北村さんちの遺跡めぐり
更新日2020/7/10
中能登町の古墳
その2・テンジクダイラ古墳群ほか
県外出自粛の中、中能登町の古墳を見つける山歩き。
雨の宮古墳群 テンジクダイラ支群 雨の宮古墳群として国史跡 |
中能登町能登部上 |
雨の宮1号墳から南西に約1kのところにテンジクダイラ古墳群がある。
雨の宮古墳群の1支群ということになっていて、5基の大きな墳丘が並んでいる。
雨の宮古墳群の西南端にある峠地蔵から林道を道なりに西へ800mほど行くと、道路沿いに説明板があるが、
読めなくなっている。
テンジクダイラ古墳群(雨の宮古墳群テンジクダイラ支群)は 雨の宮古墳群から南西約1kmの眉丈山の稜線上(標高177.6m)にあり、 円墳3・方墳2が確認されている。 テンジクダイラ古墳群配置図 (いしかわ文化財ナビを基に作成)
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5基あるが、かなり大きいサイズなので、そばからでは、なかなか全体の写真が撮れない。
4/28と5/7に見学したが、10日経つとかなり緑が濃くなっている。
説明板脇から、墳丘に上がる。
1号墳は発掘調査された。
テンジクダイラ1号墳 | 出土品は 町指定文化財 |
1号墳は発掘調査された。 長径27m・短径23mの円墳 高さ5.8m 埋葬施設は、2つ確認されている。 第1主体部は、木棺・粘土床 第2主体部は、割竹形木棺 墓壙から多種にわたる鉄製品が出土した 鉄剣3・ヤリガンナ2・砥石1・鉄斧2・刀子2・手鎌状鉄器1・ノミ状鉄製品1の計14点が、 「テンジクダイラ古墳出土品」(考古資料)として町指定文化財となっている。 古墳時代中期の築造と推定されている。 雨の宮古墳群の盟主墳とほぼ同年代と考えられている。 |
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1号墳 墳丘 |
1号墳墳頂部 奥に2号墳 |
1号墳の北に2・3・4号墳 少し離れて5号墳。
テンジクダイラ2号墳 一辺18m 高さ4mの方墳
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テンジクダイラ3号墳 一辺22m 高さ5mの方墳
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テンジクダイラ4号墳 径35m 高さ6mの円墳
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テンジクダイラ5号墳 径30m 高さ5mの円墳
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天神古墳群 |
中能登町能登部上 |
テンジクダイラ古墳群から、林道を南西へ1kmほど進むと、右手に「天神A1号墳」の案内板があったので、見学。
林道脇の案内板
「天神A1号古墳」と書かれている。
説明板はない。
案内板には「天神A1号墳」とあるが、
いしかわ文化財ナビでは、
単に「天神1号墳」と表記されている。
天神1号墳 全長48m・高さ5.5mの前方後円墳
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天神古墳群配置図 (いしかわ文化財ナビを基に作成)
天神古墳群は、前方後円墳3基・円墳15基が確認されている。
1号墳・2号墳・11号墳・12号墳の位置が示されている。
1号墳 | 前方後円墳 | 全長48m・高さ5.5m |
2号墳 | 円墳 | |
11号墳 | 帆立貝形古墳 | 全長30m |
12号墳 | 前方後円墳 | 全長30m |
1号墳から林道を道なりに南西に約400mほどいったところの東側に、2号墳がある。
林道の東の高台にあるが、登り口が分からないので、草木の少なそうなところからよじ登る。
天神2号墳 円墳 (詳細なデータは 不明)
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1号墳近くの道幅が広い所に駐車して、1号墳の東100m、林道南にある山道を歩いて11号墳・12号墳を探す。
地図には描かれていない分かれ道で、道を間違え、東の山道(・・・・・で表した道)に行ってしまったのだが、
ここに古墳らしい地形がある。仮に「(仮)B号墳」とする。
最初はこれが12号墳かと思った。
(仮)B号墳 まるで前方後円墳のようだが、詳細不明です……
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間違いに気づき、後日もう一度11号墳・12号墳へ。
天神12号墳 全長30mの前方後円墳
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12号墳の手前(北側)に11号墳がある。
天神11号墳 全長30mの帆立貝形前方後円墳
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薬師山・丸山古墳群 |
中能登町能登部上 |
テンジクダイラ古墳群から南西の林道を進むと、柳谷内古墳群と天神古墳群の間に山道がある。
この道は、舗装されていて、9号墳までギリギリ車で行ける。
9号墳のある所は丸い広場で、昔は水道タンクでもあったのではないかと思われるような地形。
駐車もできる。これより先は、徒歩でしか行けない。
薬師山・丸山古墳群配置図 (いしかわ文化財ナビを基に作成)
薬師山・丸山古墳群(旧ラクガワ古墳群)は、
前方後円墳1基・円墳11基が確認されている。
1号墳 | 円墳 | 径10m・高さ1.5m |
2号墳 | 円墳 | 径10m・高さ3.0m |
3号墳 | 円墳 | 径15m・高さ2.0m |
4号墳 | 円墳 | 径15m・高さ2.0m |
5号墳 | 円墳 | 径15m・高さ1.8m |
6号墳 | 円墳 | 径20m・高さ? |
7号墳 | 円墳 | 径8m・高さ1.0m |
8号墳 | 円墳 | 径12m・高さ1.5m |
9号墳 | 円墳 | 径8m・高さ1.2m |
10号墳 | 前方後円墳 | 全長30m・高さ? |
11号墳 | 円墳 | ? |
12号墳 | 円墳 | ? |
9号墳の東にある前方後円墳の10号墳を先に紹介する。かなり急な下り坂。
舗装された道に削られて、1人がやっと上がれるような尾根を行くと前方後円墳がある。
薬師山・丸山10号墳 全長30m・高さ?の前方後円墳
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9号墳に戻り、山道を南下、麓近くのため池付近まで斜面を下りることとなる。
配置図では山道の横に古墳があるようになっているが、
尾根上の古墳を削って道がつくられているように感じる。(車道をつくろうとしたのか?)
薬師山・丸山9号墳 径8m・高さ1.2mの円墳 駐車したところ。 丸ーく削られて、 隅に墳丘の残骸が残っているようだ。 |
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薬師山・丸山8号墳 径12m・高さ1.5mの円墳 |
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薬師山・丸山7号墳 径8m・高さ1.0mの円墳 特定できないので、写真なし |
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薬師山・丸山6号墳 径20m・高さ?の円墳 |
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薬師山・丸山5号墳 径15m・高さ1.8mの円墳 |
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薬師山・丸山4号墳 径15m・高さ2.0mの円墳 |
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薬師山・丸山3号墳 径15m・高さ2.0mの円墳 |
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薬師山・丸山2号墳 径10m・高さ3.0mの円墳 |
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薬師山・丸山1号墳 径10m・高さ1.5mの円墳 |
ほとんど、ふもとまで下りてしまった……
9号墳まで戻るが、これがきつい登り坂……
杉谷A古墳群 杉谷チャノバタケ遺跡 |
中能登町(旧鹿西町)金丸杉谷 |
雨の宮古墳群から南西に約2km、金丸杉谷の丘陵を
水道施設建設に先立ち発掘調査をしたら、「日本最古のおにぎり」が出土した。
杉谷チャノバタケ遺跡 鹿島郡中能登町(旧鹿西町)に所在。 眉丈山系から平野部に延びる丘陵から一部谷部にかけて(標高60〜110m)立地。 南北50〜100m、東西350m以上の広がりを持つ。 集落跡から、土器・土製品・石製品・木製品・鉄器などが出土し、 周囲には集落を守るように「環濠」がめぐらされていた。 高地性集落の遺跡と考えられている。 中でもチマキ状炭化米塊は「日本最古のおにぎり」として話題となった。 昭和62(1987)年、竪穴式建物の壁際より出土した。 米粒の解析により、短粒、極小粒の日本型を呈する水稲品種の晩稲の糯米(モチゴメ)で、 蒸されたのち焼かれたものと推定されている。 チマキ状の炭化米は、底辺約5cm、他の2辺が約8cmの二等辺三角形で、約3.5cmの厚みがある。 日本型のおくてのもち米を使用し、蒸された後二次的に焼かれたものと推定され、 現在のちまきに近いものと考えられる。 チマキ状炭化米は、昭和62年11月、 丘陵中腹に位置する第22号竪穴式建物の壁際から、単独かつ完全な形で出土した。 同建物は弥生時代の中期の終わり頃(1世紀前半頃)のもので、 炭化米塊も同時期のものと推定される。 こうした調理・整形された米は、全国的にみても非常に少なく、なかでも本例は最古級のものだ。 機能的には携行・保存食だが、 建物の壁際からの単独の出土であることやチマキの民俗事例などから、 食用というよりは魔除けなどのまじない的な用途で作られたものと推定されている。 食用とは別に霊的なものへの供物あるいは厄除けという呪敵な用途をもっていた可能性がある。 (説明板から) |
ふるさと創修館のロビーにオニギリが展示されていた!! 日本最古のチマキ状炭化米 ふるさと創修館ロビーにて レプリカ (本物は石川県埋蔵文化財センターに所蔵) 弥生時代中期(約2000年前)のもの 底辺約5cm、他の2辺が約8.5cm、8cm、 厚さは3.5cm |
発掘調査時の航空写真 ふるさと創修館ロビーにて 右側が北と思われる。 ふるさと創修館には 中能登町の「教育文化課文化財保護係」という部署がある。 |
チャノバタケ遺跡と重なるような位置に杉谷A古墳群がある。
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杉谷A12号墳 方墳 |
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杉谷A13号墳 円墳 |
杉谷A14号墳 円墳 |
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左・杉谷A15号墳 右・16号墳 |
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杉谷A15号墳 方墳 |
杉谷A16号墳 方墳 |
杉谷A古墳群の東に、八幡神社がある。
杉谷八幡神社 | |
古来杉谷の産土神として崇敬せられてきた古社で、 壽永年間木曽義仲、小田中に陣した時当社に戦勝を祈願し神宝を奉ったという。 八幡神社の懸仏及び少名彦名命社の薬師十二神の懸仏は現在円正寺に安置されている。 明治後村社に列した。 |
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八幡神社 鳥居 |
八幡神社境内 |
八幡神社境内にも、墳丘があるはずだが、確認できない。 |
八幡神社の南から森に入ると、ガメ塚古墳がある。
ガメ塚古墳 | |
全長60mの前方後円墳 後円部径37m(東西・後円部高さ8m 前方部長23.5m・前方部前端幅29m・前方部高さ4m、くびれ部幅19m 斜面に葺石と思われる拳より少し大きめの礫が散在する。 埴輪は確認されていない。 埋葬施設・副葬品は発掘調査が実施されておらず不明 杉谷八幡神社横に張り出している丘陵端部に立地する。 墳丘の立地するところは比較的大きな木は少なく、竹やぶに覆われている。 墳丘は後円部平坦面に盗掘坑と見られる掘り込みがあるほかは全体的に遺存状態が良好。 1959年(昭和34年)に記された「金丸町史」に古墳と報告されている。 1991年(平成3年)に測量調査。 1986(昭和61)〜1988年(昭和63年)にガメ塚以外の杉谷A古墳群が確認されている。 |
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ガメ塚古墳 前方部 |
ガメ塚古墳 前方部から後円部を見る |
ガメ塚古墳 後円部の盗掘坑 |
ガメ塚古墳 後円部から前方部を見る |
金丸鳥屋塚古墳 宿那彦神像石神社 |
中能登町(旧鹿西町)金丸 |
金丸宮地地区にあるはずの古墳を探す。
今まで、3〜4回探したが見つからない!
近くに住む男性が、子供の時石組を見たと言って、一緒に探してくれたが、その石組みが見あたらない!
町内会長をしているという男性(昭和25年生まれ)にも応対していただいたが、
存在自体、年寄りからも聞いたことはないという…。
唯一見つけた石材
詳細不明です……
金丸鳥屋塚古墳(金丸宮地1号墳) | 旧鹿西町史跡 |
宿那彦神像石神社の東側、旧金丸小学校裏につくられた円墳 径8m・高さ2mの円墳、両袖式の横穴式石室がある。 石室の内部は、盗掘などによりかなり荒らされているが、 石室の基底部及び、玄門間仕切石がほとんど完全な形で遺存している。 石室の規模は、玄室の奥行2.8m、奥壁幅1.3m、玄門後幅0.9m 羨道の長さ0.98m・幅0.6m 出土品がないので、築造時期は確証を欠くが 古墳時代後期(6世紀末〜7世紀前半)の築造と推定されている。 現状は庭園・竹薮だという。 昭和34年、金丸村史編纂の際に発掘調査された。 (鹿西町史から) |
古墳群のすぐ西には、式内社 「宿那彦神像石神社」がある。
3月のおいで祭りでは、気多神社の神輿が本社の拝殿で一泊するというが、今年は中止となった。
宿那彦神像石神社 (スクナヒコガミ カタイシジンジャ) | |
「由緒」の石碑 祭神は、少彦名命 建御名方神 中筒男命 大名持命 由緒として 「神代の昔、祭神の少彦名命は大名持命と ともに、能登国を巡行、 多気倉長命と力を あわせて国土の平定開発に神功をたて 遂に その霊を神石に留めて、金丸宮地の地に鎮 まり給うた。 崇神天皇の朝、この神石を当社 に奉安した。」 と伝えられている。 平国祭(おいで祭り)は3月20日夕刻に、気多神社 の神輿が本社の拝殿で一泊、 翌朝本社の祭神 が右神輿に遷座せられ七尾市所口に神幸、 23日午前に右神輿が本社に還御あって 祭典を奉仕する。 勅使祭(例祭)は 貞観二年六月九日(現在は七月九日)に官社 に列したのを記念して行う。 一に「麦まつり」 ともいう。 (由緒より抜粋) |
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宿那彦神像石神社 鳥居 |
宿那彦神像石神社 境内 |
能登部姫塚古墳群につづく
中能登町南西部の古墳配置図 (いしかわ文化財ナビを参考に作成) |
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中能登町北東部の古墳(いしかわ文化財ナビを参考に作成) |
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