北村さんちの遺跡めぐり

羽咋市    地図g  

羽咋古墳群
羽咋七塚

はくいななつか
 

羽咋市街地
(撮影日2002/10/13
2008/1/5
2010/5/1
2020/9/6)

羽咋市街には7個の古墳があるという。
十一代垂仁天皇の皇子の
石衝別命イワツクワケノミコト・羽咋神社の御祭神)に関連した古墳ばかりだ。

 羽咋七塚 (羽咋古墳群)  企画展展示から

 羽咋古墳群はJR羽咋駅前市街地に鎮座する式内社「羽咋神社」の周囲に広がる古墳群。
 邑知潟と日本海を結ぶ「羽咋川」に「子浦川」と「長者川」が合流する
   交通や物流の要所にあたる立地。

羽咋古墳群配置図

 御陵山古墳 (羽咋大塚)・陵墓参考地
 大谷塚古墳 (王児塚)・陵墓参考地
 宝塚 (稲荷塚)
 水犬塚 (薬師塚)
 痛子塚 (消滅)
 姫塚( 消滅)
 剣塚 (消滅)
 御陵山古墳
 羽咋神社背後の大きな塚は「御陵山古墳(羽咋大塚)とよばれ、
  祭神の磐衝別命(イワツクワケノミコト)(垂仁天皇の皇子)を祀る御陵として
  宮内庁の「陵墓参考地」に指定されている。
 前方後円墳とされているが、詳細は不明
 大谷塚古墳
 羽咋大塚に隣接する「大谷塚(王児塚)は、
  磐衝別命の皇子である石城別王イワキワケオウの御陵と伝わる円墳で、
  「陵墓参考地」に指定されている。
 このほか周囲には、祭神の一族などを祀る
  「姫塚」「痛子塚」「宝塚」「剣塚」「水犬塚」の5つの古墳があり、
 2つの御陵とあわせ「羽咋七塚」とよばれている。
 「姫塚」「痛子塚」「剣塚」は羽咋駅前の鉄道敷設や駅前造成により消滅。
 現在は付近に植えられた樹木がかつての位置を伝えている。
 残る「宝塚」「水犬塚」は少彦名社や稲荷社が祀られたので、
  比較的には保存されているが、市街化で原形をとどめておらず、詳細は不明。

2002年10月13日
羽咋七塚の、5個が見つかる。
羽咋駅前に2個・・・剣塚姫塚
羽咋神社の周りに3個・・・水犬塚・大谷塚・大塚(御陵山)
羽咋という名前の由来となった古墳もある。

2008年1月5日
場所が分からなかったあと二つの古墳。
 2007/12/26の北陸中日新聞に「山もある羽咋七塚めぐり」という記事が載り、
2008年の初詣をかねて羽咋神社に行く。
宝塚(稲荷山)をみつける。
痛子塚は、やはりわからない。
冬の季節で雑草が少なく、大塚・大谷塚の墳丘を確認できたのはラッキーだった。

2010年5月1日
羽咋市の羽咋七塚はあとひとつ、痛子塚がまだ見学できていなかった。
地元の人にたずね、ようやくみつける。
北陸電力羽咋変電所の南側の公園にある

剣塚
(羽咋七塚)

羽咋駅前に一本の木が記念に植えられている。




剣塚の記念樹  
(撮影日2002/10/13)

元は八幡神社があったが、駅の拡張工事で消滅。

剣塚は石衝別命の剣を埋めたところと伝えられている。

姫塚
(羽咋七塚)

羽咋駅舎の北側に一本の木が記念に植えられている。

姫塚の記念樹  (撮影日2002/10/13)

石衝別命の妃の
 三足比当ス(ミタラシヒメノミコト)
 の墓と伝えられている。


直径20mほどの円墳であったが、駅の拡張工事で消滅した。
説明板は駅のそばにあるが、本当はここより東方にあった。

羽咋駅前から西に行くと羽咋神社がある。
羽咋神社には「羽咋七塚銘水 御陵山の水」というのが湧き出している。
昔から万病に効くという銘水伝説があるそうで、水を汲みに来ている人がいた。

羽咋神社境内に、大塚と大谷塚がある。

御陵山古墳(羽咋大塚
(羽咋七塚)

羽咋神社の社殿の後ろにある。
御陵山又は羽咋大塚といわれる。

大塚正面   (撮影日2008/1/5)

石衝別命のお墓で陵墓参考地に指定されている。

長さ約100mの前方後円墳
5世紀中ごろの築造と推定されている。
発見当時は県下最大の前方後円墳だった


大塚の墳丘
    (撮影日2008/1/5)
手前(東側)が前方部
奥(西側)の白く見えるところが後円部のようだ。

冬の撮影で雑草がなく墳丘が確認できて感動だった。
残念ながら写真ではよくわからないかも。



羽咋神社社殿後に見える大塚の墳丘
     (撮影日2008/1/5)

上の写真で白く見えるところ
立ち入り禁止でこれ以上近づけない。

     北側から見た大塚   (撮影日2008/1/5)
 右側が後円部か?
 盛土は唐戸山から唐人(韓国人)が運んだと伝えている。
  (唐戸山の土が削り取られた ところは、相撲場となっている) 
 盗掘を受けて、石室や遺物は全く残っていない。


陵墓参考地 御陵山古墳・大谷塚古墳
実測図
(昭和4年 宮内庁書陵部実測)

(企画展「羽咋の古墳」展示から)

表題は


磐衝別命墓 磐城別王墓命之図
   石川県羽咋郡羽咋町


大谷塚
(羽咋七塚)

羽咋神社の社殿の東側にある。

大谷塚  (撮影日2002/10/13)

陵墓参考地に指定されている。
石衝別命の御子石城別王(イワキワケオウ)の墓と伝えられている。
現状は長さ45m・高さ7mほどの円墳。
初めは70mほどの大型の前方後円墳だったのが、
隣の本念寺に削られて円くなったという説や
この古墳と大塚とを1つの古墳と考えて、大谷塚はその前方部だという説がある。


大谷塚の墳丘(撮影日2008/1/5)
見た感じでは、前方後円墳。
南に後円部
北に墓地によって短くなった前方部があるように見える。

水犬塚
(羽咋七塚)

羽咋神社東の本念寺の北隣にある。

水犬塚  (撮影日2002/10/13)

三犬塚ともいう。
薬師如来を祀る少名彦名社になっているので、薬師塚ともいう。

削られているので古墳の大きさ形はわからない。

水犬塚(後から)  (撮影日2008/1/5)

墳丘が削られて本念寺の裏門が作られている。
羽咋」の由来となった3匹の犬と怪鳥のお墓と伝えられている。

「羽咋」の由来・・・石衝別命は、怪鳥が田畑を荒らして住民が困っていると聞かれ、弓矢を手取りこの怪鳥を射落とされた。
その時に、お供をしていた犬が怪鳥と死闘の末、羽を喰えて命の前に現れ力尽きて死んだ。
この犬が羽を喰うから羽喰・羽咋という地名が生まれた。

この「羽咋」の由来となった3匹の犬と怪鳥のお墓が水犬塚である。

  

宝塚
(羽咋七塚)

本念寺裏門から北東40mの稲荷山にある。
稲荷山といっても古墳の小さな高まり。


稲荷山
   (撮影日2008/1/5)

電柱の後ろの石垣の上が稲荷山。
宝塚は石衝別命が亡くなったとき遺品や埴輪を埋めたところと伝えられている。
命の子孫の羽咋弥公(ハクイイヤノキミ)の墓だとも言われている。


宝塚入り口   (撮影日2008/1/5)

建物の後にある石段を上る。
現在、12m×8mの方墳状。
周りも墳頂も削られているが、元は円墳だった。
稲荷家の墓があるので稲荷山と呼ぶ。

宝塚墳頂にある大谷廟  (撮影日2008/1/5)

稲荷家の墓だと思っていたら、Kさんから情報を頂き
本念寺が管理している、大谷廟とわかった。
Kさんからのメール
「これは本念寺が管理している、大谷廟。
親鸞聖人はじめ、歴代の御門主のお骨が分骨されている。
京都本願寺の大谷廟と同じものが羽咋にある。

8月と11月、年2回門徒さんたちの、納骨法要が営まれている。
稲荷家の墓所は、灯篭(入り口の)の左手にお墓がいくつかあるところにあるはず。」

1908年(明治41)須恵器と土面が出土した。(宮内庁保管)

痛子塚
(羽咋七塚)

北陸電力羽咋変電所の南側の公園にある。

痛子塚 (撮影日 2008/5/3)

十一代垂仁天皇の皇子の
 
石衝別命イワツクワケノミコト・羽咋神社の御祭神)の后の
 三足比当ス(ミタラシヒメノミコト)が病気になられたとき、
 悲しみのあまりに亡くなった皇女の墓だと伝えられている。



古い記録では径25mほどの円墳だったというが
形も位置も今はわからなくなっている。
この近くに板子という地名があり、ここを神聖な場所として信仰してきたことから
塚跡ではないかと考えられている。

公園の片隅にりっばな石碑や顕彰碑が建てられている。
    
(撮影日 2008/5/3)

地元の人達の寄付により
痛子塚はりっぱに整備された。
場所もはっきりわからなくなっているけれど、とても大事にされているというのがよくわかる。



羽咋七塚配置図



  

新保ゼンボン古墳群

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