北村さんちの遺跡めぐり
更新日2016/5/21
大阪南部から和歌山県へその10 岩橋千塚古墳群その3 橋本市の古墳・遺跡 |
2015/12/3~12/6 | |
古墳探索の旅三日目、岩橋千塚古墳群・その3は、大日山地区の古墳から始まる。
前山B134号墳を過ぎて西に行くと、大日山地区に入る。
大日山地区の古墳配置図
(現地説明板から)
この図は、北が下。西は右。
大日山35号墳は、造り出しの埴輪の復原がされている。
和歌山県の地図g
大日山地区 岩橋千塚古墳群 |
和歌山市岩橋・井辺 2016/12/5 |
大日山地区で最初に見学することになる大日山7号墳。
大日山7号墳 | |
墳丘 |
石室が露出している。 |
大日山8号墳 |
大日山7・8号墳を過ぎたところに、休憩所があり、そこから上り坂を上がったところに大日山35号墳がある。
大日山35号墳は説明板がたくさんあり、岩橋千塚古墳群の中でも一押しの古墳だ。
大日山35号墳 岩橋山地の西端、標高141mの大日山山頂に位置する。 | |||||||
墳長86mの前方後円墳 大日山35号墳 墳丘図 (HP和歌山市資料から) 墳丘は3段構成で最下段は全長約105mの盾形の基壇で、 その上に2段構成で墳長約86mの前方後円形の墳丘がある。 くびれ部の東西に、造り出しがある。 後円部に、石棚をもつ岩橋型と呼ばれる横穴式石室がある。 6世紀前半頃の築造と推定されている。 平成15年(2003)度から発掘調査。 くびれ部の東西の造り出しからは、調査により多量の形象埴輪が出土。 形象埴輪には、家、人物(盛装男子、武人、力士、巫女など)、 動物(馬、牛、猪、犬、水鳥、鳥)、器財(大刀、胡ろく、蓋など)がある。 なかでも頭部の両側に顔をもつ両面人物埴輪や翼を広げて飛翔する鳥形埴輪、 矢をいれる道具を表現した胡ろく形埴輪は全国初例のもので、注目されている。
石室略図 (発掘調査概要「大日山35号墳の調査成果」から) 羨道長さ3m 玄室長さ4.33m・奥壁幅2.38m・高さ2.8m 薄い板状の結晶片岩を積み上げ 石棚・石梁が備えつけられていることに特徴がある。 玄室の中には、大日如来が祀られ、 信仰の場となっていた時期があり、棺などは残されていない。 |
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前方部手前から見る 左手前・前方部 右奥・後円部 後円部手前に、 東造り出しの復元埴輪が見える |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
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後円部から東造り出しを見る |
後円部から西造り出しを見る |
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大日山35号墳の東造出 外周に沿って方形に円筒埴輪と朝顔形埴輪 ・蓋形埴輪を立て並べている。 その内側では、家・人物・動物などの埴輪が多数出土した。 埴輪が立っていた状況を再現した。 出土した埴輪のうち全体が復元できたものを設置している。 中央に大きな家があり、 その周囲には力士や須恵器の大甕・器台が置かれ、 西側にはほぼ翼を広げた鳥と水鳥、 北側には馬・猪・犬・牛が配置されていた。 |
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大日山35号墳の西造出 上面には円筒埴輪に囲まれた平坦地があり、 朝顔形埴輪と蓋形埴輪が規則的に配置されていた。 平坦地北側には須恵器の大甕と壺が据えられていた。 南側には多数の埴輪が配置され、 武人や巫女、馬をかたどった埴輪のほか、 両面人物埴輪・胡ろく形埴輪など 日本でも初めて確認された珍しい埴輪も出土している。 |
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石室は鉄の扉で閉じられている |
かつて石室内に安置されていた仏像か? |
大日山35号墳から北に下りてすぐの所に目立つ墳丘、大日山20号墳。
大日山20号墳 | |
墳丘 |
石室跡か |
大谷山地区 岩橋千塚古墳群 |
和歌山市岩橋・鳴神 2016/12/5 |
大日山35号墳から北へ行くと、大谷山地区だが、大谷山地区への道は整備されていない。
立派な石室が見られる大谷山22号墳があるが、積極的には公開されていない(?)・・・
特別史跡区域内である。
とりあえず、北へ・・・・大谷山の山頂に、大谷山22号墳があるはず・・・・。
急いで15分で、大谷山22号墳の石室開口部が、目に入った!
大谷山22号墳 大谷山の山頂に立地。 |
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墳丘全長70mの前方後円墳 基壇は80m 南側のくびれ部に方形の造り出しがある。 発見された埴輪は、家、盾・大刀などの武具、力士や巫女などの人物をかたどった埴輪も出土している。 後円部中央に南に開口する横穴式石室は、石室全長7.8m、 玄室長4.1m玄室幅2.5m・高さ3.2m 大日山35号墳に続く6世紀前半の築造と推定されている。 昭和41年(1966)、横穴式石室の内部と墳丘の一部を発掘調査。 この時、出土した埴輪で断片的で何かわからなかった破片を、 大日山35号墳の調査成果をもとに調べ直したところ、胡ろく形埴輪であることが明らかになった。 (平成25年の発表から)
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後円部南側に開口する横穴式石室 |
羨道から玄室を見る |
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玄室 立派な石棚と石梁がある。 |
玄室から外を見る |
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後円部から前方部を見る |
後円部の陥没坑 |
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前方部から後円部を見る |
前方部頂には「大谷山山頂」という案内板がある。 |
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発掘調査の痕跡 後円部トレンチの跡 2015年春に現地説明会が行われたらしい・・・ |
大日山35号墳とよく似た石室だという。
修復古墳 花木園地区(前山B地区の一部)の古墳 岩橋千塚古墳群 |
和歌山市岩橋・寺内 2016/12/5 |
大日山35号墳から北東に下りて行くと花木園がある。
花木園は、生活環境保全林として整備されているもので、その中央あたりに修復古墳と呼ぶ4基の古墳がある。
標高30~37mに立地。
修復古墳4基の古墳は、斜面上方から順に前山B花木園地区1・2・4・3号墳と呼ぶ。 発掘調査の概要 (説明板から) 正式には、 前山B100号墳・前山B102号墳 ・前山B220号墳・前山B101号墳と名付けられている。 1963年(昭和38)、1975年(昭和50)に発掘調査。 調査の資料をもとに、造られた当時の姿に復元修復されている。 前山B100号墳(花木園地区1号墳)・・・直径12m・高さ1m以上の円墳。 横穴式石室と竪穴式石室がある。 前山B102号墳(花木園地区2号墳)・・・東西16m南北約12m・高さ2.5m以上のやや変形した円墳。 横穴式石室ともともと竪穴式石室があったといわれているが、 調査では横穴式石室と竪穴式石室の痕跡と考えられるものが一部見つかっている。 前山B101号墳(花木園地区3号墳)・・・直径約12m・高さ2.5m以上の円墳。 横穴式石室と竪穴式石室がある。 横穴式石室から須恵器や土師器・鉄製品、装身具類などが出土。 竪穴式石室からは、須恵器や土師器・鉄製品が出土。 前山B220号墳(花木園地区4号墳)・・・復元直径約17m・高さ1m以上の円墳。 2基の横穴式石室と竪穴式石室がある。 1号石室から、須恵器や土師器の容器類やガラス製小玉などの装身具類・鉄製品が出土。 2号石室からは、ガラス製管玉・丸玉や イヤリングとして使用する金環・銀環などの装身具類や 馬具片などの鉄製品が出土。 |
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4基の修復古墳が並ぶ 左(低い方)から、 B101、B220、B102、B100号墳 |
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ツゲの垣根は古墳の大きさを、 立石と階段は石室の入口方向を示している。 |
壊れかけた石室のあるほうが、楽しいかな・・・・。
修復古墳周辺の古墳
(説明板から)
ようやく岩橋千塚古墳群の紹介が終わった・・・
後半は急ぎ足・・・。12月は日が暮れるのが早くて困ります。
岩橋千塚古墳群について | 和歌山市岩橋・森小手穂・井辺・鳴神ほか 2015/12/5 |
あまりにも古墳が多くて、見学しなかった部分を中心に、岩橋千塚古墳群について調べたことをまとめてみた。
岩橋千塚古墳群は、岩橋山地の前山地区を中心に、 花山・大谷山・大日山・寺内・井辺・井辺前山の各地区の山地全体に広く分布する古墳群。 古墳の総数は700基を越え、史跡指定地内には400基ほどの古墳がある。 国内では最大規模の群集墳であり、結晶片岩を部材とする石梁や石棚を備えた特徴的な横穴式石室があるので、 古墳群の一部が昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されている。 古墳の築造時期は古墳時代中期から後期で、そのなかでも6世紀後半が中心。 現在確認されている古墳は前方後円墳27基、方墳4基、その他が円墳 岩橋千塚古墳群全体図 北は上です。 いろいろな資料から作成したので、 イメージ図と考えてください。 前山A地区と前山B地区には、 描き切れないほどの古墳がある。 主な前方後円墳しか描いていない。 井辺地区には前方後円墳はないので、 代表的な井辺1号墳を示してある。 |
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花山地区の古墳群 岩橋山地の西北端に位置する花山に築かれている。 花山は東西約1300m、南北の最大幅約500mの規模をもつ東西に細長い山地で、最高点の標高は77.4m。 古墳は東西にのびる主稜線上や南北に派生する各尾根の稜線上に前方後円墳9基、円墳75基の計84基が確認されているが、 開発等により前方後円墳3基を含む16基が破壊され消滅。 花山地区の古墳群の特徴としては、岩橋千塚古墳群のなかでも前方後円墳の占める割合が高いこと、 5世紀代に築造された古い時期の古墳が多いことが挙げられる。 花山6号墳・・・花山地区の中央部にある全長49mの前方後円墳。高さ4.5m。 くびれ部の両側に方形の造り出しがある。葺石状のものがある。 後円部南側に開口する両袖式の横穴式石室がある。 造り出しから、円筒埴輪・家形埴輪・人物埴輪・鶏形埴輪などが出土。 5世紀後半頃の築造と推定されている。 花山8号墳・・・花山地区の中央部にある全長52mの帆立貝式前方後円墳。 埋葬施設は後円部と前方部に1箇所ずつあったと推定されている。 前方部で確認された埋葬施設からは、鉄剣、滑石製管玉・勾玉・小玉、ガラス製小玉・臼玉などが出土 3体の遺体が埋葬されていた可能性が指摘されている。 5世紀初頭の築造と推定されている。 |
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井辺前山地区の古墳群 岩橋山地の南西に位置する福飯ヶ峰の北斜面は前山と呼ばれており、 この周辺が岩橋千塚古墳群の井辺前山地区とされている。 北側に多くの古墳があり、南側は果樹園として開墾されている。 約50基の古墳が分布し、 このうち3号墳・6号墳・7号墳・10号墳(井辺八幡山古墳)・24号墳が前方後円墳で、その他はほとんどが円墳。 井辺八幡山古墳・・・井辺前山地区の古墳群中の最大規模 基壇を含む全長88mの前方後円墳、後円部の径45m、前方部幅57mで、前方部がやや発達した形態 くびれ部両側に方形の造り出しがある。 6世紀前半~中葉の築造と推定されている。 大日山35号墳、大谷山22号墳の次につくられたと考えられている。 井辺前山6号墳・・・全長52mの前方後円墳、後円部の径24m、 南に開口する横穴式石室がある。 石室の全長は6.69mで、馬具、玉類、須恵器、土師器などが出土。 墳丘のくびれ部分から、朝鮮半島から伝来した陶質土器の破片が発見されている。 井辺八幡山古墳につづき、6世紀中頃の築造と推定されている。 |
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寺内地区の古墳群 岩橋山地の南斜面に分布する古墳群。 総数96基が確認されている。 寺内63号墳・・・直径約25m・高さ4mの円墳 長さ5.7mの割竹形木棺を入れた粘土槨1基と 長さ約2.1mの箱式とみられる木棺直葬1基が検出されている。 5世紀中頃の築造と推定されていて、短甲・鉄剣・鉄鏃が出土。 寺内57号墳・・・直径35~40mの円墳 大型の横穴式石室がある。 寺内18号墳・・・全長約29mの前方後円墳 後円部と前方部にそれぞれ1基ずつの横穴式石室(うち1基はT字形石室)がある。 寺内28号墳・・・全長28.6mの前方後円墳、後円部径13m 後円部に玄室長が0.9mと極めて短い「T字型」横穴式石室、前方部に岩橋型横穴式石室がある。 6世紀後半の築造と推定されている。 前方部石室から玉類(管玉5点)、土師器(壺、埦)、須恵器(器台、杯)、馬具(轡)、鉄器(鎌)が出土。 後円部頂部を方形に囲む埴輪列、墳丘裾部を盾型に囲む埴輪列があり、円筒埴輪、形象埴輪(家、盾)が出土。 |
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岩橋千塚古墳群の主な古墳 形と埋葬施設
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三日目の今夜も宿泊は、ビジネスホテルみやま。
夕食は、昨夜と同じ「いも膳アロチ店」
明日は最終日となる。
和歌山の旅4日目・最終日です。
7時半過ぎ、ホテル出発、日商有田㈱ セルフィックス和歌山北インターSSでガソリン給油後、橋本市に向かう。
市脇古墳群 市史跡 |
橋本市市脇 2016/12/6 |
市脇古墳群は、相賀大神社(オウガダイジンジャ)裏山にある。
相賀大神社
もとは総社三部明神社といわれ、相賀荘二十カ村の氏神だった。
昔は根来寺の領地で繁栄したが、
兵火で神宝や古文書がほとんど焼失して
今はただ石灯篭1基が当時の面影をのこしている。
境内には、県指定文化財の石灯篭がある。
高さ約1.8mの、 砂岩の六角形の灯篭で、
「正平10年(1355)11月1日」「大師講衆敬白」と刻まれている。
造立は南北朝時代。
鎌倉後期の手法を残し保存状態も良い。
古墳群についての説明板は見あたらない。
市脇古墳群は 相賀神社裏山一帯に分布すにる現存8基の古墳群。 石室が開口するのは2基。 1号墳の横穴式石室は、玄室長2.8m、幅1.5m、高さ1.5m、結晶片岩を小口積み。 西50mの山道沿いにある2号墳は玄室の奥側だけが残る。現存長3.8m、幅2.4m、高さ2.9m。 |
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社殿の裏に 「市脇古墳」の石柱がある。 |
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1号墳入口 赤い柵が目印。 羨道が消滅、玄室も入り口がほとんど埋まる |
1号墳 石室内部 カメラを突っ込んで撮影 |
2号墳はわからなかった。
陵山古墳 ミササギヤマコフン 県史跡 |
橋本市古佐田 2016/12/6 |
橋本高校のとなり、丸山公園内に保存されているが、周辺の道路がとっても狭くて、たどり着けないかと思った。
丘陵斜面に立地している。説明板がある。
大きな墳丘が残っているが、周りの木が茂っていて写真ではよく見えない。
駐車スペースはある。
陵山古墳は 径46mの円墳 和歌山県下最大の円墳 3段築成 葺石あり 周囲には幅6mの水濠と、幅4mの外提がめぐっているので、古墳の全直径は70mとなる。 周濠の両側や墳丘の段に沿って円筒埴輪が配置され、所々には蓋や盾などの形象埴輪も確認されている。 南東に開口する横穴式石室がある。 5世紀末~6世紀初めの築造と推定されている。 石室実測図 (説明板から) 石材を小口にして持ち送りに積み上げられている。 石材表面には赤色顔料が塗られている。 南東方向に開口。 羨道長5m・幅2m・高さ2m 玄室は昭和27年発掘の際、 一緒に埋め戻されたため内部の様子は明らかではない。 出土品は明治36年と昭和27年の発掘でその多くが散逸してしまっているが、 記録には勾玉、管玉、ガラス玉、 鉄刀、鉄剣、鉄槍、鉄鏃、鉄斧、鉄製頚甲、鉄製小札、須恵器、土師器などが記されている。 近年、開口している石室羨道部の壁が噴き出し、 崩壊の危険が高まったため石室内に砂を充填する措置がとられた。 現在、内部は完全に埋められている。 1903年(明治36)と1952(昭和27)年に発掘。 |
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陵山古墳 墳丘自体も立ち入り禁止の状態だ。 |
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木の間から見える大きな高い墳丘 |
周濠には橋がかかっている。 石室はどこかわからない。 |
隅田八幡神社 スダハチマンジンジャ |
橋本市隅田 2016/12/6 |
欽明天皇の詔により歓請された八幡神社。
ここに伝わる「人物画象鏡」は日本最古の金石文の一つとして国宝に指定され、
他にも県の重要文化財である「隅田文書」が所蔵されている。
隅田八幡神社
国宝「人物画像鏡」は 直径19.8cm・重さ1434g。 背面内区には人物や騎馬像をあらわした画像文が描かれ、 外区にはこの鏡の特徴である48文字からなる銘文が鋳出されている。 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時 斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 銘文解釈の一例 癸未の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、 斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして 白上銅(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。 癸未の年は、西暦383年、443年、503年のいずれかにあたるとされる。 文字の解読や銘文中の人物を誰に比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。 考古学的には、この鏡は、舶載の画像鏡を手本として製作されたと考えられている。 原型とされる中国鏡と比べると、内区の画像は逆回りに配され、区画も不統一で、人物像も少なくなっている。 図像の構図が左右逆転し、逆回りに配されるのは、 手本となる鏡をそのまま鋳型にひき写すほう製鏡によく見られる特色である。 原型とされる中国鏡は大阪府八尾市の郡川古墳などで出土しており、 それらの古墳が西暦400年代後半から500年前後とみられることから、 癸未年は443年または503年と推定されている。 この鏡をいつ須田八幡神社が所蔵することになったかは詳らかでない。 江戸時代後期に編纂された「紀伊続風土記」および「紀伊国名所図会」には この鏡に関する記述があり、相当以前から神宝として須田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる。 |
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境内にある国宝「人物画像鏡」のレプリカ |
レプリカ拡大 |
隅田八幡神社の西100mのところに隅田八幡宮古墳があるというが、藪でたどり着けない・・・
隅田八幡宮古墳 (市史跡)は 径16m・高さ6mの円墳。 緑泥片岩の切石積みで南に開口する横穴式石室がある。 7世紀前半の築造と推定されている。 |
隅田八幡宮古墳は 奥の竹藪より入って右側にあるはず・・・ 切石積みの非常に精美な石室があるらしいが、 見ることができなかった・・・ |
和歌山県の古墳探索を終え、大阪府へ向かう。
河内長野市・三日市古墳群につづく