北村さんちの遺跡めぐり
更新日2017/2/6
弓波遺跡現地説明会2回目
と
山ノ下寺院群と古墳
(加賀市の古墳探索その1)撮影日 2016/11/13・11/27
・12/3
・2017/1/28
加賀市弓波遺跡の2回目の現地説明会(2016/11/27)に、1回目に引き続き参加した。
加賀弓波遺跡現地説明会第一回(2016/9/22)はこちらをご覧ください。
弓波遺跡 現地説明会第2回 | 加賀市弓取町・八日市町 撮影日2016/11/27 |
1回目は小雨だったが、今回は本格的な雨。
建物の中で、説明と出土品の見学をしてから、隣接している発掘現場の見学。
今回の発掘調査の成果 | |
今回の発掘で、弥生時代後期以降、古墳時代前期にかけて 石製品を製作していた集落があったことが明らかになった。 北約1kmにある「片山津玉造遺跡」や南東約2kmにある二子塚東田遺跡などで、 古墳時代前期に碧玉を使用した石製品を製作していた遺跡として知られてきた。 今回の弓波遺跡での管玉などの石製品製作地点の発見から、 江沼盆地での石製品生産の開始時期が、弥生時代にさかのぼることが新たに判明した。 |
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A区出土の石製品製作関連の出土品 |
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(弥生時代) |
(古墳時代) |
(弥生・古墳時代) |
(弥生時代) |
弓波遺跡は、JR加賀温泉駅から東へ1.5km、八日市川と尾股川の合流部周辺に広がる、弥生時代から中世にかけての遺跡。
これまでに圃場整備や農道整備などで発掘調査が行われているが、今回は北陸新幹線建設と河川改修工事に先立ち発掘調査。
■が、今回の現説現場(第2回)、
■は、前回の現説現場(第1回)
遺構検出状況 (現説資料から) | |
A区 遺構検出状況 |
B−1区 遺構検出状況 B区内東側 |
C区 遺構検出状況 |
平地建物 | |
碧玉を多く出土する平地建物・碧玉集中地点 | |
布引建物 | |
竪穴状遺構 | |
土坑群(粘土採掘坑) | |
井戸 |
説明会場では、出土品や写真が展示されている。
発掘で出土した土器群(瓦もある) 弥生時代から中世までのいろいろな土器が出土している。 |
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右側・銅銭 右上・寛永通宝(江戸時代) 右下・宋銭 (鎌倉室町時代) |
剣形の石製模造品・臼玉 (古墳時代) |
井戸枠(鎌倉・室町時代か) |
丸木舟を転用した井戸枠 (弥生時代) |
雨の中、発掘現場の見学。
A区 川跡と布掘建物跡 |
A区布堀建物の完掘状況と柱の復元(写真B) 現説資料の写真から |
A区 平地建物群 雨で水没しそうだ・・・。 |
A区 土坑群(粘土採掘跡) (写真Cのあたり) |
A区 玉造用碧玉原石の建物内の出土状況 出土状況を見学してもらうために 遺物を取り上げずにそのままにしてある。 |
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A区 井戸跡 井戸枠が沈まないように石を敷く |
A区 丸木舟転用井戸枠 (写真B) 現説資料写真から |
B区 平地建物群 (写真@のあたり) |
C区 河川跡内木製品出土状況 現説現場写真から |
紹介したのは、一部である。
弓波遺跡のまとめ | |
縄文時代 | 縄文土器や石鏃・石斧・黒曜石製の石器が出土。 調査区周辺に集落域の存在が想定される。 |
弥生時代 | 後期の掘立柱建物や布堀建物、平地建物、丸木舟を転用した井戸枠を持つ井戸、 粘土採掘坑と考えられる土坑群などの集落域を確認している。 碧玉製の管玉、蛋白石(オパール)性の勾玉未成品、紫水晶や瑪瑙、頁岩の破片など玉製作関連遺物が多く出土。 後期以降の河川跡を確認し、廃棄された土器が多く出土。 |
古墳時代 | 前期は碧玉製の管玉や合子の未成品、ガラス玉など玉製作関連遺物が出土。 古墳時代後期から奈良時代初めころの掘立柱建物や井戸などの集落域を確認し、 土師器や須恵器、瓦などが出土。 川を挟み北側約200mに位置する白鳳寺院の弓波廃寺(7世紀後半頃創建)との関連が注目される。 また、多量の土器と共に ミニチュア土器や剣形の石製模造品・臼玉・刀形木製品などを用いた祭祀行為を行っている 中・後期以降の河川跡を確認している。 |
奈良・平安時代 | 掘立柱建物や畝溝を確認し、土師器や須恵器・瓦などが出土。 遺構の分布は希薄だが、周辺に寺院の存在が想定される。 |
鎌倉・室町時代 | 掘立柱建物や竪穴状遺構、井戸などの集落域を確認し、 土器や越前焼・加賀焼・珠洲焼・白磁・青磁などの陶磁器、 砥石や石臼などの石製品が出土。 また、砂利を盛って整地され、両側に側溝を持つ室町時代以降の直線状に延びる道路状遺構を確認し、 土器や陶磁器、瓦、宋銭などの銅銭や宝篋印塔などの石造物も出土している。 |
「二子塚東田遺跡」(加賀市)と「藤江B遺跡」(金沢市)の出土物の展示もあった。
片山津玉造遺跡 加賀市指定文化財 |
加賀市片山津 撮影日2016/12/3 |
弓波遺跡では、弥生時代後期以降、古墳時代前期にかけて石製品を製作していた集落があったことが明らかになったが、
弓取遺跡の北約1kmには、加賀市指定文化財の玉造遺跡がある。
片山津の温泉街と柴山潟の湖面を北方に望む片山津台地にある。
片山津玉造遺跡は 4世紀後半から5世紀前半にかけて古墳時代の玉造りを行っていた遺跡。 昭和34・35年の発掘調査などにより 33基の住居と工房を兼ねた竪穴式住居跡が確認され、玉造工人の一大集落と判明した。 この遺跡では、主に管玉または緑色凝灰岩質の頁岩などを用いて管玉を作っていた。 製作工程は、採石・荒割・形割・側面打製・研磨・穿孔・仕上げの過程を経ている。 管玉の他に勾玉・亀甲状石・円板状石・笠形石・鍬形石などの未成品があり、種々の石製品も作っていた。 玉造りという特殊な性格から、大和政権との関係を解明する糸口となる重要な遺跡 (昭和61年設置の説明板から) |
片山津玉造遺跡 周りは麦畑。、 33基もの住居があったというのだから、 大きな遺跡なのだろうが、 30m四方くらいが遺跡として指定されている。 奥の林の中には、片山津天神古墳や富塚古墳群がある。 その向こうは、富塚丸山古墳、弓波遺跡へと続く。 |
片山津玉造遺跡の位置
□の部分だけが史跡として保存されている。
他は麦畑となる。
片山津玉造遺跡のある台地の斜面付近には古墳群がある。
片山津玉造遺跡 | 市指定史跡 |
片山津ウワノ古墳群 | 7基 |
片山津本村古墳群 | 円墳1基・方墳1基・不明3基が 確認されている。 |
片山津天神古墳 | 方墳 |
富塚古墳群 | 円墳9基 |
富塚丸山古墳 | 復原径50mの円墳 |
山ノ下寺院群と古墳 (加賀市の古墳群探索その1) |
加賀市大聖寺神明町 撮影日2016/11/13 2017/1/28 |
大聖寺は、加賀前田藩から分封された支藩、大聖寺藩十万石の城下町だった。
藩主の菩提寺であった実性院、芭蕉ゆかりの全昌寺など7寺院と1神社が並ぶ通りがあり、
山の下寺院群とよばれている。
駐車場もあり、観光名所となっている。
実性院の裏山の頂上には、「実性院裏山古墳」がある。
全昌寺の墓地には、神明町古墳群がある。
山ノ下寺院群と古墳 配置図
(石川文化財ナビから作成)
古墳は、○・赤字で表している。
神明町古墳群の その1・その2は大体の位置で確定ではない。
山ノ下寺院群とは 大聖寺城下の南西部に連なる丘陵地、石堂山の北東部に位置する。 寺院と下級武士が多く集まった町で、古くは「山の下寺町」と呼ばれた。 天明6年の大聖寺町絵図には、 北から神明宮、白山社、本光寺、宗寿寺、正覚寺、全昌寺が描かれていて、 下屋敷に抜ける道の両側に足軽や徒士などの下級武士の屋敷が続いていた。 昭和33年には、この山ノ下と加賀神明宮の表参道にあたる東田町、西田町の 三町が統合し「神明町」となった。 「大聖寺藩史」によれば、寛永末頃、城下の整備に伴い、 大聖寺藩は、越前との国境の防御を兼ねて、意図的に寺院を集めたとされている。 いずれも禅宗、浄土宗、日蓮宗の三宗に限られていて、 前田家と激しく対立していた浄土真宗の寺院は除外された。 この下屋敷町には、実性院、蓮光寺、久法寺がある。 神明町と下屋敷までに至る一帯に分布する寺院を総称して 「山ノ下寺院群」と呼んでいる。 |
曹洞宗 金龍山 実性院(ジッショウイン) | |
大聖寺藩前田家の菩提寺で「萩の寺」としても知られている。 現存する建物はいずれも江戸時代後期のもの 裏山の墓所には、歴代藩主の墓がすべて揃っている。 |
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実性院 通称「萩の寺」 |
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境内 萩の季節にはとてもきれいだ |
寺の前には、仏像が並ぶ |
実性院の脇から裏山に上ると、前田家廟所がある。
大聖寺藩 前田家廟所 | ||
大聖寺藩祖・前田利治公から第14代藩主・利鬯(トシカ)公までの墓が並んでいる。 外様大名(十万石)で歴代藩主の墓が一ヶ所に造られているのは全国でも珍しい。 |
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説明板 抜粋 |
初代・利治公の墓 一番大きい(基壇が高い) |
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コの字形に墓が並ぶ | ||
西側 右にあるのが初代の墓 |
中央(北側) 背後の山の上に、裏山古墳があるという。 |
東側 |
藩主のほかに、奥方様や殉死した家来の墓もあるので、計30基くらいある。 |
日蓮宗身延派 華徳山 蓮光寺(レンコウジ) | |
本堂の柱や天井は創建当時のもので、柱は金沢城の残材を使用している。 毎年1月15日に行われる星祭りは、下帯姿の僧侶が樽に張った水を被る荒行で知られている。 頭がすっぽり入るほど大きな茶碗と道具を使った大茶盛りが人気。 |
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蓮光寺 正面 |
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参道に小さな建物が・・・中にお皿が飾られている。 |
NHK初代会長・岩原健三氏の似顔絵が描かれた皿 大聖寺出身 お墓もこの蓮光寺にある。 |
法華宗本能寺派 長昌山 久法寺(キュウホウジ) | |
境内にある高松稲荷の本山は、岡山県岡山市の最上稲荷(三大稲荷のひとつ) イギリス人リトルウッドの墓がある。 (加賀藩の語学教師。1872年没) 柿澤理平(カキザワリヘイ)のお墓がある。 (日本で初めて鉛筆を作った人) |
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久法寺 正面 |
山門 |
曹洞宗 熊谷山 全昌寺(ゼンショウジ) | |
この寺はもと山城にあったが、1597(慶長2)年、大聖寺城主山口玄蕃の信仰を得て大聖寺に移された。 1689(元禄2)年、「おくのほそ道」の旅の途中、 松尾芭蕉と曽良が宿泊したことで知られていて、境内には両者の句碑がある。 「庭掃いて出でばや寺に散る柳」 芭蕉 「よもすがら秋風聞くやうらの山」 曽良 別棟には、五百羅漢像が安置されている。 |
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山門 |
本堂 |
左の建物の中に 「木造五百羅漢像」が安置されている。 (市指定文化財) 五百羅漢像は 1867(慶応3)年以来、藩士や町人の寄進により、 京都の仏師の手で製作されたものである。 |
浄土宗 幽谷山履行院 正覚寺(ショウガクジ) | |
靴を履いた珍しい「履行阿弥陀如来(クツバキアミダニョライ)」が安置されている。 寺に残る書物には、遠くインドから中国を経て日本に伝えられた仏像であると書かれている。 また平清盛がこの仏像を仏御前に与え、仏御前が故郷の原町(小松市)に持ち帰ったものである。 仏御前が持ち帰った後、大切に原町のお寺でお祀りされていたが、 一向一揆などの混乱でお寺が荒れ果て履行阿弥陀如来も行方不明になってしまったが、 深誉上人という知恩院で修行された僧侶が夢のお告げにより原町にて仏像を発見し、 大聖寺に寺を建てた。それがこの正覚寺である。 正覚寺では、履行阿弥陀如来にちなみ、履物供養を行っている。 |
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正覚寺 正面 |
境内 |
日蓮宗 久昌山 宗寿寺(ソウジュジ) | |
大聖寺藩の関所の門が払い下げられ、山門として移設されている。(加賀市指定文化財) | |
宗寿寺山門 |
本堂 |
宗寿寺庭園はきれいだ! |
庭園から続く墓地周辺は、紅葉の真っ盛り |
山門脇には、スダジイの大木がある。 加賀市指定文化財(天然記念物) 幹囲5.75m、樹高14.5mで 枝張りは東西16m、南北19.5m 地上10〜11mの主幹上に7種類(スギ、ヤマウルシ、ウメモドキ、タブ、ネズミモチ、ハイイヌツゲ、ツタウルシ)の 樹木を着生させ、特にスギの癒着は大木となっている。 その実態が珍奇で、景観も特異であり、当地方の自然植生を示す貴重な例として、価値が高い。 |
法華宗 鳳栄山 本光寺(ホンコウジ) | |
「日本百名山」の著書で知られる深田久弥のお墓があり、全国から登山愛好家が訪れる。 寺院群の中で最も高い場所にある。 |
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本堂は奥の右側上 中央の森の中に古墳がある。(仮1号墳) |
石段を上がったところに山門 |
神明町古墳群 全昌寺の墓地に2基の古墳が確認されている。 | |
全昌寺の墓地にあるとなっているが、古墳のあるのは、本光寺の近くだ。 | |
本光寺から見た仮1号墳 |
仮1号墳 墳頂の墓石 |
仮1号墳 方向を変えて 墳頂の墓石は、五輪塔。 本光寺の住職の墓だろうか。 |
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仮1号墳から更に奥(北)に行くと仮2号墳が見える。 | |
南側から見た仮2号墳 |
北側から見た仮2号墳 周溝跡も確認できる。 |
仮2号墳から北を見ると、もう一つ古墳らしいものがある。何だろう・・・? | |
頂上には建物がある・・・なんだろう。 仮3号墳? 実は、白山宮! |
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白山宮 墳丘に上る階段 |
白山宮 墳頂は広い。 |
白山宮 墳頂から北に下りる道がある。 |
白山宮から下りると神明宮の境内に至る。 神明宮の境内に白山宮の鳥居と参道がある。 |
白山宮は、1642年大聖寺初代藩主前田利治より社領を寄進され、 1652年社殿を再建、棟札には「大勝寺氏神」と記されている。 |
神明町古墳群は詳細不明・・・。
加賀神明宮(シンメイグウ) | |
山ノ下寺院群では、唯一の神社。 1868(明治初)年の神仏分離までは真言宗の慈光院があった。 昭和34年の改称以前は山下神社と称していた。 旧縣社で祭神は天照大神。 現拝殿は1824年再建の棟札がある。 南の山上には白山宮が鎮座している。 「天保由緒書」には神明宮、白山宮は往古より大聖寺惣鎮守で、神明宮はもと城下山田町に鎮座していた。 地名は伊勢神宮鎮座地山田に因み、神明屋敷跡もある。 「寛永由緒書」によれば、1616年に現在地に移り金沢藩より社領を寄進されている。 |
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正面 |
社殿 初詣のおみくじがフラフラしている。 |
境内社 橋姫神社 機織りや織物の守護神 |
加賀神明宮の境内南にある白山宮の鳥居 |
旧月田家住宅 城下町大聖寺の町並みとして、本光寺と神明宮の間に保存されている。 |
旧月田家住宅は、大聖寺藩の下級侍であった家柄の建物。 文化11年(1814)頃に描かれたとされる「大聖寺絵図」でも、 現在地(大聖寺神明町)に月田大助の名があることから、 少なくとも幕末には建てられていたものと考えられている。 建物の玄関、押入、縁などの一部に改造の跡があるものの基本形はよく残されていて、 大聖寺錦町の早水家住宅と共に大聖寺における旧藩時代の下級の住宅として大変貴重なものである。 |
旧月田家住宅 |
山ノ下寺院群は11月の紅葉と1月の写真が混在しているので、見にくいかもしれませんが、ご容赦ください・・・。
加賀市の古墳群探索その2 へつづく