坂井市丸岡町坪江 撮影日2003/5/1 |
金津町中川から丸岡町坪江にかけて国道8号線東側に南北に連なる丘陵上に横山古墳群がある。
15基の前方後円墳と多数の円墳・方墳からなり総数は223基。
この中の一つ、国道の新道と旧道の分岐点にある和興鰍ノあるのが椀貸山古墳だ。
お仕事中の工場敷地内に入り込み、見学させていただいた。
椀貸山古墳は 全長45mの前方後円墳 現状は全長42m 後円部径28.2m・同高5.7m 前方部長21m・同幅24.3m 幅12m余の馬蹄形の周壕を持つ 墳丘は2段築成で、ほとんど盛土で造られている。 墳丘斜面には円礫の葺石あり 埴輪あり 後円部中央からくびれ部に向かって開口する片袖式の横穴式石室があり、 奥壁に沿って左右の立柱状の石に屋根となる石材を載せた石屋形があり、 その石材には赤色顔料が塗られている。 かつて石室の天井石が落下した時に、石室内から須恵器が出土。 6世紀初頭の築造と推定されている。 越前で最初に発見された前方後円墳。 標高16mの山麓部の平地にある。 現在、周壕は工場敷地として完全に埋め立てられ、石室も埋め戻されている。 (あわら市郷土歴史資料館資料から・2015年) 椀貸山1・2号墳墳丘復元図 (説明板から) 北が左下となるようだ。 坪江2号墳(椀貸山2号墳)は 椀貸山古墳の北東約30.6mにある(あった)。 全長26.1mの前方後円墳 高さ3m 後円部頂に石室の一部の大石が露出していて、 椀貸山古墳の陪塚だと紹介されたが、造成や埋め立てで消滅。 工場建屋の増築に伴う確認調査で、周壕が確認され、埴輪も出土。 段築や葺石は未確認。 後円部の石室が破壊された時に、石室内から 須恵器約40個体)と土師器、金銅製の杏葉や木心鉄板張鐙などの馬具、鉄刀などの武器が出土 6世紀前葉の築造と推定されている。 (椀貸山古墳と同時期) (あわら市郷土歴史資料館資料から・2015年) |
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椀貸山1号墳 後円部ななめから前方部を見る |
椀貸山1号墳 前方部ななめ後方から後円部を見る。 |
横山古墳群については、あわら市のページをご覧ください。
丸岡城 |
坂井市丸岡町 撮影日2008/3/23 |
丸岡城は平地の中にそびえ立つ。
丸岡城天守閣に続く坂の途中に展示されているのが牛ヶ島石棺。
牛ヶ島石棺
牛ヶ島石棺 牛ヶ島地区の東方のもと白山神社の杉林の中にあった円墳の西側から出土したものといわれ、 同地区の八幡神社境内に置かれ、村人は何も気づかぬまま祭に立てる幟竿の控石に使われていた。 足羽山で発見された石棺と同時代の古墳時代中期後半のものと考えられている。 福井笏谷石(凝灰岩)製 外形 長さ2.10m・幅0.76m・高さ0.3m 内法 長さ1.7m・幅0.28〜0.44m・深さ0.14m 刳抜式で前後左右に各一個ずつある。 蓋の板石は、小川の橋に利用していたが、現在は所在不明。 (説明板より) |
丸岡城天守閣
(重要文化財 別名霞ヶ城)
天正3(1575)年、織田信長が一向一揆の平定を期して豊原寺を攻略し、
信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原に派遣し城を築かせた。
天正4年、豊原城を丸岡に移した。
これが現在の丸岡城となる。
勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時的に支配したあと
本多成重以下4代の居城となった。
元禄8年5月から明治維新までは有馬家が領主となった。
昭和9年に 国宝に指定されたが、昭和23年 福井大震災で倒壊。
昭和25年に国の重要文化財に指定され、昭和26〜30年 復元工事を行う。
二重三層、外観は上層望楼を形成、通し柱を持たず、初重が上重を支える支台をなす。
屋根は石瓦(笏谷石)、基礎の石垣は野面積みで日本の城郭建築史上最古の様式のもの。
(説明板から)
八幡神社
天守閣横にある。
丸岡城内の鎮守社としてこの地にあったが一時衰退。
丸岡城の再建の際の残材で建立されたものだそうだ。
昭和23年6月の福井大震災で、
棟より落下した石製の鯱
天守閣にのぽる階段横に展示されている。
鯱は、もともと木彫銅板張りであったものを、
昭和15〜17年の修理の際に、石製の鯱に改めたもの。
それが地震で落下してしまった。
当時は銅版の入手が困難だったので、
やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で造りかえられた。
現在の天守閣にのっている鯱は、昭和27〜30年の修復時に、元の木彫銅板張りに復元した。
「人柱お静」の慰霊碑
伝説「人柱お静」 (説明板から) 柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4(1567)年に丸岡の築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので、 人柱を入れるように進言するものがあった。 その人柱に選ばれたのは二人の子どもをかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静だった。 お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。 それからほどなくして、天守閣は立派に完成。 しかし、勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、 人々は”お静の涙雨”と呼び、小さな墓をたて、霊をなぐさめた。 「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。 |
文字が書かれた石垣
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
丸岡城六代目城主となった本多成重の父親「本多作左衛門重次」が
陣中から妻に宛てて送った手紙の文面
最も短い手紙文といわれる。
「お仙」というのは、本多成重の幼名「仙千代」のこと
丸岡町ではこれにちなみ、年1回、心のこもった短い手紙を募集、「一筆啓上賞」というイベントで町おこしに成功した。
坂井市になった現在も、「新一筆啓上賞」として、続いている。
天守閣のふもとにある
一筆啓上茶屋の庭から見た丸岡城天守閣
白い大きな建物は歴史民族資料館
六呂瀬山古墳群 |
坂井市丸岡町上久米田 撮影日2003/5/1 2015/3/24 |
国道364号線が新設される際、この周辺の古墳は破壊されようとした。
しかし全ての古墳を迂回あるいはトンネル工法で保存した。
六呂瀬古墳群配置図 (2015/3/24 小松埋文資料より) 等高線は1m間隔 2基の前方後円墳は、整った形をしていないが、 地形を最大限に生かして最大規模の古墳に仕上げている。 合わせて2000本近い埴輪が並べられていたと考えられている。 3号墳の前方部前端に堀切がないため、 3号墳は円墳と考えられていたが、両側に葺石とテラスで埴輪が確認されて 前方後円墳と判断されたという。 1・3号墳はともに、2段築成で、地形に制限されながらも、 尾根を利用した「張り出し」を作ってさらに大きく見せている。 埋葬施設は、舟形石棺と考えられている。 2・4号墳は、陪塚と考えられている。 小松市埋文センターの「市民考古楽講座・遺跡探訪 古墳を見つける山歩き」(2015/3/24)での資料から加筆。 |
六呂瀬山1号墳は 全長140mの前方後円墳 後円部径78m・高さ13m、前方部67m・幅58m・高さ11m 2段築成 葺石(九頭竜川の川原石)あり 家形埴輪が採集されている。舟形石棺直葬と推定される。 埴輪や石棺片が出土している 4世紀末の築造と推定されている。 後円部の北東側に張り出し部と2号墳(方墳14×16m)がある。 |
六呂瀬山3号墳は 全長90mの前方後円墳 前方部を1号墳に接するように造られている。 2段築成 葺石あり 埴輪あり 円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪が確認されている。 内部主体は未確認だが、舟形石棺直葬と考えられている。 4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。 後円部の北北西に張り出し部と4号墳(方墳10×6m)がある。 |
以前のデータと比べてみると、3号墳の大きさが小さくなってしまった・・・・・・・・
2003年の六呂瀬山古墳群 | 撮影日2003/5/1 |
六呂瀬山古墳群1号墳 後円部より前方部を見下ろす |
3号墳のくびれ部あたりからから 1号墳後円部を見る。 |
六呂瀬山古墳群 手前は1号墳の張出部 奥は2号墳(方墳) |
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1号墳後円部より見下ろす3号墳 |
六呂瀬3号墳・前方部から後円部をみる |
4号墳は雑草などでよく分からない。
2022/11/5(土)の北陸中日新聞から | ||
「六呂瀬山古墳群 北陸最大の古墳 1号墳は全長143m」 | ||
国史跡「六呂瀬山古墳群」(福井県堺市丸岡町)について、 前方後円墳の1号墳は全長143mで、北陸最大の古墳になるとわかった。 1号墳後円部造り出し部から家形埴輪(神殿を模した屋根の一部)が出土した。 2号墳も発掘されて、「陪塚」であることが確定した。…… |
福井県の歴史(山川出版社2000年発行)から 広域首長墓の成立 県内各地域において豪族が力をつけ、地域首長として豪壮な古墳を築いてきたが、 さらにいくつかの地域を統合する大首長が発生する。 これを広域首長といい、その墓は段築・埴輪・葺き石を持つことを特色としている。 第1代 手繰りヶ城山古墳4世紀後半 第2代 六呂瀬山1号墳(全長約147m)4世紀末か5世紀初め 第3代 六呂瀬山3号墳(全長約85m)5世紀前葉 第4代 石舟山古墳(80m)5世紀中葉 第5代 二本松山古墳5世紀第3四半紀 碗貸山古墳 6世紀初頭 神奈備山古墳 全長約64m前方部がよく発達し横穴式石室を有する。 葺き石はあるが埴輪はない。6世紀中葉 |
2015年の六呂瀬山古墳群 | 撮影日2015/3/24 |
1号墳後円部から前方部を見る |
1号墳前方部から後円部を見る |
1号墳後円部 |
1号墳後円部の葺石 |
1号墳後円部から張り出し部をみる 張り出し部の向こうには2号墳が見えている。 |
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1号墳から3号墳を見る |
3号墳 前方部から後円部を見る |
4号墳 |
4号墳から3号墳の後円部を見上げる |
神奈備山古墳とその系譜
冬季企画展「北陸最大級の横山古墳群」から(見学日2015/2/22)
築造時期 | 古墳名 | 大きさ・形 | 外部施設 | 埋葬施設 | 出土 | 地域 | ||
1代 | 4世紀中葉 | 手繰ヶ城山古墳 | 全長129mの 前方後円墳 |
2段・葺石・埴輪 | 未詳 | 未詳 | 永平寺町(旧松岡) | |
2代 | 4世紀末 | 六呂瀬山1号墳 | 全長140mの 前方後円墳 |
2段・葺石・埴輪 | 石棺片 | 未詳 | 坂井市(旧丸岡) | |
3代 | 4世紀末〜 5世紀初頭 |
六呂瀬山3号墳 | 全長90mの 前方後円墳 |
2段・葺石・埴輪 | 未詳 | 坂井市(旧丸岡) | ||
4代 | 5世紀初頭 | 免鳥長山古墳 | 全長91mの 帆立貝形古墳 |
2段・葺石・埴輪 | 舟形石棺 | 石製環頭、鍬形石、 車輪石、勾玉、管玉、 鉄刀など |
福井市北西 | |
5代 | 5世紀中葉 | 泰遠寺山古墳 (墳丘消滅 石棺のみ保存) |
全長64mの 帆立貝形古墳 |
周壕・2段・埴輪 | 舟形石棺 | 鏡2面、勾玉、管玉、 棗玉、トンボ玉、 丸玉、小玉 |
永平寺町(旧松岡) | |
6代 | 同上 | 石舟山古墳 | 全長79mの 前方後円墳 |
2段・埴輪 | 舟形石棺 | 甲冑片、須恵器片 | 永平寺町(旧松岡) | |
7代 | 5世紀末 | 二本松山古墳 | 全長89mの 前方後円墳 |
2段・埴輪 | 舟形石棺2 | (1)石棺・勾玉、甲冑片 (2)石棺・鏡1、 鍍金冠、鍍銀冠、 管玉、鉄剣、鉄刀、 眉庇付冑、短甲など |
永平寺町(旧松岡) | |
8代 | 6世紀初頭 | 椀貸山古墳 | 全長45mの 前方後円墳 |
周壕・2段・葺石・埴輪 | 横穴式石室 ・石屋形 |
須恵器片 | 坂井市(旧丸岡) あわら市(旧金津) |
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9代 | 6世紀中葉 | 神奈備山古墳 | 全長60mの 前方後円墳 |
基台部・2段・葺石 | 横穴式石室 ・石屋形 |
鏡片、銀環、小玉、 鉄刀、鉄刀子、鉄鏃、 挂甲、轡、鞍金具、 須恵器など |
あわら市(旧金津) |
出世山古墳公園 |
坂井市(三国町)新宿 撮影日2005/4/10 |
1991年(平成3年)調査、公園として保存整備された。
出世山古墳公園
手前が3号墳、奥が2号墳
出世山古墳公園配置図
出世山1号墳全景
径23.5m・高さ2mの円墳
6世紀末〜7世紀初頭の築造と推定されている。
出世山1号墳石室入口
天井石はすでにない。
低いコンクリートの覆いで囲ってあるので、大きさを感じることができない。
玄室長さ3.6m・幅1.8m
盗掘されていて遺物はほとんど無かったが、耳輪の片方と須恵器が出土。
出世山1号墳石室内部
出世山2号墳
直径20m・高さ3mの円墳。
幅3m・深さ0.6mの周溝がめぐる。
頂上に竪穴を掘って板石で土留めをして遺体を安置した。
盗掘されていたが、盗掘坑からやりがんな
堀から土器が出土した。
5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。
出世山3号墳
内部は未調査
円墳
出世山4号墳
堀から管玉が発掘された。
内部は未調査。
径20m・高さ3mの円墳
幅3m・深さ0.6mの周溝がめぐる。
4号墳が造られた後に、3号墳が造られたことが、堀の重なりからわかるらしい。
姥ヶ谷古墳復元
県内で唯一の葺石のある隅丸方形古墳。
一辺18m・高さ2.5mで幅3mの周溝がある。
埋葬施設は、盗掘され痕跡すらないくらいだった。
現在の三国運動公園の中にあった。
姥ヶ谷古墳の陸橋
陸橋のある古墳は県内ではじめての発見だった。
出土品などが全くないので、築造時期は全く不明
(参考・・・加賀の遺跡・和田山6号墳では3ヶ所の陸橋がある)
出世山3号墳から見た景色
大石銅鐸出土の地 |
坂井市(春江町)井の向字田島 撮影日2005/4/10 |
坂井町に接する、春江町井の向にNECの工場があり、その横に銅鐸出土の石碑が立っていた。
慶応4年(1868)2月16日、
畑地を掘り下げ、水田にしようとしたところ、
土中から大小2個の銅鐸が出土した。
大小2個の銅鐸は互いに基底部をさし込み、
その中に貨幣様のものを入れてあった。
1号銅鐸(大きいほう)は、外縁付鈕流水文銅鐸(兵庫県辰馬考古資料館蔵)
2号銅鐸(小さいほう)は、菱環鈕袈裟襷文銅鐸(名古屋市個人蔵)と呼ばれている。
表面に人物や動物・船・家屋・農耕生活など弥生時代の世界を彷彿とさせる絵が描かれている。
この二つの銅鐸以外に、
明治大学考古学陳列館蔵の外縁付鈕流水文銅鐸もこのあたりで発掘されたことが確認されていて、
井の向出土の銅鐸は3個と見られている。
福井県で出土した銅鐸が、福井県にないという現実。さびしいですね!