北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/3/25

羽咋市   地図g   

気多大社とその周辺

羽咋市寺家
 撮影日2021/1/26

能登一之宮の気多大社。

 気多大社
 2021/1/26の気多大社
  
さすがに参拝客が途切れることはない。
  「いらずの森詣で」が行われている。  

気多大社
 二の鳥居から境内へ


気多大社境内の手水鉢は、
コロナウイルス感染防止のため
使えなくなっている。

気多大社神門(重要文化財)
四脚門という形式 
切妻造、平入、檜皮葺きの屋根

天正12年(1584)の建立とされている。
延宝8年(1680)に修理されている

(気多大社HPから)


正覚院
気多大社の神宮寺(別当寺)として創建され、
元正天皇御代養老2年(718)に
越前の大徳泰澄大師が夢想のお告げから
一堂を建立したと伝えられている。
(説明板から)
 明治維新の神仏分離令により、気多大社との直接の関係を絶ったが、
 今でも神仏混淆当時の面影を残し、
 「八咫の神鏡」を初め、「不動明王」、「阿弥陀如来」など多くの寺宝を秘蔵している。
2007/4/29の気多大社



気多大社神門(国重文)
国重文の建物・資料がたくさんある。

 能登一ノ宮といいながら、神主問題でもめている。
  どうなっているのでしょうね。→ 神社庁から離脱したそうだ…

気多大社の「いらずの森」の背後に、折口信夫の歌碑や、いらずの森説明板がある。

 折口信夫歌碑
 気多大社の裏手の「池のほとり」に歌碑がある。
 折口信夫博士没後10年にあたる、昭和38年(1963年)9月、
 的場町の高井松涛氏の寄進により、気多大社「入らずの森」裏手の池のそばに建立された。
 句は、昭和21年(1946年)4月に、折口信夫が大社焼の小皿に書いた句をもとにしている。
 「くわっこうの なく村すぎて 山の池」
 折口信夫博士は、明治20年(1887年)、大阪生まれ。
 国学者、民俗学者であり、國學院大学と慶応義塾大学の教授をかねる一方で、
  歌人としても特異な才能を発揮した。
 門弟であった藤井春洋を養子に迎え、春洋が戦死したのち、
  昭和28年に亡くなったが、遺骨は本人の希望どおり、春洋の出身地羽咋市で
 父子墓に埋葬されている。

池の堤のむこうに
いらずの森の説明板があるはずだが、
大雪のためか、
大木が倒れていて、向こうには行けない…。

    

寺家モスケ古墳

羽咋市寺家町

柳田台地の西、能登有料道路を越えたあたりに、大穴持像石神社があり、
その段丘先端部に寺家モスケ古墳があった。

寺家モスケ古墳のある崖を歩いてみたが、見つからなかった。
崖の真ん中に石室の大きな石が露出していたらしいので、危険なため撤去されたのだと思う。

「眉丈台の遺跡群」(1992 羽咋市教育委員会)の中に調査報告があったので、紹介しておく。
1990年、崖に石室が露出していたのが発見された。
墳丘は削平されていた。
周溝の跡なども発見できなかった。
石室は地山を隅丸長方形に掘り込んだ土坑内に造られていたと推定。
石室は奥壁付近しか残っていなかった。
石室の大半が消滅してしまっているので正確な石室形態はわからない。
石室内から須恵器の杯蓋・杯身・高杯・金環・ガラス小玉が出土した。

南側に退化した羨道部がある小型の横穴式石室を持つ
高さ1m前後・大きさ10m程度の円墳もしくは方墳
と考えられている。

大穴持像石神社

羽咋市寺家町
(撮影日 2007/4/29)

寺家モスケ古墳のあったところと同じ台地に鎮座する。気多大社と同じ台地上となる。


大穴持像石神社全景
古墳のようにみえるが・・・





大穴持像石神社社殿

小山を掘り込んで建てられている。



大穴持像石神社の境内にある
「地震石」

どういういわれがあるのだろうか?
大穴持像石神社といえば・・・・・
中能登町(旧鹿西町)の鳥屋塚を探したときの神社は
宿那彦神像石神社であった。
どちらも祭神は大国主尊が含まれているらしいが、なぜ「像石」という名が付いているのでしょうね?

柳田の古墳

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