北村さんちの遺跡めぐり
更新日2020/9/14
中能登町の古墳
その4・仙人塚古墳ほか撮影日2020/6/4・6/9
県外外出自粛の中、中能登町の古墳を見つける山歩き。その4です。
邑知潟の南側の古墳群。
仙人塚古墳 町指定史跡 |
中能登町井田 |
井田地区の仙人塚古墳は、個人宅裏庭に石室が露出しているという。
個人の家の敷地内にあるので、見学できるか不安だったが、ようやく見学できた。
山裾にある「船塚(舩塚)」さん宅の裏庭にある。
「船塚」さんに、見学のお願いをして、古墳前まで案内していただいた。
現在の住居の奥に、亡くなられたご両親の住宅があり、その奥に仙人塚古墳がある。
仙人塚古墳は 舩塚ともいう 横穴式石室は 幅1.5m・長さ4.2m 「自然石を組み合わせ長さ7尺あまりの蓋石で囲っている。 この家の祖先の仙術を得た人の墓、あるいは法道仙人修行の跡との言い伝えがある。」 と鹿島町史に書かれている。 |
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小さくなってしまった墳丘 |
石室の入口側か 内部は埋まっている。 |
方向を変えて見る |
方向を変えて見る |
2016年にもそばまで来ていたが、今回初めて見学できた!
井田古墳群配置図
仙人塚古墳は井田古墳群の一つ。
井田集落にある熊野神社の参道にも古墳がある(29・30号墳)ので、行ってみた。
熊野神社 |
この土地の氏神・産土神であり、 崇神天皇の御代、四道将軍の一人である大毘古命が創建したと伝えられ、 二千有余年の歴史を持つ古社である。 古来より、能登から越中にかけて人々に深く尊崇された社で、不動の滝と深い由縁を有し、 その滝開きの日である毎年七月五日を例祭日とする。 明治以前の熊野神社は、熊野権現と称された時期もあり、十一面観音も併せてお祀りされている。 |
熊野神社と参道 古墳は、確認できなかった |
熊野神社から熊野川ぞいに山に入ると、不動滝がある。
不動滝には2013年5月以来2度目となる。
不動滝 | |
2013年には無かった説明板 「中能登町教育委員会 中能登町の文化財」 白山を開山した泰澄大師が開いたと伝えられている。 本来は熊野滝と呼ばれていたが、 滝の近くに不動尊が祀られていることから不動滝とも呼ばれている。 高さ20mから叩きつける豊富な水は、行場として、最適な環境であり、 石動山修験者の荒行の場として栄えたと伝えられている。 嘉永6年(1853)加賀藩13代当主前田斉泰(マエダナリヤス)が海防のため能登を巡見した際に、 この地を訪ねている。 昭和10年ころには、周辺に茶屋などがあり、避暑地としても賑わいを見せていたようだ。 滝に至る道の入口には熊野神社が鎮座し、 その参道脇に「瀧道従是八丁(タキミチコレヨリ8チョウ)」と きざまれた天保12年(1841)の道標が建っている。 毎年7月5日には、滝開きが行われる。 |
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2013年より水量が少ないようだ |
北陸不動尊第十一番 大聖瀧身代り不動尊 |
道閑塚 道閑公園 |
中能登町久江 |
コロナ禍の緊急事態宣言が解除された2020年5月末、休館していた中能登町のふるさと創修館(中能登町が開館。
館内にある「教育文化課文化財保護係」に古墳の事を聞きに行ったところ、職員の方が
「現在、久江宮山古墳群の調査をするために木を整理しているから、見に行ってください」
と話されていたので見学に行こうと思い、行き方をきいたところ
「久江集落に道閑刑場跡という案内板があるので、そこから山に入れば行けますよ!」
道閑刑場跡? 道閑さんて、一体何者……?
県道244号線の久江交差点を東へ800mほど行った久江地区の一画に「道閑塚」がつくられ、
周辺が道閑公園となっていることを知る。
道閑塚 | |
顕彰碑の内容 寛文6年、長連頼の領地鹿島半郡で検地が行われようとしたとき、 久江村の十村道閑らは百姓たちを救うために同志をかたらって検地反対運動を展開した。 この検地には浦野事件という複雑な問題が絡んでいたため、藩が浦野一族を弾圧するとともに、 検地に反対した道閑らも捕らえて極刑に処したのである。 十村頭であった道閑の刑はもっとも重く寛文7年12月16日、 男子3人の首をはねられたのち、磔に処せられた。 その後、重い租税で苦しんだ村人たちがいたく道閑を追慕し 「おいたわしや道閑様は、七十五村の身代わりに」 という臼すり唄が後世永くこの地方でうたわれた。 道閑300回忌にあたりその墓所を整地するとともにあらためてその義行を記念するものである。 昭和42年12月16日 義民道閑顕彰会 |
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1816(文化13)年、道閑処刑百五十回忌が 十村市楽らによって行われ、「道閑塚」がつくられた。 1967(昭和42)年には、三百回忌が行なわれ、義民道閑顕彰碑が建立された。 |
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道閑公園 道閑塚への石段 |
道閑の墓 3人の男の子も処刑されたという |
顕彰碑 |
ふきのとう句会の句碑 「松葉散る石段高し義人の碑」 |
2017年の350回忌にも法要が行われたらしく、記念の木碑が建っていた。
浦野事件とは (道閑事件とも呼ばれている) |
久江村道閑は、長家鹿島半郡の村支配を託された十村の一人 |
久江宮山10号墳が、「道閑刑場跡」として整備されている。
久江宮山古墳群 道閑刑場跡(久江宮山10号墳) |
中能登町久江 |
久江宮山古墳群の北の久江東交差点の東の集落の中に「道閑刑場跡」の案内板があり、そこから山に入る。
集落の中には、駐車スペースがないので、県道わきの空き地に駐車。
久江宮山古墳群 | ||||||||||||||||||||||||||||||
久江川北岸、久て比古神社が鎮座する通称宮山と呼ばれる丘陵が、久江集落の背後に舌状に派生する。
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墳丘番号が書かれた杭が立っていて、分かるようになっている。
北の10号墳から見学することとなる。
道閑刑場跡として整備されているので、10号墳までは、遊歩道が整備されている。
久江宮山10号墳 径10m・高さ1.2mの円墳 墳頂部が削平されて、道閑刑場跡として整備されている。 道閑刑場跡の説明板がある。 説明板には、 久江村16か村の十村頭であった園田道閑は、検地反対運動の首謀者として、 寛文7年(1667)12月倅(セガレ)3人と共に磔(ハリツケ)、刎首(ハネクビ)の刑に処せられた。 領民の生活を思っての行動は義民道閑として、今もなお敬慕されている。 またこの事件は、道閑事件・浦野事件とも呼ばれている。 と書かれている。
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10号墳から南に斜面を10mほど行くと、9号墳
久江宮山9号墳 7号墳から北に30m。 径8m高さ0.8mの円墳 9号墳 |
9号墳から南に約30m行ったところ、やや尾根幅が広がった地点に
6・7・8号墳の3基の円墳が尾根筋に直交する形で整列している。
久江宮山8号墳 径6m・高さ0.8mの円墳 8号墳 墳央部に石材の一部が露呈 |
久江宮山7号墳 径8m高さ1mの円墳 7号墳 墳央部に石材の一部が露呈 |
久江宮山6号墳 径6m高さ0.8mの円墳 6号墳 |
6・7・8号墳から南に約50m行ったところに、大きな1号墳がある。
標高約75mの尾根上に位置する。尾根筋が、少し向きを変える地点。
久江宮山1号墳 全長40.5mの前方後円墳 後円部径23.5m・高さ5m 前方部幅16m・高さ1.5 くびれ部幅10m 後円部頂平坦部は径11m 盗掘痕跡は見られない。 埴輪なし 葺石なし
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1号墳の南西に墳裾を接するのが、2号墳
久江宮山2号墳 径16m・高さ1.5mの円墳 截頭円錐形をなし整美である。
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3号墳 1号墳の南に3・4号墳・5号墳の3基の円墳が墳裾を接して連続する。
久江宮山3号墳 径8mの円墳 高さ1.2m 3号墳 |
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久江宮山4号墳 径8m・高さ1.5mの円墳
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久江宮山5号墳 径8m高さ1mの円墳 墳丘の一部が破壊され石室用材の一部が散乱
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久江宮山古墳群の南のふもとには、久て比古神社がある。
久て比古神社 (くてひこ神社→「て」は「低」のにんべんがない字) |
久て比古神社は、御祭神が「久延毘古神」「天目一箇神」 「火産霊神」 久延毘古神は、博識の神で田や山を司る神なり。 天目一箇神は、鉄の器具を造り司る神なり。 往古当社が剣神社 剣明神を崇拝されたのは この御祭神の御神徳灼なればなり。 火産霊神は、防火の神様 (由緒から) |
「くてひこ神社」の裏山にあるから「宮山」というのかな。
久江オハヤシ山古墳群 |
中能登町久江 |
久江宮山古墳群の南、くてひこ神社の南の山にも古墳群がある。
中能登町久江体育センター(旧久江小学校)の南の林道を行くと、登り口があり、階段もある。
鉄塔管理のための道ではないかと思う。
久江オハヤシ山古墳群登り口
此の奥に
簡単な階段が付いている。
久江オハヤシ山古墳群 |
鹿島町史から 久江川の南岸、中能登町久江体育センター(旧久江小学校)に向かって舌状に張り出した 標高80mの前後の丘陵尾根に立地する。 前方後円墳1・円墳3基が確認されている。 久江オハヤシ山古墳群配置図 古墳群の東側の林道から山に入る。 |
登ったところの北に、1号墳・2号墳がある。
久江オハヤシ山1号墳 前方部が北面する 全長30mの前方後円墳 後円部径16m高さ2.5m 前方部幅12m高さ2m くびれ部に山道が通りやや変形しているが、 平野部に面した部分の墳丘は比較的整っている。 葺石なし 埴輪なし 盗掘を受けた痕跡がない
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久江オハヤシ山2号墳 1号墳の南に位置する。 径10m・高さ1.5mの円墳 盗掘痕跡なし 2号墳 |
1号墳・2号墳から尾根を南に100mくらい離れて、3・4号墳がある。
北から見た 左・4号墳 右・3号墳 |
久江オハヤシ山3号墳 2号墳の南方約100m浅い鞍部を隔てた尾根頂部に位置する。 径18m・高さ2.5mの円墳 盗掘痕跡なし 3号墳 |
久江オハヤシ山4号墳 3号墳の東に墳裾を接して位置する。 径6m・高さ0.8mの円墳 4号墳 |
藤井古墳 |
中能登町藤井 |
小田中親王塚古墳・小田中亀塚古墳から南の林道を入った砂防ダムの東に「藤井古墳」のしるしがあったので行ってみる。
砂防ダムのそばに駐車スペースがある。
背後に藤井古墳があるはずだ。
藤井古墳は 円墳 横穴式石室がある 石室損壊 詳細不明 |
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小田中親王塚・亀塚と 藤井古墳の位置関係 |
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墳丘? |
方向を変えて見る |
露出した石その1 |
露出した石その2 |
以前は祠みたいな建物があったのかもしれない。
高畠経塚古墳 |
中能登町高畠 |
古墳自体は消滅しているが、
石室の石材の一部と考えられるものが、古墳の跡地と、それに隣接する徳照寺庭園に残されている。
2006年にも、行ったが、徳照寺の石材は分からなかった。
高畠経塚古墳は 高畠集落の東部、徳照寺の南の民家にあった。 地形的には曽祢古墳群同様、地獄谷川の扇状地頂部の緩傾斜面に立地するが、 宅地化が進んでいるので、旧地形が分からくなっている。 古墳は、古くから経塚と伝えられていて、 「能登志徴」という書物に、乱世のころに経巻を納めたという記述がある。 古墳は、大正11年に道路改良工事の際に、石室が発見されて発掘調査された。 石室も玄室の一部がかろうじて残存しているにすぎなかった。 西南に開口する横穴式石室がある径3.5mの小円墳だが、 この時点ですでに一度発掘されていて、封土の大半がすでに失われていて、 玄室は推定で、内法幅150cm・高さ150cmと考えられていて、 墳丘も元は径15〜20m高さ3mほどと推定されている。 玄室の奥壁付近から 土器、銅碗、直刀破片、圭頭太刀などが出土した。 圭頭太刀は、1点が金銅製の圭頭(長さ7.4cm)を完存していて、 他の1点が透かし彫りを施した圭頭(残欠)とされ、 刀身残欠には、銀線を巻いた柄や銅地に銀装を施した鍔元の金具なども含まれている。 柄に装着されている鍔は、いわゆる「八窓倒卵形鍔」と呼ばれるもので、 鍍金された豪華なものである。 他の小型の鍔も金銅製である。 銅碗は仏具の一種であるが、 古墳時代後期から古墳副葬品として日本にもたらされた特有の遺物である。 主に北九州や東国地域の盟主的な古墳からの出土例が多く知られるが、 北陸地方では唯一の例である。 出土した須恵器から、6世紀末から7世紀初頭の築造と推定されている。 鹿島町史(昭和58年発行)から |
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古墳の跡地にある石材 民家の庭石になっている。 長さ180cm・幅90cm・厚さ50cm 奥壁などの壁材か 説明板がある。 |
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徳照寺庭園に残る石材 徳照寺の本堂後ろの庭にある。 長さ200cm・幅140cm・厚さ80cmで石室天井石と考えられている。
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曽祢古墳群 |
中能登町小金森 |
高畠経塚古墳の西、小金森集落の山手の曽禰地区に曽禰古墳群がある。
曽祢古墳群は3基以上あったが現在墳丘が確認できるものはない。
消滅した曽祢1号墳では、県内では3つしか見つかっていない双竜式環頭太刀柄頭が出土した。
鹿島町史に記述がある。
説明板の東の畑で作業中の男性に話を聞くことができた。
その方は曽祢古墳群1号墳の家主の親戚にあたる方で、
考古にも詳しく、地元の考古学関係のサークルにも参加しているという。
その方の話も含めて記述する。
曽祢古墳群は羽咋市との境界に近い小金森集落の山手の曽祢地区にある。 地形的には石動山系断層崖下地獄谷川の扇央部緩傾斜面にあたり、 現在は畑、竹林が広がっている。 少なくとも3基以上からなる古墳群 曽祢古墳群配置図
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説明板 溜池の東側の竹林に 道路の方を向いて立つ。 見逃してしまいそうだ 内容 「1号墳は明治41年に家屋の建築時に発見されたもので、 環頭太刀1・耳環1・鉄斧1・須恵器6が出土している。 円墳・横穴式石室の古墳時代末期の古墳である。 出土品は現在東京国立博物館で収蔵されている。 周辺には2号墳・3号墳もあるが、いずれも変形が著しい。 小田中の亀塚古墳・親王塚古墳の末孫の墳墓とも考えられている。 中能登町教育委員会 」 |
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曽祢1号墳 環頭太刀を出土したことで著名な古墳 大正11年刊の上田三平氏の報文「石川県史蹟名勝調査報告」で紹介されている 明治41年に山下家家屋建築のため宅地を拡張する際に、 現在の家屋の後ろの部分に石室を発見し、 多数の石材を出して、その石材は記念碑等に利用された。 石室内部には直刀破片、土器多数が発見された。 石室内部の土砂は取り除き後ろの竹やぶに積み上げた。 明治42年この土砂の中から環頭太刀が発見され、東京博物館に所蔵されている。 横穴式石室がある古墳であったと推定されているが、墳丘の規模・内部構造は不明 出土した須恵器は新旧2型式のものを含んでいて、 7世紀前葉につくられて、7世紀中葉ころに追葬が行われたと考えられて、 環頭太刀は追葬の際の副葬品であると考えられる 7世紀前葉から中葉にかけての築造と推定されている。
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曽祢2号墳 1号墳の西30m 径10m・高さ1.5mの円墳 墳丘の変形が著しく墳丘上に石室の石材と推定される石礫が散在 明治年間に盗掘されたといわれている 墳丘はもう無くなっている。 中央右側 現在車庫になっているあたりに2号墳があった。 |
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曽祢3号墳 径10m・高さ1mの円墳
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(曽祢仮4号墳) 古墳のような高まりがあって、 道路を改修するときに調査されたが、 石が数個出土しただけで、ほかには何も出土しなかったので 古墳だとは確認されていない。 元、古墳のような高まりがあったあたり。 |
明治時代に出土した石室石材は、記念碑となり、現在も見ることができる。
古墳群があった辺りから北約800mの墓地にある。
戦没者慰霊碑 曽祢古墳群1号墳の横穴式石室の石材が使われている。 寄贈 山下金太郎と刻まれている。 山下金太郎さんは、1号墳発掘当時の家主の名前だ。 |
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正面から見る |
裏側から見る 「山下金太郎」の文字が確認できる。 |
もう一つ大きな碑があるがこれは違うのだろうな 「立嵐」 と刻まれている碑 |
中能登町の古墳 終わり
中能登町西部の古墳配置図 (いしかわ文化財ナビを参考に作成)
邑知地溝帯北側
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邑知地溝帯南側
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