山形県旅行記その7
米沢市32021/4/15~18
山形県、四日目に入ります。
ホテル「セレクトイン米沢」の朝食をゆっくり食べて、8時45分ごろ出発!
米沢城跡(松が岬公園) 上杉神社 |
米沢市丸の内1丁目 撮影日2021/4/18 |
現在は、松が岬公園となる。駐車場完備。
周囲には、濠がめぐっていて、憩いの場となっている。
天気も良く、桜も咲いていて、かなりにぎわっている。
米沢城は、1238年、長井荘地頭大江時広が城館をおいたことに始まるといわれている。 その後長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、 天文17年(1548)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された。 天正19年(1591)、伊達政宗は、豊臣秀吉の命で岩出山城に移り、 米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、 慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石に入封、米沢城には重心直江兼続が配された。 慶長6年(1601)、前年の関ヶ原の戦いで 西軍方についた上杉景勝が米沢30万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。 以後、寛文4年(1664)に後継問題で米沢藩は15万石となるが、 米沢城は約270年間にわたり上杉氏13代の居城として明治維新を迎えた。 城郭は平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の縄張りで、 三の丸の東側には町人町・職人町が置かれた。 本丸の中央は藩主の住む御殿があり、南東隅の高台には上杉謙信の遺骸を祀る御堂が建ち、 北東と北西の隅には三層の隅櫓があった。 米沢城下絵図 (説明板から) 明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、 本丸跡は松が岬公園と上杉神社になる。 堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には 桜の木が並び桜の名所ともなっている。 |
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上杉神社 1578(天正6年)、上杉謙信急死に始まる跡目争いで分裂した上杉家は、 織田信長の攻勢も受け、存亡の危機に直面した。 若き当主上杉景勝とそれを支える直江兼続は、 家臣団統合の精神的支柱として謙信の遺骸に甲冑を着け、甕に入れて春日山城にまつった。 遺骸は上杉氏の転封とともに米沢に移り、米沢城本丸高台の祠堂に安置された。 1871年(明治4年)、祠堂は謙信を祭神とする上杉神社と改称、 その後公園化にともない、遺骸は御廟所に移され、二の丸の法音寺も御廟所前に移転した。 1919年、米沢大火で社殿が焼失、その後再建された。 |
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現在は桜の名所となっている。 濠の向こうには「上杉伯爵邸」がある。 |
上杉神社参道 屋台も出ている! |
上杉神社 一の鳥居 |
上杉神社 二の鳥居 |
上杉神社 神門 |
上杉神社 社殿 |
上杉謙信祠堂跡 江戸時代、上杉謙信の遺骸を 安置した御堂が建っていたところ 明治9年に「上杉家墓所」に移された。 |
公園内には、米沢ゆかりの戦国武将の説明板や、石碑・像などかある。
伊達政宗(1567~1636) 仙台藩62万石の基礎を築いた戦国武将。 永禄10年に米沢城で生まれ、18歳で家督。「独眼竜」とも称された。 会津の芦名氏等を破り領地を広げるが、 政宗25歳の天正19年に豊臣秀吉によって岩出山城に移される。 その後、本拠を仙台城に移し仙台藩の基礎を築く。 寛永13年に江戸で死去、享年70. 伊達政宗公生誕の地 石碑 |
直江兼続(1560~1619) 上杉景勝を支えた知将。 樋口惣右衛門の長男として坂戸城下に生まれ、景勝の近習に選ばれる。 その後、重臣・直江家を継いで上杉家の中枢として景勝を支えた。 米沢30万石へ移封後は、町割りや堤防・水路の整備、鉄砲鍛冶の招聘、 学問所「禅林文庫」の開設など、城下町米沢の基盤を築く。 元和5年に江戸で死去、享年60.。林泉寺に兼続夫妻の墓がある。 上杉景勝公と直江兼続公 主従像 NHK大河ドラマ「天地人」で有名だ |
上杉景勝(1555~1623) 米沢藩の初代藩主。坂戸城(新潟県南魚沼市)に生まれ、叔父上杉謙信の養子となる。 謙信死後の家督争いに勝利し越後を統一。 豊臣秀吉の命で会津120万石に移り五大老となるが、 秀吉死後に徳川家康と対立、関ヶ原の戦いの後に米沢30万石へ移封となる。 以後、重臣直江兼続に命じ、米沢城下の整備や政治体制の確立など米沢藩の基礎を築く。 元和9年に米沢城で死去、享年69。 |
上杉鷹山(1751~1822) 上杉家10代。 窮乏の淵にあった米沢藩を卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君。 17歳で米沢15万石の藩主となる。 藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新等を断行し、 隠居後も政務に参与して再建に務めた。 米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。享年72。 アメリカ合衆国第35代大統領J・F・ケネディが、日本人記者団の質問に 「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えたことは有名である。 上杉鷹山の像 |
米沢藩の初代藩主・上杉景勝より、家来の直江兼続の方が有名。
春日山林泉寺 | 米沢市林泉寺 撮影日2021/4/18 |
上杉神社の南約1kmの掘立川西岸にある。
春日山林泉寺(曹洞宗) 上杉謙信の祖父長尾能景により創建された新潟県上越市の春日山城に隣接する林泉寺が、 上杉家の米沢移封にともなってこの地に移ったもの。1617年(元和3年) 山門は、大手門正面にあった侍組竹俣家屋敷(現・九里学園高校地)の門を移したもので武家門の形。 上杉家の夫人や支侯の墓所。 景勝夫人菊姫、2代藩主定勝夫人市姫、3代藩主綱勝夫人媛姫(ハルヒメ・保科正之の娘)、 鷹山の側室お豊の墓。 武田信玄の6男・武田大善太夫信清の墓(県史跡) 直江兼続夫妻の墓(県史跡) 長尾家・杉原家・吉江家・甘粕家などの上杉家重臣の墓など。 斜平山を借景とした庭園は、「米沢三名園」の一つに数えられている。 |
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入口 |
山門 |
シダレザクラ 米沢市シンボルツリー第2号 |
お堂 |
林泉寺 境内 左手奥に 上杉家関係者の墓がある。 |
法音寺 上杉家墓所 国史跡 |
米沢市御廟1丁目 撮影日2021/4/18 |
上杉神社の西約1.5kmの杉木立。 入場料800円。 駐車場完備。
法音寺 上杉家墓所 景勝の死去に際し、東西109m・南北181mの墓域を定め位牌をまつってから、藩主墓所となる。 藩祖謙信公の御廟を中心にして、その両側に12代までの藩主の廟が並んでいる。 2代から8代までは社造りで、材質はケヤキ、柱は丸柱。 9代から12代までの廟は、10代鷹山公の考案による宝形造りで、 材質はスギやヒノキ、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情かうかがわれる。 昭和59年(1984)、米沢藩主上杉家墓所として国指定史跡となる。 |
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墓所入口 |
参道 |
墓所門 |
配置図 (説明板から) |
謙信公御廟 参道の正面奥に一段高い一間社流れ造の廟殿 謙信公の遺骸は、 甲冑をつけカメに納められて 越後春日山(現新潟県上越市)から 会津(現福島県会津若松市)を経て 米沢城へ移され 明治9年に現在の場所に移葬された |
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謙信公御廟の左手の御廟 |
謙信公御廟の右手の御廟 |
墓所前を守る法音寺 上杉家歴代藩主の菩提寺 謙信公が善光寺から 持ってきたと伝えられている 秘仏の善光寺如来三尊像と 付属の仏具を安置している。 |
ずらりと並ぶ御廟は、壮観である。
京塚古墳群 | 米沢市広幡町成島 撮影日2021/4/18 |
平成元年に確認された成島古墳群の北約1kmの山中に、平成14年、京経塚古墳群が確認された。
米沢市の広幡地区、広幡小学校の南の山裾にある。
インターネット上に「遺跡詳細分布調査報告書第16集 別冊成島古墳群1号墳(2003年)」が
公開されているので参考にさせてもらった。
京塚古墳群と成島古墳群と周辺の古墳 | ||||||||||||||||||
平成元年に確認された成島古墳群の調査が、平成12年・14年に行われて、それに伴い、 平成14年に、成島古墳群の周辺の分布調査、及び古墳が所在する広幡地区一帯を踏査して、 新たに、前方後円墳・円墳8基・方墳8基が確認された。 これらの古墳群は京塚古墳群、下小菅古墳、延長時古墳、西方寺古墳群と命名された。 但し、これらの中には地元では「お経塚」と呼ばれているものがあり、 全てが間違いなく古墳であるかは断定できない |
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古墳群位置図 成島古墳群は 全長58.7mの前方後円墳(1号墳)と 円墳5基 西方古墳群は 8基の方墳 延長寺古墳は 1基の方墳 下小菅古墳群は 2基の方墳 |
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京塚古墳群 1基の前方後円墳と8基の円墳、総計9基で構成される。 山麓斜面に6基、平坦地に3基が現存する。 尾根中央には神明神社の境内が斜面を削平して建立されている。 山麓から平坦地の箇所には道路や住宅等があり、 この地域にも以前は古墳群が存在した可能性もある。 前方後円墳の4号墳は、 成島古墳群がある山頂(標高327m)から北に標高差で55m下った 標高272mの地点にある。 京塚古墳群 配置図
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成島古墳群を見学したいが、どこから登っていいかわからないのであきらめて、
京塚古墳群の見学をしようと思う。
金松寺墓地の駐車場に駐車させてもらって、神明社上り口まで北上してから山に登る。
山麓斜面には京塚古墳群の1号墳から6号墳がある。
山の上の古峰神社
神明社から上ったところにある。
山麓の神明社を古峰社とも言うようだ。
京塚古墳群1号墳 直径9mの円墳 高さは現状で1m程度 山頂から北方55m下がった 272mに位置している。 |
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京塚古墳群2号墳 直径14mの円墳 斜面につくられた山寄せの古墳 2号墳・3号墳は隣接している |
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京塚古墳群3号墳 直径8mの円墳 高さ1m 2号墳の北方にある。 緩やかな斜面にある。 |
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京塚古墳群4号墳 全長41.4mの前方後円墳 前方部幅15m・後円部径21.7m 後円部高さ3.5m くびれ部には周溝がある。墳麓には全周する平坦地がある。
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京塚古墳群5号 3号墳と同じような規模 6号墳の西南にある小規模な古墳。 |
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京塚古墳群6号墳 直径15mの円墳 高さ3.5m 丘陵の末端部にある円墳 周溝が半周している。 埋葬部のあたりが崩落している。 |
山を下り、駐車地点まで戻り、今度は平地にある京塚古墳群の見学。
7・8・9号墳は、平地にある。
京塚古墳群7号墳 直径9mの円墳 国道287号墳の弓道と新道に囲まれた場所にある。 墳丘には畑にもかかわらずキワダの大木があり、塚が大事にされていたことがわかる。 8号墳とともに地元ではお経塚と呼ばれていて、 土地所有者の話によれば、先祖からの言い伝えで立入禁止となっていたので、 調査はされていない。 |
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京塚古墳群8号墳 直径6mの円墳 高さ1m 平坦地に位置する3基の古墳の中央にある。墳丘の東方に桜の木。 |
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京塚古墳群9号墳 径6m前後の円墳 平坦地の北端 石塔や祠が立ち並ぶ 2号、8号とともに経塚の可能性がある。 |
成島八幡神社 | 米沢市広幡町成島 撮影日2021/4/18 |
京塚古墳群の南約2kmの山麓に成島八幡神社がある。
成島八幡神社 祭神は 応神天皇、神功皇后、姫売神 説宝亀8年(777)の創建と伝えられている。 奈良時代光仁天皇の御代、蝦夷が反乱を起こし、 大伴駿河麿を将軍として派遣、宇佐神宮に勅願をたて八幡神社を建立した。 大同2年(807)将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願し社殿を造営する。 永保元年(1082)源義家は社領を寄進し、 以来長井氏、蒲生氏、伊達氏、上杉氏と歴代の藩主の崇敬を集めた。 代々の藩主によって、社殿の改築や修築が行われた際に奉納された「棟札」43枚、46面が 市指定文化財になっている。舞楽面と木造門神坐像は県指定文化財になっている。 この内最も古い棟札は、正安2年(1300)の長井宗秀のもの。 仙台市の大崎八幡宮(国宝)は伊達政宗公が成島八幡宮を分霊して創建した。 |
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ふもとの集落の中にある入口 石柱の横には説明板もある。 |
鳥居 |
社殿と境内 社殿の背後には 成島ワクワクランドという大きな公園がある。 |
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神社境内の周囲は 土塁や空堀がある。 神社でありながら、 城郭としても機能していたと 考えられている。 北側と西側に土塁と空堀が残り,虎口も備えていたと考えられている。 鎌倉時代の正安2年(1300)に,鎌倉幕府御家人であり長井荘地頭である長井宗秀(1265-1327)が 宝殿を修理したことが棟札によって判明している. 永徳3(1383)]年以降は成島館は伊達氏の支配するところとなった.。 遺構の特徴から城郭として、戦国時代末期まで使用されていたと考えられている。 長井宗秀は、大江氏姓長井氏の幕府評定衆・長井時秀と同じく 評定衆・安達義景の娘との間の子.第9代執権・北条貞時を側近として支えた。. また,『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されている。 |
実は成島八幡宮のそばに古墳があると書かれていたものがあったと思って、見に行ったが、わからなかった。
米沢市徳町のレストラン「まるまつ」にて、昼食。牛タンを堪能する。
最後に「米井」の見学。
米井の井戸 | 米沢市桜木町 撮影日2021/4/18 |
米沢信用金庫本店駐車場奥の小さな祠に古い井戸が祀られている。
「米沢」の語源となったという。
かつて米をといだような白い水が湧いて、「米井」とよばれた。 この湧水が「米沢」の語源ともいわれ、米沢城三の丸の鬼門を守る聖地とされた。 北隣には熊野堂があり、米沢の守護とされている。 |
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きれいになっている |
井戸が祀られているとは、分からない… |
以上、山形県の見学終わりました。
帰りは喜多方まわりで帰ることとする。
でも、会津若松ICまでが、かなり遠くて、結果的には失敗だった。
午後2時すぎに121号線から会津若松に向かう。
会津若松ICから磐越自動車道、 新潟中央JCTから北陸自動車道、
有磯海SA(富山県魚津市)で、夕食を済ませ、午後9時 帰宅
山形県旅行記 終わり