北村さんちの遺跡めぐり
更新日
2011/9/30
千浦二子塚古墳群 現説
チノウラフタゴヅカコフン
   
2011/8/21

8月20日の午後4時ごろのカーラジオで、
「千ノ浦二子塚古墳の現地説明会が明日にある」というニュースを半分聞き、さあ大変!
帰宅してから、志賀町の旧富来町に千ノ浦二子塚という古墳があることを思い出し、インターネットで調べるけれど、わからない。

志賀町(・七尾市)の地図g

唯一ヒットしたのは、富山新聞の2011/2/26の石川のニュース

千ノ浦の遺跡に光を 志賀の住民が保存活動

志賀町西海千ノ浦地区の住民が25日までに、同地区内にある7世紀ごろの二子塚古墳を自主的に整備し、子や孫に郷土の歴史を目に見える形で伝える活動に乗り出した。有志10人が古墳の周囲の草や木を取り除き、今後は小道などを整え、ほかの遺跡も含めて地域の宝に再び光を当てる。

 千ノ浦の海岸には古墳やたたら(製鉄)の跡が多数存在し、古代に信仰の対象だったとされる岩も多い。中でも円墳が二つ並ぶ二子塚古墳は、1953(昭和28)年の九学会連合能登学術調査で7世紀ごろの豪族の墓と見なされている。

 金森美津雄区長によると、昭和30年代後半から清掃が行き届かず草木が生い茂り、今では遺跡の存在を知らない人が増えた。そのため住民から忘れ去られてしまう前に整備することにした。

 作業では、直径約15メートル、高さ約1・5メートルの二つの円墳を覆っていたササやタブノキがきれいに刈り取られた。今後は、県道からの小道を作ったり、石室の中にたい積した土を掘り出すことも予定している。

 金森区長は「子どものころ中で遊んだ住民もおり、思い出深い地域の宝だ。後世に残していくことがわたしたちの務め」と話し、町にも整備を働き掛けたいとしている。

行く予定にして翌朝を待つ。
8月21日現説当日。新聞に記事が載った!やはり旧富来町の千ノ浦二子塚。
二子塚2号墳が双室墳とわかったという。
現説の開始は、午後1時半。
かなり遠いので、午前9時半に出発。
11時、志賀町の道の駅「ころ柿の里しか」で、トイレ休憩。「アクアバーク・シオン」という温泉施設があり駐車場はいっぱいだ。
12時、道の駅「とぎ海街道」でも休憩。この先は食事をする所がないので、近くの「8番ラーメン」で昼食。
増穂ヶ浦を過ぎ、西海漁港を過ぎ、千ノ浦集落を過ぎて・・・・・
千ノ浦集落から500m以上北上・・・・
自動車がずらーと止まっている所に現説の看板を発見。

志賀町の地図
  (ヤフー地図情報で「千ノ浦遺跡」となっているところが、千浦二子塚古墳の位置)

千浦二子塚古墳群

志賀町西海千浦
(撮影日 2011/8/21)



千浦二子塚古墳群入口
ここから案内板に従って5分ほど行くと
C支群のC1号墳に着く。
古墳に至る道の雑木雑草の整理は大変だっただろう。
地元の方や発掘にかかわった方に頭が下がります。
50人ほどの参加者がいる。
ほとんどは地元の方と発掘関係者のようだ。




千浦二子塚古墳配置図
        (現説資料から)

千浦二子塚古墳といわれていたのは、
C1号墳・C2号墳 (千浦二子塚1号墳・2号墳
)

昭和28年に発掘調査が行われたが、
次第に樹木に覆われてしまった。

昨年、千浦地区の方々のご尽力で、樹木が伐採され、発掘調査された。



 A1  円墳  径7m・高さ0.5m    墳丘半壊
 A2  円墳  径9m・高さ0.8m   北側周溝 
 B1  円墳  径6m   石材露呈 
 B2  円墳  径7m  横穴式石室 石材散乱 
 B3  円墳  径12m  横穴式石室  石材散乱
 B4  円墳  径12m  横穴式石室  石材散乱
 B5  円墳  径10m  横穴式石室  石材散乱
 C1  円墳  径16m・高さ2.5m  横穴式石室  旧千浦二子塚1号墳
 C2  楕円墳  南北16m東西13m・高さ2.5m  横穴式石室  旧千浦二子塚2号墳
 C3  円墳  径9m  横穴式石室  
D2  方墳  一辺6m    積石塚状
D1  円墳  径8m  横穴式石室  石材散乱

今回はC支群とD2号墳を中心とした発掘調査のようだ。

 C支群
千浦二子塚古墳群

千浦二子塚古墳C支群実測図



周溝の重なり方から
C1号墳の後にC2号墳が造られたと推定されている。
築造時期は7世紀前期〜中期

1号墳と2号墳の石室は西側(海側)に向いているが、3号墳は南側に向いている。






 C1号墳(旧千浦二子塚1号墳)
千浦二子塚古墳群


C1号墳  北側から

墳頂に石材が見える。
径16m・高さ2.5mの円墳

以前の調査で刀やガラス玉が出土している。


C1号墳 南から



今回の調査で「立柱石」の袖構造が確認されたという説明があった。
(北部九州の様式だそうだ)



C1号墳 石室

天井石が落ち込んでいる。



C1号墳石室の奥壁

上の大きな石は天井石

奥壁には、丸い石がきれいに積まれている。

 C2号墳(旧千浦二子塚2号墳)
千浦二子塚古墳群

C2号墳は「双室墳」と確認された。
全国では24例目、 県内では七尾市の須曽蝦夷穴古墳に次いで二例目。

C2号墳  西側から

左北石室
右 南石室


南北16m東西13m・高さ2.5mの楕円墳



C2号墳 北石室の天井石
きれいに並んでいる
右が奥壁側


奥の古墳はC1号墳



C2号墳 北石室

入口付近が発掘されている。


石が散乱している。






C2号墳 南石室

C1号墳とよく似た石が積まれている。


石泥棒などもいたそうで
石は元の位置から動いている可能性が高いという。
2つの石室とも入口部分の発掘しか出来なかったそうだ。

 C3号墳
千浦二子塚古墳群



C3号墳  南から

その奥に C2号墳
その奥にC1号墳

蚊が多く、長袖長ズボン。



C3号墳石室  東から

石室の奥壁部分が発掘されている。
白いひもで示されているのが石室の大きさで、
石室の幅は50cmぐらいしかない。
奥壁には一枚石が使われている。
側壁は切石がきれいに積まれているが、
西側(手前)の側壁は崩れている。
大きな石の上にある丸いものは蚊取り線香
石室の向きや石積みの違いから、
C3号墳は、C1・C2号墳から だいぶ後につくられたと推定されている。

D2号墳
千浦二子塚古墳群





D2号墳測量図






D2号墳  東から

一辺6mの方墳状

墳丘には、積石塚のように石が並ぶ






D2号墳

白いひものところを発掘したが、石室は確認されなかった。




古墳という確証も得られなかった。

なぞの石組み遺構
千浦遺跡

D2号墳の海側に1m四方くらいの石組みがある。


すぐ向こうは海

左(南)の方には灯台がある






石組み遺構内部

火をたいた跡があるが、継続的なものではない。
祭祀に関係したものか?




A支群
千浦二子塚古墳群

C支群の北150mほどのところにある。

A支群測量図

他の支群より古墳の大きさがひとまわり小さく、
   横穴式石室を作ったと思われる石材も見当たらない。
墳丘中央には、盗掘によるくぼみが見られる。


測量調査によって、A支群は
鹿頭神明森古墳のように、石棺を内部主体とする古墳と考えられ、5世紀の築造と推定されるそうだ。

鹿頭神明森古墳とは、
千浦の北約2kmにある古墳で、箱形石棺を内部主体とするようで、
1号墳から人骨と共にガラス玉・細身耳環・刀・刀子・長頸式鉄鏃・鉄斧を副葬していて、
5世紀後半の築造と推定されている。
     (参考:石川考古学研究会誌44号)

A1号墳

径7m・高さ0.5mの円墳






A2号墳
径9m・高さ0.8mの円墳



B支群
千浦二子塚古墳群

今回はB支群についての説明はなかった。

B4号墳

径12mの円墳





B4号墳の墳丘には石材が散乱している。





B3号墳
右奥はB4号墳






手前B2号墳、
右奥B5号墳、
左奥B3号墳







午後3時10分、蚊が多くて、現説が終わるとすぐに、帰り支度。

帰り道、羽咋市の滝大塚の写真を写す。

滝大塚古墳  北側から

古墳らしく見えるが、
実はほんの一部しか残っていない。

本来は全長90mの帆立貝式古墳


滝大塚古墳  北側の墳裾

丸い!


詳しくは滝古墳群のページをご覧ください

能登へ行ったときはいつもお世話になる高松(かほく市)のアイショッピングセンターで、休憩

帰宅は午後5時半。

おわり

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