北村さんちの遺跡めぐり
更新日2025/12/7

千葉県旅行記
その9
2025/4/20~4/27

2025/4/2 7日目になった。

8時15分ごろ   成田ゲートウエイホテル チェックアウト。
成田市の上福田古墳群に向かう。

周辺の地図g 

上福田古墳群 成田市上福田
見学日2025/4/25

龍角寺古墳群(栄町)と公津原古墳群(成田市)の間にある古墳群で、市史跡となっている上福田岩屋古墳の前に説明板がある。

 上福田古墳群
 成田西陵高校周辺の台地上に分布する古墳群。
 前方後円墳3基、円墳6基、方墳13基が確認されている。

上福田4号墳は、成田西陵高校の南側の駐車場の奥に保存されている。

 上福田4号墳
 全長48mの前方後円墳 後円部径30m
 二重周溝がある。
 人物埴輪を含む多数の埴輪が出土
 埴輪は主に内周と外周の間の周堤上に立てられていたと考えられていて、
  特に形象埴輪は後円部南側の周堤上に設けられた造出部から集中して出土
 形象埴輪は入れ墨を施した鯨面や力士などの人物埴輪のほか、
  大刀や靫などの器財埴輪も出土している点が特徴である。
            (「印旛のはにわ」から引用)

上福田4号墳墳丘測量図


調査は周溝部分のみ
  行われている

墳丘 木がいっぱいで見通せない

後円部墳頂平坦部

後円部から前方部を見る

前方部の墳頂

前方部から後円部を見る

上福田4号墳の横は崖っぷち

上福田4号墳横からの眺望

印旛沼東岸に位置している。

4号墳の北約1kmに上福田岩屋古墳がある。令和6年に設置された説明板がある。

 上福田岩屋古墳(上福田7号墳)  市史跡
 一辺約37m・高さ約6mの方墳
 単室両袖式の横穴式石室は、
  玄室が横長の長方形であるため全体の平面形がT字形になる特異な形状である
 また玄室は羨道より一段低く作られ、床面は仕切り石によって三分割されている。
 木下貝層から切り出された貝化石が混ざる砂岩を使用している
 7世紀中ごろの築造と推定されている。


上福田岩屋古墳墳丘測量図 

    (分布調査報告書から)



 貝化石混じりの砂岩は加工に手間がかかるが、
  石室の石材は丹念な面取りと磨き仕上げが行われており、非常に手の込んだ作りとなっている。
 この石材は壁面と天井だけではなく、床にも使用されている。
 貝化石混じりの砂岩が使われた横穴式石室をもつ古墳は、
  上福田古墳群に1基(13号墳)、龍角寺古墳群の岩屋古墳・みそ岩屋古墳の2基のほか
  8基が確認されているが、
 いずれも方墳であること、また印旛沼周辺にのみ分布している
ことから、
  この石材は限定的に使用されていたと考えられる。
 また、石室の立体的な形状にも特徴がある。
 壁面が内傾し、天井に向かって著しく幅が狭くなるため、
  天井がかなり高く見える構造になっている。
 このような形状の石室は、九州や紀伊半島の一部に類似した例を確認できるが、
  全国的に見ても非常に貴重な例である。  (以上説明板から)

南から見た墳丘

墳丘

開口部

四角く切られた入口だ

上福田岩屋古墳 石室内部


貝化石混じりの砂岩というのは
 きめが粗そうで、
加工がしにくいように見えるが?

今まで見たことなかった石材だ。4


石室内の棺台

石室内から開口部を見る

 

龍角寺古墳群
国史跡 龍角寺古墳群・岩屋古墳
成田市上福田
見学日2025/4/25

房総のむらの駐車場に駐車。

 「房総のむら」と「龍角寺古墳群」
 「房総のむら」は 江戸時代後期から明治時代初期の建物や景観を再現した博物館。
 龍角寺古墳群は、印旛郡栄町酒直・龍角寺から成田市大竹にかけて所在していて、
  その7割以上が千葉県立房総のむらの敷地内にある。
 現在確認されている古墳の総数は115基
 国史跡「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として千葉県で最も広い面積の国史跡である。

房総のむら 管理棟
 (内部は事務室のためご見学できない)
千葉県会議事場

明治13(1880)年千葉市長洲に建てられ
 明治44(1911)年まで使用された
 第2代目の千葉県会議事場を、
 当時の写真や銅版画によって外観を再現。
 屋根は、日本で古くから行われてきた平瓦と丸瓦を交互に置く本瓦葺き
 前面のベランダや窓は西洋風で、擬洋風建築と呼ばれる和洋折衷の独特な外観。


房総のむら 入口


入らずに、古墳の見学へ…

駐車場から、南へ、復元された101号墳まで、徒歩で見学。

 龍角寺107号墳
 一辺21mの方墳 高さ3.3m 
 埴輪の有無は不明 埋葬施設は不明

交差点の角にある

墳丘上

 

 龍角寺旧参道塚群
 みそ岩屋古墳の東側には、中近世に築造された塚とともに庚申塔の石塔が並んでいる
 坂田ヶ池から亀の子池にいたる道は龍角寺への参道で、
  道沿いには、147基を超える塚が見つかっていて、当時の信仰の様子を窺わせている。
     (みそ岩屋古墳説明板から)

塚と庚申塔

 

 みそ岩屋古墳 (龍角寺106号墳)
 一辺35m・高さ4.7mの方墳
 幅2~3mの周濠がある
 3段築成 
 両袖式の切石積横穴式石室(貝化石を含む軟質砂岩)がある。全長4.58m。
 岩屋古墳に比べると、玄室が幅広く、使用された石材がやや大きいのが特徴。
 埴輪はない
 7世紀後半の築造と推定されている

 龍角寺岩屋古墳(105号墳)の北、谷を一つ隔てて築造された方墳で、
  龍角寺岩屋古墳に後続する墳墓と考えられている。
 みそ岩屋古墳は龍角寺の七不思議、三ケの岩屋の一つに数えられている。
           (説明板から)

奥がみそ岩屋古墳  手前は塚群

南側に石室が開口している

開口部

石室内部 

石室内部から開口部を見る

貝化石を含む軟質砂岩拡大

龍角寺岩屋古墳の西に隣接してあるのは、104号墳。

 龍角寺104号墳
 直径30mの円墳
 墳丘南側の裾部分にある横穴式石室は、床面を除き貝化石砂岩でつくられている。
 人骨1体分、直刀1、砥石2、馬具金具1、長頚壺1が出土
 龍角寺岩屋古墳は、この104号墳の墳丘を壊さないように造られていて、
  龍角寺岩屋古墳に先行する古墳で、両古墳が近い関係であることがわかった
 昭和40年、石室部分の緊急調査
 令和6年3月、測量調査および地中レーダー探査

石室平面図

104号墳の石室(東側より)
      (以上 説明板から)

墳丘  石室部分はくぼんでいる。

石室残存部分


岩屋古墳地形測量図

西側の墳丘が、104号墳

東側が龍角寺岩屋古墳(105号墳)

 龍角寺岩屋古墳の現説資料(H23/11/20)が公開されているので参考にさせていただきました。

 龍角寺岩屋古墳 (龍角寺105号墳)  昭和16年に国指定史跡
 一辺78m・高さ13.2mの方墳 周堤帯の外側まで含めると105m
 奈良県桝山古墳に次ぐ全国第2位の方墳だが、
  7世紀(古墳時代終末期)につくられたものとしては全国で最大
 墳丘の東・西・北側には周堤帯がめぐる
 南側は前庭部からすぐに崖線となり、
  崖線部には舌状張出地形と呼ばれる斜面地形が確認されている。
   古墳築造時の物資の搬入あるいは古墳完成後の墓道、祭祀場に利用されたと考えられている。
 3段築成
 南側には東西2室の石室が開口しており、どちらも単室構造の切石積横穴式石室
  西側石室は奥行き約5m、幅1.7m、高さ約2.5m
  東側石室は奥行き約7m、幅約2m、高さ3.5m
  石室は木下貝層で採取される貝化石を含む軟質砂岩を主体とするが、
  天井石の一部に雲母片岩(筑波山系片岩)が使用されている
 7世紀前半~中ごろの築造と推定されている
   6世紀末~7世紀初頭に築造された浅間山古墳の後に造られたと考えられている。

 岩屋古墳の存在は古くから知られており、
 天正19年の「下総国埴生庄龍角寺之郷水帳」によれば、
  すでに岩屋が開口していたことがわかる。
  龍角寺の七不思議のひとつとして、三ケの岩屋の隠れ座頭の椀貸し伝説が残されている。
             (説明板から)

西から見た墳丘

南東から見た墳丘 左に石室が見える

東西の石室の様子
 西石室  切石積横穴式石室  奥行き約5m、幅1.7m、高さ約2.5m

西石室平面図

棺台・壁・床の一部・天井石の一部は
 成田貝層といわれる貝化石を含む軟質砂岩で作られている。
棺台の仕切り、天井石の手前2枚は筑波山系の片岩が使用されている。
貝化石を含まない軟質砂岩の床石も確認されている。
切り石の壁を積み上げる際には、石と石の間に白色粘土を詰めている。
入口付近の両側に「ハ」の字に開く筑波石を立て、短い羨道をもつ。
玄室に入るためにまたぐように設置されたシキミ石が西石室にはない。
          (説明板から)

石室内部 扉の間から撮影

石室正面 (平成25年度 第3次調査より)
(説明板写真から)
  
 東石室  切石積横穴式石室  奥行6.5m 幅2m 高さ3.5m

東石室 平面図

棺台・壁・天井石の一部は成田貝層といわれる貝化石を含む軟質砂岩
入口近くの天井は筑波山系の片岩が使用されているが、
 大正13年の関東大震災で一部が内部に崩落したといわれている。

平成23年に石室の前庭部、平成25年度に天井部分の発掘調査で、
 石室内部は山砂が充填されており、
  中に入れない状態と確認されている。
 入口の両脇に筑波石を「ハ」の字状に立て、短い羨道が設けられている。
 前庭部には、「シキミ石」という中に入るためにまたぐ石があり、
  さらにそれを檀状に整形した筑波石が敷設されているが、 
 これは追葬を行うために石室の構造を改変したためと考えられている。
  石室の石を白色粘土が包むように覆う「裏込め」という状態が確認された。
    (説明板から)

東石室の現状

石室正面 (平成23年度第1次調査より)
(説明板写真から)

    

 学習院初等科正堂
 明治32年(1899)に、当時の東京市四谷区尾張町に講堂として建設され、
  昭和11年(1936)に講堂を新築するのにともない、
  印旛郡遠山村の小学校講堂として移築された。
 講堂新築にともない、昭和48年(1973)成田市から千葉県に寄贈され、
  現在は、県立房総のむら敷地内に移築公開されている。

木造一階建  屋根は天然スレート葺

内部が公開されていた!

正面入口側に円柱列を立て、
  中央に広間を取り、
背面に広間床より高い演壇を設けている。


 龍角寺100号墳
   一辺22mの方墳 高さ1.6m
 龍角寺99号墳
  径12mの円墳 高さ0.9m
 龍角寺93号墳
  径25mの円墳 高さ3.6m
 龍角寺95号墳
  径20mの円墳 高さ2.4m
 龍角寺96号墳
  径15mの円墳 高さ1.1m 
 龍角寺97号墳
  径19mの円墳 高さ3.3m 

101号墳は、発掘調査の成果に基づいて復元されている。

 龍角寺101号墳
 二重周溝と造り出し付きの中堤を設けた円墳だったが、
  後に内提の周溝の一部を埋めて、新たに埋葬施設を築いている
 円筒埴輪は120個体以上あり、墳丘をめぐる。
 形象埴輪は30個体あり、台状部両脇の堤に集中している。
  人物埴輪は、楯持ち武人、椀を捧げる女子・帽子を被る男子などで構成されている。
  動物埴輪には馬・鹿・犬・猪・水鳥がある。
 埋葬施設は、墳頂部に木棺1基、墳丘裾のテラスに箱式石棺2基
    周溝の中に石棺1基・土壙1基 の計5基見つかっている。

 碧玉の管玉・金箔を貼った耳環などの装身具、
  鉄製の馬具、直刀・鉄鏃などの武器が副葬されていた。
 墳丘南東部の石棺(弟3主体部)からは8体分の人骨が出土し、
   成人男性3・成人女性3・小児1・幼児1で構成されていた。
 埴輪や土器の特徴などから、6世紀前葉に埴輪を立てて築かれ、
   7世紀初頭まで何回も埋葬が行われた
と考えられている。
 1984~1986年の発掘調査

改築後の全体図
    (説明板の図に加筆)
墳丘の直径25m
内提の直径37m
墳丘の高さ3.6m

黒い部分が、新たに埋めた部分

数字は埋葬施設の場所
1 第1主体部 木棺 墳頂部
2 第2主体部 石棺 周溝内
3 第3主体部 石棺 墳裾
4 第4主体部 石棺 墳裾の改変した台状部
5 第1号土壙 周溝内
(説明板から)

復元された101号墳 中央が埋めて改変された台状部分

墳裾のテラス・外提に立てられた埴輪

台状部分に立てられた埴輪
埴輪がおどっているようだ…

龍角寺古墳群の中で最大の古墳・浅間山古墳(111号墳)は、101号墳からはかなり距離がある。
駐車場に戻り、車に乗り、浅間山古墳の北の龍角寺集落側からアクセスしてみた。

 浅間山古墳 (龍角寺111号墳)  出土品は県有形文化財(考古資料)に指定
 全長77.6~78.0mの前方後円墳
  後円部径52m・高さ8m・前方部幅58m
 3段築成
 板石組横穴式石室(筑波山系片岩)がある。
  平安時代に盗掘されているが、複室構造の板石組横穴式石室に漆塗木棺が安置されていた
 金銅製冠飾、銀製冠、透かし彫り飾り金具等の装身具類、
  銀装捩じり環頭太刀、小刀、金銅製環付足金物太刀、金装弓、鏃頭の武器類、
  鉄製珪甲小札、胡ロク金具馬具、刀子、斧、釘等、
   貴重な遺物が数多く出土
 6世紀末~7世紀初頭の築造と推定されている
 龍角寺古墳群の中で最大、千葉県内で最も新しいと考えられる前方後円墳
 岩屋古墳に先行して築造された首長墓と考えられている。
 平成8年度発掘調査
        (平成20年設置の説明板から)



浅間山古墳墳丘測量図

浅間山古墳 全景    右奥が前方部

後円部の浅間神社への登り口
右奥は後円部裾の社殿

後円部上の浅間神社への階段

後円部上の浅間神社

後円部から前方部を見る

前方部墳頂

前方部から後円部を見る

後円部から墳裾を見下ろす

後円部から墳裾の登り口を見下ろす

後円部から前方部を見る

    


公津原古墳群 (成田市)  につづく 

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