山形県旅行記その6
米沢市22021/4/15~18
山形県、三日目に入ります。 2021/4/17
皇太神社(古墳群) 西光寺(古墳群) |
米沢市上新田 撮影日2021/4/17 |
戸塚山古墳群の発掘調査報告書を見ていたら、
戸塚山の南にある皇太神社や西光寺のあたりにも古墳があると書かれていたので
見に行くが、よくわからない。
西光寺古墳群 米沢市大字上新田字森合山 標高292mを有する単独丘陵の森合山東山麓に、 10m~15mの山寄式の円墳5基が確認されており、 7・8世紀代の終末期古墳とみられている |
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皇大神社古墳群 大字上新田 森合山の南山麓に分布するもので、5m~6mの小規模円墳が3基確認されている。 8世紀代の終末期古墳と考えられている。 |
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皇太神社鳥居 |
皇太神社古墳群 その1? |
皇太神社古墳群 その2? |
皇太神社古墳群 その3? |
左 西光寺 右 皇太神社 |
西光寺の墓地 |
イオン米沢店にて休憩後、長手2号墳へ!
長手2号墳 | 米沢市長手 撮影日2021/4/17 |
赤い橋がきれいな天満神社の入口の西側にある橋の東詰から
川沿いの狭い道を南へ200mほど行くと「長手城館跡」の説明板がある。
「長手城館跡」の説明板
この前にギリギリ駐車!
右側にある山裾の細道を
さらに南へ200mほど進むと
長手1号墳・2号墳の説明板がある。
インターネット上に、
「遺跡詳細分布調査報告書第12集(平成11年)長手4号墳の確認調査」
が公開されているので参考にさせてもらった。
長手館跡縄張り図 (報告書から) 長手館と古墳の位置関係図 古墳の位置も描かれているので 引用させてもらった。 古墳の立地する城山は、伊達氏十六代城主輝宗の家臣と伝えられている 網代伯耆守の館跡「長手館」と伝えられている。 中世特有の山城形態を示している。 |
長手古墳群は、城山の南山麓から尾根にかけて、9基が分布するとされている。 調査された長手4号墳は、古墳として成立した後、中世墳墓に再利用されている。 主体部は比較的明瞭で、全長5.15m 玄室の長さが2.5m・幅1.8m、羨道の長さ2.26m・幅1.5m 前庭部より 追葬したものと推測される8世紀前半の土師器杯4点、須恵器高台杯3点と 骨蔵に転用した古瀬戸瓶子1点が出土している。 |
長手2号墳 | |
直径15m・高さ3.5mの山寄式の円墳 横穴式石室は長さ15.4m(前庭部の入口から奥壁までの長さ) 玄室は、長さ2.3m・最大幅1.3m・高さ1.8mの両袖式 奥壁から玄門にかけてゆるやかな樽型状を示すのが特徴。 凝灰岩の1枚岩を奥壁に置き、側壁は凝灰岩の割石を下から順次積み上げる持ち送り式 終末期の古墳 昭和58年調査 |
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西から見た2号墳墳丘と説明板 奥に1号墳がある。 |
南側に開口している石室 |
開口部 |
羨道から玄室を見る |
奥壁 |
玄室から開口部を見る |
2号墳の隣に1号墳。1号墳と2号墳が米沢市指定文化財となっている。
説明板には、1号墳の説明は無い。
1号墳 詳細不明 | |
石室が開口した2号墳の向こうに1号墳墳丘 |
1号墳 墳頂 |
天満神社 | 米沢市長手 撮影日2021/4/17 |
きれいな赤い橋に魅せられて見学。長手古墳群の北にある。
天満神社 創建は、鎌倉時代の初め(1238)ごろと伝えられている。 祭神は、菅原道真公 赤い太鼓橋は、昭和58年に架け替えられたもの。 |
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天満神社 正面 |
天満神社 太鼓橋 |
木和田古墳 | 米沢市木和田 撮影日2021/4/17 |
市指定文化財の「木和田窯跡」の西隣りにあるのが、木和田古墳。
窯跡には説明板がある。
木和田窯跡 | 市指定文化財 |
昭和47年に発見され、発掘調査、8世紀前半の須恵器窯跡 丘陵山腹のなだらかな南斜面を利用して構築されていて、 地山の凝灰岩をトンネル式にくり抜いた「無段地下式登り窯」に分類されている。 窯体は、煙道・焼成部・燃焼部・灰原からなるもので、全長5.4m・幅1.2m この窯から約20mの西側にある木和田古墳の副葬品として、 木和田窯跡で生産された須恵器の長頸壺が出土していることで、 須恵器窯を管理統括する責任者の墳墓の可能性がある。 (説明板から) |
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立派な覆い屋に保護されている木和田窯跡 |
窯跡 |
木和田古墳には、説明板は無い。
木和田古墳 | |
米沢市東部の古館山から延びる尾根の南側山麓斜面に立地している 東西12.9m・南北15.8mの楕円形墳 高さ1.1mの山寄せの円墳 横穴式石室がある。 玄室は全長3.5m・幅1.6m 奥壁は一枚岩、側壁は数枚の大小の岩を使用している。 側壁の石は2段目まで確認されている。 玄門は左右対称にシキミ石の両側に設置され、羨道は西側に1個確認されたが ほかの石は失われている 石材は凝灰岩で、角礫が含まれていない 出土遺物は、土師器片10、須恵器片2、中世陶器1。 7世紀後半の築造と推定されている。 追葬が行われていたと考えられている。 昭和26年に地主によって発見され、調査。 平成9年にも調査。 |
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墳丘 手前に大きい石が転がっている |
石室残存状態 たぶん手前が入口 |
墳頂(石室上)から墳裾を見る |
転がっている石の上に小さな石祠 |
牛森古墳 | 米沢市八幡原4丁目 撮影日2021/4/17 |
八幡原緑地内にある。
東北パイオニアの東側にある車幅ぎりぎりの道を北に約400mほど行くとある。
牛森古墳は 径8mの円墳 開墾などで一部破壊されている。 埋葬施設は南の方向に入口をもつ両袖型の横穴式石室 玄室部は長さ1m・幅3m。羨道部長さ1.5m 玄室は横長の楕円形、玄室と羨道が「T」字形となる特異なもの 奥壁と玄門に凝灰岩が使用されているほかは、すべて川原石を利用している。 出土遺物は 銙帯金具(カタイカナグ・腰帯に付けた飾り金具)7点・刀子1・鉄鏃1・須恵器蓋1で、 市の重要文化財に指定されている。 古墳時代終末期(8世紀中葉頃・奈良時代)の築造と推定されている。 牛森古墳平面図 (説明板から) 昭和50年に 八幡原中核工業団地造成に伴う発掘調査 銙帯金具の復元と実測図 (説明板から) |
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墳丘と説明板 |
開口部 |
羨道から玄室を見る |
奥壁 |
奈良時代の築造?!
横山古墳(群) | 米沢市大字上竹井字横山 撮影日2021/4/17 |
古墳の北東麓にある「盛興院」というお寺の境内で駐車させてもらい、山に登る。
尾根上を200mほど南下して、ようやく墳丘らしきものを見つける。
インターネット上に「遺跡詳細分布調査報告書第13集 別冊 横山古墳(2000年)」が
公開されているので参考にさせてもらった。
横山古墳群は 米沢市街地から北東4㎞ に位置する八幡原工業団地の北部に分布する。 木和田地区の南西側の、梓山地 内から連なる 標高275mの丘陵の先端部 につくられている。 M1号墳・M2号墳が確認されている。 横山古墳M1号墳・M2号墳トレンチ配置図 (報告書から) 上(北側)がM1号墳 M1号墳が横山古墳とよばれている。 南東から南西に延びる尾根を整地した後に 南東部を東に削平して、独立した平坦地を造り出し、 その箇所に盛土を施し方形状の墳丘を構築している。 旧表土には縄文時代の遺跡があったらしく、 盛土に土器や石器が混入していた。 下はM2号墳 |
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横山古墳(M1号墳) 一辺13mの方墳 木棺直葬と考えられる墓壙3基、 北側の1号墓壙、南側の2号墓壙、中央に存在する3号墓壙の3基が検出されている。 2号・3号の墓壙は、地山を掘り込んだもので、長さ4m・幅1.25m。 北端で確認された1号墓壙は、長軸4.7m・幅1.1m、 盛土上面から掘り込まれたもので、後の段階で埋葬されたものと判断されている。 木棺の幅は、約60cm前後であったものとみられる。 墓壙の存在する墳丘の盛土上部から約70点の古式土器片がまとまって出土 復元できたのは5点 (土師器器台3点・高坏1点・坩1点)、ほかに3個体分位の破片がある。 これらは特に、2号墓壙・3号墓壙に埋葬した後に供えられたものと推測されている。 主体部からは2号墓壙から、管玉1点が出土。 土師器の特徴から、4世紀中葉の築造と推定されている。 横山古墳M1号墳主体部平面図 (報告書から) 出土した土師器坩は 復元高22cm・口径13.2cm・底部3.8cmの大型 管玉は、長さ2.8cm・幅0.45cm 暗緑黒色の蛇紋岩製で新潟県糸魚川産とみられている。
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M2号墳 M1号墳の南方に隣接する墳丘。 長径は南北6.8m、短径は東西4.8mを測る方形状。(確認調査) 頂上には三角点があり、平坦になっている。
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M1号墳の、北方箇所にも塚が存在し、墳丘形態から同様な時期が予想され、 合計3基が横山古墳群となる可能性が強い。 (報告書から) |
小雨の中、山形県三日目の見学を終える。
午後5時半、ホテル「セレクトイン米沢」(米沢市中央1-7-21)にチェックイン!
朝食付きプラン
夕食は、
ホテルの向かいの「楊佳苑」の中華。
外観が面白いので、翌朝写真を撮る
「福」が逆さま!!
米沢城跡につづく