北村さんちの遺跡めぐり
更新日2020/8/4
中能登町の古墳
その3・姫塚古墳群ほか撮影日2020/4/28・5/18
・6/9・ 6/20
県外外出自粛の中、中能登町の古墳を見つける山歩き。
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姫塚古墳 能登比盗_社 |
中能登町能登部下 |
天神古墳群の南麓に能登 比盗_社があり、その背後に能登部姫塚古墳群がある。
能登比盗_社 | |
御祭神は 「能登比盗_ノトヒメガミ」 「沼名木入比賣命ヌナキイリヒメノミコト」 外九神合祀 社伝によると、大己貴命が少彦名命とともに、国土経営を行い、 越の国を平定した後、当地で憩い給う時、一人の機織乙女に接待される。 その乙女が、当社祭神である能登比盗_であり、能登麻織物、能登縮の祖神。 崇神天皇の御代、能登臣の祖である大入杵命(オオイリキノミコト)が、 妹の沼名木入比賣命を誘い、当国に御臨幸された時に、 地元の女性たちに機織りを教えたのが、沼名木入比賣命だという言伝えがある。 能登上布の始まりの伝承となる。 社殿後方の丘上に、祭神の御遺骸を埋めた姫塚(御陵山)と呼ばれる円墳がある。 |
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通称は、下の宮、あるいは妹宮。 これは能登部上に鎮座の能登部神社に対してのもので、 能登部神社祭神は、当社祭神の兄神である。 その後、能登部郷を兄村・妹村と呼んだという。 |
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![]() 鳥居 |
![]() 社殿 社殿や燈籠には、「井桁紋」が付けられている。 |
![]() 社殿の左(西)には摂社子安神社 背後の丘には奥宮(?) |
![]() 背後の丘の奥宮(?) この上にある比盗_の御陵のための拝殿か? |
機貝岩(ハタグイワ) この鹿島郡能登比盗_社の祭神「沼名木入比賣命」が、織機を背負って山越えの折、 途中で山賊に遭い、思わず織機を海中に投げたところ忽然としてそれが岩に変じたという。 この岩は、能登比盗D島又名は機貝島と名付けられたという。 別名能登二見とも呼ばれ、美しい二つの岩がしめ縄で結ばれていて、 現在は観光名所となっている。(志賀町富来七見で見られます!) |
背後の丘には能登部姫塚古墳群がある。
姫塚古墳群配置図
(いしかわ文化財ナビを基に作成)
円墳25基が確認されている。
1号墳 | 円墳 | 径27m高さ4.5m |
2号墳 | 円墳 | 径18m高さ2.5m |
3号墳 | 円墳 | 径22m高さ3m |
図には1・2・3号墳が示されている。
姫塚古墳群 | ||||
能登比盗_社背後の丘上にあり、 比較的規模の大きい円墳3基が裾を接して連続して造営されていて、 最大規模の1号墳が、能登比盗_の御陵とされ、神社の神廟となっている。 みささぎ山という。 このため姫塚については、早くから古墳として周知されていて、 能登志徴、能登部町史、鹿島郡史に記載されている。 文政のころ(江戸時代後期)、古墳の一部があばかれ、 石槨の内部から管玉、土器が発見されているとのことで、 一部が能登 比盗_社に現存している。 今は石垣で取り囲まれている。 (鹿西町史から) |
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姫塚1号墳
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姫塚2号墳
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姫塚3号墳
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能登の豪族の女性「能登比刀vと崇神天皇の皇女 「沼名木入比賣命」が始めたとされている機織りは、
「能登上布」として現在まで続いている。
能登上布は、昭和35年、石川県の無形文化財に指定された。
能登比盗_社の社伝には
「天皇十代崇神天皇皇女、野生の真苧(マオ・苧麻・カラムシのこと)を自ら紡ぎ、
その織技を伝授せり 里人の婦女これを伝承せり」 の一文がある。
中能登町立カルチャーセンター飛翔の敷地内に、能登上布会館があり、
織りの実演見学や機織り体験ができる。
![]() 能登上布会館 販売コーナーもある。 |
![]() 材料となる麻糸 着物の反物の幅約42cmに 1200本近くの経糸が使われるという。 |
見学無料です。
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宮塚古墳 能登部神社 |
中能登町能登部上ロ70 |
雨の宮古墳群の南麓に能登部神社があり、その背後に能登部宮塚古墳がある。
能登部神社が「兄宮」で、能登比盗_社が「妹宮」。
能登部神社 | |
御祭神は 能登国造の祖「能登比古神」と能登臣の祖「大入杵命」 社伝によると、大己貴命が少彦名命とともに、国土経営を行い、 越の国を平定した後、当地で憩い給う時、当地で二人の兄妹神と出会う。 その兄神が、当社祭神である能登比古神。 妹神が、能登比盗_社祭神の「能登比刀v 通称は、上の宮、あるいは兄宮というが、能登部下に鎮座の能登比盗_社に対する呼称 |
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加賀藩主の前田利家公は入国した時から、深く当社を崇敬し、 その室寿福院は当地に住んで、利常公を出産して以来、 藩主の産神として深く崇敬されている。 |
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![]() 一の鳥居 |
![]() 神門 |
![]() 二の鳥居 |
![]() 拝殿 |
![]() 拝殿後方の85段の石段を上がると本殿 |
![]() 石段上の三の鳥居と本殿 |
![]() 本殿の懸額には 「能登部神社 侯爵 前田利嗣」とある。 |
![]() 本殿前からの景色 水白鍋山古墳あたりが見えるのかな? |
本殿背後の山に上るとすぐの、尾根先端に墳丘らしいものがある。
能登部神社と能登部宮塚の位置
(いしかわ文化財ナビを基に作成)
宮塚古墳の位置について、
いしかわ文化財ナビでは、「推定地」となっている。
能登部宮塚古墳 | |
昭和初期の「能登部町史」には 「能登部神社境内にあり、寛文のころまで、本殿がこの塚の上にありしと、 四方を切り開きたる中央に七尺四方丘をなせり、能登比古神の古墳なりと、 大正8年宮内省諸陵寮属鎌田正憲氏、実地踏査の折正しく古墳なるべし」 とある。 |
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![]() 能登部宮塚古墳 |
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![]() 能登部宮塚古墳 方向を変えて見る |
![]() 墳頂部の石材 かつて社殿があった時のなごりかもしれない…… |
![]() 宮塚古墳の北にある墳丘状の高まり (自然隆起の可能性もある) |
立派な神社があり、古代から栄えていたのだなと感じる。
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西馬場古墳群 |
中能登町能登部上 |
能登部神社の北東約400mの山麓に西馬場古墳群がある。
西馬場古墳群の配置図
(いしかわ文化財ナビを基に作成)
西馬場古墳群は5基確認されている。
1号墳 | 円墳 | 径20m 高さ1m | |
2号墳 | 円墳 | 径14m 高さ1m | |
3号墳 | 円墳 | 径34×27m 高さ6m | 墳頂に石材 |
4号墳 | 円墳 | 径10m 高さ1m | |
5号墳 | 円墳 | 径10m 高さ1m |
3号墳は大きいので見学できるのではないかと山に入る。
西馬場3号墳 径34×27mの円墳 高さ6m | |
![]() 3号墳墳丘 |
![]() 3号墳 墳頂部 |
すぐそばに住む方は、西馬場古墳群の存在を全く知らないそうだ。
西馬場古墳群の東にある本土寺には、国指定文化財の絵画「絹本著色観音経絵」二幅が所蔵されている。
(観音の種々の利益を大画面に細かく描いた図
観音経を絵にした中世以降の観音経絵の作品としては、メトロポリタン美術館(ニューヨーク市)にあるのみで、
わが国唯一のもの)
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冠塚 |
中能登町字上地内 |
長曽川に架かる橋のたもとに石碑がある。
由緒が刻まれた石碑もある。
消滅したのかと思っていた……
「由緒書」から 冠塚は能登部神社由来の遺跡。 大入杵命が亡くなった時、御遺骸が小田中親王塚に葬られて、 御冠はこの塚に埋められたといわれている。 「能登部町史」から 「字上地内、内神田にあり四方田をめぐらせるうちに小丘あり、 相伝えて一草も刈るを許さず犯す時は必ず祟りありと、 能登部神社祭神の御冠を埋めしところなりと。 墳頂6尺余り、南に向かって高く北に向かって低い円墳と、 鎌田宮内属踏査して古墳なりと、断ぜられる。」 墳形の冠のようだからこの名前が付けられたともいわれている。 |
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![]() 鳥居が設置されている |
![]() 土手のそばに石碑がある |
詳細不明。
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太刀塚 |
中能登町字上地内 |
能登部町史などには、名前が出てくるが、どこにあるかよくわからなかった古墳。
たまたま見つけた石碑。
説明板もない。
能登部町史には 「丹後川尻(の中央にあり、能登部神社祭神由縁の古墳と伝えられている」とある。
![]() 「太刀塚」石碑 |
![]() 石碑の周りには墳丘らしきものはない |
能登部町史(昭和8年刊)にはほかにも
「ねこ塚」、「圓山」、「ぞうノ塚」などの名前が記載されている。
当時、雨の宮1・2号墳は、亀塚の雄塚・雌塚といわれていたようだ。
仙人塚古墳につづく
中能登町西部の古墳配置図 (いしかわ文化財ナビを参考に作成)
中能登町南西部の古墳![]() |
邑知地溝帯北側
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邑知地溝帯南側
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中能登町北東部の古墳![]() |
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