北村さんちの遺跡めぐり
中能登町 地図g
高畠経塚古墳 |
中能登町高畠 |
古墳自体は消滅しているが、
石室の石材の一部と考えられるものが、古墳の跡地と、それに隣接する徳照寺庭園に残されている。
2006年にも、行ったが、徳照寺の石材は分からなかった。
高畠経塚古墳は 高畠集落の東部、徳照寺の南の民家にあった。 地形的には曽祢古墳群同様、地獄谷川の扇状地頂部の緩傾斜面に立地するが、 宅地化が進んでいるので、旧地形が分からくなっている。 古墳は、古くから経塚と伝えられていて、 「能登志徴」という書物に、乱世のころに経巻を納めたという記述がある。 古墳は、大正11年に道路改良工事の際に、石室が発見されて発掘調査された。 石室も玄室の一部がかろうじて残存しているにすぎなかった。 西南に開口する横穴式石室がある径3.5mの小円墳だが、 この時点ですでに一度発掘されていて、封土の大半がすでに失われていて、 玄室は推定で、内法幅150cm・高さ150cmと考えられていて、 墳丘も元は径15〜20m高さ3mほどと推定されている。 玄室の奥壁付近から 土器、銅碗、直刀破片、圭頭太刀などが出土した。 圭頭太刀は、1点が金銅製の圭頭(長さ7.4cm)を完存していて、 他の1点が透かし彫りを施した圭頭(残欠)とされ、 刀身残欠には、銀線を巻いた柄や銅地に銀装を施した鍔元の金具なども含まれている。 柄に装着されている鍔は、いわゆる「八窓倒卵形鍔」と呼ばれるもので、 鍍金された豪華なものである。 他の小型の鍔も金銅製である。 銅碗は仏具の一種であるが、 古墳時代後期から古墳副葬品として日本にもたらされた特有の遺物である。 主に北九州や東国地域の盟主的な古墳からの出土例が多く知られるが、 北陸地方では唯一の例である。 出土した須恵器から、6世紀末から7世紀初頭の築造と推定されている。 鹿島町史(昭和58年発行)から |
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古墳の跡地にある石材 民家の庭石になっている。 長さ180cm・幅90cm・厚さ50cm 奥壁などの壁材か 説明板がある。 |
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徳照寺庭園に残る石材 徳照寺の本堂後ろの庭にある。 長さ200cm・幅140cm・厚さ80cmで石室天井石と考えられている。
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2008年の訪問記 |
墳丘はなくなっているが石室の石材が残っているというので行ってみる。
御祖小の道を挟んで西に徳照寺がある。
徳照寺
庭に石室石材が庭石として残っているというが
わからなかった。
高畠経塚の案内板と石材
徳照寺の西隣の家の玄関先にある。
記念碑のように立っている石は
横穴式石室の石材だそうだ。
高畠経塚は、大正11年に発掘されたが、その前にも発掘されている。
復元径15〜20mの円墳だか゛、発掘当時は、径3.5mだった。
西南に開口する横穴式石室があった。
石室は車のあるあたりにあったという。
玄関先に入らせていただいて写真を撮る
石室の大きさは、内法幅約150cm・高さ150cm
圭頭太刀(金銅装の圭頭)・銅碗・銅環などが出土した
圭頭太刀は金銅装の圭頭(長さ7.4cm)が完存していた。
銅碗は、古墳時代後期以降、古墳副葬品に見られるものであり、北陸唯一のものである。
6世紀末〜7世紀初めの築造と考えられている。
高畠経塚古墳付近の地図
高畠経塚古墳の西、小金森集落の山手の曽禰地区に曽禰古墳群があるという。
曽禰古墳群は3基以上あったが現在墳丘が確認できるのは2基だけである。
消滅した曽禰1号墳では、県内では3つしか見つかっていない双竜式環頭太刀柄頭が出土した。
県内で3つの双竜式環頭太刀柄頭
@珠洲市 大畑1号墳
A穴水町 袖ケ畑古墳
B中能登町 曽禰1号墳
残念ながら、全て消滅してしまった。
大畑1号墳は場所の確認もできなくなっているそうだ。残念だ。
曽禰古墳群
大きさ | ||
1号墳 | (消滅) | 個人の住宅建築の際、石室が発見された 石材は記念碑などに利用されている。 直刀破片・須恵器・環頭太刀・耳環・鉄斧が出土 |
2号墳 | 円墳 径10m・高さ1.5m |
墳丘に石室の石材らしき石礫が散在。 明治年間に盗掘。 |
3号墳 | 円墳 径10m・高さ1m |