北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/1/14
2020年秋は、栃木県
その1・大田原市・那珂川町2020/11/23-29
gotoトラベルにて、栃木県へ
11/23、4時22分 出発
徳光IC(北陸自動車道)-蓮台寺PA(朝食)-(新潟中央JCT・東北横断自動車道)
-西会津PA-(郡山JCT・東北自動車)-安積(アスカ)PA)-10時19分 那須IC
出発したときは雨だったが、少しずつ止んできて、栃木県は晴れていた!
11時ごろ、くらしの館パーキング(黒羽ふるさと物産センター)で、休憩と早目の昼食を済ます。
二ツ室塚古墳 | 大田原市小船渡 撮影日2020/11/23 |
第一番目の古墳は、二ツ室塚古墳!11時半ごろ到着!
小船渡の那珂川右岸段丘上にある前方後円墳。
駐車場はないが、駐車できます。
二ツ室塚古墳は 全長46.5mの前方後円墳 後円部径22m、高さ5m、前方部幅16m高さ2.2m。 前方部を北西方向に向けている。 後円部に葺石がある。 後円部が作られた後に、前方部が作られている。 前方部前端には幅6mの周溝がある。 後円部と前方部に横穴式石室がある。 横穴式石室は、いずれも河原石を積み重ね、奥壁は1~2枚の巨石を立てて構築されたもの。 平面形は、後円部の石室は羽子板状に、 前方部の石室は、側壁がいくぶん膨らむ「胴張り」型式。 後円部の石室はすでに盗掘を受けていたために、鉄鏃がわずかに出土した。、 前方部の石室からは刀類や多量の鉄鏃が出土した。 6世紀半ば~7世紀初頭の築造と推定されている。 古墳の西側くびれ部付近には、後世に小鍛冶を営まれていたらしく、古墳の一部が削られて、 周辺からは、小鍛冶を営んだと思われる建物跡や陶器の破片・鉄滓・古銭などが出土した。 昭和49年発掘調査 平成元年度にも発掘調査
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西から見た二ツ室塚古墳 左・前方部 右・後円部 |
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前方部先端 奥に後円部 |
前方部脇から後円部を見る |
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前方部から後円部を見る |
前方部頂部 石室は、埋められている。 |
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後円部から前方部を見る |
後円部頂部 石室上は崩れている 右に覆い屋の屋根が見える |
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後円部石室は、覆い屋があるが 土嚢で埋められている 東日本大震災で崩落したそうだ…。 |
昔から、2つの石室があると分かっていたから、「二ツ室塚」というのだろうか。
観音塚古墳・二つ室塚古墳の比較図
(大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示から)
観音塚古墳 市指定史跡 |
大田原市小船渡 撮影日2020/11/23 |
二ツ室塚古墳のすぐ北に観音塚古墳が見えている。大きな円墳!
観音塚古墳は 直径40mの円墳。高さ6m 二段築成 周囲には幅約10mの周溝がある。 墳頂部と、下段の平坦面では、 上 段の塚をとりまく形に埴輪が配置されているのが確認されている。 (昭和初期の植林の際) 墳頂部からは鶏の形象埴輪が出土したともいわれている。 6世紀後半ころの築造と推定されている。 隣接して築造された二ツ室塚古墳より古い古墳と考えられている。 昭和61年(1986)に墳丘測量調査 観音塚古墳出土の円筒埴輪 (大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示) |
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きれいな円墳 |
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2段築成や周溝が確認できる。 |
墳頂部には石がある。 |
大きな円墳だが、この旅では、もっともっと大きな円墳をたくさん見学することとなる。
銭室塚古墳 市指定史跡 |
大田原市北滝 撮影日2020/11/23 |
二つ室塚古墳から南西約700m、那珂川の対岸、東岸段丘上の農地にある。
駐車スペースあります。
銭室塚古墳は、 直径26mの円墳 高さ4.5m 墳頂は、直径6m程度の平坦面で、墳形は截頭円錐形(円錐台) 二段築成 墳丘の裾部と斜面部に川原石による葺石がある 幅5mの周溝があったと考えられている。 南に開口する横穴式石室は、全長9.3m 玄室長6.3m、奥壁幅1.4m、最大幅2m、奥壁の高さ1.45m、羨道部の長さ3m。 奥壁は花崗岩の一枚石で、ドーム状。 玄室の側壁は乱石積で、下部に長さ約1.3mの山石が使用されている。 天井石には、幅1.2m、厚さ20cmの扁平な花崗岩5枚が用いられてる。 床面は川原石の礫床。羨道部前方に、扁平な花崗岩が1枚。 6世紀末の築造と推定されている。 |
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銭室塚古墳全景 説明板は半分はげていて 読めない部分がある。 |
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墳頂部 |
斜面に石が見える、石室だ! |
石室開口部 狭いけど入ってます |
入口から玄室を見る |
奥壁部分 |
玄室から開口部を見る |
墳丘は小さくなっている。
那須国造碑 国宝 |
大田原市湯津上 撮影日2020/11/23 |
笠石神社には、日本三古碑の一つに数えられている那須国造碑がある。
笠石神社正面 |
那須国造碑が納められているお堂 |
お堂の中にある那須国造碑は、なかなか見ることはできないので、
大田原市なす風土記の丘湯津上資料館の複製を見学する。
大田原市なす風土記の丘湯津上資料館 横には、大田原市歴史民俗資料館がある。 |
那須国造碑は、西暦700年、当時の那須国(郡)を治めていた那須直韋提(ナスノアタイイデ)の没後、 その子、意斯麻呂(オシマロ)等が韋提の遺徳を偲んで建碑したもの。 それから約1000年後、水戸黄門の名で知られる水戸藩主徳川光圀が、 倒れて草に埋れているこの石碑に堂をつくり安置した。 |
那須国造碑(複製) (大田原市なす風土記の丘湯津上資料館展示) 台石より上の総高 約148cm 文字の刻まれた石の上に 笠のように石を載せていることから 「笠石」ともいわれている。 花崗岩が用いられ、 碑文は、全文8行、19字詰め、152字 六朝風の書体で書かれている。 宮城県の多賀城碑や群馬県の多胡碑と並び、 「日本三古碑」の一つ。 昭和27年に国宝に指定された。 |
拓本 永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造 追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月 二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓 仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮 照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以 曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之 子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香 助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更 永昌元年(689)、飛鳥浄御原(アスカキヨミハラ)の大宮から那須の国造(クニノミヤツコ)であった 那須直韋提は評督(コオリノカミ)という評(後の郡)の長官の官職を賜り、 その後、庚子(カノエネ)の年(700)に亡くなったため 後継者の意斯麻呂(オシマロ)らが、碑を立てて故人を偲び祀ったということなどが記されている。 |
石碑は江戸時代に入り、水戸黄門で知られる徳川光圀の尽力により顕彰された。 延宝4年(1676)、 水戸藩領武茂郷小口村(現那珂川町)の里正(リセイ)の大金重貞(オオカネシゲサダ)は、 旅の僧円順から湯津上村内の草むらに埋もれた古碑の話を聞く。 重貞はその碑を調べ自身の著作「那須記」に記し、 天和3年(1683)武茂郷を巡幸した徳川光圀にその書を献上し光圀の知るところとなった。 光圀は石碑の保存顕彰のため元禄4年(1691)には碑堂の建立を開始し、 同5年には、碑の主を求めて、日本で最初の学術的な発掘調査を 上・下侍塚古墳(国指定史跡)で行ったが、被葬者はわからなかった。 同年6月には完成した碑堂に自ら参詣した。 この一連の作業は大金重貞が現地指揮をとり、 光圀の指示は家臣の佐々介三郎宗淳(サッサスケサブロウムネキヨ)を通じて行われた。 重貞は事の経緯を「笠石御建立起(カサイシゴコンリュウキ)」に記している。 (大田原市HPから) |
群馬県高崎市吉井町の多胡碑、宮城県多賀城市の多賀城碑も見学したので、
これで日本三古碑を全て見学できたことになる。
残念なのは、那須国造碑は複製の見学だったことである。
大田原市なす風土記の丘湯津上資料館には、市内の遺跡の出土品の展示もあるので、
それぞれの遺跡の項で紹介する。
侍塚古墳群 市指定史跡 |
大田原市湯津上 撮影日2020/11/23 |
下侍塚古墳の北に、8基の古墳群がある。
侍塚古墳群は、8基で構成された古墳群。 かつては10基程度存在していたようだが、戦後の開墾等によって消滅したといわれている。 前方後円墳である1号墳、方墳である8号墳を除く6基は円墳とみられている。 5号墳、8号墳は部分的な発掘調査によって、ある程度の状況が把握されているが、 大半の古墳は不明な点が多い。
(説明板・大田原市HPから) |
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1号墳 全長35~50mの前方後円墳 前方部が大きく削られている。 葺石がある。円筒埴輪の破片が採集されている。 埋葬施設の確認はされていない。
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2号墳 直径17.5mの円墳 墳頂部に地元の住民が管理する 「山の神」と呼ばれる小祠がある。 裾部は削られているが、 墳丘の残りは比較的良好。 葺石あり。 埋葬施設は確認されていない。 遺物もない。 平成13年に測量調査。 |
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3号墳 直径18mの円墳 水田等により原状は大きく損なわれている。 周溝・葺石の有無は確認できていない。 遺物もない。 4号墳と隣接しており、 北側は 那珂川に流れ込む小河川に臨む崖に位置。 平成12年測量調査 |
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4号墳 直径16mの円墳 墳丘上に小祠がある。 道路や水田等により 原状は大きく損なわれている。 周溝の状況・葺石の有無は確認できていない。 遺物もない。 平成12年測量調査 |
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5号墳 直径27mの円墳 墳丘裾部に幅5m内外の平坦部がある。 斜面には川原石による葺石がある。 墳頂部及び墳丘裾部の平坦部から埴輪が出土 裾部の平坦部では埴輪が70cm~100cmの間隔で、一重にめぐらされていた。 埴輪には、円筒埴輪のほか、鷹や馬の形をした形象埴輪がある。 その他に須恵器や土師器も出土している。 埋葬施設については、確認できていない。 古墳時代後期(6世紀)の築造と推定されている。 昭和29年(1954)発掘調査
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6号墳 直径12mの円墳 墳丘上には葺石に用いられたと思われる 川原石が散在している。 埋葬施設は確認できていない。 遺物もない。 平成13年測量調査 |
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7号墳 直径15mの円墳 侍塚古墳群の中で最も東にあり、 墳丘の東側3分の1は那珂川の浸食により 削られ崖になっている。 地元の住民の話によると、 「山芋が採れないほど、 びっちり石がつまっている」とのこと。 葺石で覆われていると推定されている。 平成10年測量調査 |
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8号墳 一辺17mの方墳 墳丘の周りには周溝があり、 周溝から土師器が出土している。 下侍塚古墳(国指定史跡)に一番近い場所。 下侍塚古墳と近い時期に 築造されたと考えられている。 昭和52年(1977)に、 周溝確認のための発掘調査 |
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左奥の木立は下侍塚古墳 その手前に8号墳 右奥に5号墳 一番手前が6号墳 |
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左 3号墳 右 4号墳 |
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手前4号墳 左奥1号墳 |
現地説明板・大田原市HPを参考にしました。
侍塚古墳 国指定史跡 |
大田原市湯津上 撮影日2020/11/23 |
水戸黄門様が発掘したという侍塚古墳へ。
侍塚古墳は那珂川右岸の段丘上に立地 上侍塚古墳・下侍塚古墳の2基があり、いずれも前方後方墳。 上侍塚古墳は栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山古墳に次いで第2位の大きさ。 下侍塚古墳は上侍塚古墳の北方約800mの所にある。 上侍塚古墳のすぐ北には、上侍塚北古墳がある。 |
元禄5年(1692)に徳川光圀の命により、 小口村(那珂川町小口)の庄屋・大金重貞らが、上侍塚古墳と共に発掘調査を行っている。 この調査は、北方1.5kmで発見された那須国造碑の碑文内容と 侍塚の被葬者との関連を探るために行われたもので、 鏡・鎧片・鉄刀片・大刀柄頭・土師器壺・同高坏などが出土したが、 碑文との関連は明確にならず、 絵図にとるなど調査結果を記録したうえで松板の箱に納める埋め戻している。 上下どちらの後方部墳頂にもその発掘の痕跡が凹地として今なお残っている。 また調査後は、墳丘の崩落を防ぐために松を植えるなどの保存整備も行なわれた。 これら調査と調査後の遺跡の処置は、日本考古学史上特筆されるものだ。 |
当時の発掘の様子は、大金重貞が著した「湯津神村車塚御修理」や、 光圀の家臣の佐々介三郎宗淳から大金重貞に出された手紙をまとめた 「佐々介三郎書簡」によって知ることができる。 (大田原市HPから) 大金重貞 著 「湯津神村車塚御修理」 (大田原市なす風土記の丘 湯津上資料館パンフから) |
侍塚古墳群の南端に位置するのは下侍塚古墳。
下侍塚古墳 | 国史跡 | ||||
全長84mの前方後方墳 後方部長さ48m幅48m、高さ9.4m、前方部長36m幅36m、高さ5m。 4世紀後半の築造と推定されている。 下侍塚古墳は上侍塚古墳に先立って築造されたものと考えられている。 元禄5年(1692)に徳川光圀の命により発掘が行なわれた。 昭和50年の周溝調査で、 墳丘の規模・周濠の形状・葺石などが確認され、土師器などが出土した。
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全景 左 前方部 |
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前方部斜め後ろから見る |
西から見た後方部 右方に前方部 |
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前方部から後方部を見る |
後方部から前方部を見る |
下侍塚古墳の南約800mのところに、上侍塚古墳がある。
上侍塚古墳 | 国史跡 |
全長114mの前方後方墳 後方部長60.m、後方部幅58m 後方部高11.5m 前方部長53.5m 前方部幅52m 前方部高6.5m 那須地方の6基の前方後方墳のなかでは最大級を誇る。 元禄5年(1692)に徳川光圀の命により発掘が行なわれた。 出土遺物や墳形の特徴などから、4世紀末頃(古墳時代前期)の築造と推定されている。 墳丘図 (大田原市なす風土記の丘 湯津上資料館展示から) |
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後方部手前から見た全景 |
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後方部頂部 |
後方部から前方部を見る |
前方部から後方部を見る |
くびれ部から後方部を見る |
上侍塚古墳のすぐ北側には、上侍塚北古墳がある。
上侍塚北古墳 | |
全長約48.5mの前方後方墳 後方部幅25m・高さ5m、前方部幅17m・高さ3m |
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東から見た上侍塚北古墳 右後方部 |
前方部手前から見た墳丘 |
蛭田富士山古墳 市指定史跡 |
大田原市蛭田 撮影日2020/11/23 |
上侍塚古墳の西南西約3kmの農地の中にある。駐車場はないが、駐車可能。
蛭田富士山古墳と付近の古墳群についての説明板がある。
蛭田富士山古墳は 全長40mの帆立貝式古墳 後円部径27m・高さ3.5m、前方部幅10.5m・高さ1.3m。 古墳に伴う遺物はなし。 5世紀末~6世紀前半の築造と推定されている。 蛭田富士山古墳墳丘図 (説明板から) |
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北から見た全景 |
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前方部手前から見た墳丘 |
くびれ部あたりに立つ鳥居 |
後円部上には 小さな祠がある。 |
後円部から前方部を見る |
蛭田富士山古墳群 かつてこの古墳の周辺には、小さな古墳が多数あって古墳群を形成していたが、 開墾などによってほとんど消滅した。 昭和44年に土地改良事業で、箱式石棺や横穴式石室が発見されたことから、 昭和45年発掘調査が行なわれた。 遺跡全図 (説明板から) 右下の前方後円墳が 蛭田富士山古墳 円墳跡4基のほか、周溝等のない単独の埋葬施設(箱式石棺、小型竪穴式石室、土壙)や 横穴式石室、竪穴式住居跡が確認された。 特に円墳跡は、箱式石棺を主とする複数の埋葬施設をもった珍しい古墳で、 5世紀代~7世紀初頭の築造と推定されている。 蛭田富士山古墳群の出土品 (大田原市なす風土記の丘 湯津上資料館展示から) 上 左から 鉄鏃 刀子 土師器 下 左から 鍔 ガラス小玉 切子玉 管玉 勾玉 耳環 |
駒形大塚古墳 那須小川古墳群として国史跡 |
那須郡那珂川町小川 撮影日2020/11/23 |
駒形大塚公園として保存されている。
北から南に伸びる段丘と直角に築造されている。
那珂川西岸の段丘上に位置する。駐車場あり。
駒形大塚古墳は 全長約60.5m・高さ約6.5mの前方後方墳 前方部の墳丘を失っている。 前方部先端が八の字形に開く古式の形をしている。 後方部墳頂下1.5mに設けられた埋葬施設は、木炭で取り囲まれた内面朱塗りの木棺で、 画文帯龍虎四獣鏡、銅鏃、蕨手状の素環頭刀子、鉄直刀、鉄剣、鉄斧、ヤリガンナ、 ガラス小玉などが出土した。 後方部墳頂下浅くからは、古い土師器高坏、壺などが出土 4世紀中頃の築造と推定されている。 昭和49年発掘調査 墳丘図 (説明板から) 前方部は削られている… この古墳と共に古墳時代前期に築造されたと考えられている吉田温泉神社古墳や 那須八幡塚古墳の3基の前方後方墳や周辺の方墳(20基以上)は 「那須小川古墳群」として国史跡となっている。 |
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北から見た墳丘 左 後方部 |
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前方部手前から見た墳丘 |
後方部から前方部を見る |
後方部前面 |
後方部頂部には小さな神社 |
首長原古墳 | 那須郡那珂川町三輪 撮影日2020/11/23 |
農地の中にぽつんと1基だけあって、目立つときいていたのに、無い…。
やっと探した…。
耕作放棄地みたいなところに埋もれていた…。
説明板もあり、横穴式石室が開口しているようだが、確認できなかった。
雑草がすごくてなかなか近付けない |
墓地になっているようだ |
首長原古墳は、直径17mの円形墳 二重の周堀がある。葺石あり 横穴式石室は全長5m、幅1.7m、高さ1.7mの無袖式で川原石小口積み。 石室内から大刀、鉄鏃、刀子、耳環、銅釧、勾玉、管玉、切子玉、ガラス玉など多数出土。 墳頂からは祭祀に使用された土師器や須恵器の甕が発見された。 6世紀後半の築造と推定されている。 昭和10年代、平成4年の発掘調査 墳丘・横穴式石室を復元して保存されている。 周辺には7基の古墳からなる七所原古墳群があったことが確認されているが、 本墳を除き消滅。(ネット検索から) |
吉田温泉神社古墳 ヨシダユゼンジンジャコフン 那須小川古墳群として国史跡 |
那須郡那珂川町吉田 撮影日2020/11/23 |
那珂川の西岸にある神社の中に古墳がある。古墳脇に駐車スペースあります。
説明板がある。
吉田温泉神社古墳は 全長約50mの前方後方墳とされている 後方部幅25m 葺石や埴輪は確認されていない。 後方部は戦時中に削平されて、残存する前方部墳頂に温泉神社が祀られている。 後方部削平の際に剣、短冊形鉄斧・土師器などが木炭とともに出土したといわれている。 短冊形鉄斧・土師器は現存 4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。 駒形大塚・那須八幡塚古墳より後に築造されたと考えられている。 昭和48年発掘調査で前方後方墳だということが確定的となった。 周辺には20基ほどの方墳(方形周溝墓)が確認されており、 那須小川古墳群の支群・吉田湯泉神社古墳群を形成している。 |
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北から見た前方部 温泉神社の社殿が建っている。 手前に後方部があったが、削平された。 |
南から見た温泉神社社殿 こちらが神社正面 前方部の上に建つ。 社殿の背後に削平された後方部がある。 |
社殿から見た参道 参道脇には、2号墳がある(らしい)。 |
社殿から南約80mに温泉神社鳥居がある。 鳥居脇には3号墳がある(らしい)。 |
温泉神社鳥居は、次の観音堂へ行く途中にある。
観音堂古墳 那須小川古墳群として国史跡 |
那須郡那珂川町吉田 撮影日2020/11/23 |
温泉神社鳥居の南約120mの所にある。
説明板がある。
観音堂古墳は 一辺約31mの不整形な隅丸方形 南側には小さな張出しがある。 墳丘は当時の表土上に周囲を削った土を盛り上げたもので、 墳裾の一部には敷石も見られる。 周溝は不整形ながら認められ、幅の広い南側では幅9m。 周湟から出土した土師器の器台、壺などの特徴から 古墳時代の前期の築造と推定されている。 |
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西から見た墳丘 右側に張出部? |
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墳頂の観音堂 |
墳丘上から墳裾を見下ろす。 |
吉田温泉神社古墳から観音堂古墳、さらに那須八幡塚古墳、吉田富士山古墳に至る
那珂川沿いの段丘上には、20基以上の古墳が連なっている。
観音堂古墳は「温泉神社21号墳」だ。
観音堂古墳からは那須八幡塚古墳が見える。
那須八幡塚古墳 那須小川古墳群として国史跡 |
那須郡那珂川町吉田 撮影日2020/11/23 |
観音堂古墳古墳の南約200mの所にある。吉野工業所北の農地内に保存されている。
那珂川西岸の河岸段丘上に立地。
説明板がある。
那須八幡塚古墳は 全長62mの前方後方墳 後方部墳丘幅31m、同高6m 西側に前方部がある。 前方部の最大幅は17mで、先端の両隅はいくぶん切り落とされた羽子板のような形、 葺石がある。 墳丘裾には削り出しによるテラスが墳丘をとりまいている。 その外周には不整形な周溝がある。 後方部の墳頂下に掘られた、東西8.7m・南北4.8m・深さ1.2mの墓壙に、 東西両端を粘土塊の上に乗せた長さ6.5m以上の木棺が置かれていたと考えられていて、 その東寄りから鏡面を上にした鏡(夔鳳鏡・キホウキョウ)などの副葬品が朱に覆われて出土。 東枕の埋葬。 鏡のほかには、短剣、鋸、鉇、鉄斧、けずり小刀、間透(アイスキ)などが出土 周溝からは有段口縁壺や高坏、器台、異形土器などの古式な土師器が出土 4世紀後半の築造と推定されている。 昭和28年・平成3年に発掘調査 墳丘図 (説明板から) 前方部は宅地となり墳丘を失っていた。 平成3年冬の墳丘周辺の調査に基づいて当時の大きさ・形に復元した。 埋葬部分を玉砂利で表示し、木棺両端にあった粘土塊の位置を石で表している。 墳丘は表面の保護や崩落防止のため芝を張り、 また古墳の周辺を巡る周湟は玉砂利による表示を行った。 |
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北から見た那須八幡塚古墳 左 後方部 |
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前方部手前から見た墳丘 |
前方部から後方部を見る |
後方部から前方部を見る |
埋葬施設展示 |
吉野工業所那須小川工場でもらったパンフレットの内容は、説明板と同じだった。
吉田富士山古墳 那須小川古墳群として国史跡 |
那須郡那珂川町吉田 撮影日2020/11/23 |
那須八幡塚古墳の南約100mの所にあるが
吉野工業所那須小川工場の敷地内にあるので、
事務所の受付に行き、許可をもらい、パンフレットをもらった。
パンフレットには、吉田富士山古墳と那須八幡塚古墳の説明がある。
墳丘は、吉田浅間神社の所有で、その境内となっている。
工場の駐車場がある。
吉田富士山古墳は、東西30m・南北28mの方墳、高さ3m。 墳丘の南側にはテラス状突出しがある。 周溝は、隅丸方形で、南側で幅8.5m・深さ5m 周溝内縁にも細い溝がある(幅30cm・深さ20cm) 4世紀中ごろの築造と推定されている。 昭和45年工場建設に先立ち発掘調査 古墳の西5mくらいの所に2軒の住居跡が検出されて、 弥生土器のほか、それより古い土師器土器が出土している。 |
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西から見た吉田富士山古墳 浅間神社境内にあり きれいに掃除されている。 手前の池は 古墳の周溝というわけではない |
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墳丘 |
墳頂には、小さな祠がある。 |
見学が終わって、受付に挨拶に行ったら、ペットボトルのお茶のおみやげをいただいてしまった。
川崎古墳 町指定史跡 |
那須郡那珂川町久那瀬 (旧馬頭町大字久那瀬字川崎) 撮影日2020/11/23 |
吉田富士山古墳の南東約1.5kmの集落の中にあり、
古墳の周りをぐるぐる回るが、自動車では墳丘に近付けないので、
近くに路駐して、見学する。
私有地にあるので、女性に挨拶し見学させていただいた。
説明板がある。
那珂川とその支流武茂川の合流点近くの低段丘上につくられている。
川崎古墳は 全長49mの前方後円墳。 後円部径約21m・高さ約4.5m、前方部幅30~35m・高さ約3.5m、 前方部を西に向けている。 葺石・周溝を備える。 後円部南側に開口する両袖型の横穴式石室は、羨道部は失われているが、 玄室は全長が8.2m、 幅は奥壁側で1.7m、玄室側で約1.6m、最大幅3mで胴張り形をしている。 横穴式石室では栃木県内最大級の規模 昭和63年の石室内調査で、 ガラス小玉・耳環などの装飾品、 鉄鏃・鞘尻・留金具・飾り弓金具などの鉄製品、須恵器などが出土 このほか古銭・カワラケ・陶磁器など中世期の遺物も出土 前方部にも横穴式石室が存在することが最近の調査で確認されている。 6世紀後半の築造と推定されている。 この周辺には、北側に北向田古墳群、 その東側の丘陵には唐の御所横穴墓(国指定史跡)を中心とする和見・北向田横穴墓群、 東側の台地上には三枚畑古墳群などがあり、川崎古墳はその中心的存在をなす。 (説明板から) |
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後円部の北東を 少し削って建てられた納屋の前に 案内標柱が立つ。 左方には説明板がある。 右奥には後円部が見えている 左奥も後円部 |
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納屋の反対側にある作業場と 後円部の狭いすき間に、 横穴式石室の入口がある。 |
石室入口 以前は入れたが、 地震で壊れたため、入れなくなった。 |
石室内部 樒石がある。 |
石室内部 奥壁部分 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る 建物とのすき間に石室開口部 |
墳丘全体 左 後円部 |
川﨑古墳のある集落には八龍神社があるが、これも古墳っぽい(あくまでも私見ですが)
八龍神社
武茂川のすぐそばなので、
単なる段丘かもしれない。
八龍神社には、駐車スペースがあるので、ここに駐車すればよかった…。
唐の御所 和見横穴墓群 国史跡 |
那須郡那珂川町久那瀬 (馬頭町大字久那瀬字川崎) 撮影日2020/11/23 |
川﨑古墳に行く時に「唐の御所」の大きな案内板が見えていたので、帰りに寄る。
10台ほどの駐車場完備
真っ暗になってしまったが、駐車場そばの家の女性が、
5分くらいで上がれるから足もとに気を付けて見学してくださいと言ってくださったので、見学。
北向田地区から和見地区に至る那珂川左岸の丘陵斜面には 凝灰岩を掘削した横穴墓群が分布しており、「北向田・和見横穴墓群」と呼ばれている 。 唐の御所横穴は、はほぼ真南に向いて開口し、 内部は横穴式石室と同様に玄室や玄門、羨道などがある。 玄室は 長さ2.75m、中央幅が2.34m、高さは奥壁前縁で1.9m 天井は中央に棟木をつくり出し、左右に切妻の屋根に似せた勾配を持たせ、 玄門の外側に戸をはめ込むための彫り込みがある。 7世紀前後の築造と推定されている。 |
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唐の御所は、最高所にある。 |
そばには説明板がある。 |
入口 |
中には入れない |
唐の御所伝説 その昔、下総の猿島を根城に平将門はその勢いにのって、常陸、下野、上野の国司を攻め落とし、 天慶2年には関東の大半を征して、自ら新皇と称するまでになった。 しかし、将門は一族の貞盛や藤原秀郷に攻められて天慶3年遂に滅んでしまった。 その当時、三島城主であった小高出雲守将良は、 一族をひきつれ和見に来て黄泉寺を建て出家した。 まもなく将門の女が将良を頼って髪をおろし、女蔵比丘尼といった。 尼は、既に子を宿していて、古墳の中で男の子を出産した。 このことを世にはばかって、 唐土帝王の妃がざん言によって遠くこの地に流されて来たものといいふらしたので、 この横穴が「唐の御所」と呼ばれるようになったと言われている。 |
周辺には、遠見穴、姫穴などの名称で呼ばれる横穴墓があるが、
真っ暗なので、見学はあきらめる。
ガソリンを「近藤商店北向田SS(那珂川町)」で補給して、
ビジネスホテルサンヒルに向かい、そばの宇都宮-餃子を食べようとしたが、営業してなくて・・・
やっと見つけた中華「登竜」で食事、明朝食をコンビニで準備して、
19時15分、ようやく サンヒル(さくら市櫻野)にチェックイン!
西原古墳 (2020年秋その2)につづく