北村さんちの遺跡めぐり
中能登町 地図g
道閑塚(道閑公園) 久江宮山古墳群 道閑刑場跡(久江宮山10号墳) |
中能登町久江 |
コロナ禍の緊急事態宣言が解除された2020年5月末、休館していた中能登町のふるさと創修館(中能登町が開館。
館内にある「教育文化課文化財保護係」に古墳の事を聞きに行ったところ、職員の方が
「現在、久江宮山古墳群の調査をするために木を整理しているから、見に行ってください」
と話されていたので見学に行こうと思い、行き方をきいたところ
「久江集落に道閑刑場跡という案内板があるので、そこから山に入れば行けますよ!」
道閑刑場跡? 道閑さんて、一体何者……?
県道244号線の久江交差点を東へ800mほど行った久江地区の一画に「道閑塚」がつくられ、
周辺が道閑公園となっていることを知る。
道閑塚 | |
顕彰碑の内容 寛文6年、長連頼の領地鹿島半郡で検地が行われようとしたとき、 久江村の十村道閑らは百姓たちを救うために同志をかたらって検地反対運動を展開した。 この検地には浦野事件という複雑な問題が絡んでいたため、藩が浦野一族を弾圧するとともに、 検地に反対した道閑らも捕らえて極刑に処したのである。 十村頭であった道閑の刑はもっとも重く寛文7年12月16日、 男子3人の首をはねられたのち、磔に処せられた。 その後、重い租税で苦しんだ村人たちがいたく道閑を追慕し 「おいたわしや道閑様は、七十五村の身代わりに」 という臼すり唄が後世永くこの地方でうたわれた。 道閑300回忌にあたりその墓所を整地するとともにあらためてその義行を記念するものである。 昭和42年12月16日 義民道閑顕彰会 |
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1816(文化13)年、道閑処刑百五十回忌が 十村市楽らによって行われ、「道閑塚」がつくられた。 1967(昭和42)年には、三百回忌が行なわれ、義民道閑顕彰碑が建立された。 |
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道閑公園 道閑塚への石段 |
道閑の墓 3人の男の子も処刑されたという |
顕彰碑 |
ふきのとう句会の句碑 「松葉散る石段高し義人の碑」 |
2017年の350回忌にも法要が行われたらしく、記念の木碑が建っていた。
浦野事件とは (道閑事件とも呼ばれている) |
久江村道閑は、長家鹿島半郡の村支配を託された十村の一人 |
久江宮山10号墳が、「道閑刑場跡」として整備されている。
久江宮山古墳群 道閑刑場跡(久江宮山10号墳) |
中能登町久江 |
古墳群の北の久江東交差点の東の集落の中に「道閑刑場跡」の案内板があり、そこから山に入る。
集落の中には、駐車スペースがないので、県道わきの空き地に駐車。
久江宮山古墳群 | |||||||||||||||||||||||||||||||
久江川北岸、久て比古神社が鎮座する通称宮山と呼ばれる丘陵が、久江集落の背後に舌状に派生する。
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墳丘番号が書かれた杭が立っていて、分かるようになっている。
1号墳は、標高約75mの尾根上に位置する。尾根筋が、少し向きを変える地点。
久江宮山1号墳 全長40.5mの前方後円墳 後円部径23.5m・高さ5m 前方部幅16m・高さ1.5 くびれ部幅10m 後円部頂平坦部は径11m 盗掘痕跡は見られない。 埴輪なし 葺石なし
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1号墳の南西に墳裾を接するのが2号墳。
久江宮山2号墳 径16m・高さ1.5mの円墳 截頭円錐形をなし整美である。
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1号墳の南に3・4・5号墳の3基の円墳が墳裾を接して連続する。
久江宮山3号墳 径8mの円墳 高さ1.2m 3号墳 |
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久江宮山4号墳 径8m・高さ1.5mの円墳
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久江宮山5号墳 径8m高さ1mの円墳 墳丘の一部が破壊され石室用材の一部が散乱
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1号墳から北に約50m下ったやや尾根幅が広がった地点に、6・7・8号墳の3基の円墳が尾根筋に直交する形で整列する。
久江宮山6号墳 径6m高さ0.8mの円墳 6号墳 |
久江宮山7号墳 径8m高さ1mの円墳 7号墳 墳央部に石材の一部が露呈 |
久江宮山8号墳 径6m・高さ0.8mの円墳 8号墳 墳央部に石材の一部が露呈 |
7号墳から北に30mの地点に位置するのが、9号墳。
久江宮山9号墳 7号墳から北に30m。 径8m高さ0.8mの円墳 9号墳 |
9号墳から北に斜面を10mほど行くと10号墳。
道閑刑場跡の案内板から10号墳までは、
10号墳が、道閑刑場跡として整備されているので、遊歩道がある。
10号墳のそばには、「道閑刑場跡」の説明板がある。
説明板には
「久江村16か村の十村頭であった園田道閑は、検地反対運動の首謀者として
、寛文7年(1667)12月倅(セガレ)3人と共に磔(ハリツケ)、刎首(ハネクビ)の刑に処せられた。
領民の生活を思っての行動は義民道閑として、今もなお敬慕されている。
またこの事件は、道閑事件・浦野事件とも呼ばれている。」
と書かれている。
久江宮山10号墳 径10m・高さ1.2mの円墳 墳頂部が削平されて、道閑刑場跡として整備されている。 道閑刑場跡の説明板がある。 説明板には、 久江村16か村の十村頭であった園田道閑は、検地反対運動の首謀者として、 寛文7年(1667)12月倅(セガレ)3人と共に磔(ハリツケ)、刎首(ハネクビ)の刑に処せられた。 領民の生活を思っての行動は義民道閑として、今もなお敬慕されている。 またこの事件は、道閑事件・浦野事件とも呼ばれている。 と書かれている。
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久江宮山古墳群の南のふもとには、久て比古神社がある。
久て比古神社 (くてひこ神社→「て」は「低」のにんべんがない字) |
久て比古神社は、御祭神が「久延毘古神」「天目一箇神」 「火産霊神」 久延毘古神は、博識の神で田や山を司る神なり。 天目一箇神は、鉄の器具を造り司る神なり。 往古当社が剣神社 剣明神を崇拝されたのは この御祭神の御神徳灼なればなり。 火産霊神は、防火の神様 (由緒から) |
「くてひこ神社」の裏山にあるから「宮山」というようだ。