北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/2/24
2020年秋は、栃木県
その3 芳賀町2・真岡市2020/11/23-29
gotoトラベルにて、栃木県へ
2020/11/24 二日目の午後です
午前中に芳賀町の北部にある 大塚台古墳・八ッ木浅間山古墳・後久保古墳・藤山古墳群を見学して、午後は、芳賀町の南部の古墳の見学から。
亀の子塚古墳 :県指定史跡 |
芳賀町大字西高橋 撮影日2020/11/24 |
天王塚古墳から西北西10kmの行事神社は古墳だ。
南側200m手前に案内表示があり、、車で前まで行ける。
亀の子塚古墳は 全長56.3mの前方後方墳。 後方部幅31.5m・高さ4.6m、前方部幅17.3m・高さ2.3m、くびれ部幅16m・高さ1.7m 後方部頂は平坦になっていて、行事神社が祀られている。 前方部は後方部に対して高さが極めて低く、長い形状を示している。 周溝の跡は不明 4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。 横から見ると、あたかも亀の子が這っているようで、古くから「亀の子山」と呼ばれている。 墳丘測量図 (芳賀町HPから) 五行川と鬼怒川に挟まれた 南北に走る宝積寺台地の東端に築かれている。 南北に主軸 後方部の墳頂部に行事神社が祭られ、 くびれ部分から前方部端まで参道となっている。 行事神社は、807年の創建だそうだ。 |
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行事神社一の鳥居 右の石碑は「史跡 亀の子塚古墳」と刻まれている。 |
二の鳥居からの参道は、前方部 横には古墳の説明板 |
東から見た墳丘 左が前方部(参道) 右の階段の上の林に後方部 くびれ部裾には 行事神社の説明板がある。 |
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前方部から後方部を見る |
後方部から前方部を見る |
おもしろい!平地にあるせいなのか、小さくかわいく見える!
穴不動古墳 :町指定史跡 |
芳賀町大字西高橋 撮影日2020/11/24 |
亀の子塚の南約1.5kmにある「穴不動」と呼ばれている神社に石室が残っている。
穴不動古墳は 前方部を南に向けている全長30mの前方後円墳 かなり破壊されていて、特に前方部がすっかりなくなっている。 五行川・野元川の沖積低地にのぞむ宝積寺段丘の東端に位置し、 標高90m、比高は5m~6mのところにある。 後円部は、河原石を積み重ねた横穴式石室が露出している。 横穴式石室の奥壁の鏡石に「(梵字カーン)南無不動大明王」の陰刻があり、 その手前に建つお堂に不動明王立像(石造・像立年代不詳)が祀られていて、 この地の人々は古くから安産の仏として崇拝し、穴不動と呼んでいる。 近隣近在から訪れた人々は、すでにここに奉納されている剣を借り、 無事安産すると借りてきた剣と同じ剣を作り、借りた剣と一緒に奉納してきたという。 現在でも新しい剣が奉納されているのが見受けられ、その風習が残っている。 (説明板から) |
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鳥居の懸額には「不動明王」と書かれている。 |
境内写真中央の建物に不動明王が祀られている |
不動明王像 高さ1.45mの石造 |
不動明王堂の後ろに 石室が残されている。 |
横穴式石室は天井石が無くなっている。 |
奥壁には梵字が刻まれている |
穴不動古墳 墳頂の馬頭観世音石碑 |
墳頂から裾(南側)を見る |
無量寿寺の所有となっており、不動明王といいながら、神社の鳥居がある。
主祭神は素盞嗚命という情報もある。
京泉シドミ原古墳群 | 真岡市京泉 撮影日2020/11/24 |
穴不動古墳から東へ1km余、真岡市京泉の集落に古墳が残っている。
その中で、鶏塚古墳が県指定史跡となっていて、その前に説明板がある。
個人の家に取り込まれて残っている古墳が多い。
京泉シドミ原古墳群は、 五行川左岸の沖積地にある京泉地区一帯の、17基から成る古墳群。 「鶏形埴輪」が出土したことで有名な鶏塚古墳を主墳とする。 宅地化や耕地整理に伴い多くの墳丘が削平されてしまい、 現在残るのは半壊以上のものも含め8基のみとなっている。 京泉シドミ原古墳群配置図 (鶏塚前の説明板から) 北から南に 1号墳~17号墳と名付けられている。 ●が現存古墳 |
一番北側、田んぼの中に残る円墳は荒神塚古墳。
京泉シドミ原古墳群1号墳 (荒神塚古墳) | |
直径7mの円墳 高さ1.5m 南に横穴式石室が露出しているが、中は埋まっている。 葺石がある。 埴輪がある。 勾玉、金環、小玉等が出土 1950年前後に発掘調査か |
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西から見る |
北から見る |
墳頂に小石祠、墳裾にも小石祠 |
横穴式石室は埋まっている |
荒神塚古墳の南の農地に墓地があるが、これは浄界墓古墳という。(泉シドミ原古墳群 3号墳)
見逃した…。
京泉シドミ原古墳群を見学するために、京の泉公園に駐車。
個々の古墳は徒歩で見学。
8号墳は、個人の家の庭にあり、道路に面している。
京泉シドミ原8号墳 | |
直径6mの円墳 高さ1m | |
民家の庭に残っている。 |
墳頂には、石祠が3基ほどある。 |
8号墳の横にも、墳丘状のものがあるが、これも古墳だろうか…。 |
12号墳と13号墳(鶏塚)は、同じ家の敷地内にある。
家の人に挨拶して見学。
京泉シドミ原12号墳 | |
直径15mの円墳 高さ2.5m 神社のようになっている。 個人宅内に保存されているため、発掘調査は行われていないようだ。 |
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西の道路から見る 塀にくっついて墳丘 |
民家敷地内から見る |
墳丘上には、石祠や 木製祠がある。 |
鶏塚は、民家のブロック塀が切られていて、その間から入って見学ができるようになっている。
塀の入口には、説明板がある。
鶏塚古墳 (京泉シドミ原古墳群13号墳) | 県指定史跡 |
東西22m 南北18mの円墳 高さ2.5m 南西方向に開口する横穴式石室は、長さ5.68m 幅は入り口で0.81m 奥で1.58m 高さ1.2~1.5m 平面は羽子板の形 天井には自然石6枚、両壁は玉石を積み、奥壁は2枚の巨石 天井部と奥壁には巨石を使用し、側壁は河原石を小口積みにして構築されている。 出土遺物は 明治18年の石室発掘で、直刀、勾玉、管玉、鉄鏃、鈴釧、耳環、馬具等 昭和6年の墳丘西側の調査で、形象埴輪(子を背負う女子像や琴を弾く男子像、鶏の埴輪など) 6世紀後半の築造と推定されている。 埴輪配列推定図 (説明板から) 西側に形象埴輪群が二列に並んだ状態で検出され、 既に開墾されてしまっていた東側にも 同様に並んでいたのではないかと推測されている。 出土品は東京国立博物館に収蔵されている。 鶏形埴輪 (説明板から) 芸術的にも評価が高い 古墳名は1931年の調査時、 墳丘から4個の鶏形埴輪が出土したことによる 1885年(明治18年) 発掘調査(石室) 1930年~1931年(昭和5~6年) 土地所有者が墳丘を掘削した際に埴輪が露出し発掘調査(墳丘) |
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墳丘残存部 手前は畑で開墾されていた部分と思われる。 真ん中の木の向こう側に開口部 |
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ケヤキの巨木の根が 石室の開口部付近を覆う。 |
石室内部 |
奥壁部分 |
石室内部から入口を見る |
鶏塚は最近、テレビ番組の「ナニコレ珍百景」で取り上げられていた。
14号墳は鶏塚古墳のすぐ南の民家の庭に所在する。
京泉シドミ原14号墳 | |
直径17mの円墳 高さ3m 6世紀後半頃の築造と推定されている。 |
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墳丘上には祠 |
方向を変えて見る。 庭になっている。 |
その南の民家に15号墳。
京泉シドミ原15号墳 |
円墳 詳細不明 |
建物の間に墳丘が残る |
行屋大日塚古墳は群中で最南端にある。相宮(ソウミヤ)神社の境内にある。
行屋大日塚古墳 ( 京泉シドミ原古墳群 17号墳) | |
直径15mの円墳 高さ2m 埴輪はない 埋葬施設は 組合式の箱型石棺 出土遺物として 珠文鏡(完形8.3cm)、伴出、直刀(剣)、人骨 1950年前後に 発掘調査 |
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南西から見る |
南東から見る 石祠が手前と奥に一つずつ |
山崎古墳群 市指定史跡 |
真岡市根本 撮影日2020/11/24 |
真岡市の根本山の南西の麓近くにある。とてもきれいに整備されている。
林の中にりっぱな墳丘を見ることができた。
西南の道路沿いに、案内標識がある。
大きな説明板がある。駐車スペースはある。
根本山には3つの古墳群があるが、山崎古墳群はそのうちの1つ。 1 岡古墳群 円墳23基 2 根本山古墳群 円墳18基 3 山崎古墳群 前方後方墳1基 前方後円墳1基 方墳1基 円墳1基 山崎古墳群配置図
山崎古墳群は4基一括して、 真岡市の史跡に指定されている。 (説明板から) 4基の墳形が全て違う(前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳) という珍しいパターンの古墳群。 築造年代も、1号墳は5世紀初頭、2号墳は7世紀初めと開きがあり、 少なくとも築造開始から終了まで200年あまりの間がある |
まず、4号墳から見学することになる。
4号墳 | |
東西17.50m・南北19.50m 高さ2.40mの円墳 | |
西側から |
方向を変えて見る |
3号墳 |
東西15.00m・南北20.30m 高さ2.10mの方墳 |
方墳だそうだ |
1号墳 | |
全長33.43mの前方後方墳 後方部長さ18.43m・幅18.20m・高さ2.20m 前方部長さ15.00m・前端付近幅9.48m・高さ0.80m 前方後方墳としては小型だが、前方部と後方部の比高差が大きい古式な墳形 出土品は 鉄剣(長さ33cm)1 鉋1 管玉(緑色凝灰岩製)2 土師器4 5世紀初頭の築造と推定されている。 昭和57年度発掘調査 |
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右に前方部 |
後方部から前方部を見る |
前方部から後方部を見る |
後方部手前から見る 奥に前方部 |
2号墳 | |
全長40.00mの前方後円墳 横穴式石室は 長さ5.60m 幅2.40m 高さ1.90m 出土品 直刀(長さ40cm)1 刀鍔2 鉄鏃40 耳環9 須恵器片若干 7世紀前半の築造と推定されている。 昭和60年度発掘調査 |
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3号墳から見た2号墳 草一つ生えていない畑の向こうにある。 |
前方部手前から見る |
後円部北側に石材 石室を見ることはできない |
左前方部 |
前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
2号墳から、1・3・4号墳の方向を見る
1号墳が見える。
右側に3号墳
あまりの美しさに感動です!
神宮寺塚古墳(市指定史跡) 兜塚古墳 (森ノ木古墳群) |
真岡市根本 撮影日2020/11/24 |
山崎古墳群の南約1kmには、森ノ木古墳群がある。
森ノ木古墳群は、 小貝川の右岸の低い段丘上で、かつては大きな古墳群を形成していたが、 耕地の開発によって、大半が消滅して、 現在は、神宮寺塚古墳、兜塚古墳の二基と石材のみが残るだけだ。 |
森ノ木公民館のすぐ北に神宮寺塚古墳。
神宮寺塚古墳 | 市指定史跡 |
東西24.4m・高さ4.2mの円墳 削られている部分があるので、元は直径30mほどの円墳と考えられている。 葺石なし 埴輪なし 周溝がある。 森ノ木古墳群の1基 南に開口する横穴式石室は、 南側の公民館で大きく削られているため、羨道部は全く残っていない。 玄門部は、框石を残して破壊されている。 玄室長さ6.31m 最大幅2.25m 高さ2m 内部から須恵器大甕破片と「塼セン」が出土 6世紀後半の築造と推定されている。 墳丘測量図 (説明板から) 「塼」とは、中国の漢の時代に墓の築造に使われたレンガで、 日本では古墳の築造に「塼」が使われた例は少なく、とくに東日本ではほとんどない。 ここで出土した「塼」は長辺38cm短辺25cm~長辺26cm短辺16cm。 「塼」の表面にはハケ目・同心円叩き・平行叩き・強い指なでなどがみられる。 須恵器工人の作と考えられ、南1.6kmの南高岡窯跡群との関連が考えられている。 |
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北から見た墳丘 |
南西から見た墳丘 南側に森ノ木公民館がある。 |
石室前にはフェンス 羨道部は無くなっている。 |
石室入口 |
石室内部 |
墳丘上に露出した巨石 |
兜塚古墳は、神宮寺塚古墳の北50mほどのところにある。
兜塚古墳 |
直径20mの円墳 高さ2m(推定) 硬砂岩製の横穴式石室があり、 直刀、頭椎大刀把頭、鞘飾り金具、鉄鏃、 勾玉、管玉、水晶切り子玉、ガラス製小玉などが出土した。 7世紀前半の築造と推定されている。 1903年(明治36年)、土地の所有者が墳丘を削り取った際、 横穴式石室から、多数の副葬品が出土したということだ。 |
現在の兜塚古墳 小さくなっている。石室はすでに無い 南側のえぐれている部分に 石室があったのかな |
兜塚古墳の北約80mくらいに、古墳の石材が残っているところがあるらしいが、確認して来なかった。
鹿古墳群 | 真岡市鹿・阿部品 撮影日2020/11/24 |
暗くなってしまった…。
鹿古墳群は天神山古墳を 中心に12基以上の古墳で構成されていたが、 現在は前方後円墳の天神山古墳と3基の円墳が残る 鹿古墳群配置図 (八幡宮古墳前の説明板から)
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天神山古墳は 全長50.5mの前方後円墳 県指定史跡 後円部径27m・後円部高さ:4.5m 前方部幅26m・前方部高さ3.85m 鹿古墳群の最大の前方後円墳で、主墳と考えられている。 埴輪なし 葺石なし 6世紀の築造と推定されている。
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庚申塚古墳は 直径20mの円墳 高さ4.5m 町指定史跡 横穴式石室があり、 瓶の破片、刀剣の金具が出土している。 1912年(大正元年)頃、横穴式石室が掘り出され、 瓶の破片と刀剣の金具が出土したといわれている。
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鹿神社古墳 東西23m・南北20mの円墳 高さ3m 詳細不明
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阿部品八幡宮古墳 直径44~35mの円墳。高さ5m 墳頂に社殿がある。 詳細不明円墳
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5時になったばかりだが、真っ暗!
今晩は、ホテルセレクトイン宇都宮(宇都宮市今泉町)に宿泊。
1時間ほどかけて北上、
ホテルのすぐ西にあるFKDモール内で夕食。
gotoトラベルでもらった地域振興券を使えるレストランが案外少なくて・・・
「FKD」というのはもとは「福田デパート」だったそうだ。
午後7時に セレクトイン宇都宮にチェックイン! 朝食付きプランです
宇都宮市高龗神社古墳 (2020年秋その4) につづく