北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2022/9/13
穴水町 周辺の地図g
「沖波十三塚」 穴水の弥勒菩薩信仰史跡 町指定史跡 |
鳳珠郡穴水町沖波 撮影日2022/7/27 |
北陸中日新聞に能登の穴水町「沖波十三塚」の記事が掲載された。
2022年1月26日付 の北陸中日新聞から(抜粋) 埋もれる「沖波十三塚」 穴水の弥勒菩薩信仰史跡 整備されず荒れ放題「せめて案内板を 石川県穴水町沖波にある室町時代の町史跡「沖波十三塚」が、 十分な整備がされず草木が生い茂り荒れ放題となっている。 鎌倉時代末期から室町時代初めごろ、戦で荒れ果てた世情を踏まえ、人々を救済するという弥勒菩薩の出現を期待して建てられたと考えられている。 当時の信仰文化を伝える資料は埋もれつつあり、対応を求める声が上がっている。 |
2022年2月20日付 の北陸中日新聞から 「沖波十三塚」 悲願の再生 穴水町史跡 住民が草木刈り整備 町教委、案内板設置へ 十分に整備されず草木が生い茂っていた穴水町沖波の町史跡「沖波十三塚」は、1963年から町史跡に指定されているが、案内板や歩道は整備されておらず、現存する塚十一基は草木で覆われていた。 今月上旬、以前から塚を保護する必要性を訴えていた町ボランティア連絡協議会長の滝井元之さんに町教委から依頼があり、地元区長の浜野栄治さん(72)らと協力して整備活動を行うことになった。 この日は、塚を覆う雑木をチェーンソーで切ったり、草を鎌で刈ったりした。二時間ほどかけて、塚は周りから見えるようになった。来訪者が車道から塚の近くまで行ける歩道も雑木を切って整備を進めた。今後、町教委は歩道の入り口付近に案内看板を設置する予定だという。 滝井さんは「最初見つけたときにはひどい状態だったのが、史跡としてよみがえった。皆さんに見てもらえるのがうれしい」と笑顔。浜野さんは「これから地域の人にも見てもらったり、関心を持ってもらったりしてほしい。御利益があればいい」と話していた。 |
2022年3月22日付 の北陸中日新聞から(抜粋) 「沖波十三塚」新たな一歩 穴水の町史跡整備 住民ら奮闘 穴水町沖波の町史跡「沖波十三塚」に、看板が設置 周囲は草木に覆われ荒れ放題だったが、地域住民やボランティアらが整備を進めてきた。 同地区の浜野栄治区長は「地域の名所にしていければ」と願った。 |
塚は沖波地区の共有地にある。
2022/3/18に設置された説明板 看板は縦80cm・横180cmで十三塚の由来や歴史的な価値などが説明されている。 高さ1.5mの石柱が立つ中央の塚近くに、町教委により設置された。 |
沖波十三塚は 沖波集落の北方300mの台地にある。 直径約6m、高さ1.5mの塚を中心に13の塚が東南約140mの間に並んでいる。 この十三塚は十三仏を象徴するもので、それぞれ13体の仏像が納められたものといわれ、 その由来は、弥勒信仰の思想から戦乱の無情をなげく者たちが、 衆生を化導するという弥勒さまの出現を期待して塚に仏像を埋めたり、 経文を一字ずつ書いた石を納めたという事にある。 昭和29年9月、東京国立博物館学芸員部長石田茂作博士の調査では、 仏像も経筒も発見されなかったが、 この地方の弥勒信仰を示す室町時代の重要な遺跡と判明し 全国でも珍しいものとされている。 (衆生を化導する・・・シュジョウをケドウする と読む 生きるものすべてを教え導き、 また、道徳的、思想的な影響を与えて望ましい方向に進ませる。) 沖波十三塚配置図 (説明板から) 右上から左下へ 仮に @からKの番号をつける 位置は示されているがKも消滅 もう1基は、道路で消滅。 現存11基。 |
建立当時は、仏教の世界で「末法の時代」とされ、 続く「滅法の時代」に弥勒菩薩が現れ、民衆を救うという信仰が広まった。 諸橋村史などによると、十三塚はこの信仰を反映し、 仏像を埋めたり、字を刻んだりして作られたとみられている。 村史は「十三塚は全国各地の伝説の中に見られるが形として残っているのは稀」 と紹介している。 (北陸中日新聞記事から引用) |
道路の東側に3基の塚がある。
目印の石は見あたらない。
道路から東の、@ABのある林を見る |
(仮)@の塚 |
(仮)Aの塚 |
(仮)Bの塚 |
道路の西側には、9基の塚があるが、一番南にある塚Kは消滅しているらしい。
道路から西側の、C〜Kのある林を見る 説明板が見える。 |
(仮)Cの塚 目印の石がある。 |
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(仮)Dの塚 高さ1.5mの石塔が立つ、中心的な塚
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(仮)Eの塚 小さな石柱がある。 |
(仮)Fの塚 石が見える |
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(仮)Gの塚 |
(仮)Hの塚 石がある。 |
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(仮)Iの塚 |
(仮)Jの塚 |
今後の整備保存活動に期待しています。