北村さんちの遺跡めぐり
更新日2026/4/15

 2025年秋の旅その6 
山口県下関市
 撮影日 2025/11/22〜28

2025/11/25 4日目の朝一番に萩市を見学して、下関市へ向かいます!!

萩ICから 無料高速で、三隅終点まで

11時半過ぎに セブンイレブン長門三隅店で昼食を調達
12時半ごろ、「道の駅ほたる街道」で食べようとしたが 休業…… 車の中で  昼食。

下関市の地図g

江良古墳群

下関市豊田町大字江良
撮影日2025/11/25

県道262号線沿いに残されている。石室が4基露出している。
無料駐車場も隣接。遊歩道やベンチ完備。


きれいな説明板
 
江良古墳群は
豊田盆地の南西部にあたり、
南へ派生する標高約40mま丘陵上に位置する。
古墳時代末期、7〜8世紀頃の古墳群
      (説明板から)

配置図 (説明板拡大)


墳丘はほとんど無し 天井石も無し。
須恵器の杯、壺などが出土している。
 1号墳 
 横穴式石室は長さ280cm・幅105cm・高さ96cm
 床面に敷石がある
 7世紀中ごろの須恵器坏の身、蓋が出土   (説明板から)

 2号墳
 横穴式石室は長さ308cm・幅・73〜83cm・高さ80cm
 床面に敷石があり、7世紀中ごろの須恵器長頸壺。高坏が出土  (説明板から)
 3号墳
 横穴式石室は長さ340cm・幅・85〜90cm・高さ85cm
 他の石室に比べ、石室基部の石材が大きくしっかりしたつくりであるのが特徴
     (説明板から)
 4号墳
 石棺というよりも横穴式石室の系譜に繋がる小型の主体部と判断される
 長さ340cm・幅65〜73cm・高さ62cm   (説明板から)

江良古墳群 左に2号墳、右に1号墳

天井石がなくて、横穴式石室の穴がある。
よく残ったものだ。

 植松1号墳
植松古墳公園

下関市菊川町大字吉賀
撮影日2025/11/25

国道491号沿いに1号墳(市指定史跡)、西約100mの古墳公園内に3基(2、3、5号墳)が保存されている。

 植松1号墳    市史跡
 両袖式の横穴式石室がある。
  石室は玄室長さ370cm・幅190cm・高さ120cm
 6世紀の終わりごろの築造と推定されている。
 (墳丘の形・大きさについての記述は、説明板にはない)

北西から見る

西から見る

南に開口する石室

石室内部は良く見えない
 説明板から

植松古墳公園に、2号墳・3号墳・5号墳が保存されている。

 植松古墳公園
 植松古墳群は7基の横穴式石室墳からなる
 本公園の東約100mのところにある円墳が1号墳。
 公園内に、石室が開口している2号墳、その西に石室が開口していない3号墳がある。
 2号墳と3号墳の間には、調査後移築保存された5号墳がある。
 昭和62年に4〜7号墳が発掘調査 1〜3号墳は現地保存
 調査された4基の古墳は、このあたりが水田化された際に破壊され、
  奥壁側壁の一部あるいは床面の敷石だけしか残っていない状況だった。
  古墳の石室内及び周溝内から比較的まとまった遺物の出土がみられた。
   供献用須恵器の他、馬具類、耳環やガラス小玉・切子玉などの装身具類などが主なもの。
 特に7号墳から出土した1対の耳環金環は遺存状態か極めて良好なもので、
   当時の金属製品の加工技術の高さを窺うことがてきる貴重な資料である。
 出土遺物から見て4基の古墳は 
  6世紀の終わりごろ〜7世紀の中ごろの築造と推定されている。
 未調査の1〜3号墳についても
  石室構造からほぼ同時期に埋葬施設として使われていたと想定できる。
 被葬者は当時吉賀を中心に勢力を持っていた
  小豪族あるいは有力な農民層の家族であったと考えられる。
    (説明板から)

植松古墳公園 手前右:2号墳、左:3号墳、真ん中奥:5号墳
 植松2号墳

石室開口

石室内部
 植松3号墳

墳丘のみ

方向を変えて見る  石室は見られない
 植松5号墳  移築保存
 2・3号墳とほぼ同じ横穴式石室がある。
 須恵器が出土。
説明板から

北から見る  左から 2号墳・5号墳・3号墳

    

 大日寺古墳

下関市菊川町大字上岡枝
撮影日2025/11/25

植松古墳群の東約1kmの大日寺に円墳がある。

 大日寺古墳は 幅3mの周濠を含めて径37mの円墳
 箱式石棺があったと考えられている。
 出土遺物は確認されていない。
 5世紀後半〜6世紀前半の築造と推定されている。

西から見た墳丘

東から見る

墳丘上の石材は箱式石棺の一部か?

墳丘上には石祠と三角点(26.8m)がある

南西から見る  墳丘上にはお堂が建つ
説明板から

見学中に激しい雷雨にあってしばらく動けなかった……。

 有冨1号墳
市史跡

下関市石原 
撮影日2025/11/25

県道247号線沿いのサン電子の北の山裾の擁壁の上に、石室が開口している。

 有冨古墳(1号墳)は 直径12m・高さ6mの円墳
 2段築成
 横穴式石室が開口している
 6世紀末ごろの築造と推定されている。

擁壁の上に説明板が見える

開口部が狭くなっている

石室内部
奥壁は1枚の板石のようだ。
玄門部は四角い
説明板から

  

 仁馬山古墳(国史跡)

その周辺の古墳

下関市菊川町大字上岡枝
撮影日2025/11/25

仁馬山古墳は 下関市街の北方、響灘に注ぐ綾羅木川右岸の台地上にあり、長門地方最大の前方後円墳

 仁馬山古墳周辺  (仁馬山古墳説明板に加筆)

仁馬山古墳 全長75mの前方後円墳
仁馬山南塚 仁馬山古墳陪塚
仁馬山北塚 古墳ではない
上ケ原古墳 15.4×13.1mの方墳
植松古墳(有冨) 20×16mの方墳
観音堂古墳 石室のみ移築


観音堂古墳は元位置から約100mの南西に移築されている。
大きな説明板がある。多量の遺物が出土した。

 観音堂古墳  移築保存 下関市有富
 平野を見下ろす台地上に立地していたが、道路建設で石室が移築された。
 横穴式石室のある古墳
 墳丘はすでになく、形状不明
 石室は奥行2.7m・幅2.4m 天井石はすでになくなっていた
 大人3人が葬られていて、それぞれ奥壁と側壁沿いに安置されていた。
 副葬品の中でも、装飾品としての玉類が特に多く、
  碧玉製管玉、碧玉製や瑪瑙製の勾玉、ガラス製の切子玉、ガラス製の小玉等が出土。
 その他鉄製品には、刀や斧、鏃、小刀などが出土
 平野を見下ろす台地上に立地 元は100m北東にあったが、市道建設のため、移築。
 「史跡の道」の見学スポットとして整備した。

大きな説明板があるが、石室はボロボロ……

玄門石はかなり大きい

石室床面には小石が敷き詰められている。

石室内から玄門を見る
 説明板から
 移築前の観音堂古墳   (発掘調査中 上が北)


出土した遺物→          

上から 水晶製切子玉・碧玉製管玉・勾玉、
瑪瑙製勾玉、ガラス製小玉、鉄刀
 説明板には 〜市内有数の古墳密集地帯と「史跡の道」〜 として
  秋根古墳群−観音堂古墳−仁馬山古墳と周辺
        −みばやし古墳群−上の山古墳−綾羅木郷遺跡−梶東浜遺跡

   のルートの地図がある。


 有富古墳・下有富古墳も紹介されている。

仁馬山古墳のすぐ北東の四つ角にあるのが植松古墳(有冨)
       (下関市旧菊川町に植松古墳というのがあるので「有冨」が付く)

 植松古墳(有冨) 下関市有冨
 20×16mの方墳 高さ3.3m
 調査はなされたが、埋葬施設は確認されていない
 周溝、葺石なども確認されていない

有冨植松古墳のすぐ西側にあるのは、上ケ原古墳

 上ケ原古墳 下関市有冨
 箱式石棺がある方墳
 上ケ原古墳に接するように有蓋土壙墓3基と竪穴石室1基が確認されたが、
   上ヶ原古墳の方が後から構築されたことが確認された……(?)
 上の原古墳群というべきか

 植松古墳(有冨)のすぐ南に、 仁馬山古墳の入口がある。

 仁馬山古墳 下関市延行

仁馬山古墳入口

「国指定史跡仁馬山古墳」標柱 この奥に墳丘
 仁馬山古墳は 全長75mの前方後円墳  後円部径47m・前方部幅23m
 後円部が大きく高く、前方部が低くて短い形状
 後円部のみ3段築成  前方部では濠の痕跡がある
 葺石あり  部分的に円筒埴輪が立てられていた
 後円部中央に構築された粘土槨に
   直径約1m・長さ約6mの割竹形木棺が納められていた

 4世紀後半の築造と推定されている。
 綾羅木川右岸の台地上に立地する、
 陪塚と思われる円墳がある。

後円部

後円部脇から前方部を見る

後円部墳頂に大きな陥没坑がある

後円部から前方部を見る

後円部から
くびれ部脇の南塚(陪塚)を見下ろす

前方部から後円部を見る
  

後円部裾の謎の石造物 

くびれ部脇の南塚(陪塚)
 説明板から



  

 綾羅木郷遺跡公園
国史跡

下関市綾羅木
撮影日2025/11/25

仁馬山古墳の西約1.5kmに、史跡綾羅木郷遺跡がある。
綾羅木郷遺跡は、弥生時代の集落と古墳時代の埋葬施設を主とした遺跡で、
 一帯は史跡公園として整備され、下関市立考古博物館も建つ。
考古博物館の駐車場に駐車して、辺りを散策。

 説明板から
 史跡綾羅木郷遺跡(アヤラギゴウイセキ)は、綾羅木平北側の洪積台地に位置する、
   弥生時代の集落と古墳時代の埋葬施設を主とした遺跡
 明治32〜33年(1899〜1900)ごろ発見され、昭和31〜34年(1956〜1959)に数度調査
 昭和40〜44年(1965〜1969)には、
  遺跡の下層に包蔵される硅砂の採掘に伴う発掘調査が継続して実施
 調査の結果
  弥生時代前期中頃〜中期前半の
   わが国最大級の約1000基にも及ぶ貯蔵穴群が発見
された。
 貯蔵穴は深さ2m、底面の直径2mほどの大きさで、上部には覆い屋がかけられ、
  農耕によって収穫された穀物が蓄えられていたと考えられている。
 また、貯蔵穴群を取り囲むように
  断面がV字型で幅2m以上の環濠が確認されている。
 出土遺物としては、貯蔵穴や環濠から石器などとともに
  大量の土器が出土し、
  コメ・ムギといった穀物や、モモ・クリなどの種子が炭化した状態で発見されている。
 このほか、当時の食生活を示す魚の骨や貝殻、イノシシ・シカなどの獣骨をはじめ、
  土笛やアワビオコシなども出土
 集落を構成する住居跡は未発見で、
  隣接する別の場所に住居区域があったと考えられている

 遺跡の西側は複数の石棺を持つ墳丘墓や、
   前方後円墳の若宮1号墳をはじめとした古墳が築かれるなど、
   弥生時代中期から古墳時代には墓地として利用されている

 綾羅木郷遺跡は、高度成長期の産業開発と文化財保護のはざまで、
  市民・研究者・行政が一体となって調査と保存運動を行ったが、
  昭和44年硅砂採掘業者の重機によって遺跡の一部が一夜にして破壊された。
 しかし、国により破壊を免れた範囲について 史跡の緊急指定が行われるなど、
  その後の文化財保護の方向性を決定する端緒となった遺跡でもある。
       文化庁・山口県・下関市 

考古博物館のそばに竪穴住居が復元されている。
岩谷古墳も移築されている。

 弥生時代の竪穴住居跡

住居跡平面図

架構立面図
 古墳時代の竪穴住居跡

住居跡平面図

架構立面図
 岩谷古墳  
 元は、下関市椋野町岩屋後にあったが、中国自動車道が建設されることになり、移築。
 直径約13.65m・(推定)高さ4m以上の円墳。 
 複室構造の横穴式石室は、奥行約5m・幅約1.7m
 床面には板石が敷かれている。
 玉類や馬具、土師器、須恵器などが出土。
 6世紀後半の築造と推定されている。

墳丘

羨道部

前室から後室を見る

後室内部

後室から前室・羨道を見る

前室

墳丘平面図

移築された岩谷古墳の西側に綾羅木郷遺跡西地区が保存されている。

 史跡綾羅木郷遺跡西地区 案内図
     (説明板に加筆)
 若宮古墳(若宮1号墳)
 全長39.7mの前方後円墳
  後円部径21m・高さ4m、前方部幅15.1m・高さ2.3m
 周囲には幅4.3mの濠がめぐる
 後円部3段・前方部2段築成
 葺石・埴輪を備える
 後円部中央に納められた組合式箱式石棺から
 2体以上の人骨のほか勾玉や管玉、鉄刀、鉄剣、鉄斧などが出土
 5世紀中頃の築造と推定されている。
 標高約15m、綾羅木川右岸の台地端部に立地する。

前方部手前(南)から見る

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

後円部側

横姿
   
説明板から
 若宮2号墳  
  周溝がある円墳   組合式箱式石棺が納められていた

  
 説明板から
 若宮3号墳
 径8mほとの円墳
  組合式箱式石棺
か納められていた

元の形を明らかにすることが できなかった
ので、
 若干の高さと植栽で位置を示している
 説明板から
 若宮4号墳

3号墳の東にある径3mほどの墳丘
 2号石棺墓
 組合式箱式石棺が埋められている。

 石棺は埋められているので見えない
説明板のみ
 墳丘墓
 墳丘長さ10.44m・幅8.08m・高さ1.00m以上
 頂部平坦面の長さ6.84m・幅4.00〜4.40m
 5基の埋葬施設が重なり合ってつくられている。組合式箱式石棺3基と土壙墓2基
 管玉1・弥生土器1が出土
 若宮1号墳を造る際に南側が大きく削られた。

若宮1号墳後円部から見た墳丘墓
       
 説明板から

私たちは、考古博物館側(東側)から入ったが、若宮古墳の北側にも入口がある。

北側入口
「国指定 史跡綾羅木郷遺跡」と刻まれた門
綾羅木郷遺跡の説明板がある
入口後ろにポスター

考古博物館では
上の山古墳と穴門の趨勢
 という企画展をしているらしい。
  
今日は休日翌日の火曜日で休館日だ。
この入口から北に約200mにある
「国史跡 梶栗浜遺跡」の案内板もある

国史跡 梶栗浜遺跡では 
弥生時代前期〜中期に、当時の海岸沿いの砂丘に築かれた埋葬遺跡が発見されている。

    

上の山古墳跡

下関市綾羅木
撮影日2025/11/25

綾羅木郷遺跡に貼られていたポスターにある「上の山古墳」を見学に行く。
道が狭いので、手前の道路が広いところに駐車して、歩いて向かう。
実は、上の山古墳は破壊されていて、古墳の痕跡がなかなか見つけられないという。

 上の山古墳は  明治42年(1909年)川北神社が造られた際、発見された
 一説には100mを超えるともいわれている前方後円墳
 6世紀前半頃の築造と推定されている。
 横穴式石室とされる埋葬施設からは、
   三輪玉、六鈴鏡、鈴付釧、瑪瑙製勾玉、硬玉製管玉、ガラス製小玉などが出土、
    (東京国立博物館蔵)

川北神社 鳥居

川北神社 社殿

石室の石材か

れも石室の石材か
説明板から

     

幡生宮山古墳
市史跡

下関市幡生宮の下町
撮影日2025/11/25

生野神社の南側の正面から西側の坂道を上がると神社の駐車場がある。
境内で、宮司さんに遭遇、古墳前まで案内していただいた。

 幡生宮山古墳は  全長約33mの前方後円墳
 標高約20mの段丘上に立地する

生野神社境内

生野神社境内

左が前方部 右後円部

「古墳石室口 覆石」 閉塞石か

後円部の横穴式石室

入口に柵があるが取り外せる

柵を外す

玄室内部

玄室内に祠らしきものがある

背の高いドーム状の玄室

玄室から開口部を見る

宮山古墳売り出し中


宮山古墳の手書きの説明文も貼られているが、
令和4年設置の説明板
光ってなかなかうまく撮れない
説明板の図だけ何とか見える。
 宮山古墳は  全長33mの前方後円墳
 明治時代に横穴式石室が発見されて、勾玉や鉄製品が出土したと伝えられているが、詳細不明。
 後円部南西側に入口をもつ横穴式石室はで奥行約3.5m・幅約2.5・高さ約2.5m
 床面周囲の4面には大きな壁石を並べ、その上部には小型の石をドーム状に積み上げている。
 6世紀の築造と推定されている。
 前方後円墳は下関市内に5基が知られていて、安岡地区と川中地区に集中する。
 ここ宮山古墳は、この区域外の市域最南端にある。
 武久川により育まれた肥沃な土地を背景として造られている。

墳丘測量図

石室測量図

宮司さんは、私たちの石川ナンバーの自動車を見て
「地震、大変でしたね
私も阪神大震災を経験しました。当時は阪神で修行をしていました。」
とおっしゃっていました。
   
  余談ですが……
石川県は南北に長いので、北部は大災害だったのですが、わが白山市は地盤のせいか
県内でも一番被害が少なかったのです。
とはいいながら、2024年1月1日の能登地震で建物などが被害を受けて休館していた
  白山市の文化施設「呉竹文庫」が
  2026年4月1日にようやく再開したという記事が北陸中日新聞に載りました。
文化施設よりも住民の生活重視で来ています!!
「おもてなし」日本一といわれた和倉温泉「加賀屋」の公費解体も始まったばかりです。



午後5時前でもう暗い。
宮山古墳の近くに「はま寿司」があるが、夕食にはまだ早い。
今夜宿泊の「プリンスホテル下関」(下関市竹崎町3丁目)の近くの
シーモール下関内のカフェテラスロワールにて夕食後、
ホテルにチェックイン。
4日目の夜は、たまった洗濯をして就寝。
パンとコーヒーの朝食付きプランなので嬉しい……
4日目が終わった……

工領古墳 につづく

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