北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/5/13
2020年秋は、栃木県
その8 小山市1・下野市2
2020/11/23-29
栃木の旅五日目 2020/11/27 午後です。
オトカ塚古墳のある「天平の丘公園」のすぐ南は小山市となる。
すぐに摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳とそばの資料館に到着。
資料館に駐車場がある。
琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳 国史跡 |
小山市飯塚 撮影日2020/11/27 |
小山市北部にある国史跡の2つの前方後円墳!
そばに資料館も開館している。
琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳の位置関係
(資料館パンフレットから)
右上が琵琶塚古墳
左下が摩利支天塚古墳
道路で分断されているが、
元はつながった地形のように感じる。
思川と姿川の合流地点に臨む飯塚地区にある。
琵琶塚古墳 | 国史跡 |
墳長124.8mの前方後円墳 墳丘図 (パンフレットから) 後円部直径76m・後円部高12.5m 前方部幅65m・前方部高10.2m くびれ幅:約40.4m くびれ高:約8.9m 墳丘の周りには幅約20mの周溝があり、その外側に周堤、 墳丘東側と南側は二重の堀であったことが確認されている。 周溝まで含めると、全長200.6mとなる。 前方部2段、後円部3段築成 墳丘1段目は幅広い平坦面があり、 この後に続く「基壇」を有する古墳群「しもつけ型古墳」の初源と考えられている。 当時の下毛野国(シモツケヌノクニ)の人々が、独自の古墳を志向した最初の1基といえる。 墳丘上に、少なくとも二重の埴輪列、周堤上にも埴輪列があったことが確認されている。 とくに前方部側の周堤跡付近から多くの形象埴輪が出土 埋葬施設は未調査 6世紀前半の築造と推定されている。 1978年~1979年 第1次~第2次調査 1990年 第3次調査 2013年~2017年( 平成25~29)年第4次調査 (史跡整備のための発掘調査) |
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資料館駐車場から見た 琵琶塚古墳 右が後円部 |
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後円部脇から前方部を見る |
後円部上の石祠 |
後円部から前方部を見る |
くびれ部から前方部を見る |
前方部先端 後ろに後円部がある。 |
前方部斜め後ろから見る 左奥後円部 |
琵琶塚古墳の南にあるのが、摩利支天塚古墳。
摩利支天塚古墳 | 国史跡 |
墳長120.6mの前方後円墳 墳丘は自然の微高地を利用してつくられている。 墳丘の前方部及び前方部側の周溝・周堤が突き出す 「剣菱型前方部」と呼ばれる特殊な形をしている。 墳丘図 (パンフレットから) 後円部直径71m・後円部高10.9m 前方部幅82.5m・前方部高7.9m くびれ部幅34.5m・くびれ部高5.4m 墳丘の周囲には幅20m以上の周溝があり、 その外側に一重の周堤、 その外側には、部分的には2重目の周溝がある。 周溝を含めると 全長197mとなる。 2段築成 葺石なし 墳丘上は埴輪列が二重にめぐり、均整のとれた形態の大型円筒埴輪が出土 前方部の裾からは墳丘から転落したとみられる女子埴輪が出土 この付近に形象埴輪群(朝顔形埴輪、人物埴輪、馬形埴輪等)があったと考えられている。 埋葬施設は、未確認。 5世紀末~6世紀初頭の築造と推定されている。 琵琶塚古墳に先行して築かれたと考えられている。 後円部頂には摩利支天社が祀られている。 1980年~1982年 第1次~第3次調査 1998年~1999年 第4次~第5次調査 |
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琵琶塚古墳側から見た後円部 右側斜め後ろに前方部 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
前方部にある摩利支天社鳥居から見た墳丘 奥の後円部に摩利支天社の社殿がある。 |
前方部先端 |
前方部裾では発掘中 2021年2月に現地説明会が行われたという。 |
横姿 左・後円部 |
資料館 |
国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館 | 小山市飯塚 撮影日2020/11/27 |
資料館は、琵琶塚古墳の道路をはさんで南側にある。
資料館の敷地には、飯塚古墳群の石室石材が展示されている。
「飯塚古墳群の石室(天井石 鏡石)」
何号墳の石室なのだろうか…。
館内では、摩利支天塚・琵琶塚古墳や周辺の飯塚古墳群からの出土品が展示されている。
摩利支天塚・琵琶塚古墳から出土した埴輪の展示
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飯塚古墳群についての展示 飯塚古墳群出土の埴輪 31号墳・35号墳・44号墳から出土した埴輪 この展示のほとんどが31号墳のもの |
この他に飯塚古墳群31号墳・42号墳・44号墳の個別展示があり、出土品も展示されている。
飯塚古墳群 | |
栃木県最大の前方後円墳・摩利支天塚古墳や琵琶塚古墳の西に隣接する群集墳 。 古墳の大半は昭和40年代以前に行われた土地改良事業等により、墳丘が削平され、 その後も、開発や耕作の邪魔になっている石室石材を抜き取りたいという要望があって、 調査後ほとんど消滅した。 南北1.5km、東西0.4kmの広い範囲に100基を超える古墳が分布していたとみられている。 飯塚42号墳付近の飯塚古墳群配置図 (資料館内展示から) |
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飯塚31号墳 | 墳丘長29.5mの帆立貝形古墳 現在も墳丘の中央部が残っている。 くびれ部付近の木棺から、 武器(直刀や鉄鏃)、工具(鉄斧など)、 馬具(雲珠や飾り金具、鈴杏葉)などが出土 墳丘の周囲全てに埴輪が配置されている 出土した人物埴輪は、市指定文化財となっている。 6世紀前葉の築造と推定されている。 展示品は 埴輪、鈴杏葉・耳環・刀子・鉄斧・鉄鏃・土師器など |
飯塚42号墳 | 墳丘長21.5mの前方後円墳 周溝は盾形 横穴式石室は長さ4.4m 横穴式木室の可能性がある。 8人前後が埋葬されたと考えられている。 6世紀中葉の築造と推定されている。 展示品は、直刀・刀子・鉄鏃・玉類・砥石・鏡・土師器・須恵器など |
飯塚44号墳 | 墳丘長30mの帆立貝形古墳 現在わずかに墳丘が残存する 古墳全体に埴輪がめぐっていたと考えられている。 盾や太刀のほか、人物・靫・サシバ(儀式用のうちわ)など 器材埴輪を中心に多彩な形象埴輪が出土 6世紀中~後葉の築造と推定されている。 長い墓道をもつ地下式の無袖型横穴式石室がある。 展示品は、埴輪、銅釧・勾玉・切子玉・耳環・馬具など |
飯塚35号墳 市史跡 |
小山市飯塚 撮影日2020/11/27 |
飯塚35号墳は、摩利支天塚古墳の西100mの道路南にある。
飯塚35号墳は、飯塚古墳群の中の一つ 全長40m以上の前方後円墳 後円部径31m・高さ4.5m 墳丘裾は、北側は道路で、南側・東側は建物を建てる時に削られていて、 周囲からは埴輪や土器の破片が採取されたこともある。 円筒埴輪や朝顔形埴輪、盾持ち人物埴輪などが出土した。 6世紀後半の築造と推定されている。 1994年(平成6年)、1997年(平成9年)に市道221号線の拡幅工事に伴う発掘調査 |
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北から見た墳丘 |
東から見た墳丘 |
1988年に、直径22m・高さ5mの円墳として、小山市の史跡に指定され、
以前は横穴式石室があると考えられていた。
(説明板には、「横穴式石室があると考えられている」と書かれている…)
1994年、1997年の調査によると内部主体は検出されず、
横穴式石室の可能性は低いと考えられているようである 。
古屋敷古墳 市史跡 |
小山市飯塚 撮影日2020/11/27 |
飯塚35号墳の南約700mの道路沿いにある。
古屋敷古墳は、直径18m・高さ3mの円墳 墳頂に七面堂がある。 |
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北から見た墳丘 基壇があるように見える(?) |
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墳頂の七面堂 石碑には「末法鎮守七面大明神」とある |
方向を変えて見た墳丘 |
地域的には、飯塚古墳群の南端になるが、飯塚古墳群に含まれるのかな?
桑57号墳 市史跡 |
小山市大字喜沢 撮影日2020/11/27 |
小山ゴルフクラブの敷地内に、古墳が保存されている。
道路からすぐ、古墳のそばに行けるようになっている。
桑57号墳は 全長59mの帆立貝形古墳 前方部幅32m・高さ2m 後円部径39m・高さ5m 葺石がある。 墳頂部と墳丘裾部で埴輪列が確認されている。 円丘部に掘られた割竹形木棺を納めたと思われる墓坑内から 30代女性のものとみられる歯や銅鏡3面、玉類、金銅製冠、銅鈴、 蛇行剣を含む刀剣類など多くの副葬品が出土した。 5世紀後半の築造と推定されている。 小山ゴルフクラブ内古墳群として市指定史跡となっている。 昭和46年・47年に発掘調査で出土した38点が小山市指定の有形文化財となり、 小山カントリークラブに保管・陳列されている。 |
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桑57号墳 左に前方部 |
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後円部から前方部を見る |
後円部側 |
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小山ゴルフクラブ古墳群は、 小山市桑地区の最南端に位置する喜沢古墳群の一部で、思川が姿川と合流し、 喜沢の西側で大きく曲流する付近に、段丘を切る侵食谷がある。 この谷の北側の地点でひとつのまとまりをみせている。 帆立貝形古墳の桑57号墳のほかに4基の円墳と、 江戸時代の一里塚(市史跡)が保存されている。 5世紀後半~6世紀の築造と推定されている。 (説明板から) |
自治医大近くの「両毛丸善(株)下野グリーンタウン」にてガソリン給油。
薬師寺愛宕神社古墳 | 下野市薬師寺 撮影日2020/11/27 |
JR自治医大駅の東約1km、住宅街が途切れたあたりに目立つ森がある。
薬師寺愛宕神社古墳は 径34m・高さ5mの円墳 2段築成 築造時期は不明 北原古墳群中の1基。 |
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愛宕神社鳥居の後ろに墳丘 |
墳頂に社殿 |
龍興寺 道鏡塚古墳と二月堂古墳 |
下野市薬師寺 撮影日2020/11/27 |
龍興寺境内に、道鏡の墓と伝えられている古墳が残っている。
悪名高いといわれる道鏡禅師だが、地元ではそうでもなく、
説明板には、
「禅師、宮中に奉職すること十余年、称徳天皇が崩御された後、
造下野国薬師寺別当職(長官)に任じられ、奈良から遣東された。
薬師寺に着任後も、各地で積極的に多くの人を教化されたが、
宝亀3年(772)、日本三戒壇の一寺であるこの聖地でなくなった。
人々は、これを深く悲しみ、禅師の徳を偲び、すでにあった円墳を墓標として手厚く葬った」
(説明板抜粋)
とある。
龍興寺 | |
下野薬師寺の南方に立ち、同寺の別院とされている。 寺伝では奈良時代の天平宝字5年(761年)、 鑑真が唐の龍興寺の舎那殿壇の法を移し「生雲山龍興寺」として開基したという。 道鏡の墓(道鏡塚)がある。 山門は平成大改修で、再建されたもので 宮大工・人間国宝「西岡常一」棟梁の弟子「岩下清」棟梁の会心の作 |
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山門 |
本堂 |
元々あった円墳を道鏡の墓とした。
道鏡塚古墳 | 市史跡 |
直径38m・高さ4mの円墳。 周溝がある。 埴輪が出土している。 出土した埴輪などから6世紀末頃の築造と推定されている。 元からあった古墳に追葬の形で道鏡が葬られたと伝えられている。 |
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道鏡塚 |
墳丘 |
道鏡塚古墳の西約200mにある龍興寺二月堂は、古墳の上に建つ。
二月堂古墳 | |
直径27mの円墳 二月堂は、751年創建。 その後、東大寺二月堂の形式を踏まえて建立された。 本尊は十一面観世音菩薩 現在の建物は、人間国宝「西岡常一」棟梁の弟子「菊池恭二」棟梁によって再建された 全国で二月堂があるのは、東大寺とこの龍興寺だけ。 |
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東から見た墳丘 方墳ではなく、円墳です! |
北西から見た墳丘 古墳の説明はない。 |
御鷲山古墳 市史跡 |
下野市薬師寺 撮影日2020/11/27 |
道鏡塚古墳の北約1km、下野薬師寺の北150mにある。
南側は牧場になっていて、後円部ではヤギが草を食べている。
駐車場はない。
御鷲山古墳は 全長85mの前方後円墳 2段築成 1段目(基壇)全長85m (「しもつけ型古墳」) 2段目 全長63m 前方部前端幅24m 後円部径28m 1段目墳丘上からの高さは、前方部4m 後円部5m。 前方部のくびれ部近くで南に開口する横穴式石室は凝灰岩切石積み 全長12m 玄室長さ2.8m 奥壁幅2m 高さ2m 早くから天井石の一部が外されて盗掘を受けていたが、 鉄鏃、刀子、挂甲、辻金具などが出土 墳丘からは、須恵器の甕、円筒埴輪、家形埴輪などの形象埴輪の破片が出土 6世紀末の築造と推定されている。
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前方部前端 |
前方部頂 |
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前方部から後円部を見る 後円部は、ヤギに食べられて、はげ山となる。 |
後円部から前方部(右奥)を見る。 |
牛舎のそばに横穴式石室が開口しているらしいが、見学は止めた…。
下野薬師寺跡 国史跡 |
下野市薬師寺 撮影日2020/11/27 |
御鷲山古墳の南にある。
下野薬師寺は、7世紀末に創建されたと伝えられている。 正確な創建時期を記した文献は残っていない。 730年ころに国の出先機関「造下野薬師寺司」が設置され、国家事業として造営が進められた。 749年には法隆寺などの中央諸大寺と同格に列せられた。 761年には僧の受戒のための戒壇が置かれ、 東大寺、筑紫観世音寺と並ぶ三戒壇の一つに数えられた。 しかし、1092年には伽藍が破壊転倒甚だしいと記されるほど荒廃するが、 鎌倉時代に滋猛によって中興された。 室町時代に足利氏が全国に安国寺を建立した際に、 寺名を安国寺に改称して、その法灯を今に伝えている。 |
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昭和41年に発掘調査が開始され、平成18年度までに37次の発掘調査が行われてきた。 東西250m南北350mに及ぶ塀や、100m四方の回廊など、東国最大級の伽藍をもつ寺院 当初の伽藍が一塔三堂形式という配置とわかった。 下野薬師寺伽藍配置図 (パンフレットから) 回廊の中心部に金堂があると推測されていたが、 近年の調査で 金堂ではなく創建当時の塔とわかった。 創建の塔は、 9世紀ごろに焼失し、回廊の東に再建された。 出土した資料は「下野薬師寺歴史館」に保存展示されている。 |
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薬師寺跡 南門あたり |
回廊跡 奥の建物は回廊一部復元 |
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現在の薬師寺前の由緒では、 「天武天皇白鳳8年(680)に皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念して建てられた。」 と書かれている。
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薬師寺跡の東にある薬師寺八幡宮の境内に古墳状の高まり!
古墳?
三王山古墳群 38・39・40号墳 |
下野市三王山700-1 三王山ふれあい公園 撮影日2020/11/27 |
三王山ふれあい公園の中の東側の林の中に古墳が保存されている。
三王山古墳群は、鬼怒川と田川に挟まれた台地上にある古墳群 100基以上の古墳が確認されている。 古墳群南側には前方後方墳(1号墳・2号墳)があり、 2号墳は出土した遺物から、栃木県内でも最古級の前方後方墳と確認された。 平成24年に公園整備に伴い、39号墳と40号墳が範囲確認調査された。 (栃木県埋文センターだより2013/6から) |
北から、三王山40号墳・39号墳・38号墳。
三王山40号墳 | |
周溝上面での直径30mの円墳 周溝幅6m 以前は墳形不明だったが、平成24年の調査で、円墳と確認された。 |
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墳丘 |
墳頂 |
三王山古墳(39号墳) | |
周溝上面での墳長75mの前方後円墳 後円部径50m 前方部先端幅38m 三王山古墳群の中で最大規模 前方部を南西に向けている。 葺石なし 埴輪なし 2段築成 1段目の平坦面(基壇)の幅が10mで基壇と考えられている。 (「しもつけ型古墳」) 周溝幅8~16m 古墳の北側から東側には、周堤があることが確認されて 周堤まで含めた全長は100mをこえる (「栃木県埋文センターだより2013年6月」から) 埋葬施設や副葬品の詳細は不明 前方部が大きく発達した形状で、埴輪が出土しないことなどから、 7世紀の初め頃の築造と推定されている。 |
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後円部斜め後ろから見た墳丘 右奥が前方部 |
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後円部先端 周溝跡も確認できる |
後円部から前方部を見る |
前方部頂部 |
前方部から後円部を見る |
前方部先端 |
三王山38号墳 | |
墳丘長51mの帆立貝形古墳 基壇がある 。(「しもつけ型古墳」) 葺石なし 埴輪なし 土器も確認されていない 三王山古墳の南側に隣接して築造されている。 前方部の前端に盗掘された形跡があり、川原石や小砂利が確認されている。 発掘調査が実施されていないため、埋葬施設や副葬品は不明。 38号墳 測量図 (シンポジウム資料から) |
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全景 |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
近くにあるの星の宮神社古墳や愛宕神社古墳、三王山南塚1・2号墳も見学したかったが
暗くなってきたので、石室が見学できる古墳へ。
石室なら暗くても懐中電灯さえあれば大丈夫!
別処山古墳 ベッショヤマコフン 出土品は県指定有形文化財・考古資料 |
下野市絹板(旧南河内町) 撮影日2020/11/27 |
石室の見学できる古墳です!
別処山公園に復元保存されている別処山古墳!
別処山古墳は 全長37mの前方後円墳 後円部径24m、前方部幅約24m 東西に主軸を持つ(東・後円部、西・前方部)。 周溝がある。 後円部南側に開口する片袖型横穴式石室は、長さ3.3m・幅1.2m・高さ1.mの河原石積み 奥壁が後円部の中心にある。 石室は、盗掘されていなかったため遺物の残りがよく、 銀装大刀1点、鉄鏃9点、刀子2点、耳環3点、三鈴鏡1点などが出土。 被葬者の骨の一部も出土。 銀装大刀は、全長97cmの鉄製で、 約20cmの柄には銀の薄板と銀の糸によって装飾がほどこされた 儀式用の刀で柄頭の中には青銅製の鈴が入っていた。 三鈴鏡は、青銅製で直径7cmで周縁には縁に3つの鈴と吊り手状のものがついていて、 祭事用に使われた鏡と考えられている。(主に北関東から出土している) 円筒埴輪や形象埴輪(人物埴輪など)が出土していることから、 古墳にさまざまな埴輪が立てられていたと考えられている。 6世紀後半の築造と推定されている。 横穴式石室実測図 (説明板から) 陶器で造られた説明板で ひびが入っている 昭和61年に別処山公園造成時に発見された。 発見されたときには、造成工事のために墳丘のほとんどが破壊されていたので、 墳丘は復原されている。 出土品は2008(平成20)年に県の有形文化財・考古資料に指定されている。 |
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後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
前方部裾から墳丘を見る |
後円部裾から見た墳丘 右奥前方部 |
後円部南に開口する横穴式石室 柵があるので、入れない |
石室内部 入れないのにゴミが目立つ…。 |
別処山古墳の南200mの道路沿いの農地に古墳状の高まり
方墳?
今日はコンテナホテル「HOTEL R9 The Yard 小山喜沢」に宿泊
一つのコンテナが、一つの客室
2つのベットが入るとかなり狭い…。
別処山古墳からすぐなので、5時には着いてしまう。
ホテルの向かいにあるスーパーマーケット「とりせん」で
持ち帰り弁当を調達してチェックイン!
食事なしのプランだが、朝食として、冷凍おにぎりとスープのおまけ付き!
ホテルの部屋には、電子レンジがあるのです。
小山市愛宕塚古墳 (2020年秋その9) へつづく