北村さんちの遺跡めぐり
更新日2009/8/28
山陰旅行記 その4 島根県安来市 |
撮影日 2007/5/6〜11 |
4日目に入りました。
午前7:50 松江シティホテル出発
8:40 造山古墳群着
地図g
造山古墳群 国史跡 荒島古墳群 |
安来市荒島町 |
「古代出雲王陵の丘・造山公園」として整備されている。
2号墳の近くまで自動車で上がれるのでとても楽だ。
ちょうど 公園の整備を任されている男性と遭遇、「荒島墳墓群ガイドマップ・古代出雲王陵の丘」というりっばなパンフを頂いた。
近くにある大成古墳が見られるかと尋ねたら、すでに深い森となっているので見学は難しいだろうといわれた。
造山2号墳
丘陵の最高所に位置する。
全長50mの前方後方墳
全体に葺石あり 埴輪あり
6世紀初めの築造と推定されている。
未発掘なので埋葬部は不明だが、
後方部だけではなく前方部にも埋葬施設があると推定されている。
1991年試掘し、後方部一辺30m・前方部幅26mと考えられた。
一番高いところに、群中一番新しい古墳があるというのが不思議!
造山4号墳
造山2号墳の東13mの位置に築かれた一辺13mの方墳
裾部に埴輪が1m間隔で並べられていた。
6世紀初めの築造と推定されている。
(古墳辞典には、円筒埴輪が並ぶことは確認されたが古墳と断定するにはいたらず、
2号墳の付属施設とも考えられたとある。)
造山1号墳
丘陵の途中みたいなところにある。
発掘後40年近くたち、木が大きくなって全体が見にくくなりつつある。
一辺60m・高さ10mの方墳で、谷側は2段築成で葺石あり。
2段目は一辺40m・高さ5m
2基の竪穴式石室がある。
第1石室(長さ7.1m・幅1m・高さ1m)から三角縁神獣鏡1・方格規矩鏡1・ガラス製管玉・鉄刀片など
第2石室(長さ5.51m・幅1m)から方格規矩鏡1・刀剣類・刀子1・紡錘車形石製品1など
墳丘から儀式道具としての特殊円筒形土器も出土
古墳時代前期の築造と推定されている。
造山3号墳
丘陵の南のどん詰まりにある。
芝生できれいに整備されている。
40×30mの方墳
墳丘の中央に竪穴式石室がある。
長さ4.75m・深さ1mで床面は玉砂利敷きで排水溝も作られていた。
割竹形木棺があったと推定
鏡1・ガラス製小玉33・青瑪瑙製管玉30・鉄製小刀などが出土
4世紀の築造と推定されている。
2号墳の南方の尾根頂部に5号墳があるという。
古代出雲王陵の丘 付近の地図(パンフから)
荒島古墳群は
塩津山墳墓群・大成古墳・造山古墳群の3つを支群に分かれている。
大成古墳は一辺60m・高さ6mの方墳(前期)
竪穴式石室(長さ7.5m)
三角縁神獣鏡が出土
仏山古墳は大成古墳と同じ丘陵に築かれた全長50mの前方後円墳(後期)
清水山1号墳は2段築成で一辺42mの方墳(中期)
高塚山古墳は石棺式石室の一部が露出(後期)
若塚(ジャコヅカ)古墳は石棺式石室
塩田横穴墓群は荒島石の岩盤を掘り込んだ横穴墓(後期)
中山墳墓は荒島石製の家形骨臓器が出土(消滅)
塩津山墳墓群 荒島古墳群 国史跡 |
安来市久白町 |
高速道路そばの駐車場らしき空地に駐車。
トンネルの上にあがる。
塩津山墳墓群の配置図(説明板から)
弥生時代の墳墓2基と古墳9基からなる。
荒島古墳群の3支群の中では最も古い墳墓群。
高速道路をトンネルにして墳墓群を保存した。
塩津山1号墳
トンネルの真上にある。
25m×20mの方墳
古墳時代前期のものだが墳丘の形や貼石の特徴は
弥生時代の四隅突出型墳丘墓の特徴を色濃く残している。
埋葬施設は6基確認されている。中心の埋葬施設(第1主体部)は未調査
隣接する第3主体は木棺を砂礫でおおうもので弥生時代の伝統を引き継ぐもの。
第6主体は器台と呼ばれる土器を棺に転用したものでこの土器は吉備地方の祭祀用土器の影響を受けたもの。
塩津山1号墳の突出部もどきと貼石の様子
平野部から見えない西側と北側では貼石が確認できない。
6・10号墓は弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓で突出部を含めた長辺で40m近い大きさ。
(10号墓というのが配置図にはない? 塩津1号墓のことか?)
墳墓群の西側にはこれらの墳墓とほぼ同時期に営まれた大規模な集落(柳遺跡・竹ヶ崎遺跡)がある。
塩津山2号墳
直径8mの円墳
周りに幅2mの溝がめぐっている。
溝の中央には2m間隔で円筒埴輪が並んでいた。
古墳時代後期の築造
塩津神社古墳 |
安来市久白町 |
塩津山1号墳からおりた平地にある。塩津神社境内。
塩津神社古墳
墳丘が失われ荒島石で作られた石棺式石室が残っている。
天井が精巧に屋根の形にしあげられている。
石室内部
石室内の壁面はベンガラが残っているところもある。
きちっとあわさったつなぎ目がすばらしい。
内部奥行2m・幅3.15m・高さ2,2m
6世紀後半の築造と推定されている。
屋根石の丸いのがとてもかわいい。
飯梨岩舟古墳 国史跡 |
安来市岩舟町 |
岩舟町の民家の横を通り山の坂道を少し上ったところにある。
場所は地元の人に聞いたほうが早い。
飯梨岩舟古墳
石棺式石室の最も精美な典型例として昭和23年国指定史跡となる。
墳丘はほとんどない。
貴重な荒島石を使っている。
奥壁が2枚、床石が3枚以上のほかはすべて1枚の岩でできている。
丸っこい塩津神社古墳に比べると、えらく角ばっている。
飯梨岩舟古墳 石室正面
飯梨岩舟古墳石室内部
カメラをつっこみ撮影
玄室内は奥行き2m・幅2.1m・高さ1.7m
2個の石棺が納められていたと伝えられているが現在は1個だけ存在する。
天井は内面も屋根形に削られている。
玄室の入口の両脇には縦方向の溝があることから、
玄室の前にはさらに板石を組んで、前にもう一つの部屋があったと推定されている。
入口は南に開口している。
遺物は見つかっていないが石室の構造から7世紀前半の築造と推定されている。
市内では塩津神社古墳・飯梨穴神古墳→岩舟古墳→若塚古墳という変遷と考えられている。
岩舟古墳周辺の古墳
(次に見学した植田横穴墓出土石棺の説明板から)
植田横穴墓出土石棺 |
安来市飯梨町 |
飯梨小学校の校庭の片隅に忘れられたように展示されている。
説明板はとても立派だった。
植田横穴墓出土石棺(鷺の湯病院跡横穴墓)
昭和初期に病院の敷地拡張工事で発見された。
この場所から南1.2kmの丘陵にあった。
6世紀後半の築造と推定される横穴墓の中から発見され移築したもの。
発見後すぐ崩壊したため規模は不明。
石棺は横穴墓の右側の壁に沿って置かれ、二体の遺骸が安置されていた。
蓋が屋根の形をしている家形石棺で加工した凝灰岩(荒島石)を9枚組み合わせたもの。
遺骸を安置するための入口を側面に持たないもの。
棺内はベンガラによって赤く塗られている。
植田横穴墓出土石棺出土品(説明板の写真)
銀装単竜環頭太刀・金銅装円筒太刀など金銀で飾りつけた太刀、
太環式耳飾・金銅製装飾品・琥珀製棗玉・ガラス製臼玉などの装身具、
直弧文鹿角装刀子、珠文鏡・金銅装馬具などきわめて豪華な副葬品が出土した。
とくに金銅製装飾品は百済の武寧王陵(462〜523)出土のものに類似している。
太環式耳飾は5、6世紀の朝鮮半島では主に支配者階級の墳墓に副葬される品で、
日本では唯一の出土。
仲仙寺支群 仲仙寺古墳群 |
安来市西赤江町 |
「古代出雲王陵の丘・仲仙寺公園」として整備されている。
仲仙寺支群は15基の古墳・墳丘墓からなる。
現在は2基の四隅突出型墳丘墓が残るだけ。
他は山が崩され住宅地になってしまった。
1970〜1971年の発掘調査から保存・指定にいたる経緯は、
四隅突出型墳丘墓を出雲の特色ある墓制として全国的に有名にした。
9号墓
突出部も含めると22.5×27m・高さ3mの
四隅突出型墳丘墓
突出部は長さ6m、幅は先の方で5m
貼石がある
墳頂部に箱形木棺3基、墳裾゛に箱形石棺3基が確認されている。
9号墓突出部
突出部の長さは6mもある。
9号墓の墳丘上に埋葬部分が示されている。
中央部の木棺内部から碧玉製管玉11、その墓穴上面から多数の土器が出土した。
8号墓は未発掘のまま保存されている。
14×18m・高さ1.5mの四隅突出型墳丘墓と考えられている。
10号墓は最初に発掘された。
9号墓の北隣にあったが、消滅。
突出部を含めて26m×25mの四隅突出型墳丘墓で、突出部は長さ4m。
墳頂部に木棺等が11基、墳裾に箱形石棺1基と石蓋土壙1基が発見された。
中央付近の2基の木棺内から碧玉製管玉が、墓穴上面から土器(土師器)群が出土。
土師器は3世紀後半から4世紀前半のものと推定されていて、古墳時代初期の初期と考えられている。
四隅突出型墳丘墓は古墳時代直前の弥生時代の築造と考えられている。
他の消滅した古墳は、一辺数mの方墳8基、円墳4基でいずれも5世紀以降に築造されたとされている。
仲仙寺古墳群の配置図
説明板から
宮山墳墓群の北西にも安養寺墳墓群(3基のうち2基が四隅突出墓)があったが、消滅した。
安養寺墳墓群1号墳は20×16m高さ2mの四隅突出型方墳
安養寺墳墓群3号墳も大きな四隅突出型方墳と見られるが、
調査がよくなされないうちに消滅、
現在、住宅団地の横に貼石の縮小模型が復元されている。
宮山墳墓群 仲仙寺古墳群 |
安来市西赤江町 |
宮山墳墓群は「古代出雲王陵の丘・宮山公園」として整備されている。
宮山墳墓群登り口
第3中学校の北側に細い道がありそこから上る。
学校のざわめきが聞こえる公園になっている。
宮山墳墓群実測図 説明板から
四隅突出型墳丘墓1基(4号墓)
古墳時代後半の前方後方墳2基(1・3号墳)
方墳2基、円墳1基
住居跡1棟からなる。
2号墳の南に1号墳があった。
1号墳は神塚古墳と呼ばれ、
葺石と円筒埴輪を持つ5世紀後半の全長57mの前方後方墳だった。
が、破壊され、あとに中学校が建つ。
2号墳
実測図を見ると半分も残っていない。
方墳と思われる。
4号墓
突出部を含めると28.8m×24.6m・高さ2mの四隅突出型墳丘墓
墳丘の斜面には貼石、裾には列石と敷石を2段、交互に施すなど手の込んだつくり。
中心となる埋葬施設は床面に砂を敷き、
木棺を粘土で固定しさらに砂でおおうというもの。
棺内から赤色顔料とともに、太刀が出土
4号墓の突出部
突出部は先端に向けてしゃもじ形に広がる形をしていて、
長さ7m・幅7mを測る。
左手前は住居跡
3号墳
全長24mの前方後方墳で円筒埴輪がある。
中期〜後期初頭の築造と推定されている。
5号墳
円墳
毘売塚古墳 |
安来市黒井田町 |
日立金属工場のすぐ東側の小山を30mほど上ったところにある。かなりきつい坂道。
改変されていて形はよくわからない。
「毘売塚古墳平面図」という説明板は字が薄くなって見えない。
毘売塚古墳墳頂の石碑
「毘売塚」と書かれている。
毘売塚古墳は標高32.4mの丘陵先端部に所在する。
復原全長41.8mの帆立貝形前方後円墳 後円部32.8m・高さ4.1m
葺石あり、円筒埴輪あり
大正9年に一度発掘され舟形石棺が発見されたが元のまま埋め戻され、
昭和41年に再調査で一辺3.3〜3.6mの方形の墓壙が検出され、
その内部に舟形石棺が納められていることを確認した。
古墳時代中期の築造と推定されている。
石棺実測図
石棺は凝灰岩製で蓋、身とも各側面に2個、角端部に1個ずつ計6個の縄掛突起がある。
蓋は長さ225cm・高さ35cm・幅80cm、身は長さ218cm・高さ35cm・幅72cm
棺内は朱が塗られていて頭位を南にむけた壮年の人骨が遺存していた。
棺外から鉄剣1・鉄矛1・鉄鏃2・革綴短甲・魚具2ほか
棺内から鉄剣1
が出土
この毘売塚古墳は、出雲風土記に登場する。
674年(天武天皇3年)、猪麻呂の娘が海で遊んでいて、ワニに足を食われて死に、猪麻呂が仇を討つという話で
この猪麻呂の娘の墓が毘売塚古墳だと伝えられていて、明治時代に顕彰碑が建立された。
大正9年に石碑のまわりの拡張工事で舟形石棺が発見されたが元のまま埋め戻されたという。
昭和41年に再調査で舟形石棺内部が調査され、
舟形石棺の中に残っていた人骨の鑑定が行われたが、中年の男性だと判明、
サメに食われたはずの両足も、ちゃんとあったという。
伝承がみごとに崩れてしまった、ちょっと寂しい!!ね。
鳥取県との県境の吉佐町で、
町内にあった穴神横穴墓の石棺が展示されているという「安来市いにしえ学習館」を探すが見つからない。
地元の人にも尋ねたのにわからない。
なんでーーー!!詳しい地図がほしい!!
いいかげんあきらめて、吉佐町の手打ちうどん・そばの「蔵」で昼食。1500円。
4日目午後は、島根県を出て鳥取県に入る。
山陰の遺跡・その5(米子市・大山町・琴浦町) につづく