更新日2002/11/9
羽咋から中島・能登島へ
2002年10月13日、秋晴れの下、古墳めぐりに出かける。
10月半ばとはいえ、汗ばむほどの陽気の中、中島町の上町マンダラ遺跡を目ざして出発。まず、羽咋市内へ。
羽咋七塚
はくいななつか |
羽咋市市街地 |
羽咋市街には7個の古墳があるという。
十一代垂仁天皇の皇子の石衝別命(いわつくわけのみこと・羽咋神社の御祭神)に関連した古墳ばかりだ。
今回、5個が見つかった。
羽咋駅前に2個。羽咋神社の周りに3個。羽咋という名前の由来となった古墳もある。
「羽咋」の由来・・・石衝別命は、怪鳥が田畑を荒らして住民が困っていると聞かれ、弓矢を手取りこの怪鳥を射落とされた。 |
剣塚 石衝別命の屋敷があったところで、剣をうめたところといわれている。 元は八幡神社があったが、駅の拡張工事で消滅。 |
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姫塚 羽咋駅前 |
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水犬塚 羽咋神社後ろ本念寺隣り |
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大谷塚 羽咋神社内 |
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大塚(御陵山) 羽咋神社内 |
宝塚(場所不明) | 本念寺裏門から北東40mの稲荷山にある。 現在、12m×8mの方墳状。 |
痛子塚(場所不明) | 石衝別命の妃の三足比当ス(みたらしひめのみこと)が病気になったとき、悲しみのあまり泣き死んだ子どもの墓といわれている。 場所はどこなのだろう? |
羽咋市内から富来の方へ北へ行くと気多大社がある。その次の集落の滝町の海岸沿いにある。
国道から海側を見ると小さな小山が幾つか見える。それが古墳らしい。
滝大塚古墳 |
羽咋市滝町 |
滝大塚古墳の葺石
(撮影日2002/10/13)
葺石を撮った写真だけど
よくわからないかも。
滝大塚古墳は径70mの墳丘に、約20mの周溝を持った県内有数の大円墳。
近年では日本海側最大の帆立貝式古墳と認識されている。
竪穴式石室を持つ。
5世紀前半の築造と推定されている。
墳丘部は消滅し、現在はほんの一部が雑木林となっている。
滝町の国道の海岸側にある小山。
林の裾には葺石がいっぱい転がっている。
円筒埴輪・朝顔形埴輪、須恵器、勾玉が出土した。
滝町の北、柴垣海岸には、標高20mくらいの海岸段丘が迫っていて
その丘陵上の先端部分に古墳が造られている。
柴垣観音山古墳 (柴垣古墳群) 県指定史跡 |
羽咋市柴垣 |
墳頂に観音堂がある。
観音山古墳
径43m、高さ4.5mの円墳。葺石がある。
幅3m・深さ0.5mの周溝がある。
古墳の上と二段目の平らな面には円筒埴輪と朝顔形埴輪がめぐっていた。
今は墳丘に観音堂が建っているだけ。
主体部は未調査。
古墳時代後期(6世紀初め)の築造と推定されている。
柴垣円山1号墳 (柴垣古墳群) 県指定史跡 |
羽咋市柴垣 |
本成寺境内の墓場の中にある。
1970年発掘調査。
柴垣円山1号墳全景
径21.5m高さ2.5mの円墳。
墳頂部平坦面は径13m
表面にはこぶし大の葺石がある。
幅0.285m・深さ0.3mの浅い周溝がある。
板石を使用した箱形石棺が見られる。
円山1号墳の石棺
長方形の箱型石棺がある。
安山岩の板石を使用。
長さ344cm・幅41〜66cm・高さ30〜34cmの
中仕切りを持つ組合式箱形石棺である。
石棺の中は赤色の顔料が塗られ
40歳代の男性の遺体(身長158.1p)が安置され、
刀、甲が納められていた。
古墳時代中期(5世紀中頃)の築造と推定されている。
柴垣親王塚古墳 (柴垣古墳群) 県指定史跡 |
羽咋市柴垣 撮影日 2002/10/13 |
椎葉円比(しいばつぶらひめ)神社の社殿の下に古墳が・・・
円比(しいばつぶらひめ)神社
全長35mの前方後円墳。
後円部径20m・高さ3.5m
前方部長さ17m・幅15.5m・高さ3.5m。
人の頭ほどの葺石がある。
親王塚古墳の葺石
葺石らしき石がごろごろ。
後円部には、
くびれ部付近に羨道を開く長さ7mの横穴式石室が
大きな石を使って造られていた。(未測定)
甕や壷の破片が出土。
古墳時代後期(6世紀中頃)の築造と推定されている。
柴垣からさらに北、志賀町の丸山古墳を探す。
ここも以前来たことがある。
このあたりじゃないかと周りを見回していたら、家1軒くらいの土のかたまりが向こうの道に見えた。「あ、あれだ!」
丸山古墳 |
志賀町倉垣
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元は山の先端だったのだが、開墾や道路造成のために分断され、石室だけが保存された。
元は円墳?それとも前方後円墳?
丸山古墳全景 6世紀末から7世紀初頭の築造 鉄製品、ガラス小玉35個 須恵器などが出土 |
丸山古墳石室 |
丸山古墳石室入口から見る |
丸山古墳の石室を上から見下ろす 自然石を利用した横穴式石室。 石室の大きさは 全長5.7m・高さ1.2m・奥壁幅3.3m・羨道部幅2.3m 退化した石室と短い羨道部がある。 |
石室を墳丘の中央にもってくると、長さ30mを越す大型墳とも考えられる。
中島町の熊木川を少しさかのぼると上町と言う交差点がある。高台に熊木小学校の建物が見える。
その横にあるのが上町マンダラ遺跡である。
上町マンダラ遺跡 かんまちまんだらいせき |
七尾市中島町上町 |
古墳の形もわからず、ただの空き地としか見えないので、写真は撮らなかった。
説明板もはげてしまって読むのが難しい。
はげた説明板 |
能登島に渡る。
須曽蝦夷穴古墳 すそえぞあなこふん |
七尾市能登島町須曾 撮影日 2002/10/13 |
この古墳を訪れるのは3回目だ。
初めてきたときは、須曽の集落の狭い林道を途中まで車でのぼり、
急ごしらえの急な階段を息を切らせて登ったところにあった。
そのときは発掘中だった。
今は観光バスが入れる立派な道路が開通し、資料館もある。
能登島では水族館・ガラス館と並ぶ観光名所となっている。
発掘調査時、測量図 (説明板から)
1基だけが孤立的に築かれている須曽蝦夷穴古墳は、
東西18.7m南北17.1mの方墳
正面の墳裾に低い石積みをめぐらした典型的な終末期古墳の様式をもつ。
2基(1対)の横穴式石室は、
付近の海岸から運んだ安山岩板石でつくられ、
横幅の広い玄室やドーム型に持ち送る天井など、
朝鮮半島に通じる特色をもつ。
7世紀前半の築造と推定されている。
発掘当時の状況 (パンフレットより)
:玄室の長さ約5m幅約1m、玄室の高さは2m以上
(板石小口積み 隅三角持ち送り天井)
右側が雄穴・・・玄室はT字形、ドーム型天井
左側が雌穴・・・玄室は逆L字形、棺台あり
須曽蝦夷穴古墳全景 |
須曽蝦夷穴古墳の石室 |
雌穴(メアナ)石室 雄穴石室と同時に築造された。 雄穴より規模が一回り小さく、平面逆L字形。 玄室床面には、 一段高い棺台状の区画が造られている。 銀象嵌装飾の刀装具を持つ太刀や、 朝鮮半島で例の多い特殊な鉄斧などが 副葬品が出土した。 |
雄穴(オアナ)石室 主を葬ったと推測される。 平面T字形に設計され、 巧みに積み上げたドーム型天井の玄室を持つ 刀装具・刀子等の副葬品や 木棺の釘、須恵器などが出土。 |
古墳の造りかたは、朝鮮半島・高句麗の古墳と似ている点が多く、日本と朝鮮半島を結ぶ手がかりとして歴史的意義が高い。
蝦夷穴古墳が作られた頃、七尾付近には鹿島津と呼ばれる港が営まれ北方に向かう海上交通の拠点として栄えていた。
蝦夷穴歴史センター |
七尾市能登島町須曽タ部21-5 |
蝦夷穴古墳の整備の一環として作られた展示館。
蝦夷穴古墳から出土した遺物を展示し、発掘調査の様子を写真図解などで紹介している。
他に、昭和初期の漁具や、漁村風景パネル、伝馬船の復元展示などがある。
帰り道、宇ノ気町(かほく市)による。
加賀の遺跡 宇気塚越古墳群のページ
その後 帰宅