北村さんちの遺跡めぐり
更新日2018/2/16

「御経塚遺跡(野々市ふるさと歴史展示から・その2)
小松市埋文講座と小松城趾」                の二本立てです。
御経塚遺跡・御経塚シンデン遺跡
野々市市ふるさと歴史館展示から・その2
2017/11/14・12/3

「発掘速報!!富奥の古代」を見学に行った野々市ふるさと歴史館には、
御経塚遺跡や御経塚シンデン遺跡の資料なとも展示されている。

 野々市市ふるさと歴史館には、
  御経塚遺跡から出土した重要文化財「石川県御経塚遺跡出土品」や末松廃寺をはじめ、
   市内の縄文時代~中世 の遺物の展示がある。

この野々市市ふるさと歴史館には、2004年に見学に行ったが、
当時は「野々市町埋蔵文化財収蔵庫」と名付けられていて、御経塚遺跡の出土品の展示はほとんどなかった。
2010(平成22)年に、御経塚遺跡出土品4219点が重要文化財の指定を受けて、
   館内の「縄文特別展示室」には、御経塚遺跡出土品が展示されている。

野々市市の地図g

御経塚遺跡 国史跡
縄文特別展示室

野々市市御経塚
撮影日2017/11/14

野々市市ふるさと歴史館の北側には、国史跡の御経塚遺跡がある。駐車場あり。

 御経塚遺跡は、縄文時代後期から晩期終末(3700~2500年前ごろ)にかけて続いた環状集落。
  集落の中心には祭祀・集会の広場があり、その周りに住居が並んでいた。
  一時期の人口は60~100人ほどと推定されている。
  1977年(昭和52年)に、北陸地方を代表する縄文遺跡として国指定史跡となり、
    竪穴住居やトチ・クリの実る原生林が復元された。

御経塚遺跡

竪穴住居復元

住居跡

住居跡  背後は復元された原生林

野々市市ふるさと歴史館の2階は、「縄文特別展示室」となっている。

 縄文特別展示室では、「御経塚遺跡出土品」(重要文化財)の展示をしている
 出土した遺物のうち4219点は、長期に定住した集落遺跡の生業や精神活動を知り得るものとして、
  2010年(平成22年)に重要文化財の指定を受けた
 土器は東西日本の影響を受けているが、
   北陸地方独自の特色を持ち、後期からの変遷をたどれるものである。
 土製品を代表する土偶は、この地方で最も出土数が多く、形態や文様から時期区分が可能である。
 石器は根菜類の採集具である打製石斧や木の実を加工する磨り石や敲き石などの割合が高く、
  植物質食料を重視する生業活動がうかがわれる。
 石製品には御物石器・石棒・石冠などの祭祀や呪いに関係する特殊なものがあった。
 石製品の垂飾や玉類には新潟県産のヒスイから作られたものもあり、当時の人々の交流が分かる。

展示室の様子1

展示室の様子2
  展示室では、ガラス越しの写真で、きれいには撮れないので、
        パンフレットの写真を引用させていただきます・・

縄文土器

土偶
  

御物石器・石棒・石冠などの祭祀や呪いの道具

垂飾・玉類

きれいに展示してあるので、必見です!!

御経塚シンデン古墳群
御経塚シンデン遺跡

野々市市御経塚
撮影日2017/11/14

御経塚遺跡から道路を挟んで北側のショッピングセンターの西には、御経塚シンデン遺跡がある。
御経塚シンデン古墳群も発見されている。

昨年紹介したが、
野々市市ふるさと歴史館の資料を追加して、合わせてもう一度紹介する。

 御経塚シンデン遺跡は、弥生時代後期後半から古墳時代初頭までつづいた集落跡で、
    複数の竪穴建物や掘立柱建物がみつかっている。
 その後、集落は移動し、
   古墳時代前期(250年ごろ~300年代)には首長権を示す古墳群が造営された。

 前方後方墳4基と方墳11基(御経塚シンデン古墳群)
 古墳の周溝は確認されているが、墳丘と埋葬施設は後世の削平によって失われている。
 周溝から壺などが出土している。


遺構位置図

ほんの一部が「経塚公園」となる。

他は住宅やお店が立ち並ぶ。

水田の下から姿を現した前方後方墳(ST01)
御経塚シンデン1号墳   (説明板から)

古墳の周溝から出土した土器
(説明板から)
実物はふるさと歴史館に展示されている。

公園と説明板

古墳らしい高まりは、単なる築山だ・・・。

御経塚シンデン遺跡では、後世の鎌倉時代には、経塚がつくられた。
ショッピングセンターができる前は、田んぼの中に経塚の小さな林が見えていた。
現在は開発され、経塚のあった辺りだけが、「経塚公園」として残っている。

 御経塚
 元の御経塚の村から北へ約200mにある。
 一辺14mの方形だった。

開発前の御経塚

(ふるさと歴史館展示写真から)


 経塚とは、鎌倉時代経典を永く後世に伝えるため、地中に埋めて塚にしたもの。
 経塚に伴う遺物は発見されていないが、付近から五輪塔などがみつかっている。

経塚 公園内にある。

御経塚町の地名の由来である経塚の付近には、
その昔、天台宗の眞願寺という大きなお寺があり、
火災で焼失したので、お経を埋め、塚にしたことや、
女性が塚に上がることは禁じられていて、
もし上がると子どもが産めなくなるという
伝承がある。



経塚の祠に納められていた石仏

軟質の砂岩を彫り出した僧形の像で、
法衣に袈裟を着け、頭部に冠を戴いている。
右手は胸の前に置き、左手は膝の上で印を結んでいる。



背面に刻まれた銘文から
この石仏は、天保10年(1839)に伊三衛門ら4名が、石工琢磨に依頼して造立されたと分かる。

御経塚の塚の近くから発見された
   五輪塔



安山岩製

刻印から、
  明応5年(1496)9月17日に
    葬られたとわかる。

 五輪塔とは
  平安時代中期から始まった供養塔・墓標で、
  空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の五つで構成されている
。  

ふるさと歴史館には、他にもいろいろな遺跡の説明や出土品の展示があるのて゜、
ぜひ見学してください!

小松市埋文講座と小松城跡 2017/11/23

2017年11月23日の小松埋文特別講座「小松を縦に掘る」に参加して、近くの小松城址の見学。

小松埋文特別講座「小松を縦に掘る」
参加報告
小松市丸の内 小松市公会堂
2017/11/23

金沢駅以南の北陸新幹線の工事が進む中で、新幹線ルート付近の発掘調査が進んでいる。

「小松を縦に掘る」第1部 「北陸新幹線建設にかかる発掘調査の概要」 (藤田邦雄  石川県埋文センター所長)
北陸新幹線は小松市の平野部をほぼ南北に縦断し、
新幹線敷設の幅12mの発掘調査について、5ヶ所報告された。

 小松市の地図g

北から順に紹介する。

 1、松梨遺跡 小松市松梨町、犬丸町
撮影日2017/12/3
 梯川下流域の平地に広がる弥生時代から室町時代にかけての大規模な集落遺跡
 古墳時代~室町時代の掘立柱建物や井戸、古墳時代の溝、奈良・平安時代の川、
  鎌倉・室町時代の掘立柱建物などが確認されている。
 川からは大量の食器類が出土していて、
   その中には人名などが書かれた墨書土器も多く含まれていることから、
   この辺りの中心的な集落が存在していたようだ。
 川が埋まった後に建物が建てられていたところもある。
 平安時代末~室町時代の井戸が多数確認された。
 集落の形成以前と推定される噴砂(地震による液状化現象の跡)なども観察されている。

2017/12/3 の松梨遺跡
中央は新幹線の高架建設中

2017/12/3 の松梨遺跡 反対方向

溝から出土した土器 (古墳時代)
(当日資料から)

川から出土した土器 (奈良時代)
(当日資料から)

出土した土器の皿 (平安時代末)
(当日資料から)

井戸の水溜に使用された曲げ物 (鎌倉時代)
(当日資料から)

  

 2、園町遺跡 小松市園町
 南北方向に伸びる砂丘上に立地する。標高25m。
 全長80m余りの調査区から、弥生時代と中世の集落が確認された
 弥生時代の溝からは中期の土器が大量に出土していて、
   八日市地方遺跡と同時期に集落が営まれていたと推定されている。
 中世の集落は、鎌倉~室町時代のもので、掘立柱建物、竪穴建物、井戸などがみつかっている。
 園町周辺は、中世の荘園である白江荘に含まれると考えられ、
   調査で確認した中世集落はその荘園の領域内にあったものと考えられている。
 方形周溝墓も発見されている。

2017/12/3 の現在の園町遺跡

穴から見つかった弥生土器
(当日資料から)

中世の竪穴建物
(当日資料から)

中世の井戸
(当日資料から)

  

 3、八日市地方遺跡 小松市土居原町、日の出町
 以前にも、紹介している。    八日市地方遺跡のページ
 新発見の「柄付きヤリガンナ」の紹介
   木製の柄が完存する弥生時代唯一の鉄製ヤリガンナが発見された。



柄付き鉄製ヤリガンナ


2017/12/9
 県埋蔵文化財センターに行ったところ、
展示されていた。

 全長16.3cm
 ヤリガンナ 原産地 中国北東部~朝鮮半島北西部
素材
寸法 長さ 5.1cm
1.9cm
厚さ 0.2cm
刃先 三角形両刃
 柄 原産地 八日市地方遺跡(石川県小松市)
素材 イヌガヤもしくはカヤ
寸法 長さ 13.9cm
1.9~1.5cm
3.5cm
 接続方式 挟み込み式 ① 糸によりヤリガンナを固定
② 桜の樹皮テープにより組み合わせ部分を固定
寸法 桜樹皮部長さ 7.3cm
 オプション 装飾 グリップ部に隆帯を削り出し、斜格子文を削り込む。
    (石川県埋蔵文化財センター展示から)
 この「柄付き鉄製ヤリガンナ」については、2017年7月28日に新聞に掲載された。
     (北陸中日新聞から抜粋)
 ・・・国内最古の鉄製ヤリガンナ出土・・・
 石川県埋蔵文化財センターは、約2300年前の「柄付き鉄製ヤリガンナ」が出土したと発表した。



製作工程の図が、
北陸中日新聞に掲載されていたので、
そのまま紹介する。



 ほぼ完全な状態で、木製の柄がしっかりと残った鉄製ヤリガンナとしては国内最古となる。
 時期は日本列島で鉄器の生産が始まる100年以上前。
 当時、鉄は大陸からもたらされており、
   管玉や勾玉などの一大生産地だった八日市地方の人たちが
      九州や山陰との交易で入手したと考えられる。
 弥生時代に鉄器が各地に普及する過程の研究に役立つ可能性がある。
 八日市地方で大量に出土している木製の器の仕上げなどに使用していたとみられる。
 柄の下部には、精巧な斜めの格子文様が彫り込まれていることから、
    別の同様のヤリガンナが使われた可能性もあり、今後さらに調査する。

2018年3月には、小松市埋文センター市民考古楽講座「八日市地方遺跡で今、何が起こっているのか?!」が開催される。
その前2月には、おなじく「矢田野エジリ古墳で埴輪研究は何が変わったか?!」が開催される。

 4、大領遺跡 小松市大領町、今江町
 木場潟の北側約500mに位置している。
 古代(奈良・平安時代)と中世(鎌倉・室町時代)の二つの道路状遺構が確認された
 どちらも両側に側溝がある。
 古代のものは、芯々(シンシン)(両側溝中心間の距離)幅9.5m、路面幅8mで、8世紀後半~9世紀初頭
 中世のものは、芯々幅7.5m、路面幅7mで、16世紀後半と考えられている。
 南加賀地域における古代・中世の陸上交通路の在り方を知る上で、貴重な手がかりとして注目されている。
 縄文時代後期頃の土器や石器が出土していることから、
     周辺に縄文時代の集落が存在していた可能性も考えられている。

古代の道路状遺構と道幅(南西から)
(当日資料から)

中世の道路状遺構と道幅(南西から)
(当日資料から)

2017/12/3 の大領遺跡

検出面の砂層から出土した縄文土器(深鉢)
(当日資料から)

側溝から出土した古代の須恵器(三耳瓶)
(当日資料から)

水路から出土した中世の土師器皿
(当日資料から)

大領遺跡付近は、現在も国道やJR北陸本線が走る交通の要衝であるが、古代・中世も同じだったのか・・・。
小松にあったと推定されている国府を通る官道かもしれない・・・・。

 5、島遺跡 小松市島町
 JR粟津駅から東南に約1km、月津台地の東縁付近に位置している。
 これまでにも調査が行われていて、掘立柱建物や井戸、区画溝、竪穴状遺構などがみつかっていて、
    古墳時代から中世の集落であったことがわかっている。
  ふいごの羽口(鍛冶炉の送風管の先端部分)や鍛冶滓(鍛冶作業で生じる不純物の塊)、
    炉壁の破片なども出土しているので、、金属加工を行っていたと考えられている。
 今回の調査では、古代の掘立柱建物、中世の掘立柱建物、中世の井戸、区画溝などがみつかり、
    長期にわたり集落が営まれていたことがわかった。

古代の掘立柱建物
(当日資料から)

2017/12/3 の島遺跡

中世の掘立柱建物
(当日資料から)

2017/12/3 
の島遺跡

区画溝 古代
(当日資料から)

中世の土器が埋納された穴
(当日資料から)

「小松を縦に掘る」の第2部は、「北陸新幹線ルートの地質成果から見た遺跡の立地」(小岩直人 弘前大学教授)。
ボーリンク調査を基に小松市内の地形発達と遺跡の立地についてのお話だった。
内容を説明するのはむずかしいんだけれども、これがなかなかおもしろかったのです。

「小松を縦に掘る」第3部は「座談会 調査成果の意義と研究展望」(コメンテーター 吉岡康暢  国立歴史民俗博物館名誉教授)。
話声が小さくてよく聞き取れず、残念だった・・・。

この講座は、定員120名だったが、150名の応募があったそうだ。

小松城趾
「本丸櫓台石垣」

小松市指定文化財
小松市丸の内 小松市公会堂
2017/11/23

「小松を縦に掘る」の講座に参加の前に、近くにある小松城址の見学。
小松城は、本丸櫓台石垣だけが残っていて、小松市指定文化財となっている。

 小松城の歴史
 「小松城」の資料上の所見は、天正11(1583)年、羽柴秀吉配下の前田利家が、
   柴田勢から「小松之城」を受け取り、これを堀秀政に渡したとする書状である。
 秀吉の時代に村上氏や丹羽氏が居城し、慶長5(1600)年10月より前田氏の有するところとなった。
 ただ、この段階までの小松城の状況は不明で、
   寛永17(1640)年、加賀藩主前田利常が隠居用の居城として整備したのが、
   今に伝えられる小松城と城下の実質的な建設であったと考えられる。
 小松城は、梯川の蛇行によって作られた沼地を利用した平城であり、
    川の水を引き入れた堀の中に8個の島が配置されている。
 城の面積は、金沢城の倍近い約5万㎥に及ぶ広大なものである。
 城地の約30%を堀が占めており、その様は「小松の浮城」とも呼ばれ、たぐい稀な景観を持つ名城だった。
 表向きは利常の隠居城だが、外敵に対する防備を堅くした渦郭式(カカクシキ)といわれる構造である。
 河川を巧みに利用した反面、水害に対する備えも必要で、盛り土の他、随所に堅牢な石垣による護岸を行っていた。
 この名城も、幕末にはすでに取り壊しが始まり、明治以降売却や埋め立てなど土地改良が急速に進められた。
 現在地(本丸櫓台付近)は、往時の石垣を唯一実現できる場所である。
 本丸櫓台石垣と北側に隣接している井戸跡が残り、西側の道路に面して堀石垣の一部が残存している。
    (櫓台のそばにある説明板から)

小松城配置図 (説明板から)

本丸櫓台付近拡大図 (説明板から)

「本丸跡」の石碑  櫓台の東側


「三の丸跡」の石碑  芦城公園の中にある。

    

  「本丸櫓台石垣
 本丸櫓台の石垣は、
  金沢産の戸室石(輝石角閃石安山岩)と小松産の鵜川石(角礫凝灰岩)を巧みに組み合わせている
 堅牢な戸室石は、主に角石等の骨格部分に使用し、全体の8割は地元産の凝灰岩である。
 しかし配置は、両石材の色調を考慮した美的効果をねらっていたと考えられる

東から見た本丸櫓台石垣
 

2種類の石を使って
美的効果を演出している石垣


櫓台に上がる石段

石段の下には井戸が保存されている。

本丸跡(石碑)から見た櫓台


櫓台全景  東から
「天守台」と刻まれた石碑がある。


櫓台から東をみると
  小松高校グランドで、その奥は校舎がある。
この辺りも、元は小松城


本丸櫓台の管理者は、小松高校である。


小松城址は、芦城公園にもなっている。

  芦城公園

珪化木 小松市瀬領町産
二千万年前に堆積したもの

錦橋

お茶室 「仙叟屋敷ならびに玄庵」

小松図書館入口に小松市指定文化財の標柱がある。
(市指定文化財の「小松旧記」
「加賀藩御大工渡部家文書」が所蔵されている。
)

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