北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/4/10
2020年秋は、栃木県
その6 日光市・宇都宮市3・上三川町2
壬生町1・下野市1
2020/11/23-29
4日目 2020/11/26です。
日光の温泉旅館で、ゆっくり朝食をいただいて、8時過ぎに出発
東照宮は、9時に開門なので、その前に、中禅寺湖と華厳の滝へ
華厳の滝・中禅寺湖 | 日光市 2020/11/26 |
栃木県の最大の観光地。
落葉の時期で、男体山も華厳の滝も、全貌をすっきり見ることができた。
午前8時半の 中禅寺湖と男体山
華厳の滝
木々の葉が落ちて、すっきり見えている
1時間ほどで見学を終える。
日光東照宮 | 日光市 2020/11/26 |
栃木県最大の観光地!多くの観光客が訪れている。
特に、学校の修学旅行生が目立つ。
陽明門 |
ご存じ!見ざる言わざる聞かざる |
唐門(重要文化財) |
奥社宝塔 |
日光二荒山神社 | 日光市 2020/11/26 |
下野國一之宮!東照宮の隣にある。
関東第一の霊峰男体山(二荒山)を始めとする日光三山を御神体山として祀る神社。
男体山の山頂に奥宮、中禅寺湖湖畔に中宮が鎮座する。
参道 杉並木 |
神門 |
境内 |
拝殿 |
日光から宇都宮市に戻って、古墳見学開始です。
根古谷台遺跡 うつのみや遺跡の広場 将軍塚古墳 |
宇都宮市上欠町 2020/11/26 |
聖山墓地公園の一角に根古谷台遺跡がある。
そばに資料館があり、
将軍塚古墳や聖山6号墳出土の土器のほか、宇都宮市内の遺跡の説明や出土品の展示がある。
根古谷台(ネゴヤダイ)遺跡は 関東平野の北部、宇都宮市の西郊の、 武子川と姿川の2つの小さな河川にはさまれた高さ15mの舌状台地にある。 縄文時代前期、黒浜式土器期に集団墓地と建物、さらに奈良時代には集落が営まれた。 周辺の約7kmの範囲には、 3ヶ所の黒浜式土器期の遺跡があり、この遺跡との関連が予想されている。 墓地公園建設のために昭和61、62年に事前調査が行われた。 発掘調査の結果、300を超える墓壙や建物跡が発見された。 墓壙・・中心の空白部分を囲んで5~10ほどのまとまりが、楕円形に並んで発見された。 穴は、楕円形・円形で直径1mほどの大きさがあり、小さく浅いものがほとんど。 北西隅のまとまった8基から耳飾り、管玉などが見つかっている。 建物跡・・中心の墓域を囲むように竪穴式住居跡・長方形大型建物跡 ・方形建物跡・掘立柱建物跡が建替えも含め全部で69軒見つかった。 長方形大型建物跡は、炉の跡がない、地表面が柔らかい、出土品が少ないという特色を もっているため、地域の集会所としての機能をもっていたのではないかと考えられている。 |
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長方形大型建物 復元 |
掘立柱建物 |
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手前の石は、配石墓 後は復元住居 |
遺物出土墓壙 |
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そばの資料館に、根古谷台遺跡墓壙出土品が展示されている。
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根古谷台遺跡の説明には、古墳についての説明はないのだが、実はここには大きな円墳が残されている。
将軍塚古墳は 径30mの円墳 高さ2.4m 周溝がある。 横穴式石室があると考えられている。 7世紀前半の築造と推定されている。 昭和60年周溝調査 聖山古墳群は 聖山公園の造成に先立つ調査で、7基の円墳が確認されている。 いずれも古墳時代後期の築造と推定されている。 将軍塚古墳は、群中で一番大きい円墳
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根古谷台遺跡聖山1号墳復元石室 聖山公園の造成にともない発掘調査をした聖山1号墳(円墳)の石室の一部が模式的に復元されている。 将軍塚古墳の内部にもこのような横穴式石室があると考えられている。
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古墳から出土した土師器・須恵器・鉄器等も資料館に展示されている。 (上段)将軍塚古墳の出土品 (下段)聖山6号墳の出土品 将軍塚古墳と聖山6号墳は、南北に並んでつくられた。 南側に位置する6号墳が6世紀後半につくられ、将軍塚古墳が7世紀に入ってつくられた。 両古墳の周溝からは、墓前での祭式に使ったと思われる土器が多数出土した。 (館内説明板から) |
下砥上愛宕塚古墳 | 宇都宮市下砥上町 2020/11/26 |
姿川地区まちづくり協議会が寄進した説明板がある。
神社の駐車場あります。
下砥上愛宕塚古墳は 直径24.5m・高さ5mの円墳 墳頂は径5mの範囲で平坦に整地され、砥上神社本殿が鎮座している。 墳丘の南側裾部あたりを削平して拝殿が建てられている。 横穴式石室は全長4.95m 玄室は長さ3.65m・幅1.85m・高さ1.9m 羨道長1.3m 埴輪や副葬品などは出土していない 7世紀前半の築造と推定されている。 横穴式石室復元図 (説明板から) 切石積みの両袖型 奥壁は大きな凝灰岩の切石1枚 両壁は2段積みの大きな切石 天井石は2枚の切石 かつて周辺には多くの円墳が存在し、古墳群を形成していたが、今ではその大半が消滅している。 |
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東側の道路から見た墳丘 |
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砥上神社境内にある。 右奥の林が古墳 |
墳丘上には本殿 |
拝殿後ろに墳丘 |
拝殿の背後にくっついて、石室が開口している。 |
入口の天井石 羨道は埋没 |
玄室入口 |
石室内部奥壁側 |
石室内部開口部側 |
午後1時を過ぎ、ようやく「ファミリーマート宇都宮北若松原店」(昨日見学した塚山古墳のすぐ東)で食事。
神主古墳群 | 上三川町大字上神主 2020/11/26 |
前日見学した茂原古墳群の南の高速道路の向こう側には
神主古墳群と茂原・上神主官衙遺跡がある。
神主古墳群には、5世紀前葉の県内最大級の円墳・浅間神社古墳、
6世紀の帆立貝式古墳・狐塚古墳など連綿と古墳が造営されていて、
今のところ50基近い古墳が存在していたことが確認されている。
後志部古墳(神主7号墳) | 町指定史跡 |
後志部古墳群として説明板がある。 後志部古墳群は、田川右岸の神主台地にある神主古墳群の一部。 後志部古墳は、全長46mの前方後円墳 後円部径30m・高さ5m 前方部の幅26m・高さ5m 平成6年度に発掘調査で、県内の古墳時代後期の古墳にみられる 「基壇」に相当する平坦面をもつことが確認された。 円筒埴輪のほか、人物・鞆・靫などの形象埴輪が出土している。 周辺地図 (説明板から) 前方後円墳の後志部古墳のほかに 円墳が数基確認されている。 8・9・10・11号墳は見学しなかった。 |
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後志部古墳 横姿 左後円部 基壇がある。 基壇があるということは 「しもつけ型古墳」?! |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
後志部古墳から北西への脇道に入り約200mのところに上神主狐塚古墳がある。
説明板がある。
上神主狐塚古墳 (カミコウヌシ キツネヅカコフン | 町指定史跡 |
全長40.3mの帆立貝式前方後円墳。後円部径29m・前方部幅21m、 周溝は、後円部側が深く、前方部側が浅くなっている。 形象埴輪や円筒埴輪が出土している。 人面を表現した円筒埴輪も出土している。 埋葬施設は不明 6世紀中頃の築造と推定されている。 |
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雑草がいっぱいで、 なかなか形を確認できない。 |
後志部古墳の北にある大きな円墳が、浅間神社古墳。
南側から長い参道があり、鬱蒼とした林の中に突然大きな墳丘が現れる。
空堀も残っていて、すばらしい!
浅間神社古墳(神主1号墳) | 町指定史跡 | ||||||||
直径58mの円墳 高さ6m 載頭円錐形(頂上を平らに切った円錐形) 平らな頂上部の直径21~24mで、ほぼ中央に浅間神社が祀られている 墳丘裾には幅5~10mの空堀がめぐる。 浅間山古墳ともよばれている。 |
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浅間神社 鳥居 鳥居前に駐車。 鳥居をくぐって進むと、大きな墳丘 |
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浅間神社古墳 南から見る |
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西から見た墳丘 周溝のくぼみも確認できる |
周堤の手前から見た墳丘 |
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周りには古墳と思われる小さな高まりがいくつも確認できる。
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古墳を取りこんで、上神主・茂原官衙遺跡がある。
大きな説明板がある。
上神主・茂原官衙遺跡(カミコウヌシ・モバラカンガイセキ) | 国史跡 |
宇都宮市茂原町と上三川町上神主にまたがる遺跡。 この場所は、奈良時代頃の人名を刻んだ瓦が多く出土することから、 長い間古代の寺院跡と考えられていた。 平成7(1995)年から行われた発掘調査の結果、 7世紀後半から9世紀にかけて営まれた古代の役所(官衙)跡であることが明らかになり、 平成15(2003)年8月27日に国の史跡に指定された。 現在、宇都宮市と上三川町の両市町合同で遺跡の保存整備に向け取り組んでいる。 遺跡全体は堀と塀のようなもので囲まれており、 その規模は東西約250m、南北約400mと推定され、面積は約10ヘクタールにも及ぶ。 堀立柱建物跡を中心に竪穴建物跡や礎石瓦葺建物跡など、 あわせて90棟を越える多数の建物跡が確認されている。 様々な儀式や郡内行政の実務などが行われた場所と考えられる政庁や、 租税として徴収された米(籾)などを保管する正倉と呼ばれる多数の倉庫が 規則正しく建てられていた。 東山道(トウサンドウ)が遺跡の南東側に取り付くように確認されているほか、 当時の河内郡内に居住した人々と考えられる人名が刻まれた文字瓦が約2,300点ほど出土。 遺構配置図 (説明板から) 右下の古墳が、浅間神社古墳 浅間神社古墳の周溝を一部利用して、 東山道がつくられた。 |
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大きな説明板だが、 古墳についての記述は全くない |
遺跡の現状 北の方は、木がなくすっきりしている |
多くの古墳が削平されて官衙がつくられたらしい。
みぶの古墳について | 壬生町 |
壬生町教育委員会発行の「みぶの古墳」というパンフレットでは、
壬生町の古墳をを2つの地区に分けて紹介している。
中央部を流れる黒川の流域には、代々多くの古墳がつくらてきた。
恵川と黒川が合流する東岸の台地上には「壬生地区の古墳」
黒川の約5km上流の台地や丘陵上には、「羽生田地区の古墳群」がある。
墳丘長 | 基壇 | 埴輪 | 葺石 | |||
壬生地区の古墳群 | 吾妻古墳 | 前方後円墳 | 128m | 〇 | 〇 | × |
壬生愛宕塚古墳 | 前方後円墳 | 82m | 〇 | 〇 | 〇 | |
牛塚古墳 | 前方後円墳 | 60m | 〇 | × | × | |
車塚古墳 | 円墳 | 84m | 〇 | × | 〇 | |
羽生田地区の古墳群 | 茶臼山古墳 | 前方後円墳 | 91m | 〇 | 〇 | 〇 |
富士山古墳 | 前方後円墳 | 86m | 〇 | 〇 | × | |
長塚古墳 | 前方後円墳 | 82m | 〇 | × | 〇 | |
桃花原古墳群 | 円墳 | 63m | 〇 | × | 〇 |
墳丘が、段築になっていて、第一段平坦面(基壇)が幅広く造られているものは、
「しもつけ型古墳」と名付けられているようなので、
上記8基の古墳は、全て「しもつけ型古墳」となる。
まず、壬生地区の古墳群から
牛塚古墳 国史跡 (壬生町壬生地区の古墳群) |
壬生町壬生 撮影日2020/11/26 |
牛塚古墳と車塚古墳は隣り合わせにある。駐車スペースあり。
牛塚古墳は 全長60mの帆立貝式古墳。 後円部の高さは6m 2段築成 第一段平坦面(基壇)が幅広く造られている。(「しもつけ型古墳」) 墳丘の周囲には周溝(堀)がめぐる 葺石・埴輪はなし。 赤焼けの須恵器の甕の破片が出土 7世紀初頭の築造と推定されている。 黒川東岸の台地上につくられている。
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牛塚古墳 横姿 右側が後円部 |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
車塚古墳 国史跡 (壬生町壬生地区の古墳群) |
壬生町壬生 撮影日2020/11/26 |
牛塚古墳の東側に大きな円墳の車塚古墳がある。
周堤・周溝・石室開口など、魅力いっぱい!
車塚古墳は 直径84m・高さ約11mの円墳 栃木県を代表する古墳時代終末期の大円墳 一重目の深い周溝と 高く築かれた周堤が完全な形で残る 現在は見えないが、周堤の外側には幅6mの二重目の周溝がめぐり、 二重目の周溝を含めた古墳の総全長は135mとなる。 3段築成 墳丘第一段(基壇)の直径が82m、第二段が52m、第三段が32m。 墳丘第一段の平坦部(基壇)が幅広く造られている (「しもつけ型古墳」) 人頭大の川原石の葺石がある。 墳丘南側に開口する横穴式石室は 現存長5.72m 玄室部は長さ3m・幅2.77m・高さ2.3m 巨大な凝灰岩の一枚石を組み合わせてつくられている。 奥壁壁面には赤い顔料が塗られた痕跡がある。 石室内からは、 玄室の奥壁沿いから金銅張りの耳環やガラスの小玉、水晶製の切子玉が出土 その他の遺物は、江戸時代以前に盗掘を受けたとみられている。 江戸時代の古文書に、当時すでに石室は開口していたことが記されている。 石室の前面からは、祭祀の場と考えられる「前庭」の一部が確認され、 その付近からは故意に破壊された痕跡を残す甕や提瓶の破片が多量に出土 頂部と各平坦部及び周堤上には、埴輪のように須恵器の甕が並べられていた。 7世紀初頭頃の築造と推定されている。 2009・2014~2016年に発掘調査
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周堤と3段築成の墳丘が見える すごい! |
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周堤手前から見た墳丘 石室が見える |
周堤上から見た墳丘 深い周溝と大きな基壇 |
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墳丘の2段目・3段目 |
墳丘上から周堤を見る |
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開口部 天井石に掘り込みがある |
四角い入口 |
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奥壁 赤い顔料の痕跡が残る |
石室内部から開口部を見る 玄門まぐさ石に屋根形の彫りがある。 (後世のもの?) |
車塚古墳の北に車塚3号墳が残っているというが、見学しなかった。
車塚3号墳は、直径20m程の円墳。石祠がある。
壬生愛宕塚古墳 国史跡 (壬生町壬生地区の古墳群) |
壬生町壬生 撮影日2020/11/26 |
牛塚古墳・車塚古墳の南500mには、国指定史跡の(壬生)愛宕塚古墳がある。
神社前に駐車できる。周堤と周溝が残っていて、すばらしい古墳だ!
社務所の壁には「国史跡にサギ(鷺)集団営巣」という新聞記事が貼られていた。
壬生愛宕塚古墳は、黒川東岸の台地上に造られた82mの前方後円墳 二段築成で、第一段平坦面を幅広く造る特徴(基壇)がある。(「しもつけ型古墳」) 墳丘は第一段が77m、第二段が53m。 周溝(堀)の底からの高さは後円部で5.5m、前方部で6.5m。 墳丘2段目の斜面には人頭大の河原石の葺石がある。 墳丘の周囲には深い周溝(空堀)がめぐり、さらにその外側には周堤(土塁)がある。 周堤の外側には、二重目の周溝が確認されている。 二重目の周溝も含めると、総全長は120mとなる。 埴輪が出土していて、墳丘部・周堤部・墳頂部に埴輪列がめぐる。 とくに、墳丘部と周堤部とでは、並べられている円筒埴輪の規格が異なるという特徴がある。 円筒埴輪の高さは、墳丘部で約60cm(三条突帯)、周堤上で約80cm(四条突帯)、 周堤部の各所から「盾持ち人」の埴輪が複数体確認されている。 内部構造は未調査のため不明 後円部にくらべ前方部が大きさ・高さとも著しく発達した典型的な後期型の墳形 6世紀後半の築造と推定されている。 平成29年度から発掘調査 前方部にまつられている愛宕神社は、 元禄7(1694)年、壬生城主・松平輝貞が壬生城の鬼門避けとして建立したと伝えられている。
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愛宕神社 鳥居 |
前方部南側面 右方に後円部 |
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前方部上の社殿 |
広い基壇の上にある前方部 奥に後円部 |
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周溝から見上げる墳丘 左奥・後円部 |
前方部から後円部を見る |
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後円部から前方部を見る |
後円部手前から見た墳丘 |
愛宕塚古墳と次に見学する吾妻古墳の間に、「愛宕神社古墳」がある。
愛宕神社古墳は、径27mの円墳 高さ4m
時間の都合で見学できなかった。
吾妻古墳 国史跡 (壬生町壬生地区の古墳群) |
壬生町壬藤井 撮影日2020/11/26 |
吾妻古墳は愛宕塚古墳の南約1.5kmにある。
工場地帯の中に保存されている。入り口に駐車スペースあり。
北西後円部側から入るが、東側は背の高い雑草が生えている。
吾妻古墳のすぐ西側にある小さな円墳の藤井39号墳も確認できなかった。
吾妻古墳は 全長127.8mの前方後円墳 県内最大で、周溝を含めた総全長は162m 2段築成で、1段目が幅広い基壇になっている。(「しもつけ型古墳」) 埋葬施設は前方部前端にある横穴式石室だけで、 巨大な一枚石の凝灰岩と玄武岩質の緑色岩でつくられた「玄室」と 河原石を積み上げてつくった「前室」からなる。 石室全長8.4m、玄室部長さ2.4m・幅1.7m・高さ2.0m 壁面には赤色顔料が塗られている。 墳丘から円筒埴輪や朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、靭形埴輪などが出土している 石室内からは、銀装の刀子、金銅製帯金具、ガラス玉、小札などが出土している。 6世紀後半の築造と推定されている。 江戸時代末に壬生藩主であった鳥居氏が庭石にするため石室を開口し、 玄門や天井石を持ち出したと言われており、 それらは現在、壬生町歴史民俗資料館(壬生城跡の一角)の庭に置かれている。 県指定有形文化財となっている。
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後円部 右奥方に前方部 |
後円部から前方部を見る |
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前方部から後円部を見る |
前方部上から、凹んだ石室跡を見る その向こうは周溝と周堤 |
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前方部手前から石室跡を見る |
前方部裾から後円部を見る |
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左から 周堤・周溝・墳丘 |
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横姿 基壇の上に2段目が乗っている 左・後円部 |
壬生町の羽生田地区の古墳は、翌日最初の見学となる。
しもつけ(型)古墳群とは | 栃木県南部 |
インターネット上に、「シンポジウム 未来をひらけ!しもつけ古墳群」(平成30年)
の資料が公開されているので、参考にさせていただいた。
「しもつけ」というのは、市の名前でもあるので、しもつけの後ろに「型」とつけて
「しもつけ型古墳」と表現することにする。
しもつけ(型)古墳は 栃木南部(下野市、栃木市、小山市、上三川町、壬生町)にある、共通した特徴をもつ 古墳時代後期(で6~7世紀)の大型古墳を一体的にとらえたもの。 しもつけ(型)古墳の特徴 (1)墳丘に幅広い第一段平坦面「基壇」をもつ。 (2)凝灰岩切石を組み合わせた横穴式石室がある。 (前方後円墳においては、前方部前端に埋葬施設がある。) (3)複数の首長墓系譜が、約14km四方の空間に、集中的に前方後円墳や円墳をつくる |
ここまで紹介した古墳のうち、しもつけ型古墳とみられているのは、
壬生町の牛塚古墳・車塚古墳・壬生愛宕塚古墳・吾妻古墳
神主古墳群の「後志部古墳」も、最近の調査で「基壇」が見つかったので、しもつけ型古墳だろうか。
前回紹介した上三川町の
(上三川)愛宕塚古墳・(上三川)かぶと塚古墳も、
現在は石室しか残っていないが、「しもつけ型古墳」だと考えられている。
次に紹介する丸塚古墳・山王塚古墳も「しもつけ型古墳」とみられている。
(下野市)丸塚古墳 県史跡 国分古墳群 |
下野市国分寺 撮影日2020/11/26 |
吾妻古墳から南に約1km、丸塚古墳がある。下野市となる。
東側の道路から、古墳に通じる道がつけられている。
丸塚古墳は 全長74mの大型円墳 2段築成で 墳丘1段目(基壇)は幅広くつくられている。(「しもつけ型古墳」) 2段目の径42m 一段目からの高さは6.5m 周溝を含めた直径は85m 葺石・埴輪などは見つかっていない。 南に開口している横穴式石室は、凝灰岩の大きな1枚石を切り組んだ技法で構築されている。 玄門は、一枚石の中心をくり抜いてつくられている。 玄室部長さ2.24m・幅1.64m・高さ2.10m、 石室から、ガラス小玉が約70個出土 埴輪が出土していないことから、7世紀初めごろの築造と推定されている。
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東から見た丸塚古墳 |
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石碑と説明板 |
南側に石室が開口 |
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フェンスがあるので、石室には入れない |
石室内部 |
山王塚古墳 国分古墳群 |
下野市国分寺 撮影日2020/11/26 |
丸塚古墳の西にあるのが山王塚古墳。畑の奥にある。
説明板も見当たらない。駐車スペースもないが、作業中の男性から少し話を聞くことができた。
山王塚古墳は 基壇全長90mの前方後円墳(推定) 2段目全長51.5m (「しもつけ型古墳」) 後円部径約24m・高さ4.5m、前方部幅約20m・高さ約4m。 前方部が削平されている 埴輪なし 横穴式石室があるが、現在は見学できない 巨大な横穴式石室を持ち、玄門は1枚の凝灰岩をくりぬいた「刳り抜き玄門」。 側壁は、河原石小口積み 石室からは鉄地銀張製帯先金具が出土 国分寺愛宕塚古墳と前後して築造されたと推定されている。 昭和62 年~平成元年の調査で、全長が72mから90mになった。 (シンポジウム資料から) |
後円部手前から見た 山王塚古墳 左方(西)に前方部があった 後円部も小さくなっているようだ 前方部のくびれ部よりに 石室があったという。 暗いので、写真は1枚だけにする。 基壇の部分は全部削られているようだ |
山王塚古墳からさらに西の農地内にあるのが愛宕3号墳。
愛宕3号墳 |
愛宕3号墳 円墳 詳細不明 現状は径数mのかわいい古墳 すこしずつ削られて、畑になったようだ。 暗いです…。 |
山王塚古墳のところで、日暮れとなる。
山王塚古墳のすぐ南に、「国分寺愛宕塚古墳」(県史跡・下野市)があるが、時間切れのため、翌日の見学となる。
この翌日見学する国分寺愛宕塚古墳と、
見学した山王塚古墳・丸塚古墳の3基の大型古墳を中心に形成された古墳群は、
下野国分寺の北側に築かれた古墳群で、国分古墳群と名付けられている。
付近には多数の古墳があったが、現在は上記3基の大型古墳と愛宕3号墳の4基だけとなった。
この大型古墳3基は、この地方の特有の「しもつけ型古墳」の特徴があり、
1kmほど北の吾妻古墳に続いて造られたしもつけ古墳群を構成する一基とされている。
今日の宿泊は、獨協医科大学ホスピタルイン
近くまで来ていて、すぐホテルに着いてしまうので、今夜の食事は持ち帰り弁当にする。
ガスト壬生店にて 弁当購入!
午後5時45分 「ホスピタルイン」チェックイン!
(この時は、gotoトラベル適用外のホテル)
朝食付きで、感染予防のため、個別弁当方式の朝食となっていた。
壬生町長塚古墳 (2020年秋その7) へつづく