北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/7/6

2020年秋は、栃木県
その11 足利市
2020/11/23-29

栃木の旅7日目 2020/11/29 最終日です。

足利市周辺の地図g

鑁阿寺
足利氏邸宅として国史跡
本堂は国宝
栃木県足利市2220
撮影日2020/11/29

鑁阿寺山門前のホテルに泊まったので、駐車場においたまま、鑁阿寺を見学。


ホテルの部屋から見た鑁阿寺

元々は足利氏の館だという。

     

 鑁阿寺(バンナジ)
 平安時代後期、源氏の祖、八幡太郎源義家の子義国、その子足利義康(足利氏祖)
  の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅とした。
 境内地(お堀の中全域と土手及び外側の堀の周りの歩道全体)が
  足利氏邸宅として国の史跡に指定されている。
 義康の子、足利義兼(尊氏より7代前)が鎌倉時代初期(1190年代)
  邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗金剛山鑁阿寺を設立した。
  鎌倉時代の建物は   本堂、鐘楼、東門、西門
  室町時代の建物は   一切経堂、山門(仁王門)
  江戸時代の建物は
    二重塔(再建)、御霊屋(再建)、校倉(大黒堂)、太鼓橋、蛭子堂、大酉堂、北門
  明治時代の建物は   水屋、本坊(庫裡)、稲荷堂等
 義兼の子・義氏(尊氏より6代前)の代に七堂伽藍は完成し、
  堀の外に塔中12坊が堀を囲むように建てられたが、
  明治維新と共に塔頭・千手院(現、足利幼稚園敷地)を除いて、
  明治政府に上地させられて、今は家富町という民家になっている。
     (境内説明板から)


金剛山鑁阿寺伽藍図

(境内案内図)
  鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。
 山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来を祀る。
 約4万㎡の敷地は、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、
  平安時代後期の武士の館の面影が残されている。
 「史跡足利氏宅跡」として、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。
 寺院としては、鎌倉時代初期、1196年(建久7年)源姓足利氏2代目の足利義兼(ヨシカネ)が発心得度し、
  邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。
 義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、1229年に落雷により焼失したが、
  足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。
 鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、
  室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護された。
 国宝の本堂鐘楼・一切経堂が国の重要文化財
  東門・西門・楼門・多宝塔・御霊屋・太鼓橋が栃木県指定の建造物で、
  その他、市指定の建造物も多数、
 建造物以外にも、彫刻や文書、美術工芸品など、中世来の貴重な宝物類も多数残されている。
   (鑁阿寺HP他から)

周囲は、土塁と堀がめぐらされている。
奥は、楼門

楼門(山門) 県指定重要文化財

楼門から見た境内

本堂は国宝! ご本尊様は胎蔵内大日如来

中御堂(不動堂)

一切経堂 国指定重文 1407年再建

多宝塔 県指定文化財
右は 大イチョウ(天然記念物)

鐘楼 国指定重要文化財




獅子舞いロボットのおみくじを楽しみました。


足利学校は時間の都合で、外側からの見学。写真はない。

機神山古墳群
機神山山頂古墳・行基平山頂古墳
足利市巴町・本城3丁目ほか
撮影日2020/11/29

鑁阿寺の西約500mの織姫公園にある古墳の見学。
公園駐車場や、レストハウスの駐車場がある。

 機神山古墳群     ハタガミヤマコフングン
 織姫神社のある機神山から両崖山にかけての標高53~118m、
  東西500m南北600mの範囲の尾根上および斜面に、
  26基の古墳があり、機神山古墳群と呼ばれている。

織姫神社の北の山頂にあるのは機神山山頂古墳。
東日本大震災で、横穴式石室の側壁の一部が転落したり、ずれたりしたので、墳丘全体が立入禁止となっている。

 機神山山頂古墳  ハタガミヤマサンチョウコフン  市史跡     足利市巴町 
 全長36m以上・高さ4m以上の前方後円墳 前方部を西に向ける
  後円部径約19m・前方部幅約19m
 墳頂部標高118mで古墳群では最高部に位置している。
 2段築成  葺石あり 埴輪あり
 2段目の斜面にはチャートの割石による葺石がある。 墳丘1段目には葺石がない。
 くびれ部から後円部にかけてテラスをつくるための盛り土をしているほかは、
  全体に山裾の傾斜を削り出し、テラスと1段目の墳丘をつくっている。
 後円部南側に開口する横穴式石室は全長8.08m 平面形はゆるい胴張の無袖石室
  幅は奥壁側1.98m、最大部で2.73m 入口で1.55m 
  高さは奥壁で2.34m、入口で1.23m
  奥壁、両側壁、天井石ともにチャートの割石を使用している。
 明治26年の発掘調査で、副葬品として
  直刀2、鉄鏃17、獣帯鏡2、六鈴鏡1、馬具(杏葉1、轡1)、
   須恵器(提瓶)、勾玉、丸玉、小玉等が出土
  そのほか、墳裾から
   円筒埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥・家・靫・盾)が出土したという記録があるが、
   現在は所在不明。
 平成20年の確認調査では、
  くびれ部を中心に円筒埴輪、形象埴輪(馬・太刀・靫・盾・さしば等)がたくさん出土
 6世紀後半の築造と推定されている。

北側くびれ部の葺石

埴輪出土状況
  

石室実測図

石室内部
(いずれも説明板から)

立入禁止なので遠くから   右が後円部

後円部 上ったところに石室があるのだが…。

行基平山頂古墳は、機神山山頂古墳の北100mくらいの遊歩道沿いにある。

 行基平山頂古墳  ギョウキダイラサンチョウコフン   市史跡    足利市本城3丁目
 墳長42m以上の前方後円墳で、ややいびつな形をしている。
  後円部径20m・高さ4m  前方部幅10m

行基平山頂古墳平面図
 (説明板から)

2段築成
墳頂と墳丘テラス面に円筒埴輪がめぐっている。


 竪穴系の埋葬施設があり、後円部墳頂下約2mから床面の一部と副葬品(鉄鏃)が出土
 東側のくびれ部からは、祭祀用に用いたとみられる須恵器・土師器がまとまって出土。
 前方部前端から南へ張り出した4m四方のテラス状の平坦面から、
  女子人物7個体、男子人物2個体、鳥形2個体、馬形2個体以上、人面付き円筒埴輪7個体以上、
  人物の小像や器材のミニチュアの埴輪などからなる形象埴輪群が出土。
 6世紀初頭の築造と推定されている。
  平成24年~27年に確認調査
 機神山古墳群の1基  

土器集積遺構出土 須恵器・土師器
   

形象埴輪群出土
 小像と器材のミニチュア埴輪

形象埴輪群出土 人面付き円筒埴輪

形象埴輪群出土 人物埴輪・動物埴輪
(いずれも説明板から)
 出土した人面付き円筒埴輪は、円筒埴輪の上段に人物の顔を表現した埴輪で、
  古墳を守護する役割があるとされ、群馬県南西部から栃木県にかけてのみ確認されていて、
  この古墳では、古墳からもっとも離れた形象埴輪群最南端に並べられ、
  武器・武具とみられるレリーフ状の表現や、彩色の文様表現が施されるなど、
  個々に装いが異なる人面付き円筒埴輪が複数確認されている。

前方部から後円部へ上れる

前方部から後円部を見る

後円部

後円部から前方部を見る


織姫神社

とても美しい神社!
1200年以上の伝統と歴史をもつ足利織物の守り神
1937年(昭和12年)に現在の社殿が完成した。
平等院鳳凰堂をモデルとしたという。

機神山の南のふもとにある。
2021年2月にこの山で山火事か発生して、とても心配した。

足利古墳公園
1・2・3号墳が市史跡
足利市緑町足利公園
撮影日2020/11/29

織姫神社の南西約800mのところに足利古墳公園がある。

 足利公園古墳群      前方後円墳1、円墳9基


配置図



10基の古墳が残されている。

1・3・5号墳は
  石室が見学できる。

 明治19年に、公園造成に先だって、1~3号墳が発掘調査されて、
  近代日本ではじめて古墳の学術調査が行われた場所として知られている。


古墳公園

左端7号墳 右端5号墳 
 奥は2号墳

開店前の蓮岱館(料亭?)の駐車場に駐車させてもらって、10号墳から見学。

 10号墳   円墳
  11号墳    円墳
  12号墳    円墳

3号墳には大きな説明板がある。
実は説明板の後ろに横穴式石室があったようだが見逃した…。

 3号墳        市史跡
 平成5年の保存整備のための発掘調査で、
 全長34m・高さ6m以上の前方後円墳 と判明した。
  2段築成
 河原石の葺石あり  埴輪あり
 1段目のテラスには小さな石がすき間なく敷かれ、円筒埴輪が接して並べられていた。
 つくられた当時は全面に葺石があったと考えられている。
 人物、家、盾、鞆、靫、太刀、キヌガサの形象埴輪が頂部を中心に立てられていた。
 南東に向いた横穴式石室は、全長7.9m、玄室長3.3m、幅1.8m、高さ2.1mの両袖式
  奥壁はチャート巨石の2枚積み、側壁もチャートの割石が積まれている。
 明治19年、(1886)、足利織物講習所役員・峰岸政逸氏によって発掘調査され、
  この発掘がきっかけとなって、坪井正五郎博士による発掘調査が行われた。
 当時の記録によれば、
  金環、小刀、鉄鏃、轡、馬具、杏葉、鎧小札など、さらに須恵器が出土。
 6世紀中頃の築造と推定されている。

前方部前端

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

前方部脇から後円部を見る
あの向こう側に、横穴式石室が…。

5号墳は 横穴式石室が露出している。

 5号墳 2号墳と3号墳の間にある。
 現状で径15mほどの円墳
 横穴式石室が東向きに開口。現存長4mほどの無袖式。
  側壁はチャートと河原石が混ざっている。

手前が5号墳 背後は2号墳

東南側に石室が開口している。

石室入口

石室内部

 

 9号墳     円墳
 8号墳    円墳
 7号墳    円墳

右奥2号墳

墳頂に石材露出

1号墳の前には大きな説明板がある。

 1号墳   市史跡
 径16m・高さ4.5m以上の円墳  丘陵の南東端にある
 2段築成、河原石の葺石がある。
 1段目テラスには一定の間隔をあけて埴輪が並べられていた
 山側の一段目葺石と埴輪は省略されて
  谷側から見上げたとき大きく立派に見えるようにつくられている。
 横穴式石室は 全長3.5m以上・高さ1.75mの無袖式
  奥壁と天井石はチャート(山石)の2枚重ね、、側壁は細長い河原石を小口積み
 耳環、家形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪、須恵器などが出土
 平成4年度に保存整備のための発掘
 明治19(1886)年に、人類学者・坪井正五郎博士により
  わが国初の古墳の科学的な調査が行われたと考えられている。
 当時の記録によれば、
  人骨大人1体分、勾玉2、丸玉4、小玉4、金銀環8、直刀7、刀子2、鉄鏃などが出土
 7世紀前半頃の築造と推定されている。

2号墳側から見た1号墳

麓側から見た1号墳

石室は鍵がかかっている。

石室内部 きれいに積まれた河原石

丘陵の頂部にあるのは、2号墳

 2号墳    市史跡
 径21mの円墳
 上部を破壊され、石室は埋められている。
  1号墳と同時に、明治19年に、坪井正五郎博士により調査された古墳。

南から見る 墳丘は上のほうだけか?

北から見る


古墳公園ふもとにある八雲神社(牛頭天王)

佐野唐沢山城主・藤原村雄(秀郷の父)が
 夢のお告げにより、貞観年間(859~876)に
 創建したと伝えられている。



       

助戸山3号墳
市史跡
足利市助戸3 定年寺
撮影日2020/11/29

定年寺裏山に助戸山3号墳が保存されている。寺の駐車場がある。


定年寺山門

定年寺本堂

墓地の中に古墳の説明板がある。

 助戸山3号墳は  全長27.5mの前方後円墳
 2段築成  葺石あり
 テラスに円筒埴輪列がある。
 前方部南隅のテラスでは、円筒埴輪列の間から、須恵器の大甕が出土
 後円部中央に、南に開口する無袖型の横穴式石室がある。
  天井石等上部はすでに失われていた
  平面形は、玄室がやや胴張の無袖型石室で、全長7m以上
  玄門や玄室内に間仕切石がある。
 複数の人骨のほか、直刀、鉄鏃、馬具(環状鏡板付轡)、
   金銅製耳環、ガラス製勾玉、ガラス製小玉などが出土

 後円部径と前方部幅がほぼ等しいことや出土遺物などから
 6世紀後半頃の築造と推定されていて、
  つくられてから7世紀初頭ころまでに、5人程度が埋葬されたと考えられている。

保存処理後の象嵌鍔
(説明板から)

出土した直刀1振りの鍔・はばきから象嵌が発見された。
 発掘調査で、ほぼ全容が確認された古墳である。
 全17基からなる助戸山古墳群の中の1基で、唯一の前方後円墳

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

横姿

 

勧農車塚古墳 足利市宮北町 高庵寺
撮影日2020/11/29

高庵寺の境内にある前方後円墳。
寺の建物や墓地で削られていて、元の形がよくわからない。
寺の駐車場がある。説明板は見あたらない。

 勧農車塚古墳は  全長80m・後円部径40mの前方後円墳
 墳丘は高庵寺本堂や墓地で大きく削平されていて、後円部の一部が残るだけ。
 前方部を南に向けている。
 埴輪がある。
 後円部にある埋葬施設は、竪穴式石室とみられている。
 管玉や滑石製模造品(鎌形2・刀子形4など)が出土している。
 5世紀中頃の築造と推定されている。

高庵寺
くびれ部や前方部に建物が建っている。

前方部前端と思われるが
削られて細くなっている。

前方部から後円部を見る

西から見た後円部

 元の墳丘は、どうなっていたかと想像するのも楽しいです!

常見古墳群
口明塚古墳と海老塚古墳
正善寺古墳
足利市山川町・常見町
撮影日2020/11/29

山川公園に保存されている2基の古墳。口明塚古墳と海老塚古墳!
公園の駐車場がある。

 口明塚(クチアケヅカ)古墳  市史跡     足利市山川町山川公園
 直径48m・高さ5m以上の円墳
 3段築成
 2段目の墳丘の斜面には山石と川原石からなる葺石がある。
 周囲には幅約8mの溝がめぐる。
 円筒埴輪のほかに人物・家などの形象埴輪も出土。
 南に開口する横穴式石室は羨道部は失われていたが、
  推定全長約8.7m、玄室部長さ5.4m・最大幅2.7m・高さ2.5mの両袖型
  左右の側壁は持ち送りがきつくつくられている。
  山石の巨石を組み合わせている。
 出土品はない。
 6世紀末の築造と推定されている。
 平成4年(1992)に古墳復原整備がなされた。

横穴式石室実測図

(説明板から)

 古墳時代後期(6世紀~7世紀)の足利地域最大の首長墓群である常見古墳群の中の1基
 山中や山麓に小規模な円墳が多い毛野地区の古墳の中で、この古墳は平地にあり、
 常見古墳群の正善寺古墳(前方後円墳)、海老塚古墳(円墳)
  に次いで規模が大きく、これらの古墳とともに6世紀末頃の築造と推定されている。

南から見た口明塚古墳

説明板の横に石室が開口している。
 復元整備では、羨道及び天井石を補充、積み直し、墳丘を盛り、張芝、一部葺石復元
  周溝は砂利で表現した

石室は施錠されていて、入れない!

石室内部

奥壁付近

北から見る

すぐ後ろには海老塚古墳の石室も保存されている。

 海老塚古墳  足利市山川町山川公園
 直径53mの円墳
 2段築成 周溝がある。
 各段の斜面にチャートの割石を積んだ葺石がある。
 横穴式石室は全長9.1m、最大幅2.7m・高さ1.5m以上
  チャートの巨石を積み上げたもので、市内では一番長い石室。
 石室内から、丸玉、桂甲小札、雲珠、金銅製鈴、長頚瓶などが出土
 口明塚よりやや古い6世紀後半頃の築造と推定されている。

現在地の東方450mにあったが平成2年に現在地に移築復元された。

石室の下部しか残っていない

奥壁側から開口部を見る

南西約500mにある正善寺には正善寺古墳がある。  

正善寺古墳は、くびれ部にお寺の建物があり、前方部と後円部が分断されている!
後円部に横穴式石室がある。
説明板はある。 駐車場もある。

 正善寺古墳  市史跡      足利市常見町正善寺
 全長88mの前方後円墳  後円部径32m・高さ5m  前方部幅38m・高さ4m
 周溝がある。
 墳丘は墓地化している。
 後円部に南に開口する横穴式石室があり、観音菩薩像などが出土したという
  石室全長は、7.5m
 6世紀後半の築造と推定されている。
 足利地方最大級の後期前方後円墳

東から見た後円部

後円部南側に石室がある。石室横に説明板。

地下に下りるように石室がある

奥壁に石仏と祠がある

石室内部から開口部を見る

後円部から前方部を見る。くびれ部に建物

くびれ部から前方部を見る

前方部から後円部を見る


北側の前方部上は樹木葬の墓地となっている

奥がくびれ部から後円部

  

史跡 中日向古墳群
5基が市史跡
足利市瑞穂野町 赤城神社
撮影日2020/11/29

赤城神社の西の道路沿いに、平成2年の説明板があるが、南側には新しい説明板もある。

赤城神社の周辺に5基の古墳が残る。古墳脇に駐車できます。

 中日向古墳群
  足利市の南東部を流れる矢場川と姥川に挟まれた標高26mの邑楽ローム層に立地
 6世紀~7世紀の群集墳と考えられている。
 現在は13基の古墳が残る
  そのうち赤城神社境内の前方後円墳2基、円墳3基が史跡に指定されている。
 周辺は中日向遺跡(縄文・弥生から古墳時代)が広がっている。

中日向古墳群平面図 (説明板から)

緑色の部分は
 発掘調査で確認された1号墳の周溝の一部


中日向古墳群及び中日向遺跡出土の遺物
  (説明板から)

1  1号墳出土埴輪
2・3 3号墳出土埴輪
4  土師器
5  縄文土器
6  弥生土器
 1号墳
 推定全長50~60mの前方後円墳   前方部を西に向けている。
 前方部西側は道路によって切断されている。
 幅3.7~5m・深さ0.5~0.7mの周溝の一部が確認されている。
 埴輪片・縄文土器片・弥生土器片が出土している。
 後円部頂に赤城神社社殿が建てられている。

東(後円部手前)から見る

手前で、周溝が確認されている。

南から見た後円部
 鳥居の左に説明板

後円部頂
奥が赤城神社社殿 手前は収納庫かな

後円部から前方部を見る

前方部側 左手前が削られた前方部
 2号墳 全長35mの前方後円墳と推定されている。
 前方部を南東に向けている。形は崩れている。
 1号墳より小規模で、姥川右岸の台地の端に立地していることから、
  1号墳の後の築造と推定されている。

奥に横たわるのが2号墳
左後円部 右奥前方部  手前右に5号墳

前方部から後円部を見る


後円部から前方部を見る

前方部奥には塀があるが、
その向こう側にも前方部が続いているようだ。
 3号墳  直径27mの円墳  西半分は道路で削られている。
 その際円筒埴輪と、墳丘の下から縄文土器が多数出土

西の道路から見る

東から見る
 4号墳  直径15mの円墳

手前4号墳
左奥2号墳 右奥5号墳

手前4号墳 奥は3号墳
 5号墳  直径22mの円墳

5号墳墳丘

左奥は2号墳 
右奥は1号墳(赤城神社社殿)

中日向古墳群・中日向遺跡の埋蔵文化財包蔵地範囲  (説明板に加筆)

高松古墳群
高松5号墳と高松天神山古墳
栃木県足利市高松町
撮影日2020/11/29

中日向古墳群の西にあるのが、高松古墳群。
高松5号墳、高松天神山古墳が残っている。

高松5号墳は、中日向古墳群の西約500mにある円墳
説明板は見あたらない

 高松5号墳
 直径25m・高さ4.5mの円墳 

東から見る

西から見る
右側に墳丘が伸びているような気もする…。

高松天神山は、高松5号墳の南西約300mの道路沿いにある。
 道路でかなり削られている。

 高松天神山古墳
 1辺30mの方墳か?   墳丘上に祠がある。

北側が道路で大きく削られている。

墳頂の祠
「菅神廟」と書かれている

 

お昼になったので、高松天神山の南の大きな道路沿いにあるベイシアマート邑楽店で昼飯調達
なんとここは群馬県!矢場川が県境になっているらしい。
急いで、足利市に戻り、古墳見学を続ける。

小曾根古墳群
永宝寺古墳・小曾根浅間山古墳
・小曾根3号墳
栃木県足利市小曽根町
撮影日2020/11/29

高松天神山古墳から西約1.5kmの小曾根地区には、
 永宝寺古墳や小曾根浅間山古墳・小曾根3号のほかに
 古墳時代後期の築造と推定されている円墳が数基確認されていて、小曽根古墳群と呼ばれている。

永宝寺古墳は、永宝寺境内、本堂の北側にある。寺の駐車場がある。

 永宝寺古墳  市史跡 
 全長66mの前方後円墳  前方部を西に向けている。
  後円部直径36m 高さは前方部・後円部とも6m
 2段築成
 周溝は前方部前端で、幅4m以上・深さ1m以上
 後円部南に開口する横穴式石室は、現存する全長6.7m
  奥壁の幅と高さはともに1.6m
  平面形は細長い長方形の無袖式で、チャートの割石を使用している。
  天井石は長さ3.2m以上・幅1m以上の巨大なチャートを使用している。
  羨道と玄室の間には、60cmの段差があり、玄室を地表面より1段低く設けている。
 石室の床から、金銅製の耳環11、石製管玉5、ガラス製小玉200以上、
  雲珠の部材数点、弓飾り金具1、鉄鏃1などが出土。
 南側のくびれ部から埴輪や須恵器大甕の破片が出土したことから、
  墳頂に埴輪列や須恵器があったと考えられている。
 6世紀後半の築造と推定されている。
 耳環が11個出土していることから、少なくとも6人が繰り返し埋葬されたとみられている。

永宝寺古墳平面図
(平成14年度文化財保護年報より)

永宝寺古墳石室実測図
(平成14年度文化財保護年報より)
(いずれも説明板から)

後円部が木々の間から見えている
北側から見る

前方部先端は
道路でかなり削られているようだ。

南から見た前方部 右に後円部

後円部南には石室が保存されている。

石室開口部は、施錠されている。

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

永宝寺 南の山門から見た本堂
本堂後ろに、石室が開口している。

永宝寺の南に小曾根3号墳が見えている。

 小曾根3号墳
 詳細不明 説明板はない

道路沿いにきれいな墳丘!

小曾根浅間山古墳は、永宝寺からは、家の後ろになって墳頂部しか見えない
 小曽根3号墳からは、道路を挟んで北東側。

 小曾根浅間山古墳  市史跡
 全長58mの前方後円墳。高さは前方部3m 後円部が7m
 前方部が低く短い
 葺石・埴輪あり。
 埴輪は、縦八ケで口縁部を受け皿にし、方形あるいは巴形の透かし孔を有するもので、
  県内で最古の様相を示すもの
  埴輪の初期形態となる「器台埴輪」が見つかっている。
 藤本観音山古墳と同じく、市内の前期古墳と考えられている。
 墳丘上には浅間神社が建てられている。

南東から見る

南側墳裾の浅間神社鳥居

墳頂の祠

浅間神社の後ろには、稲荷社がある。

墳頂から、南墳裾を見る

南西から見る 前方部は私有地なのか塀がある。

 

羽刈観音古墳(群) 足利市羽刈町
撮影日2020/11/29

羽刈工業団地の西にある。
標柱には、「羽刈観音古墳群」とあるので、ほかにも確認されている墳丘があるらしい。

 羽刈観音古墳は 全長38mの前方後円墳。全長38m、 後円部径21m・高さ3m
 前方部を南に向けている。
 墳頂には子育観音堂と庚申塔が祀られている。
 平成5年に測量調査と前方部の裾部付近のトレンチ調査がなされたが、遺物は発見されなかった。

前方部脇から見る

西側の道路から見る  左・後円部 

前方部から後円部を見る

後円部にある観音堂と庚申塔

後円部から前方部を見る

後円部墳丘

 

藤本観音山古墳
国史跡
栃木県足利市藤本町
撮影日2020/11/29

この古墳は、2014年に群馬県へ行ったときに見学している。   2014年の見学記
今回は、周囲を一廻りした。
2017年(平成29年)に設置された説明板があった。

 藤本観音山古墳は  全長117.8mの前方後方墳  前方部を西に向ける。
  後方部は3段築成で高さ約11.8m  前方部は2段築成で高さ5.4m
 葺石がある。 埴輪は確認されていない。
 周溝は幅が広く、平面形は長方形を基調としながらも、
  縁辺部は不整形で、、特に前方部南西側は極端に狭まっている
 周濠を含めた全長は210m
 墳丘下の旧表土中から、
  4世紀初頭に浅間山の噴火により降下した浅間C軽石が検出されていることや、
  出土遺物などから、4世紀中ごろの築造と推定されている。
 周溝が狭まる部分の外側には、南北100m東西70mの範囲で、
  古墳と同時期の竪穴建物跡21軒と土坑3基などが確認されている。
 時期や立地条件などから古墳築造の際の飯場や古墳祭祀などの場と考えられている。
 下野と上野の境となっていた矢場川右岸の、標高30mの平地にある。 
発掘調査で確認された遺跡の分布状況

2017年(平成29年)に設置された説明板から
 昭和59年第1次~平成15年の7次にわたる発掘調査が行われている。

後方部上り口

2014年にも、同じアングルの写真がある。
2014年には、南側(群馬県側)からしか見ていないので、今回は北側から見る。

くびれ部には
 産業廃棄物の山がある。

右は前方部

1960年(昭和35年)に町村合併で足利市に編入されたが、かつては群馬県山田郡矢場川村だった。
藤本観音山古墳の西約3kmには群馬県太田天神山がある。

矢場川村古墳群
勢至堂裏古墳ほか
栃木県足利市新宿町
撮影日2020/11/29

藤本観音山古墳の北東約500mの、矢場川南岸に勢至堂観音堂があり、その周辺に矢場川村古墳群がある。

ソーラーパネルの真ん中に勢至堂裏古墳があるが、立入禁止!
南側の道から立入禁止のギリギリで、見学。

矢場川村古墳群の配置図g

 勢至堂裏古墳   
 元々墳長45mほどの前方後円墳 後円部径29m
 周溝があった。
 横穴式石室
  6世紀前半の築造と推定されている。

ソーラーパネル群の真ん中に
丸く残された墳丘!


平成6年に調査されたという。
 墳丘その2
 勢至堂裏古墳の北側にも、墳丘が見える。

ソーラーパネルの奥

勢至堂の墓地の横だが、
近寄れないようだ…。
 墳丘その3
 立入禁止ギリギリのところから左を見たら、墳丘!

民家の庭のようなところにある。

墳頂にあったと思われる小祠が
 左下に降ろされているので、
 壊されるのかもしれない…。

矢場川村古墳群は、かっては90基以上の古墳があったそうだ。
どんどん壊されていく…。

根本神社古墳
市史跡
栃木県足利市朝倉町
撮影日2020/11/29

ヨークベニマル足利店のすぐ東の住宅街の中に保存されている。

 根本神社古墳は 長さ24m・幅21m・高さ4.5mの戴頭方錐形の墳丘が残っている。
 頂部は長さ7m・幅5mで、北に緩傾斜している。
 頂部には、割石を組んだ根本神が祀られているが、
  これは周辺にあった群集墳の石室のものと考えられている。
 もとは北に前方部があり、前方後方墳と推定されている。

北から見た墳丘

説明板はある。

墳頂には、祠と巨石

祠の土台には、石室の割石が使われている

 

午後2時半ごろ、すべての予定を終える!
足利市では、時間の割には、多くの古墳を見学できた!

ヨークベニマルで休憩後、 宇佐美ガソリン㈱東日本宇佐美50号足利西で給油。
15時12分 大田桐生ICから上信越道を目指す。
15時45分 甘楽PAで、gotoトラベルクーポン券を使い切る。
16時39分 佐久韮崎分岐点
   黒姫野尻湖PAで休憩 
18時05分 上越JCT
18時12分 名立谷浜SAにて夕食
20時30分  白山IC  20時45分 帰宅

6泊7日の長ーい旅、終わったー!

栃木の旅終わり

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