北村さんちの遺跡めぐり

中能登町    地図g     

道閑塚(道閑公園)
久江宮山古墳群
道閑刑場跡(久江宮山10号墳)

中能登町久江
 (撮影日2020/6/9)

コロナ禍の緊急事態宣言が解除された2020年5月末、休館していた中能登町のふるさと創修館(中能登町が開館。
館内にある「教育文化課文化財保護係」に古墳の事を聞きに行ったところ、職員の方が
 「現在、久江宮山古墳群の調査をするために木を整理しているから、見に行ってください」
 と話されていたので見学に行こうと思い、行き方をきいたところ
 「久江集落に道閑刑場跡という案内板があるので、そこから山に入れば行けますよ!」
道閑刑場跡?  道閑さんて、一体何者……?

県道244号線の久江交差点を東へ800mほど行った久江地区の一画に「道閑塚」がつくられ、
 周辺が道閑公園となっていることを知る。

 道閑塚
 顕彰碑の内容
 寛文6年、長連頼の領地鹿島半郡で検地が行われようとしたとき、
  久江村の十村道閑らは百姓たちを救うために同志をかたらって検地反対運動を展開した。
 この検地には浦野事件という複雑な問題が絡んでいたため、藩が浦野一族を弾圧するとともに、
  検地に反対した道閑らも捕らえて極刑に処したのである。
 十村頭であった道閑の刑はもっとも重く寛文7年12月16日、
  男子3人の首をはねられたのち、磔に処せられた。
 その後、重い租税で苦しんだ村人たちがいたく道閑を追慕し
  「おいたわしや道閑様は、七十五村の身代わりに
  という臼すり唄が後世永くこの地方でうたわれた。
 道閑300回忌にあたりその墓所を整地するとともにあらためてその義行を記念するものである。
   昭和42年12月16日 義民道閑顕彰会
 1816(文化13)年、道閑処刑百五十回忌が
  十村市楽らによって行われ、「道閑塚」がつくられた。
 1967(昭和42)年には、三百回忌が行なわれ、義民道閑顕彰碑が建立された。

道閑公園 道閑塚への石段

道閑の墓
3人の男の子も処刑されたという

顕彰碑

ふきのとう句会の句碑
「松葉散る石段高し義人の碑」

2017年の350回忌にも法要が行われたらしく、記念の木碑が建っていた。

 浦野事件とは  (道閑事件とも呼ばれている)

 久江村道閑は、長家鹿島半郡の村支配を託された十村の一人
 領主長連頼が見立て検地を強行し、加賀藩が成功させた「改作法」にならい、搾取強化をもくろんだため、
  1666年道閑は、検地反対一揆を指導したが、翌年磔・獄門にされた
 長家は、加賀八家の一人であるが、
  当時長家内部で争いも起きていて、その争いに巻き込まれたともいえる。
 長家は、豊臣政権のころから、前田利家に従属し、全国を転戦し、
  忠義をつくした功績により、鹿島半郡は長家独自の支配階級として公認され、
  藩内唯一の家臣による一円支配地であった。
 これが検地反対の遠因となった。
 家臣が村に住み着く土豪経営が広まり、小農自立という新しい農村政策がとれないまま矛盾を深めた。
 寛文年間(1661〜73)に、長家の当主連頼(ツラヨリ)と嫡男元連(モトツラ)が争い、
  これに家来の浦野氏一派が徒党を組み元連への家督相続を画策して、連頼派と激突した。
 このとき、道閑は村人の利益になると信じ浦野派に与して立ち上がったが、
  結果は藩が後援した連頼派が正義とされ浦野派は敗北、一揆をおこした十村たちは処刑された。
   (浦野事件)
 さらに、長家の鹿島半郡は没収され、その独自支配に終止符が打たれた。
     「石川県の歴史散歩」から引用

久江宮山10号墳が、「道閑刑場跡」として整備されている。

久江宮山古墳群
道閑刑場跡(久江宮山10号墳)

中能登町久江
 (撮影日2020/6/4)

古墳群の北の久江東交差点の東の集落の中に「道閑刑場跡」の案内板があり、そこから山に入る。
集落の中には、駐車スペースがないので、県道わきの空き地に駐車。

 久江宮山古墳群

 久江川北岸、久て比古神社が鎮座する通称宮山と呼ばれる丘陵が、久江集落の背後に舌状に派生する。
 古墳は、神社背後の尾根から道閑刑場跡に向かって下る尾根筋に立地する。
 前方後円墳1基・円墳9基が確認されている。

久江宮山古墳群配置図
いしかわ文化財ナビを元に作成)

1号墳 前方後円墳 全長40.5m・高さ5m
2号墳 円墳 径16m・高さ1.5m
3号墳 円墳 径8m・高さ1.2m
4号墳 円墳 径8m・高さ1.5m
5号墳 円墳 径8m・高さ1m
6号墳 円墳 径6m・高さ0.8m
7号墳 円墳 径8m・高さ1m
8号墳 円墳 径6m・高さ0.8m
9号墳 円墳 径8m高さ0.8m
10号墳 円墳 径10m・高さ1.2m

墳丘番号が書かれた杭が立っていて、分かるようになっている。

1号墳は、標高約75mの尾根上に位置する。尾根筋が、少し向きを変える地点。

 久江宮山1号墳
  全長40.5mの前方後円墳
   後円部径23.5m・高さ5m 前方部幅16m・高さ1.5 くびれ部幅10m
  後円部頂平坦部は径11m 盗掘痕跡は見られない。
  埴輪なし 葺石なし

1号墳の横姿

前方部から後円部を見る
前方部に道が通っているようだ
  

後円部頂
  

後円部から前方部を見る

 1号墳の南西に墳裾を接するのが2号墳。

 久江宮山2号墳
  径16m・高さ1.5mの円墳   截頭円錐形をなし整美である。

墳丘

墳頂

 1号墳の南に3・4・5号墳の3基の円墳が墳裾を接して連続する。

 久江宮山3号墳
  径8mの円墳 高さ1.2m

3号墳
 久江宮山4号墳
  径8m・高さ1.5mの円墳 

墳丘

墳頂部に石材の一部が露呈
 久江宮山5号墳
  径8m高さ1mの円墳
 墳丘の一部が破壊され石室用材の一部が散乱

墳丘

墳頂部の石材

1号墳から北に約50m下ったやや尾根幅が広がった地点に、6・7・8号墳の3基の円墳が尾根筋に直交する形で整列する。

 久江宮山6号墳
  径6m高さ0.8mの円墳

6号墳
 久江宮山7号墳
   径8m高さ1mの円墳

7号墳

墳央部に石材の一部が露呈
 久江宮山8号墳
   径6m・高さ0.8mの円墳 

8号墳 

墳央部に石材の一部が露呈

7号墳から北に30mの地点に位置するのが、9号墳。

 久江宮山9号墳  7号墳から北に30m。
  径8m高さ0.8mの円墳


9号墳

9号墳から北に斜面を10mほど行くと10号墳。

道閑刑場跡の案内板から10号墳までは、
 10号墳が、道閑刑場跡として整備されているので、遊歩道がある。
10号墳のそばには、「道閑刑場跡」の説明板がある。
説明板には 
「久江村16か村の十村頭であった園田道閑は、検地反対運動の首謀者として
、寛文7年(1667)12月倅(セガレ)3人と共に磔(ハリツケ)、刎首(ハネクビ)の刑に処せられた。
領民の生活を思っての行動は義民道閑として、今もなお敬慕されている。
またこの事件は、道閑事件・浦野事件とも呼ばれている。」
と書かれている。

 久江宮山10号墳 
  径10m・高さ1.2mの円墳 墳頂部が削平されて、道閑刑場跡として整備されている
 道閑刑場跡の説明板がある。
 説明板には、
  久江村16か村の十村頭であった園田道閑は、検地反対運動の首謀者として、
  寛文7年(1667)12月倅(セガレ)3人と共に磔(ハリツケ)、刎首(ハネクビ)の刑に処せられた。
  領民の生活を思っての行動は義民道閑として、今もなお敬慕されている。
  またこの事件は、道閑事件・浦野事件とも呼ばれている。
 と書かれている。

道閑刑場跡 説明板

墳丘

道閑 辞世の句
「消えて行く跡に形あり霜柱」

方向を変えて見る

久江宮山古墳群の南のふもとには、久て比古神社がある。

 久て比古神社 (くてひこ神社→「て」は「低」のにんべんがない字)
 久て比古神社は、御祭神が「久延毘古神」「天目一箇神」 「火産霊神」
 久延毘古神は、博識の神で田や山を司る神なり。
 天目一箇神は、鉄の器具を造り司る神なり。
 往古当社が剣神社 剣明神を崇拝されたのは この御祭神の御神徳灼なればなり。
 火産霊神は、防火の神様  (由緒から)

「くてひこ神社」の裏山にあるから「宮山」というようだ。

水白円山古墳群

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