北村さんちの遺跡めぐり

中能登町 地図g     

曽祢古墳群

中能登町小金森
 (撮影日2020/6/9)

高畠経塚古墳の西、小金森集落の山手の曽禰地区に曽禰古墳群がある。
曽祢古墳群は3基以上あったが現在墳丘が確認できるものはない。
消滅した曽祢1号墳では、県内では3つしか見つかっていない双竜式環頭太刀柄頭が出土した。
鹿島町史に記述がある。

説明板の東の畑で作業中の男性に話を聞くことができた。
その方は曽祢古墳群1号墳の家主の親戚にあたる方で、
  考古にも詳しく、地元の考古学関係のサークルにも参加しているという。
その方の話も含めて記述する。

 曽祢古墳群は羽咋市との境界に近い小金森集落の山手の曽祢地区にある。
 地形的には石動山系断層崖下地獄谷川の扇央部緩傾斜面にあたり、
  現在は畑、竹林が広がっている。
 少なくとも3基以上からなる古墳群

曽祢古墳群配置図
大きさ
1号墳  (消滅)
2号墳  円墳
径10m・高さ1.5m
3号墳  円墳
径10m・高さ1m
(仮4号墳) 

説明板
溜池の東側の竹林に
道路の方を向いて立つ。

見逃してしまいそうだ




 内容
 「1号墳は明治41年に家屋の建築時に発見されたもので、
  環頭太刀1・耳環1・鉄斧1・須恵器6が出土している。
  円墳・横穴式石室の古墳時代末期の古墳である。
  出土品は現在東京国立博物館で収蔵されている。
  周辺には2号墳・3号墳もあるが、いずれも変形が著しい。
  小田中の亀塚古墳・親王塚古墳の末孫の墳墓とも考えられている。
   中能登町教育委員会 」
 曽祢1号墳 環頭太刀を出土したことで著名な古墳
 大正11年刊の上田三平氏の報文「石川県史蹟名勝調査報告」で紹介されている
 明治41年に山下家家屋建築のため宅地を拡張する際に、
 現在の家屋の後ろの部分に石室を発見し、
  多数の石材を出して、その石材は記念碑等に利用された。

 
石室内部には直刀破片、土器多数が発見された。
 石室内部の土砂は取り除き後ろの竹やぶに積み上げた。
 明治42年この土砂の中から環頭太刀が発見され、東京博物館に所蔵されている。
 横穴式石室がある古墳であったと推定されているが、墳丘の規模・内部構造は不明
 出土した須恵器は新旧2型式のものを含んでいて、
 7世紀前葉につくられて、7世紀中葉ころに追葬が行われたと考えられて、
 環頭太刀は追葬の際の副葬品であると考えられる
 7世紀前葉から中葉にかけての築造と推定されている。


出土した環頭太刀の図

「双竜式環頭柄頭」に属するもの
環中に相対する二頭の竜が玉をはんでいる
図体の形式化が進んだもので、
平板の透かし彫りにより図柄を描き出している。

  (鹿島町史から)

1号墳跡地?

右側が石室内部の土砂を積み上げたあたりか

左の建物の下に石室が埋まっているのか?
 曽祢2号墳 1号墳の西30m
  径10m・高さ1.5mの円墳
 墳丘の変形が著しく墳丘上に石室の石材と推定される石礫が散在
 明治年間に盗掘されたといわれている

墳丘はもう無くなっている。


中央右側
現在車庫になっているあたりに2号墳があった。
 曽祢3号墳 
  径10m・高さ1mの円墳 

ため池の土手になってしまった3号墳
ため池は、古代寺院の跡だそうだ。

鹿島町史に掲載された3号墳
背景の家の感じが、左の写真と同じかも
 (曽祢仮4号墳)
 古墳のような高まりがあって、 道路を改修するときに調査されたが、
  石が数個出土しただけで、ほかには何も出土しなかったので
 古墳だとは確認されていない。


元、古墳のような高まりがあったあたり。

明治時代に出土した石室石材は、記念碑となり、現在も見ることができる。
古墳群があった辺りから北約800mの墓地にある。

 戦没者慰霊碑
 曽祢古墳群1号墳の横穴式石室の石材が使われている。
 寄贈 山下金太郎と刻まれている
 山下金太郎さんは、1号墳発掘当時の家主の名前だ。

正面から見る

裏側から見る
「山下金太郎」の文字が確認できる。
もう一つ大きな碑があるがこれは違うのだろうな


「立嵐」 と刻まれている碑

               

高畠経塚古墳

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