北村さんちの遺跡めぐり
更新日2006/3/23

早春の加賀へ  2006/3/4

2006年3月の最初の休日は快晴。久しぶりにドライブに出かけた。
目的は片山津湖畔の「手塚山古墳」を中心にその周辺の散策だ。
まず小菅波神社裏古墳群を探す。

加賀市の地図g

小菅波神社裏古墳群

加賀市小菅波町
(撮影日2006/3/4)

小菅波神社裏古墳群は、JR加賀温泉駅の背後「小菅波子安神社」があり、その後の山の中にあるらしい。
神社の裏山に登ったら、古墳らしい盛り上がりが幾つかあったが、古墳かどうかは確認できなかった。
裏山のむこうには、加賀松が丘団地の宅地がすぐそばにまで広がっていて、古墳のあるところだけ、雑木林として残されているのだろうか。
前方後方墳1基(全長17m)・方墳1基(22×25m)のほか円墳4基(最大のものは径22m)が確認されている。
子安神社は安産の神様。「夜泣き石」というのもあった。

小菅波神社裏古墳群の前方後方墳(4号墳)の発掘データ
昭和53(1951)年、団地造成を原因として発掘調査が行なわれた。
4号墳の実測図

「日本の古代遺跡・石川」には4号墳と書かれているが、
遺跡地図には、小菅波神社裏B1号墳となっている。


始めは後期の円墳だと思われていたが、発掘の結果、全長17mの前方後方墳である事が確認された。
溝から発見された土器は古式土師器で、パレス=スタイル土器に似たものだった。
埋葬施設は2つあり、どちらも箱形石棺の直葬。
副葬品は、鉄鏃、?・ガラス小玉など。
墳丘規模や副葬品は宇ノ気の宇気塚越1号墳や中島の上町マンダラ1・2号墳などと並び、
まだ弥生時代の墳墓形態が残る古墳時代初期の古墳と考えられている。

パレス=スタイル土器といえば、越前の王山古墳群でも出てきた言葉だ。
王山古墳群も弥生から古墳時代に移る頃の古墳群と考えられている。

小菅波神社裏古墳群の西にあるという「敷地春日町古墳群を探す。

敷地春日町古墳群

加賀市小菅波町
(撮影日2006/3/4)

加賀松が丘団地の西に加賀中央公園がありその西南の縁あたりにある。
その辺りは雑木林になっていたが、「火葬場跡」という石碑が建つのをみて、ここが敷地春日町古墳群の辺りだと確信した。
が、古墳の確認はできなかった。
全長30mの前方後円墳1と円墳9基(径8〜22m)が確認されている。


今日の目的地「手塚山古墳」を目指す。
途中、篠原町の国の天然記念物「金名竹」を見学した。

篠原の金名竹
国指定天然記念物

加賀市小篠原町
(撮影日2006/3/4)




天然記念物「金名竹」


明治9年マダケ林から、突然変異で美しい竹が現れた。「金名竹」という。
金名竹は、茎が黄金色をしており、枝の出た上面の溝が緑色でその配色が美しい
枝が互生しているのでその配色も節ごとにたがいちがいになっている。
その後、この金名竹は増えつづけて大きな藪になったが、昭和42年から、これらの竹に花が咲き、
ほとんど枯死状態になっていた。
ところが、残されていた一本の地下茎から再生し、最近その勢いが回復しはじめている。
突然変異として現れたその発生起源が明らかなところが「国指定天然記念物」となった理由である。
指定年月日  昭和2年4月8日        (案内板より)

天然記念物というのでもっとすごいものを予想していたが、一度枯死状態になったということでほんの2坪くらいのものだった。

手塚山古墳がある辺りは、首洗池などを含め、手塚山公園になっている。

首洗池
(篠原古戦場)

加賀市手塚町
(撮影日2006/3/4)

篠原の集落辺りは倶利伽羅で大敗した平家の軍勢が、木曽義仲(源氏)の軍団をくいとめようとして失敗した篠原の古戦場である。


首洗池

斉藤別当実盛の首を洗ったという。
不気味な雰囲気!
首を洗ったら
黒髪が白髪になったという。

案内板から
寿永2年(1183)、倶利伽羅の戦いで木曽義仲に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。
しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れ去りました。
このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした。
実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最後を遂げました。
樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。
それはまがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。
この物語は「源平盛衰記」などに記されており江戸時代から人口に膾炙されていました。
なお、実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えており、元禄2年(1689)芭蕉が「おくの細道」の行脚の途中に立ち寄り、この甲に寄せて「むざんやな 兜の下のきりぎりす」と呼んでいます。



実盛の首を真中に、
悲しいめぐり合わせに空を仰ぐ木曽義仲と
その部下
 手塚太郎光盛・樋口次郎兼光
(銅像です)
実盛の兜・袖・臑当は、木曽義仲が願状を添えて太多神社(小松市上本折町)に奉納したと伝えられる。

斎藤別当実盛という人     天永2(1111)〜寿永2/6/1(1183/6/22)
実盛が本拠地としていた武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきた義朝の弟・義賢という両勢力の緩衝地帯だった。
実盛は始め義朝に従っていたが、地理的なことを考え、やがて義賢に仕えるようになる。
このような武蔵国の動きを危険だと感じた義朝の子・義平は、久寿2年(1155)に義賢を急襲して討ち取ってしまう。
実盛は再び義朝・義平親子に仕えるようになるが、一方で義賢に対する恩も忘れず、義賢の遺児・駒王丸の命を助けた。
その駒王丸が後の木曽義仲である。
実盛は、保元・平治の乱で、義朝の忠実な部下として奮戦した。
義朝が滅亡してからは、平氏に仕え、平家の有力武将として重用される。
そのため、義朝の子・頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、頼朝追討に出陣した。
平氏軍は、富士川の戦いで大敗した。
寿永2年(1183)、再び木曽義仲追討のために北陸に出陣するが、加賀国篠原の戦いで敗北し命を落とす。

ここから800m位西には「実盛塚」がある。
源平の戦いがあったので、公園の横の食堂は「源平食堂」、近くの橋は「源平橋」という。

手塚山古墳
(篠原古戦場)

加賀市手塚町
(撮影日2006/3/4)

首洗い池から公園に上ってみる。
この辺りは古墳のはずだけど・・・・確認できない。
調査されたわけでもないらしい。


手塚山古墳の辺り
手塚山山頂に「兜の宮」という小さな小社が建つ。
前方後円墳の可能性もあるという。
雑木林の中で「コッコッコッ」という音がする。
キツツキみたいな鳥が幹にとまって、木をたたいている。はらはらと木の皮が落ちてくる。
急いでカメラを構えて写したが、望遠無しのカメラなので、鮮明に捕らえることはできなかった。

コッコッコッと音がする木

鳥がつついて木の皮をはぎ、木の皮がはらはらと枯葉のように落ちる。



上の写真の赤く囲んだ部分の拡大
羽根にある白い縞模様が印象的な鳥だった。
家に帰って調べたところ「コゲラ(キツツキ科)」という鳥。
木をたたく鳥は初めて見た。感動!

木場潟の東岸の木場小学校の校地に木場古墳群があるという。
見れるかどうかわからないが行ってみる。
小学校の校庭と道路の間に盛り上がりがある。笹をかき分け登ってみると・・・・
あった!円墳4基(半壊2基)

小松市の地図g

木場古墳群

小松市木場町
(撮影日2006/3/4)

校庭を造成するとき、古墳のあるところを残したらしい。
円墳の形がわかるように、丸いブロックが埋めてあった・・・・・
整備もこれくらいでいいんだね。
大きさは4基とも10mに満たない。
北から1号墳〜4号墳と仮に名前を付けさせていただきます。

1号墳

中では最大か?
手前は2号墳





2号墳

左奥が1号墳
右側に3号墳
青い屋根の建物は木場小学校







2号墳から1号墳を見る




3号墳
半分しかない。
3号墳の向こうは小学校の校庭。
子供たちが野球をしている。
右に2号墳



4号墳(木のむこう)
半分しかない。
右の低くなっているところは校庭からの登り口。
校庭から登れば楽だったのだが、今学校でいろいろ事件が起きているので、何となく校庭に入れず、
反対側の笹の生い茂るところから登った。大変だった。
笹は冬場でも枯れないんだね。

期待していなかった木場古墳群が見学でき、楽しい気分になる。

河田山古墳群に現状保存されている古墳があるという。
雑草が枯れてしまっているこの時期なら見れるかもしれないと思い行ってみる。
河田山資料館の方に尋ねたりしてみたが、結局わからなかった。


辰口の下開発茶臼山古墳群、以前9号墳を見に行った。
9号墳の隣に「西尾根支群」というのがあり、墳丘を現状保存してあるというので確認に行く。

能美市・小松市の地図g

以前見た9号墳   
(撮影日2002/9/23)
上の3分の1が墳丘。
左側に西尾根支群がある。
以前行ったときは9号墳の横はちょっと入れないような雑木林だったはずだけど・・・・・・

下開発茶臼山古墳群
西尾根支群

小松市木場町
(撮影日2006/3/4)

北側のふもとから上ってみると・・・・・・・
木を整理したらしくすっきりしていて、はっきり墳丘がわかる。
うれしくなってしまった。

下開発茶臼山古墳群配置図 (は保存された古墳  は確認された周溝と埋葬施設)

18号墳から27号墳が西尾根支群
西尾根支群は1988〜89年に発見され、発掘調査は、周溝の確認を中心に行なわれた。
半壊していた27号墳以外は、墳丘が保存されている。
東支群(1〜8号墳)はすべて消滅、西支群(9〜17・28号墳)は9号墳以外消滅。
消滅したところは削平され、福祉センターや広場・道路となる。

西尾根支群は9基保存されている。


南より西尾根支群を望む。
奥が18号墳





奥が18号墳

支群中最大の規模
約径13.7mの円墳

手前は19号墳
径約9.3mの円墳





西尾根支群の真中辺りの墳丘





奥が26号墳

手前が25号墳


26号墳(西側から)

右の建物は辰口記念宝珠病院
径6.2m程の円墳


25号墳

径7m程の円墳


24号墳

径8.5m程の円墳


日暮れ近くで写真が暗い。


久しぶりに行った遺跡めぐり、予想以上に収穫があった。
天気もよく楽しいドライブでした。

(詳しくは下開発茶臼山古墳のページをご覧ください)

下開発茶臼山古墳群データ
(下開発茶臼山古墳群U 第3次発掘調査報告書から)
下開発茶臼山古墳群は東支群8基・西支群10基・西尾根支群10基からなる。全て円墳。

第1次調査
昭和27年、小松実業高校地歴クラブが1号墳を発掘調査

第2次調査
昭和49年、第1次調査で発掘された1号墳は墳丘ごと工事で削平され、他にも周溝が確認されたため、工事は中止となり2年かけて第2次調査が行なわれた。中央部の丘陵に9基(西支群)、東の尾根に8基(東支群)を確認
既に工事で破壊されている古墳が多く、西支群の9・10・11号墳だけ残し、他は記録保存となる。

第3次調査
昭和61年、西支群の9号墳の北西に28号墳発見
昭和63年西支群の西側の尾根で10基(西尾根支群)を発見
この時点で既に東支群全てと西支群大部分が消滅している。
第2次調査で保存された9・10・11号墳と今回発見された28号墳・西尾根支群の10基の発掘調査を行なった。

調査の後、東支群の北側の山も削平され、
現在は福祉センターが建つ。
第3次発掘調査の後、9号墳と西尾根支群の9基(27号墳以外)が残され、いずれは公園になるということだ。

東支群

1号墳 径16m 粘土槨1基 棺内から竪櫛・鉄器片・須恵器壺
2号墳 径10.5m 木棺直葬 主体部から勾玉・剣・斧・鏃など  周溝から鍬先・土師器高杯
3号墳    
4号墳 木棺直葬  
5号墳 木棺直葬  
6号墳    
7号墳 径10.3m 木棺直葬 三葉環頭太刀・直刀・鏃
8号墳    

西支群

9号墳 東西17.2m南北15.7m高さ1.5mの円墳
周溝幅1〜1.7m
2基の埋葬施設(木棺は完全に腐朽)
@隅丸長方形6×2m
A長楕円形6×2.4m
第1主体部(北側)から銅鏡1・玉類139以上・竪櫛50・鉄製刀子・鉄刀など
第2主体部から玉類1323以上・竪櫛125・鉄斧2・鉄製刀子・鉄刀・鉄剣・鉄鏃42・短甲・冑・板錣など
10号墳 径6m程の円墳
周溝幅0.8〜1m
  墳丘中央で土師器碗 
11号墳 径約11mの円墳
周溝幅0.9〜1.4m
  遺物なし
12号墳      
13号墳 径14.3m  木棺直葬 勾玉・管玉・ガラス小玉・剣・直刀・刀子・鏃
14号墳   木棺直葬  
15号墳   木棺直葬  
16号墳   木棺直葬  
17号墳      
28号墳 径8m程度の円墳
周溝幅0.7〜1.7m
9号墳の周溝からのびてくる溝がつながっている。 遺物なし

西尾根支群(10基)
先端(18号墳)から尾根の高い方に順に築造された。
古墳時代とは異なる時代の遺物(縄文土器・弥生土器・土師器・須恵器)も出土している。

18号墳 東西17.2m南北15.7mの円墳
周溝幅1〜1.7m
  須恵器甕
19号墳 南北9.3m東西9.2mの円墳
周溝0.8〜1.5m
  須恵器
20号墳 径約11mの円墳
周溝幅0.9〜1.7m
木棺直葬と推定 鉄刀1・鉄鏃6・玉類30・須恵器3
21号墳 南北7.7mの円墳
周溝幅1.1m〜1.2m
  鉄刀・鉄斧・鉄製鋤先・土師器
22号墳 東西6.5mの円墳
周溝幅0.7〜0.8m
  完形の須恵器6
23号墳 径4m前後の円墳
周溝幅最大2.5m
周溝は22号墳との重複を避けるために完全に回っていない 遺物なし
24号墳 東西8.5mの円墳
周溝0.8〜1.0m
  遺物なし
25号墳 径7m程の円墳
周溝幅最大1.0m
  遺物なし
26号墳 東西6.2mの円墳
周溝0.5〜1.3m
  土師器碗の破片
27号墳 径8m程度の円墳
周溝幅0.9〜1.3m
土坑3基を検出したが古墳の遺構かは不明 須恵器3・土師器5など

時代変遷

  時代 古墳番号  
第1段階 古墳時代中期中葉 9・13・7 中央政権の関与
第2段階 古墳時代中期後葉 東支群1〜3
西尾根支群18〜23
造営単位の二分化
第3段階 古墳時代中期末 東支群5・6
西支群12・17
西尾根支群24〜27
格差の拡大
第4段階 古墳時代後期前半 14・15・16 小規模古墳

東支群4・8 西支群10・11・28 は時期の特定できない

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