北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2021/12/7
旧松波城庭園跡 現地説明会 国指定名勝 |
鳳珠郡能登町松波 2021/9/25 |
2021/9/23の北陸中日新聞に旧松波城の庭園跡の発掘現場説明会があるという記事が掲載された。
「15世紀前半 能登最古の武家庭園」 礫敷き道の遺構 全国でも珍しく |
能登町 旧松波城で発掘調査 能登町松波の旧松波城にある庭園跡は、 能登地域の武家庭園としては最も古い十五世紀前半に存在した庭園で、 敷地の門近くから建物入り口につながる礫を敷いた道の遺構は、 他にほとんど例がない珍しい遺構とみられることが、 町教委の五年にわたる発掘調査で分かった。 町教委の新出直典係長は 「庭園跡の調査例は少なく、 十五世紀前半の遺構がそのままの状態で保存されていたのは大変貴重」 と意義を語る。 今後、遺跡は保存のため埋め戻し、町教委は調査報告書の作成に取り掛かる。 二十五日に、全容が見られる最後の機会となる現地報告会が予定されている。 午前十時、午後一時の二回開き、一時間ほどの解説が現地で聞ける。 (北陸中日新聞から抜粋) |
松波駅舎跡から、裏山へ、徒歩5分くらいで庭園跡に着く。
現説資料から |
松波城跡は能登半島先端部の近く、 富山湾にそそぐ松波川左岸の標高24〜28mの丘陵部を利用して築城されている。 中世能登国若山荘の有力武士で、 能登守護畠山氏の一族でもあった松波氏の居城であったといわれ、 天正5年(1577)の上杉謙信による能登侵攻にともなって落城したとされる。 丘陵の東南部に位置する旧松波城庭園は、昭和37年(1962)の公園整備により発見され、 昭和55年度(1980)と平成18〜22年度に発掘調査が行われた。 その結果、室町後期から戦国期(15〜16世紀)にかけて造営された枯山水庭園で、 当地の庭園文化を示すものとして高い評価を受け、平成24年に国指定名勝となった。 能登町教育委員会では、 平成28年度から名勝庭園の保存・活用を図るため、発掘調査を実施した。 松波城曲輪6復元案 (現説資料から) 庭園は、 敷地造成された650uの平坦地に 園池遺構と礎石建物が まとまりをもって配置され、 敷地の裾部には溝をめぐらせている。 庭園が作られた時代は15世紀前半と判明した。 建物は、敷地内で客人をもてなすための施設 長い歴史のある庭も、現存するものは初めの形からだいぶ変わっているが、 ここは比較的短期間で火災で焼失したため、昔のものがそのまま残されている。 園池遺構と礎石建物 (上の資料の一部拡大) 今回の発掘調査では、 礎石建物を中心として 園池や建物のほか、 門、塀、溝などが検出され、 その全容が明らかになった。 公家の護衛などのために京都に行く機会があった松波氏が、 現地の庭園文化を能登に持ち込んだ最初期の遺構とみられている。 |
園池遺構は、枯山水遺構、池状の落ち込みで構成される。 枯山水遺構は、3〜6cmの扁平な円礫(玄武岩、現存で3283個)で 流水を表現したもので、景石を要所に配置している。 |
礎石建物は、東西8.1m、南北8.7mの建物(建物1)に 東西5.4m、南北3.3mの付属建物(建物2)が付き、東西3.6m×南北2.7mの廊下で結ばれている。 柱間間隔から、建物建物1は大きく母屋(東西7.2m、南北5.7m)と 広縁(東西7.2m、南北2.4m)に分かれ、母屋には炉跡が2基検出されている。 母屋と広縁の外側には縁(60〜90cm)がめぐる。 この建物は、客人などをもてなす会所的な施設であったと考えられている。 建物1からは園池を南西方向に、城下を正面にみることができる。 また、正面下には、松波氏の居館があったとの伝承がある。 |
建物1と建物2の間には、礫敷遺構(長さ9.0m、幅1.8〜2.0m)が検出された。 礫敷遺構は、礫を帯状に敷き詰めたもので、建物の出入口を示す道と考えられる。 他地域の事例もほとんどないうえに遺存状況も良く、大変貴重。 なお調査区東側で東西2.1m、南北3.6mの礎石建物(建物3)が検出されたが、 建物1・2より古い様相を示している |
門と塀は、調査区の南東で検出された。 門は、本柱の間隔が2.1mで控柱がつく、薬医門となる。 塀はL字状に配置され、門と一体となっている。 |
現説の様子 | |||||
旧松波駅前の現説受付 |
13時からの部の参加者 (10時からの部もあった) |
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発掘現場 「松波城大手門址」という石碑がある。 現説はまず、 生まれも育ちも能登町だという 女性教育長の挨拶から始まった。 |
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園池遺構 枯山水遺構、池状の落ち込みで構成される。 昭和37年の公園整備中に京風文化の漂う枯山水庭園の遺構が発見された。 昭和55年には、再発掘調査が行われ、非常に珍しい枯山水の意匠であることが分かった。 平らな小石を敷き詰め、流れに洗われた岩や浅瀬のように大小の石を置いて、 水の流れを再現した遺跡 3〜6cmの扁平な円礫(玄武岩)が、現存で3283個使われている。
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礎石建物 以前の発掘で、土師器や珠洲焼、越前焼が見つかっている。 敷地内で客人をもてなすための施設だった建物ではないかと考えられている。
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礫敷遺構 門近くから建物の入り口につながる礫を帯状に敷き詰めた道の遺構は、 似た遺構の例がほとんどなく、 保存状態も良いため、当時の庭園文化を解明する手掛かりになる貴重なものだという。
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「松波城址」の石碑 発掘現場から東、 元のと鉄道線路があった堀切のむこうの 「景勝台」といわれるところにある |
今回の現説の集合場所の「旧松波駅舎」は現在「松波城址情報館」となっている。
旧松波駅舎 「松波城址情報館」
実は、まんぼうのため、閉館中だったが、
現説の受付があったせいか
たまたま職員の方がいらしていたので、
見学させてもらった
ちなみに、現説受付は、外だった。
現説資料には、松波城の築城の時期ははっきり書かれていなかったが、
この情報館の資料には、築城の詳細の資料がある。
松波城址情報館の資料から | |
文明6年(1474年)、能登畠山氏3代目当主畠山義統(ヨシムネ)の命により築城され、 3男とされる畠山義智(ヨシトモ)が初代城主として入城した。 これが松波畠山氏の始まりであるといわれている。 以後、義智は名古屋から多数の刀工を招いたのを始めとして各種の産業を興したため、商工が発達した。 さらに当時は物資の輸送はほとんど海上交通に頼る時代だったので、 松波の街は港町としておおいに栄えたと記録されている。 6代にわたり、松波畠山氏の居城として奥能登一帯を統治することとなる。 天正5年(1577年)、七尾城陥落後に上杉謙信家臣長沢光国に攻略され、 6代目当主松波義親が自害し落城した。 松波城は、104年間で城としての役割を終えた。 |
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松波畠山氏歴代当主 |
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松波城跡周辺立体地理模型 |
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松波城は、明治初期まで礎石が多数存在していたが、その後民間に払い下げられ荒廃した。 昭和36年国鉄能登線が城址のそばに設置されたことに伴い、城址公園として整備された。 建造物や石垣などは残っていないが、 城址近くの萬福寺の山門は 松波城が落城した時に焼失を逃れた裏門搦手門を移築したものであると伝えられている。 城址全体図とトレッキングコース (情報館資料から) 萬福寺の山門 (情報館資料から) 見学するのを忘れた…。 |
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平成22年度の松波城跡庭園跡発掘調査の現説資料も展示されている。 今回はこの22年度の発掘をもとにさらに深く調査されたようだ。 |
現説が終わった二日後、北陸中日新聞に、現説の様子の記事が掲載された。
「情景浮かぶ 現地解説」 「松波城庭園跡 発掘説明会」 現説の様子 (北陸中日新聞から) 実は「私」が写っています… |
600年も前の、松波に来た客人が、枯山水庭園を見ながらお茶を嗜む姿が目に浮かぶ…