北村さんちの遺跡めぐり
掲載日2014/7/20
白山市 地図g
松任城跡 と 夏越(なごし)の大祓 |
2014/6/29・7/1 |
地元の遺跡なのですが、紹介が遅れました・・・・・。
加賀藩2代藩主前田利長が、一時在城したという松任城。
前田利長の没後400年記念・白山市立博物館歴史フォーラム「前田利長と松任城」が、
2014年(平成26年)6月29日に開催された。
松任城跡 |
白山市西新町ほか |
松任城の跡は、JR松任駅前におかりや公園として、わずかに残っている。
松任城址公園
つい最近まで「おかりや公園」と呼ばれていたが、いつ変更したのかな?
本丸跡が公園となって、四周を取り囲む内堀の内側石垣の石列により、
本丸主郭全体の面影をとどめている。
堀は埋め立てられてしまった。
公園の中には土塁状の高まりが、南西隅と北及び北西隅に見られる。
城址公園南西隅の土塁状の高まり
櫓台跡だとされている。
発掘調査が少しずつ行われているが、松任城があった時代の遺物は、
松任城址公園北の立体駐車場建設の際の発掘で出土した「天目茶碗」ぐらいである。
(フォーラム会場で展示されていたが、撮影は×)
松任城は、平安末期に当地を支配していた松任氏(林氏の庶流)の館として成立した。 |
一向一揆の時代は、松任組の本拠地として城郭化が進み、 長亨年間(1487〜88年)に鏑木常専が城主として入城し、その後鏑木3代の居城となった。 鏑木氏は加賀一向一揆の中で重きをなし、松任城は一揆の拠点の一つとなったが、 1580年(天正8)に織田信長の武将・柴田勝家に攻められて松任城は落城、鏑木氏は滅亡した。 |
一揆解体後は、織田方の城として30数年にわたり、城下町の整備も伴いながら、 本格的に城郭化がすすんだと推定されている。 城主として、加賀藩2代藩主・前田利長が3年(天正11〜13年・1583〜85年)、 (1585年は末森合戦があり、前田方が勝利) 丹波長重が11年在城している。 |
しかし幕府の一国一城政策により廃城された。 |
松任城古図
(フォーラム資料から)
廃城後約60年を経過した延宝年間に写された「松任城古図」。
本丸・二の丸・三の丸・出丸矢倉台・出丸などがみられ、
それらは幅9〜23mの水堀や、空堀、土塁により防御されており、
外堀で区画された城跡は、南北305m、東西301m余であったと推測されている。
昭和34年、松任城址保存会により、松任城址の区域を示す高さ1mほどの石碑が建てられている。
松任城址付近の地図
現在の地図に、松任城古図を重ね合わせてみる。
(あくまでもイメージです)
■は城の堀跡
●は、区域を示す石碑のあるところ
東北隅の石碑 松任駅南口にある。 |
旧大手先前の石碑 北陸信用金庫の前にある。 |
東南隅の石碑 信誠寺前にある |
西南隅の石碑 聖興寺裏にある。 |
西北隅の石碑 松任金剣宮前にある。 新しい石碑たなあ。 |
松任金剣宮 |
白山市西新町 |
上の「西北隅」の石碑がある松任金剣宮には6月29日に行ったが、境内では氏子の方々が、何やら大きな輪を作っていた。
なんだろうと思っていたら、7月1日の北陸中日新聞に「茅の輪くぐり」の記事が掲載された。
「茅の輪くぐり」の輪を作っていたのだ・・・・。
本番は6月30日に行われたようだが、翌日も茅の輪があると書かれていたので、、茅の輪くぐりをしてきました。
松任金剣宮
社記によれば、創立は717(養老元)年。
武門武将の崇敬が厚く、
松任城主鏑木氏の社殿造営によって壮麗を極めたといわれている。
社殿の前にあるのが「茅の輪」
「茅の輪くぐり」は正式にいうと、今年の前半の心身の穢れを払う神事「夏越(なごし)の大祓」である。
茅の輪
この輪を左回り、右回り、左回りの順で、
「8の字」を描くようにくぐりぬけてから参拝する。
今年前半の穢れをお祓いしていただいたので、
暑い夏も元気に過ごせそうだ!
白山市には鶴来日詰町にも金剣宮があるが、こちらは「キンケングウ」と読む。
(実はこちらの方が有名だ)