北村さんちの遺跡めぐり
更新日2015/1/15

群馬県・2014
その4 高崎市②
 2014/11/21~24

1日目、藤岡市の伊勢塚古墳を見学後、上野三碑の山ノ上碑に行こうとして、山名群集墳に途中下車。 
  時刻は午後3時。
山名群集墳にも、伊勢塚古墳と名付けられた墳丘がある。

高崎市の地図g

山名古墳群

高崎市山名町
 (撮影日2014/11/21)

道路から、いくつもの墳丘が見える、通り過ぎるわけにはいかない・・・。


山名古墳群 配置図   (説明板から)

烏川との合流点に近い鏑川北岸にあり、
 背後には岩野谷丘陵(観音山)が望まれる。

現在19基
 (前方後円墳1・帆立貝形古墳1・円墳17)
 が保存
されている。
1988・89年に4基の古墳を調査

 古墳群は中央の低地をはさんで南北に広がる。
 6世紀前半に15号墳(帆立貝形)を含む南群から形成が始まった。
 6世紀後半には北群の築造が始まり、
 6世紀末には両群の接する西端に山名伊勢塚古墳(墳長65m)が成立。
 7世紀には北群に主体が移り、終焉を迎える。
 山名伊勢塚古墳 (山名古墳群)
   全長65mの前方後円墳 烏川以西の片岡地域唯一の前方後円墳
   2段築成 葺石があり、円筒埴輪や形象埴輪が並ぶ
   後円部には南に開く横穴式石室があり、地元に産する凝灰岩の切石を積み上げている。
   盗掘されて、調査時大きく破壊されていたが、金銅製馬具や小札甲が出土。
   6世紀末の築造と推定されている。

南から見た山名伊勢塚古墳
左・前方部  右・後円部

北から見た山名伊勢塚
右前方部
 後円部そばに住む男性が、横穴式石室があった位置や、調査の時の様子を話してくれた。
パノラマ写真を2枚に分けて
伊勢塚古墳脇から北東方向を見渡す。    いずれは史跡公園として整備されるという。
左より山名5号墳,7号墳,9号墳,10号墳,11号墳,15号墳,,18号墳,17号墳,19号墳,16号墳

群中2番目に大きい5号墳

9号墳には 石室の痕跡がある・・・・!
 山名原口Ⅱ-2号古墳
  径16.5mの円墳 
  横穴式石室は全長7.3m、玄室長3.9m・幅2.3mの両袖式で、
   側壁は棒状の川原石を積み上げた模様積み。
  金銅製耳環、金銅製鈴、水晶製切子玉、瑪瑙製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉などの装飾品や
    鍔、柄頭、鉄鏃、小札、轡など、武具や馬具が多数発見された。
  7世紀初め~中ごろの築造と推定されている。
  平成元年度の発掘調査で発見された。

覆い屋の中に保存された
山名原口Ⅱ-2号古墳石室

奥壁側から見た
山名原口Ⅱ-2号古墳石室
山名原口Ⅱ-2号古墳の石室は 模様積

丸い石と棒状の石が床面に散らばっている。


 山名原口Ⅱ-1号古墳からは、石の歯をはめ込んだ人物埴輪が出土している。
 この伊勢塚古墳の次世代の首長墓は、背後の丘陵にある山上古墳(7世紀)であるが、
 その傍らにある山上碑(国特別史跡・671年建立)には、
 彼らが佐野三家(サノノミヤケ)(ヤマト政権が設置した地域支配拠点)の管理者一族であった由来が記されている。
 このことから、山名古墳群は、岩野谷丘陵および眼下の平野を拓いて佐野三家の創始に関わり、
 後に文化的に飛躍する山名地域の礎を築いた集団の墓所と性格づけられる。   (説明板から)

      

山ノ上碑と山上古墳
国指定特別史跡

高崎市山名町
 (撮影日2014/11/21)

上野三碑の一つ、山ノ上碑
多胡碑から、直線で北東約3km離れている。
ふもとに駐車場がある。
173段の石段を上がらなければならないというので、上がれるか心配だったが、心配するほどのことはなかった。
「山上碑及び古墳」として国指定特別史跡となっている。


山ノ上碑の覆い屋(左)と山上古墳





 山ノ上碑
 碑身は、輝石安山岩の細長い自然石で、高さ約1.1m・幅0.47m・厚さは約0.52m
 碑文は4行にわたり53字が丸彫りされている。

正面  ガラス越しでみている。

横から

刻まれた文字  (説明板から)
 辛己歳集月三日記
 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
 長利僧母為記定文也 放光寺僧

現代語訳
辛巳年(シンシノトシ)(天武天皇10年・西暦681年)10月3日に記す。
佐野三家(サノノミヤケ)をお定めになった健守命(タケモリノミコト)の
 子孫の黒売刀自(クロメトジ)。
これが新川臣(ニッカワノオミ)の斯多々弥足尼(シタタミノスクネ)の
 子孫である大児臣(オオゴノオミ)に嫁いで
 生まれた子である(わたくし)長利僧(チョウリノホウシ)が、
 母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。
 輝石安山岩の自然石(高さ111cm)に53文字を刻んだもので、
  天武朝の681年に立てられた日本最古級の石碑である。
 放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、
  名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものである。
 黒売刀自は、碑の傍らにある山上古墳に埋葬されたと考えられる。
 碑文にある佐野三家(=屯倉)とは、
  6世紀~7世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点である。
 佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名一体)にまたがって存在していたとみられ、
  健守命がその始祖に位置づけられてる。
 碑の造立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と推定される
  新川臣(現桐生市の新川か)の子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子である。
 彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定される。
 この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明している。
 当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者だったと考えられる。
 山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、
  碑の造立に際しては渡来人も深く関わったと推定される。
 碑に隣接する山上古墳は、7世紀中ごろの築造と考えられる。
 その築造時期は、山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、
  後に黒売刀自を追葬したものと考えられる。
      (説明板から)

山ノ上碑の横に山上古墳がある。

 山上古墳 ヤマノウエコフン
 南にのびる丘陵尾根の先端頂上近くを「コ」字形に彫りこみ、
  全長6mほどの横穴式石室を造り、
  正面観を径15m・高さ5mの円墳に仕上げている「山寄せ古墳」。
 葺石なし 埴輪もなし

山上古墳 横穴式石室実測図   (説明板から)
南南西に開口している横穴式石室は、全長7.4m
 玄室長2.68m・幅1.75m・高さ1.66m
 羨道長4.69m・幅0.9m・高さ0.93m
この丘陵産の凝灰岩を切石積みしている。
奥壁は、一部を補っているが、大きな切石1枚からなり、
   側壁は石材を2段に組み上げて、
   左右の壁面を途中から「く」の字に折り上げている。

終末期古墳の特徴があり、
 7世紀中ごろの築造と推定されている。


山上古墳 正面

石室入口

羨道から石室を見る

玄室内部 奥壁

玄室から外を見る

   

金井沢碑
国指定特別史跡

高崎市山名町
 (撮影日2014/11/21)

上野三碑の一つ、金井沢碑
山ノ上碑から、直線で北西1kmしか離れていない。
東側の山裾をぐるっと周って、金井沢碑へ。 駐車場あり。トイレあり。
石段上がってすぐ。





石段を上がると金井沢碑の覆い屋がある。

金井沢碑
・正面   ガラス越し

金井沢碑・横から

刻まれた文字  (説明板から)
上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子■為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次若蹄
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地請願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月廾九日
※■は欠字
※「蹄」(ひづめ)は旧字体であったため、新字体で表記。

 現代語訳
 上野国(コウズケノクニ)群馬郡(クルマノコオリ)下賛郷(シモサヌゴウ)高田里(タカダノサト)に住む
  三家子■が(発願して)、祖先および父母の為に、
 ただいま家刀自(イエトジ、主婦)の立場にある他田君目頬刀自(オサダノキミメヅラトジ)、
 その子の加那刀自(カナトジ)、孫の物部君午足(モノノベキミウマタリ)、
 次の蹄刀自(ヒヅメトジ)、次の若蹄刀自(ワカヒヅメトジ)の合せて六人、
 また既に仏の教えで結ばれた三家毛人(ミヤケノエミシ)、
 次の知万呂、鍛師(カヌチ)の礒部君身麻呂(イソベノキミミマロ)の合せて三人が、
 このように仏の教えによって(我家と一族の繁栄を願って)
   お祈り申し上げる石文(イシブミ)である。
     神亀3年丙寅(へいいん)2月29日
 輝石安山岩製の自然石碑(高さ110cm)で112文字が刻まれた日本有数の古碑である。
 古代豪族の三家氏が、奈良時代初期(神亀3年・726年)に先祖供養のため造立した。
 南西1.5kmにある特別史跡山上碑(681年立)には、
  当地に佐野三家」(ヤマト政権の地方支配拠点)が存在したことが記されるが、
  三家氏はその経営者の末裔とみられる。
 本碑の冒頭には「上野国群馬郡下賛郷高田里」とあり、
  願主の居宅は現高崎市下佐野辺りにあったようだが、
  碑は烏川対岸に所在し、佐野三家の領域や三家氏の勢力圏は、広く烏川両岸に及んだらしい。
 碑文からは、願主で家長の三家子■及びその妻-子-孫からなる六人の直系血統(内女性4人)と
  同族男性3人からなる既存の信仰グループが結びつき、これを立碑したことがわかる。 
    (高崎市HPから)

これで上野三碑である多胡碑・山ノ上碑・金井沢碑を全て見学したこととなる。

倉賀野古墳群

高崎市倉賀野
 (撮影日2014/11/21)

島川左岸の段丘上には、
円墳の大山古墳(径60m) 庚申塚古墳(径45m)
前方後円墳の浅間山古墳、大鶴巻古墳、小鶴巻古墳などの古墳及び
方形周溝墓が多数つくられていて古墳出現期から5世紀前半にかけての墓域が形成されていたと考えられている。

            (浅間山古墳説明板から)
高崎市遺跡分布地図では正六古墳群となっているそうだが、「倉賀野古墳群」と表示しておく。

 大鶴巻古墳   国史跡 (倉賀野古墳群)

高崎市倉賀野町
 全長123mの前方後円墳  後円部径72m・高さ10.5m  前方部長さ51m・高さ6.5m
 盾形の周堀があり、周堀も含めた長さは174mとなる。
  後円部に比べて前方部が小さく、浅間山古墳を2/3に縮小した形であるといわれている。
 後円部は3段 前方部は2段築成  葺石あり  埴輪あり
 主体部は未調査のため、詳細は不明だが、竪穴式石室と考えられている。
 埴輪は円筒埴輪と鰭付円筒埴輪がある。
 浅間山古墳の前、5世紀初頭の築造と推定されている。

南から見る大鶴巻古墳

手前は前方部



周壕跡がきれいに残る。

前方部から後円部を見る

後円部頂

後円部から前方部を見る

後円部脇から前方部を見る

大鶴巻古墳の北側に周濠を一部共有するように隣接して小鶴巻古墳がある。




大鶴巻古墳と小鶴巻古墳の配置図

   (古墳辞典から)

 小鶴巻古墳  国史跡  (倉賀野古墳群) 高崎市倉賀野町
 全長87.5mの前方後円墳、後円部径45m・高さ6m 前方部長さ40m・高さ2.5m
 盾形周堀がめぐる 葺石あり、埴輪あり
 浅間山古墳の1/2であるといわれている。
 後円部墳頂で、凝灰岩製のくりぬき式石棺が確認されている。
 5世紀後半頃の築造と推定されている。(浅間山古墳の後)    (高崎市HP)

大鶴巻古墳の後円部から見た小鶴巻古墳
アパートのうしろが後円部 左側が前方部

北側から見る 奥が後円部。 石棺はどこ?
石垣は後世のものと思われる。

左が小鶴巻古墳前方部
 左奥に後円部がある。

右奥に見えるのは
 大鶴巻古墳後円部

小鶴巻古墳から北西約500m、
倉賀野の古墳群の中で一番大きく、3基の前方後円墳の中では、最も北西にあるのが、浅間山古墳。

 浅間山古墳 センゲンヤマコフン   国史跡  (倉賀野古墳群) 高崎市倉賀野町
 全長171.2mの前方後円墳
  後円部径105.2m・高さ14.1m、前方部長さ66.3m・高さ5.5m

浅間山墳丘図 (説明板から)

周濠を含めると全長は232mとなる。
群馬県内では、
 太田市の大田天神山古墳(210m)についで
 第2位の墳丘規模。
盾形の周堀(内堀)がめぐり、
 内堀の外周には葺石を持つ中堤が築かれ、
 その外側には周堀(外堀)がめぐる
前方部は2段・後円部は3段築成
 葺石あり 埴輪あり
 円筒埴輪の他、朝顔形埴輪、鰭付円筒埴輪や盾・ゆぎなどの器材埴輪が出土。
 剣形の石製模造品も出土
 埋葬施設は、発掘調査が行われていないため不明だか、
  竪穴系の埋葬施設だと考えられている。
 5世紀初頭の築造と推定されている。

東から見た浅間山古墳

 駐車する所が見あたらず、ゆっくり見学していられない…


北東から見た浅間山古墳

  後円部側 右奥が前方部

円墳の大山古墳、庚申塚古墳は見学していない。

天気は良いが、午後4時半を過ぎると暗くなる。
次は綿貫古墳群だが、・・・・
不動山古墳を見学しているうちに、みるみる暗くなり、観音山古墳では、真暗・・・・。
もう見学できないかもしれないと、真暗の中ウロウロ・・・・
でも、二日後の夕方に、時間が取れたので見学し直した。
二日後のページで改めて紹介しようと思う。

綿貫観音山古墳 石室

石室内部は、日没後でも見学可能。




観音山古墳を出たのが、5時15分ごろ、真暗・・・・。
今晩は、太田市に宿泊なので、 太田市へむかう
6時20分  太田第一ホテル(太田市飯田町)着 チェックインを済ませてから、
徒歩で近くの「はまずし」(太田浜町店 浜町1-5)にて夕食。

太田天神山古墳につづく

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