北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/8/10

茨城県の遺跡
その5 かすみがうら市・石岡市2・小美玉市・土浦市

茨城県の旅3日目 2024/4/9 つづきです。 
時刻は午後2時を過ぎた。

周辺の地図g 

大塚古墳群 かすみがうら市下志筑
見学日2024/4/9

かすみがうら市(旧新治郡千代田町)の、「下志筑十三塚」といわれる古墳群だが、現存3基。

大塚古墳群の配置図g

 大塚古墳群は 常磐自動車道をはさんだ台地上の農地周辺にある古墳群。
 かつては100基以上存在したが、現存するのは3基。大塚古墳・狐塚古墳・狐塚南古墳。
 大塚古墳群の大部分が7世紀代の群集墳である。
 
 大塚古墳(大塚古墳群1号墳) 径37mの円墳   市史跡
 狐塚古墳 現状径10m以下の円墳   市史跡
 狐塚南古墳  (大塚古墳群85号墳)  径10mほどの円墳 

  

 大塚古墳(1号墳)  市史跡
 常磐道東側にあり、大塚古墳群の中央に位置する円墳
 径37mの円墳  高さ3.8m、周堀の幅は約10m
 埴輪は確認されていない。
 埋葬施設が確認されておらず、出土品も確認されていないので築造時期は不明
 埴輪が使用されなくなった7世紀代のものではないかと考えられている。

墳丘

墳丘上

 

 狐塚古墳    市史跡
 常磐道の西側にある
 現状で径10m以下の円墳
 現在、墳丘の一部を残すが、古墳の形状をとどめておらず、墳形や規模についても不明。
 明治40年頃、武人の埴輪2体が発掘され、東京国立博物館に寄贈されたといわれるが、現在所在不明。
 その後も水鳥の頭部や、武人の埴輪が出土したといわれているが、詳細不明。
 人物埴輪の存在から古墳時代後期の築造と推定されている。
   (かすみがうら市歴史博物館HPから)

墳丘と標柱

墳丘上

 

 狐塚南古墳(85号墳)  
 狐塚古墳のすぐ南にある
 径10mほどの円墳、詳細不明。

小さな墳丘が残る 南から

北側(右側)にも盛り上がりがある。 東から

墳丘がここまであったのか?

西から見る

   

熊野古墳
県史跡
かすみがうら市市川
見学日2024/4/9

国道6号線沿いのホテル横に駐車スペースと登り口がある。


駐車スペースと案内表示

ホテル横の坂道(左側の道)を上がる
 小高い丘陵上に築かれている。 

 熊野古墳は 全長63mの前方後円墳  
  後円部墳頂は径約16mの平坦面がある。 前方部が低く細長い。
 内部構造は未調査のため不明。
 5世紀前半の築造と推定されている。
 後円部上には熊野権現神社がある。

熊野古墳 前方部登り口

前方部から後円部を見る

後円部墳頂には 熊野神社が鎮座

後円部墳頂にある延宝8年の供養塔

後円部墳頂にある石造の立派な燈籠

後円部から前方部を見る
説明板から

   

(石岡市)愛宕神社古墳 石岡市貝地
見学日2024/4/9

石岡市の貝地町公民館の横にあるので、公民館の前に駐車させてもらい見学。
墳丘上に愛宕神社が鎮座している。

 (石岡市)愛宕神社古墳は 貝地町公民館のとなりにある。
  径10mほどの円墳、詳細不明。

墳丘

鳥居をくぐると階段がある。

愛宕神社古墳 墳頂部
「平景清公の霊地」という石碑がある。

   

茨城古墳 石岡市茨城、
見学日2024/4/9

茨城団地内の茨城第二公園内に保存されている。説明板は見あたらない。

 茨城(ばらき)古墳は 42m×33mの円墳
  石棺石材が出土している。


西側の道路から見た茨城古墳

大きな円墳

墳頂部

墳頂部にある板石等の謎の石材

墳頂部にある石祠と板石等の謎の石材

  

府中愛宕山古墳(県史跡)
舟塚山古墳(国史跡)

舟塚山古墳群
物見塚古墳
石岡市北根本ほか
見学日2024/4/9

まず、府中愛宕山古墳から。
西側の見学者用駐車場に駐車して、見学。

 府中愛宕山古墳 (舟塚山6号墳) 県史跡      石岡市北根本
 全長96.6mの前方後円墳   後円部径57m、前方部幅57m
 周溝あり。 埴輪が出土している。
 6世紀初め頃の築造と推定されている。。

後円部裾から前方部を見る

後円部側

後円部から前方部を見る

後円部墳頂の大きな陥没坑

前方部から後円部を見る
 説明板から

舟塚山古墳は茨城県最大の古墳。府中愛宕山古墳からそのまま徒歩で見学。


県道118号線沿いの舟塚山古墳標識

   

 舟塚山古墳   国史跡  石岡市北根本
 全長182mの前方後円墳  後円部径90m、前方部幅100m
 関東地方では、太田天神山に次ぐ規模。
 周囲に周溝や周庭帯も良好に残る。
 出土した円筒埴輪から 5世紀中頃の築造と推定されている。。
 陪塚約20基が確認されている。

舟塚山古墳 後円部側 右奥に前方部

後円部を一部削って鹿島神社が鎮座

鹿島神社の鳥居をくぐると階段がある。

後円部墳頂 小さなこぶ状の盛り上がりがある

後円部から前方部を見る

前方部が一部削られて墓地となっている

前方部の墳頂の植栽

前方部から後円部を見る

舟塚山古墳 横姿  北から見る
  説明板から


出土した円筒埴輪

舟塚山古墳の周囲には、約20基の陪塚がある。
見学できたものを少しだけ紹介する。

 舟塚山古墳陪塚群(舟塚山支群)
 15号墳  径20mの円墳

  土師器・須恵器が出土
 14号墳  径11.5mの円墳

 箱式石棺 石製模造品・土師器・埴輪
 13号墳  径10mの円墳 

 埴輪あり
 20号墳  径9.5mの円墳だが、前方後円墳形をしていると噂の古墳

墳丘

方向を変えて見る
 9号墳は消滅しているが、出土した箱式石棺が石岡市ふるさと歴史館の前に移設されている。
  翌日見学した。

物見塚古墳は、常磐線の東側の高浜小学校脇の狭い急坂を登ったところにある。
高浜小学校の西隣。

 物見塚古墳
  (舟塚山古墳群西ノ台支群5号墳) 
 
石岡市高浜
 径18mの円墳
 石棺の材料と考えられる石材が露出
 埴輪も採集されている。
 中期後半~後期前半(5世紀後半~6世紀前半)頃の築造と推定されている。

墳丘

石材が露出しているそうだが、わからない
 高浜小学校では、明治33年、昭和8年、昭和55年の工事の際に、
   箱式石棺が計12基発見された(25~36号墳)。
   金環や刀剣、鉄鏃、勾玉、鈴釧等が出土したと伝えられている。

舟塚山古墳群の分布図を探していたら、インターネット上に、
 ふるさと歴史館第20回企画展「舟塚山古墳とその時代(令和元年11月~2年2月)」
 の資料が公開されていたので参考にさせてもらった。

 舟塚古墳群の分布図
 舟塚古墳群は,恋瀬川左岸の霞ヶ浦を臨む台地上に、東西約2km・南北約1kmの範囲に分布。
 現在までに41基確認されている。
 東から,
  上野支群(1・2号墳)
  西ノ台支群(3~5・25~36・38~41号墳)
  舟塚山支群(6・8~20・37号墳)
  中津川支群(21~24号墳)
  単独で存在する7号墳(天王塚古墳)

 古墳時代前期(4世紀)から終末期(7世紀)にかけて、
  途絶期間をはさみながらも長期にわたって古墳が築造されたと考えられている。

   ふるさと歴史館第20回企画展「舟塚山古墳とその時代(令和元年11月~2年2月)」から

  

羽黒古墳
市史跡
小美玉市竹原、
見学日2024/4/9

南側に張り出した丘陵の先端にあり、南麓から上がると駐車場。
 駐車場から階段を上がると、まず円墳 一番奥に前方後円墳。

 竹原小学校の南400mの丘陵先端に前方後円墳1・円墳2 が並ぶ。
 北端の羽黒古墳は 全長67mの前方後円墳
  後円部径34m、前方部幅15mで、前方部はかなり破壊されていたが、近年復元された。
 南に隣接して円墳が2基あるが、1基は消滅している。

羽黒古墳 前方部先端

羽黒古墳 前方部から後円部を見る

羽黒古墳 後円部上に小さな石祠

羽黒古墳 後円部から前方部方向を見る

羽黒古墳 後円部から前方部を見る

羽黒古墳後円部側に説明板。右奥に前方部

西から見る  左に後円部
  説明板から

円墳その1

円墳その1 隣は墓地

円墳その1 謎の石板

消滅したという円墳その2の残骸か?

 

勅使塚古墳
市史跡
小美玉市張星、
見学日2024/4/9

農地の中に低い墳丘が見える。

 勅使塚古墳は  径30mの円墳、周溝あり、
 墳丘はかなり低くなる、裾も削られている。
 未調査、詳細不明。

南から見る

北から見る

勅使塚古墳 墳頂部

墳頂部にある五輪塔の残骸?
説明板から

 

この後、小美玉市花野井にある愛宕山古墳群に行くが、よくわからず断念……
午後6時になった。



サイゼリヤ石岡店(石岡市貝地)で
   夕食 



コンテナホテル「HOTEL R9 The Yard」(石岡市北府中3-1-1)に宿泊
コンテナのコインランドリー棟で、三日分の洗濯をして就寝……
 

4日目、2024/4/10の朝です!


ホテルでもらった
 冷凍食品の朝食

部屋には、電子レンジがある。

   

常陸国分寺跡
国特別史跡
石岡市府中町5丁目、
見学日2024/4/10

天平時代に建てられた常陸国分寺跡には、現代の国分寺がある。

 常陸国分寺跡 
 天平13年(741)、聖武天皇は、五穀豊穣・国土安穏を願い、
  68の国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じた。
 当時は疫病も流行しており、仏の力を借りることで国を安定させようと考えた。
 発掘調査を行った結果、中門・金堂・講堂が一直線に並び、
  中門から金堂にかけて回廊が巡る
ことが分った。
 また、境内内には塔跡のものと思われる礎石(心礎)がある。
 塔の正確な位置はまだ判明していないが、
  伽藍の東側に「ガラミドウ」という地名があり、関係が注目されている。
       (石岡市HPから)

桜が満開の常陸国分寺跡と現常陸国分寺

常陸国分寺跡 中門跡

::現国分寺の薬師堂  本尊は薬師如来

現国分寺の本堂

都々一坊扇歌堂(ドドイツボウセンカドウ)
 (石岡市指定文化財

昭和8年に
 町内有志の呼びかけによって建立された。
堂内には馬堀法眼嘉孝画伯の描いた
  扇歌の肖像画がある。
初代都々一坊の墓は,国分寺本堂の裏にある。
 扇歌は文化元年(1804)現在の常陸太田市磯部に生まれ、江戸末期に都々逸節を広めた。
 芸人ながら茨城の反骨精神をもって、
  幕政の批判や洒脱な風刺を三味線にのせ,美声をもって唄いまくった。
     (石岡市HPから)

旧千手院山門
  (石岡市指定文化財

千手院は国分寺の東側に存在していた寺院。
一度は衰退したが、
 天正元年(1573)に再興された。
山門もその頃建てられたものと考えられ、
 安土桃山時代の様式を残している。

 江戸時代には国分寺に対して主導的役割をはたしていたが、
  大正8年(1919)に現国分寺と合併し、廃寺となった。
 現在はこの山門が国分寺境内に残るのみ。     (石岡市HPから)
説明板から

 

常陸国分尼寺跡
国の特別史跡
石岡市若松3丁目、
見学日2024/4/10

国分尼寺跡は、府中小学校の北に残されていて、史跡公園としての整備が進められている。
常陸国分寺跡から北西方向に約500mのところ。

 常陸国分尼寺跡
 国分尼寺は国分寺と同様に、741年(天平13年)聖武天皇の勅命によって国ごとに建立された。
 国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」。
 発掘調査によって「法華」と書かれた土器が発見された。
 1590年(天正18年)に佐竹氏が大掾(ダイジョウ)氏を府中城に攻めた時に焼失。
 現在は礎石を残すのみ。
 建物の配置(伽藍)は、一直線上に南大門、中門、金堂、講堂が並び、
  回廊は中門から講堂へ取り付けられ、その北側に建物跡がある。

 それらの礎石や基壇が非常に状態よく保存されている。

常陸国分尼寺跡 金堂跡 手前は回廊跡

方向を変えて見る

常陸国分尼寺跡 北方建物群跡

常陸国分尼寺跡 講堂跡
説明板から

  

舟塚山古墳群9号墳の石棺
府中城の土塁

(ふるさと歴史館)
石岡市総社、
見学日2024/4/10

昨日見学した舟塚山古墳群9号墳の石棺が移設されているという「ふるさと歴史館」へ。
このあたりは国府跡であり、府中城があったところで、府中城の土塁も残っている。

常陸国府跡 府中城の土塁と
舟塚山9号墳石棺

 満開の桜と共に

手前の大きな説明板は
「府中城の土塁」 
この説明板の左後ろに
 石棺と説明板がある
 「府中城の土塁」 (市指定史跡)
 府中城は、第15代大掾詮国(ダイジョウアキクニ)が正平年間(1346~1370)に築城した。
 東西500m、南北400mの範囲で、
  第24代、大掾清幹(ダイジョウキヨモト)の時、
   天正18年(1590)12月、佐竹義宣に攻められ、落城した。
 大掾氏滅亡以前を府中城と称し、滅亡後には城郭は築かれることはなく、
  城跡一帯を呼称として、府中城または城中山などと呼んでいる。
 現在、残された土塁は、市の史跡に指定されている。  (石岡市HPから)

石棺の説明板の後ろに
府中城の土塁
  
説明板から
 常陸国府跡
  霞ヶ浦に注ぐ天王川と恋瀬川により形成される石岡台地に位置し、
  石岡駅から西に約1kmの石岡小学校とその横のふるさと歴史館のあたりと考えられている。

  

 舟塚山古墳群9号墳出土の石棺
 舟塚山古墳群9号墳は 一辺10mの方墳  幅1.5m・深さ60cmの周溝がある。
 箱式石棺は蓋石5・側石8・妻石2の計15枚 床石には小石を敷き並べている。
 石棺内には、人骨2体(1体は追葬)が確認されている。
  昭和51年に発掘調査。

石棺の後ろには土盛があるが、
これは府中城の土塁。

方向を変えて見る

石棺内部

舟塚山9号墳箱式石棺そばには、
別の石棺石材が置かれている
説明板から

  

常陸国総社 石岡市総社、
見学日2024/4/10

常陸国の全ての神を祀る総社宮。

 常陸国総社神社
 祭神は,伊邪那岐命,須佐之男命、邇々藝命、大國主命、大宮比賣命、布瑠大神
 創建年代は不詳だが、
  社伝によれば聖武天皇の天平年間に勅命により、
   国家の鎮護として天神地祇の六柱を合祀したのが始まりとされる。
 総社とは、それぞれの律令国に鎮まる八百万の神々を国衙近くの一ヶ所に合祀した神社で、
  全国で55社が確認されている。
 国司たちは総社を拝することで自らが治める国の数多の神々に祈りを捧げた。
 徳川光圀が『大日本史』編纂のために参照したと伝わる社宝「総社文書」は
  連綿と続く当宮の歴史を今に伝えている。  (説明板から)

常陸國總社宮 随神門と随神像

常陸國總社宮 日本武尊腰掛石

常陸國總社宮 拝殿

常陸國總社宮 左から拝殿、本殿

  

今泉愛宕山古墳
市史跡
土浦市今泉
見学日2024/4/10

リクシル土浦工場の北300mの道路沿いの林の中にある。
道路脇に駐車スペースがある。
林の西側に階段があるので上がってみたら、これも古墳だが、目的の今泉愛宕山古墳ではない。
ブログ「古墳探訪記」様には、配置図が掲載されているので、参考にさせていただきました。

 愛宕山古墳群1号墳
 直径18mの円墳 高さ2m

愛宕山古墳群1号墳に上がる階段 

墳頂には石祠

今泉愛宕山古墳は、1号墳を下りて道沿いに南東に行くと林の中に道がある。
前方部はほとんど削平されていて、墳丘上には神社がある。

 今泉愛宕山古墳   市史跡 
 墳長55mの前方後円墳
 後円部径30m・後円部高さ4.9m  前方部幅35m・前方部高さ5.5m
 円筒埴輪、女子人物埴輪が出土
 6世紀後半の築造と推定されている。

愛宕山古墳に至る道 奥に鳥居が見える

鳥居の手前 前方部から後円部を見る

鳥居を過ぎて 前方部から後円部を見る

くびれ部から後円部を見る

後円部墳頂

後円部から前方部を見る

ブログ「古墳探訪記」様によると、周辺には愛宕山古墳群があり、
  他にも見学できる古墳があったようだが見て来なかった……。

武者塚古墳
市史跡
出土品は重要文化財
土浦市上坂田
見学日2024/4/10

立派な覆い屋で保護されていて、そばで見られると思ったら、覆い屋に入れなかった……

 武者塚古墳は 一辺22~23mの方墳  墳丘はすでに削平されている。
  地下式両袖型箱形横穴式石室がそのままの形で出土し、
 現在は石室を覆屋で保護し、小公園として整備公開されている。
 石室は地下に設けられ、前室と玄室からなり、羨道はなく、前室の蓋を外して出入りする構造。
 出土品は、
  前室から銅装三累環頭大刀、銀装圭頭大刀、銀帯状金具、鉄柄銅杓など
  玄室からは美豆良を含む頭髪、六体分の人骨、各種装飾品、経錦など。
  特に美豆良は初めての出土。
 7世紀中頃の築造と推定されている。
 周辺に古墳群を形成しているが、現状不明。(公園内に2号墳の箱式石棺が置かれている)
 2022年に調査 

立派な覆い屋

窓から中をのぞく その1

窓から中をのぞく その2

窓から中をのぞく その3

外には
 武者塚2号墳の
  埋葬施設・箱式石棺が
展示されている
 説明板から

   

常名天神山古墳
市史跡
土浦市常名
見学日2024/4/10

北側道路から森の中を南下すると、前方後円墳がある。
2023年の5月の火災で、墳丘上の社殿が全焼して、骨組みだけになった社殿が残っている。
「常名」は「ヒタナ」と読むと知り、びっくりです。

 常名天神山古墳(ヒタナテンジンヤマコフン)は 全長約70m、復元長は約90mの前方後円墳
  後円部直径45m・高さ6.87m 前方部の高さ4.25m
 低平な前方部から古墳時代前期(5世紀初め頃)の築造と推定されている。
 後円部には常名神社を祀る。
 桜川左岸の台地の端に築造されている。

前方部脇から後円部を見る

くびれ部脇から後円部を見る

横姿  陰影がはっきりしすぎていて、よく見えないが、右が後円部

後円部裾から後円部墳頂を見上げる

墳頂部
 常名神社社殿は燃えて鉄骨の残骸のみ

後円部から前方部を見る

前方部  「石造宝篋印塔」と刻まれた
石碑の奥に宝篋印塔

前方部から後円部方向を見る

前方部に並ぶ小社
説明板から

常名天神山古墳の西には常名瓢箪塚古墳があるそうだが、わからなかった。

王塚古墳・后塚古墳
市史跡
土浦市毛野町
見学日2024/4/10

薬王寺の北の墓地のある森の中に2基の前方後円墳がある。
インターネット上に
  「土浦市后塚の測量調査(2018)」という報告書が公開されていたので参考にさせてもらった。




自動車で行くときは薬王寺の南の道路を通り過ぎ
南側をぐるっと迂回して東の脇道から入る。

ただし
小型車以外は進入禁止と書かれているので注意!
 王塚古墳・后塚古墳の実測図

北(上)が后塚 
南(下)が王塚


霞ヶ浦の桜川河口に近い、
 標高22~25mの舌状台地に、
 約100mの間隔で築かれた2つの古墳

王と后の墓という名がついているのが
 ロマンチックだ。
 どちらも発掘調査等が行われていないため詳細は不明。
 葺石や埴輪、土器片等は見つかっていない。
 自然地形を活かして築造されたようで、
  「王塚古墳」は前方部が南東向き、「后塚古墳」は南西向きになっている。
 それぞれ、台地の先端を利用した結果か。

北の后塚の近くに駐車。
后塚は2018年に測量調査が行われた。

 后塚古墳
 墳丘全長 53.8mの前方後方墳
  後方部 長さ35.4m・ 幅36.4m   墳頂平坦部 長さ13.8m・ 幅14.5m
   高さ(北)5.45m  (東)5.61m (西)5.41m
  前方部 長さ18.4m・前端幅15.3m   高さ(西)1.80m・(東)2.53m
 周溝は、一部あった可能性がある。

后塚古墳 実測図

段築なし 
葺石なし 
埴輪なし
 后塚古墳は茨城県内の他の多くの前方後方墳と同様に
  短く狭い前方部を持つが、その墳丘規模は比較的大型である。
 測量調査では后塚の年代を特定する根拠は得ることができなかった
   (報告書から)

后塚古墳 後方部 後ろ(北西)から

后塚古墳 前方部から後方部を見る

后塚古墳 後方部から前方部を見る

2018年に測量調査されたのは后塚古墳だけで、王塚古墳は調査されていない。

 王塚古墳
 墳長84mの前方後円墳 
  後円部径45m・高さ8m  前方部幅25m(復元)・長さ39m・高さ3m
  土浦市内では最大の古墳。
 前方部の幅が狭い柄鏡型という比較的古い形式から、
  4世紀終末~5世紀前半の築造と推定されている。 

王塚古墳 実測図

(報告書から)

王塚古墳 後円部

後円部から前方部方向を見る

後円部墳頂に石祠がある。

くびれ部から後円部を見る

山道で分断された前方部 赤い杭がある

 王塚古墳 後円部側を見る 竹藪の中

樹木や竹が生い茂り、墳丘がよく見えない状態になっている。

崎浜横穴群 (かすみがうら市) につづく

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