北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2014/5/31
四国の遺跡めぐり 第2回 愛媛県その1 東温市・松山市① |
2014/4/20~26 |
4月21日、四国二日目。
高知市のホテル土佐路高須で朝食後、7時15分にホテルを出発、33号線で愛媛に行こうとしたが、、、、、
忘れ物を取りに戻り、結局、7時45分出発となってしまった。
そのため、高速に乗り、愛媛に向かうことにする。
8時 5分 南国IC - 川之江東JCT - 川之江JCT - 石鎚山SAで休憩 ポンカンを買う
9時44分 川内ICから一般道へ
9時52分 川上神社古墳前に到着。
地図g
川上神社古墳 県史跡 |
東温市旧川内町南方川上 撮影日2014/4/21 |
川上神社のふもとの中之町集会所の前に駐車させてもらい、横の石段を上がる。
石段を上がる 左の建物は集会所 |
道路があって、また石段。その上に社殿。 |
川上神社拝殿、本殿、鐘楼 とても美しい神社だ 本殿は東温市指定有形文化財 旧県社で 江戸時代には松山藩主の祈願所として栄えた。 本殿背後に墳丘がある。 |
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川上神社古墳は 39m×22mの長方形墳または長円形墳 高さ5m 墳丘には2つの石室がある。 西石室は封鎖されていて詳細不明だが、 かつては玄室内に4人分の人骨が残っていたと伝えられている。 東側の石室は開口していて、全長7m 玄室の長さ2.65m・幅2.1m・高さ2.2mの両袖式 羨道はかなり埋まっているので、規模不明 鞍金具・杏葉・冑・鉄剣・鉄鏃などの武具や馬具のほか、 須恵器も出土し、中でも馬具類が多い 副葬品・構築方法から 7世紀中ごろの築造と推定されている。 当初は前方後円墳とみられていた。 |
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古墳に入る扉 扉の向こうに小祠があるが、 そこが西石室のあるところだそうだ。 |
東石室開口部 入口は狭いけど、入ってみました! |
奥壁 |
右側側壁 |
左側側壁 |
石室内部から入口を見る |
葉佐池古墳 国史跡 |
松山市北梅本町 撮影日2014/4/21 |
HP「古墳とかアレ」さんが昨年訪問したときは、古墳公園として整備中だったが、今も整備中・・・・・。
工事関係者が仕事をしている。
教育委員会の担当の職員の方に、見学させてほしいと頼んだが、
南の墓地から上がってそばまで行ってもいいが、墳丘の立ち入りはだめと言われた。
ふもとに設置された説明板はしっかり見学した。
工事中の西の麓から見た墳丘 一番上が墳丘 |
南の墓地から見た墳丘 白い建物は、1号石室の保存展示施設か。 |
東側のふもとはため池 |
南の墳裾から西のふもとを見る 左の建物は、ガイダンス施設か。 |
説明板から 葉佐池古墳は、平成4(1992)年開墾中に偶然発見された。 1993~1997年の発掘調査では、 横穴式石室は未盗掘で、木棺やたくさんの遺物が残されていた。 最初に見つかった石室(1号石室)のほかに4つの石室が発見された。 1号石室から須恵器、鉄鏃・鉄斧・刀子が出土 木棺や人骨、ひも、貝殻、稲など普通では腐ってなくなってしまうものまで出土。 6世紀半ばからおよそ50年間に3人が埋葬された。 別々になくなり、そのたびに石室の入口を開けて埋葬したことがわかった。 最後に埋葬された人物は、亡くなってから10日間ほどモガリという儀式を行い、 その後石室内に埋葬されたことがわかった。 平成17(2005)~20(2008)年の墳形確認調査では 南北に長い楕円墳で、現在長さ41m・幅23m・高さ6mとわかった。 古墳時代の葬送が実際にどのように行われたかが詳しく明らかにできたのは初めてである。 一族の墓と考えられている。2011年に国史跡に指定。 墳丘模式図 (説明板から) まず北側に2号石室を中心に、 小形の3・5号石室をつくり、 南側に4号石室がつくられた。 その後、南側の墳丘を削って、 あらたに1号石室がつくられると共に、 4号石室は取り壊され埋め戻された。 1号石室 (説明板から) 西に入口がある横穴式石室。 全長4m・高さ最大1.8m 6世紀中ごろに最初の埋葬が行われる。 計3人が葬られ、平成4年まで閉じられていた。 未盗掘 木棺材が残っている。 「もがり」の跡も残っている。 2号石室 奥壁から入口を見る (説明板から) 西向きに入口をもつ横穴式石室 全長7.1m・高さ最大2.4m 未盗掘 床には、木片や須恵器が散乱している 残されていた人骨などから 3人が埋葬されたと考えられている。 須恵器や馬具、装飾品などの副葬品がたくさん出土。 |
ずいぶん前に、 葉佐池古墳が発見されたという小さな新聞記事を読んだ事を思い出した。
あの頃は、四国まで、古墳見学に行くなんて考えもしなかった・・・・・・・。
ファミリーマート松山久米窪田店にて、昼食用弁当を買い、砥部町の運動公園で食べることにする。
波賀部神社古墳 市史跡 |
松山市高井町 撮影日2014/4/21 |
墳丘の北側の空き地に駐車。南側の神社から墳丘に入る。
波賀部神社古墳は 神社の後ろにあり、主軸は西方向 全長62mの前方後円墳 後円部径28m・高さ6.6m 前方部は長さ30m・高さ6.13m 周堀がある。 横穴式石室があると考えられている。一部露出している 須恵器や円筒埴輪が出土 6世紀前半の築造と推定されている。 古墳実測図 墳丘を削って社殿が建てられている。 社殿後ろ(後円部)に、石材が露出!! 嵯峨天皇の皇子の寛王命が、伊予国守として赴任して、この地で亡くなったといわれている。 墓地が近くにあったことから墓辺神社と呼ばれていたが、 墓の字を嫌って、今の字に改められたといわれている。 (説明板ほかから) |
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北から見た墳丘 左が後円部 |
波賀部神社 神社は神亀5(728)年に 大三島より勧請して建立したと伝えられている。 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
社殿の後ろに石材が見える |
露出している石材 |
境内には「正二位右大臣藤原朝臣親賢御子孫・・・・」 と刻まれた寄付金の石碑がある。
由緒ある神社なのだろう・・・・。
八ツ塚古墳群 市史跡 |
松山市西野町・恵原町 撮影日2014/4/21 |
平地に小さな古墳が8基南北に並んでいる。
1号墳の前に説明板がある。
八ツ塚群集古墳は文殊院所有 1、3、5、8号墳が円墳 2、4、6、7号墳が方墳 円墳は径7~14m、方墳は一辺10m余で、高さは1.5~3.5m 未調査だが、横穴式石室をもつと考えられている。 古墳時代末期の築造と推定されている。 四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の8人の子どもを祀ったとの伝説があり、 塚には小祠がおかれ、石地蔵が祀られている。 (説明板から) |
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1号墳 円墳 |
2号墳 方墳 |
左2号墳 右1号墳 |
2号墳上には、石材が露出。天井石か。 |
3号墳 円墳 3号墳は家の陰になっていて、 見逃すところだった。 |
4号墳 方墳 |
5号墳 円墳 |
6号墳 方墳 |
7号墳 方墳 |
8号墳 円墳 |
西から見た八ツ塚古墳群 左から 8号墳、7号墳、6号墳、5号墳、4号墳、3号墳 |
お昼を過ぎた。大下田古墳群へつづく