北村さんちの遺跡めぐり
奈良の旅・2011 その5 |
2011年11月20日〜11月23日 |
2011.11.23 最終日。 3泊お世話になった「スーパーホテル大和郡山」を7時に 出発。
空はどんよりしている。天気予報は、昼ごろから雨・・・・。
まず、大和郡山新木山古墳へ。
郡山新木山古墳 | 大和郡山市新木町 撮影日2011/11/23 |
墳裾の発掘調査が行われている。発掘作業に携わる人たちの出勤に遭遇。
右が後円部 周壕が残っている。 |
右奥が前方部 |
郡山新木山古墳は 前方部を南南西に向ける 全長122.5mの前方後円墳 後円部径67m・高さ11m 前方部幅75m・高さ9m 盾形の周濠(現況幅20m・一部残存)をめぐらしていた。 6世紀前半の築造と推定されている。 郡山陵墓参考地として宮内庁が管理している。丸山古墳とも呼ばれている。 現在は墳丘の西北に県道が通り、北西から西側は削られていて、 数基あったという陪塚もすべて消滅している。管理している。 |
2011年11月11日、発掘宮内庁の発表では、被葬者の特定はできないものの、
墳丘裾部から出土した100点以上の円筒埴輪などの特徴から、
築造時期は5世紀前半とみられるとの見解を示した。
当日、発掘現場の公開も行われた。
近くの郡山築城の際、墳丘が大きく改変され、葺石が持ち去られたようだ。(ニュースから)
(私たちが行ったのは、これが終わってからだったのか・・・・・。)
馬見古墳群にも「新木山古墳 」という名前の古墳がある。
斑鳩大塚古墳 イカルガオオツカ |
斑鳩町法隆寺南1丁目 撮影日2011/11/23 |
見つけたけれど、車を止める場所がない。離れた所に止めて見学。
「斑鳩大塚古墳 (5世紀前半) 円墳 直径約35m」と書かれた案内板がある。
斑鳩大塚古墳 南から |
斑鳩大塚古墳 東から 知らないと古墳だとは思わないかも・・ |
斑鳩大塚古墳は 径35m・高さ約4mの円墳 葺石あり、埴輪あり 埋葬施設は:復元長約7.5m・幅1.5mの粘土槨に、 幅約60pの割竹形木棺があった(木棺の両端が残っていた) 北側にも、埋葬施設があった?(盗掘)。 鏡2面 石製品(石釧・管玉) 武器(鉄剣・鉄鏃)武具(短甲・頚甲・肩甲) 筒形銅器などが出土 5世紀前半の築造と推定されている。 1954年、忠霊碑を建設中に遺物が出土し古墳であると分かり、緊急調査。 |
最近の調査で前方後円墳と分かった。
島の山古墳 国史跡 |
川西町唐院 撮影日2011/11/23 |
大きな墳丘に周壕があるきれいな古墳。民有地なので眺めるだけとする。
島の山古墳 比売久波神社あたりから見る 比売久波神社は後円部の西側にある。 |
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島の山古墳は 前方部を南東に向ける 全長195mの前方後円墳 後円部径105m・高さ15m 前方部幅103m・高さ10m (復元長は全長200m) 周濠あり(幅40〜50m)葺石あり 埴輪あり造り出しの痕跡あり 後円部にある竪穴式石槨は、 明治年間に盗掘され多量の石製腕飾類などが出土している。(遺物は各所に散在) その際、竜山石製の石室天井石が掘り出され、 島の山古墳に隣接する比売久波神社などに置かれている。 前方部にある粘土槨は未盗掘で発見された。 東西10.5m・南北3.4m・深さ40cmの墓坑に、 ベンガラを塗った全長8.5m・幅2.0m〜1.6m・高さ約40cmの粘土槨があり、 その中に木棺(痕跡)が納められていたと考えられている。 滑石製玉類(勾玉・臼玉など)1300点、 緑色凝灰岩や碧玉製の石製腕飾類(車輸石・鍬形石・石釧)約140点、 鉄製品(小刀など)5点出土している。 (1996年 現説資料から) 4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。 (1994年〜2007年に発掘調査) |
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島の山古墳後円部石室の天井石 比売久波神社にある。平石3枚。 拝殿と本殿の間の踏み石となっている。 左側が拝殿、右側本殿 |
比売久波神社本殿 県指定文化財 |
比売久波(ヒメクワ)神社は 祭神の天八千千媛(アマハチチヒメ)が蚕を飼い、絹織物を織ったという伝説が残る。 本殿は江戸時代初期に 春日大社摂社若宮神社本殿を移したものと伝えられている一間社春日造。 江戸時代初期の特徴をもつ社殿建築として奈良県指定文化財となっている。 本殿と拝殿の間の踏み石となっている平石3枚は島の山古墳の後円部石室の天井石 このほかに、以前、比売久波神社の一の鳥居東側にあり、 その後、川西町ふれあいセンターの前庭に移された1石、 以前唐院の民家にあり、現在川西町教育委員会で保管されている2石がある。 この他に唐院の水路に使用されていた1石があったといわれている。 (比売久波神社 説明板から) |
三宅古墳群 | 三宅町・田原本町 撮影日2011/11/23 |
島の山古墳から南に行くと、田んぼの中に古墳がいくつも点在している。これらを三宅古墳群という。
盆地中央の低湿地帯にあり、旧三宅村を中心に分布している。
小さいといいながらも、40〜60mの前方後円墳で、ほとんどが周濠を持つ。
説明板があり、楽しい。
寺の前古墳 (三宅古墳群) 説明板がある。 |
三宅町屏風 |
寺の前古墳 墓地の横にある |
寺の前古墳 田んぼが周壕の形になっている |
寺の前古墳は 前方後円墳 (現存の墳丘の全長34m 後円径約20m・高さ3.5m・前方幅21m) 周濠あり(盾形) 周庭あり。埴輪あり 葺石不明。 横穴式石室に石棺があったと考えられている(1873〜1874年に盗掘の記録がある) 円筒埴輪片、家型埴輪片、須恵器、冑などが出土している。 6世紀初の築造と推定されている。 |
寺の前古墳の東にも前方後円墳があったが、削平され寺がある。(安養院古墳)
茄子塚古墳 (三宅古墳群) 説明板がある。 |
三宅町 |
茄子塚古墳 方墳に見える |
茄子塚古墳 方向を変えて |
茄子塚古墳は 別名 花子塚ともいう。 墳丘は不明だが 現在は方墳のように見える。 須恵器高杯、堤瓶、台付長頸壺等の土器類 などが出土。 5世紀終わり〜6世紀初頭の築造と推定されている。 |
高山古墳 (三宅古墳群) 説明板がある。 |
三宅町屏風 |
高山古墳 墳丘の形はよく分からない。 細長い墳丘か? |
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高山古墳は 前方部をほぼ東に向ける 全長51mの前方後円墳 後円径26m・前方幅30m 周濠あり(盾形、全周)。 円筒埴輪片が出土 5世紀末の築造と推定されている。 |
アンノ山古墳 (三宅古墳群) 説明板がある。 |
三宅町伴堂 |
アンノ山古墳 低くなってしまった墳丘 |
アンノ山古墳 後円部側? くびれ部もよく分からない |
アンノ山古墳は 前方部を東南方向に向けた 前方後円墳(現存の墳丘の全長約40.5m、後円部径約20m・前方幅22.5m) 10m前後の周濠があったことが確認されている。 |
瓢箪山古墳 (三宅古墳群) 説明板がある。 |
三宅町伴堂字ササバカ |
瓢箪山古墳 南から 運動公園(三宅中央公園)駐車場から見る 公園内の三宅町体育館で トイレをお借りしました。 お世話になりました。 |
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(三宅)瓢箪山古墳は 前方部を南西方向に向ける 全長35mの前方後円墳 後円部経約13.5m・高さ4.5m 前方部幅14m。 周濠の痕跡あり(幅約11m) 5世紀代〜6世紀初頭の築造と推定されている。 |
他にも周辺にいくつか古墳がありそうだ。
名前のわからない古墳
低くなってしまっている
黒田大塚古墳 (三宅古墳群) 県史跡 |
田原本町黒田 |
北から見た黒田大塚古墳 右 前方部 ここからだと前方部が高くなって見える。 |
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黒田大塚古墳 前方部から後円部を見る |
黒田大塚古墳 後円部から前方部を見る |
黒田大塚古墳の変遷 (説明板から) 現在いびつな形をした墳丘だが、 元はきれいな形の前方後円墳だったことが分かった。 |
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三宅古墳群の南端に位置する 黒田大塚古墳は 前方部を西に向ける 現状は全長55mの前方後円墳 後円部径28m・,高さ6m ,前方部幅23m・高さ5m 復元すると全長70mの前方後円墳 後円部径40m・高さ8.2m 前方部幅45m・高さ7.7m 幅8m・深さ1mの周壕があった。 2段築成 葺石なし 円筒埴輪、蓋形や鳥形の木製品が出土 埋葬施設は未調査 6世紀初頭の築造と推定されている。 (1983、1984、1986年調査) |
天王塚古墳 (三宅古墳群) | 三宅町但馬字天王 |
天王塚古墳 きれいな墳丘 |
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天王塚古墳は、径16mの円墳 詳細不明 |
芝ぞえ古墳 (三宅古墳群) | 三宅町但馬 |
芝ぞえ古墳 小さくなってしまった墳丘。 |
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芝ぞえ古墳は径約30mの円墳 (前方後円墳の可能性があるという) 周濠があった 墳丘は削平されている。 |
笹鉾山古墳群 | 田原本町八尾 4号墳は三宅町石見字西大塚 撮影日2011/11/23 |
黒田大塚古墳のそばに「→笹鉾山古墳」という案内板があったので行ってみる。
平野稲荷神社がある所がそうらしい。行く途中、小さな円墳を見つける。
西大塚古墳
(笹鉾山古墳群4号墳)
径10mの円墳という。
笹鉾山古墳(1号墳) 南東側から見る |
笹鉾山古墳(1号墳) 後円部上は平野稲荷神社の境内 |
笹鉾山古墳群は、前方後円墳1基、円墳4基の6世紀代の古墳群。 1号墳は、前方部を東北東に向ける 全長約50mの前方後円墳 後円部径約33m 二重周濠あり 埴輪あり 後円部墳頂に稲荷神社、前方部に向け参道がある。 主体部は未発掘 円筒埴輪、土師器、馬歯等が出土 6世紀前半の築造と推定されている。 2号墳(消滅)は、1号墳の約30m北にある 径19.5mの円墳 周濠から円筒埴輪、朝顔型埴輪、形象埴輪、木製品が出土 6世紀前半〜中頃の築造と推定されている。 3号墳(消滅)は、1号墳から北々西、約200mに位置する 径20mの円墳 周濠あり 土師器、須恵器が出土 古墳時代後期の築造と推定されている。 4号墳は1号墳の西北西400mにある 径10mの円墳 坊主山古墳又は西大塚古墳ともよばれる。 土師器の他、鉄剣が出土 金鶏伝説がある。 (HP「奈良の古墳探索」から) |
川合大塚山古墳群 馬見古墳群北群 国史跡 |
河合町 撮影日2011/11/23 |
前回は川合大塚山古墳・城山古墳・丸山古墳を見学した。前回のページ
川合大塚山古墳群配置図
大塚山古墳群は、
3基の前方後円墳、
4基の円墳、
1基の方墳
の計8基
大塚山古墳群として
国指定史跡となっている。
中良塚古墳は駐車スペースがある。
中良塚古墳 (川合大塚山古墳群) | 河合町穴闇 |
中良塚古墳 南西から |
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中良塚古墳 後円部から前方部 |
中良塚古墳 前方部から後円部 |
中良塚古墳は前方部を北に向ける 全長88mの前方後円墳 後円部径45m・高さ6.5m 前方部幅50m・高さ6.5m 2段築成 テラスに円筒埴輪がめぐる 斜面に葺石あり 周壕あり 外堤あり 埋葬施設は未調査だが、粘土槨と考えられている。 円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪、須恵器が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 (説明板から) |
高山塚2・3・4号墳 (川合大塚山古墳群) | 河合町穴闇 |
高山2号墳 復元径35mの円墳 現状は東西16m・南北18m 周壕あり 人物埴輪の腕が出土 |
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高山3号墳 幼稚園の横にある。 復元径30mの円墳 現状は東西18m・南北20m |
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高山4号墳 民家に挟まれている。 復元径30mの円墳 現状は10mほどしかない。 |
九僧塚(クソウヅカ)古墳 (川合大塚山古墳群) | 河合町穴闇 |
九僧塚古墳 北西から見る 後ろの木立は大塚山古墳 川合大塚山古墳の西側にある。 |
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九僧塚古墳は 東西27m・南北33m・高さ3mの方墳 大塚山古墳の陪塚で、道路となってしまった大塚山古墳の外堤に隣接してつくられている。 円筒埴輪が出土 古墳時代中期の築造と推定されている。 |
佐味田宝塚古墳 国史跡 |
河合町佐味田 撮影日2011/11/23 |
牧野古墳のすぐ北にあるが、牧野古墳からは行けない。
500mほど東の巣山古墳西という交差点から、すぐ北の、交差もできないような細い脇道に入って、
くねくねと西進した所にある。
たどり着けないかと思った。古墳そばに、かろうじて駐車スペースがあった。
(牧野古墳は広陵町、佐味田宝塚古墳は河合町)
佐味田宝塚古墳 右・前方部 |
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佐味田宝塚古墳 後円部 雑木林となっている。 |
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佐味田宝塚古墳は 前方部を北東に向けている 全長111.5mの前方後円墳 後円部径約60m・高さ約8m 前方部幅約45m・高さ約8m 2段築成。周濠なし。葺石あり 埴輪あり 明治14年(1881年)、地元民により後円部が発掘され(盗掘)、 36面の鏡・勾玉・管玉・銅鏃・巴形銅器・鍬形石・石製合子 ・石製刀子・石製剣・鑿石製品・斧形石製品・紡錘車・鎌形石・石斧多数などが出土した。 とくに36面の銅鏡の中で、家屋文鏡と呼ばれる鏡は、 4棟の建物(竪穴式住居・高床倉庫・高殿・平地式建物が描かれている。 4世紀末〜5世紀初の築造と推定されている。 |
築山古墳 馬見古墳群南群内・築山古墳群 |
大和高田市築山 撮影日2011/11/23 |
道が狭く、駐車できる所がない。
かん山古墳のある児童公園そばで無理やり路駐して、周辺の古墳を見学したが・・・・・
駐車場は何とかならないものかな・・・・・。
周辺の古墳も住宅が迫っていたり、行きどまりだったりして、そばまで行けなかったりもする。
北から見た築山古墳全景 |
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築山古墳 後円部の丸み |
築山古墳の広い周壕 |
築山古墳は 前方部を東に向ける 全長209mの前方後円墳 後円部径119m 前方部幅103m 3段築成 周濠あり 二重濠の痕跡らしき地形も見られる 埴輪あり 葺石あり。 竪穴式石室の可能性が高い。 この古墳周辺から持ち出されたといわれる石材が存在する。 円筒埴輪、朝顔形埴輪、壷形埴輪の破片が出土 4世紀末 の築造と推定されている。 磐園(いわぞの)陵墓参考地として宮内庁が管理している。 |
かん山古墳 馬見古墳群南群内・築山古墳群 |
大和高田市築山 撮影日2011/11/23 |
築山古墳の北の児童公園の中にある。自由に墳丘に上がることができる。
奈良県遺跡地図では「児童公園古墳」と名付けられているが、
2002年の調査以後「かん山古墳」と呼称が変更された。
かん山古墳 南西から 手前に築山古墳がある。 |
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かん山古墳は径50m・高さ5mの円墳 2段築成 葺石なし 周濠もなし。 発掘調査の結果主軸を北東方面に向けほぼ並列に墓壙が2基存在。 第1主体部は10.5×3.8mでコウヤマキの棺材の一部が遺存。 第2主体部は6.3×2.7m。 盗掘されていたが鉄刀片、鉄鏃片、管玉、朱などが出土 他には円筒、朝顔形、盾形、家形の埴輪片が採集されている。 5世紀前半の築造と推定されている。 (2002年〜2005年発掘調査) |
茶臼山古墳 馬見古墳群南群内・築山古墳群 |
大和高田市築山 撮影日2011/11/23 |
「磐園陵墓参考地(築山古墳)の陪冢」という宮内庁の立て札が立っている。
茶臼山古墳 築山古墳の後円部の南側の周庭帯にあるが、 古墳周辺には民家が建つ。 |
茶臼山古墳は 径50m・高さ6mの円墳 2段築成 葺石あり 埴輪あり 周濠(6m)の痕跡あり 埋葬施設は不明 築造年代もよく分かっていない。 |
狐井塚古墳 馬見古墳群南群内・築山古墳群 |
大和高田市池田 撮影日2011/11/23 |
墳丘に沿って道路が曲がっているのが楽しい。
狐井塚古墳 後円部脇から前方部 |
狐井塚古墳 後円部脇から前方部 |
狐井塚古墳は前方部を東に向ける 全長75mの前方後円墳 後円部径40m・高さ5m 前方部幅40m・高さ6m 北側に盾形の周濠跡(20〜25m前後?)が残る。 埋葬施設は不明となっているが、この古墳出土とされる石棺の石材が存在する。 5世紀中葉の築造と推定されている。 狐井陵墓参考地となっている。 |
コンピラ山古墳 馬見古墳群南群内・築山古墳群 |
大和高田市築山 撮影日2011/11/23 |
家が立ち並んでいて近付けない。築山古墳のすぐ東にある。
以前は径55m程度の円墳で築山古墳の陪塚とされてきた。
範囲確認調査が行われて、周濠の痕跡が確認され、もとは径95mの円墳とわかった。
円墳では県下最大、全国でも三番目の巨大円墳となる。
コンピラ山古墳 大きな円墳なのに、 宮内庁管理にはなっていない。 民有地なのでどんどん削られていく。 |
コンピラ山古墳は径95m・高さ12.7mの円墳 埋葬施設は不明 円筒埴輪、盾形、家形、蓋形埴輪片が出土 5世紀前半の築造と推定されている。 |
大和田食堂にて昼食。好きな物を食べられるだけ選べる食堂はうれしい。
室ネコ塚古墳 | 御所市字戌之花 撮影日2011/11/23 |
御所市に入る。
室宮山古墳のすぐ北にいかにも方墳という古墳がある。
室ネコ塚古墳 南から |
室ネコ塚古墳 は1辺63mの方墳 埴輪あり 割石積の竪穴式石室がある。(正式な発掘調査は行われていない) 刀剣片、埴輪片が出土 5世紀初〜前半の築造と推定されている。 |
室 宮山古墳 ムロミヤヤマ 国史跡 |
御所市室 撮影日2011/11/23 |
かなり田舎だけれども、古墳の周りは住宅が多く、道も狭く、駐車場所に悩む。
集落手前の道に路駐。
集落内から八幡神社に上がり、後円部に行くと竪穴式石室から大きな石棺が見える。
室 宮山古墳 全景 北から見る 左(東)後円部 右前方部 |
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室 宮山古墳 後円部墳頂 八幡神社から西に歩くと後円部が見えてくる。 向こう側に石室が・・・ 後円部には 北石室と南石室の二つの石室がある。 南石室は調査された。 (盗掘により1950年緊急調査) |
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室 宮山古墳 北石室の露出した石室石材 縄掛け突起がある(未発掘) |
室 宮山古墳 復元された埴輪と、南石室入口の様子 埴輪は高さ1.43mもある! |
室 宮山古墳 南石室の天井石の下に 石棺の縄掛け突起が見える。 |
室 宮山古墳 大きな縄掛突起がある石棺 おもしろくて、感動です! |
室 宮山古墳 石棺の横はすぐ石室の側壁 どう考えても、 石棺を安置してから石室を造ったのだろう。 |
室 宮山古墳 石棺の盗掘穴から見た石棺内部 いい仕事してます! |
室 宮山古墳は 前方部を西に向ける 全長238mの前方後円墳 後円部径約105m・高さ25m 前方部幅約110m・高さ22m 3段築成 北側くびれ部に方形の造り出しがある 南側に自然地形を利用した周壕がある。葺石あり 埴輪あり 明治時代に前方部から木棺と鏡11面・玉類が出土 1950年の発掘調査で、後円部に竪穴式石室が南と北の2箇所あることが確認された。 南側石室は、長さ5.5m・幅1.9m・高さ1.1mで、割石を小口積みにし、 天井石は6枚でつくられていて、長持ち型石棺が安置されている。 盗掘されたため石棺内は玉類数点、 石室からは勾玉、管玉等の玉類や琴柱形石製品、刀剣類、革綴短甲、 石室の上面から滑石製の刀子等の祭器類などが出土。 埋葬施設はこの他にも前方部に2基、北張出部に1基が確認されている。 5世紀前半の築造と推定されている。 |
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後円部にある二つの石室の模式図 (説明板から) 二つの石室をそれぞれ長方形に取り囲んで埴輪が立てられていた。 石室の南側には、 入口を南に向けた5棟の家形埴輪が軒を接して並べられていた。 その内側には、ゆぎ・盾・甲冑などの武具形の埴輪が取り囲み、 その正面は いずれも外側を向いて置かれていた。 またその内側には、蓋形埴輪や円筒埴輪などの一列があり、 さらに石室の上には、大型の家形埴輪や蓋形埴輪が立て並べられていた。 復元されたゆぎ形埴輪は高さ1.43mのもので、 矢じりや背負い紐の表現なども写実的に描かれている。 |
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みやす塚から見た室宮山後円部 山のようだ・・・・・! |
みやす塚古墳 | 御所市室 撮影日2011/11/23 |
室宮山古墳から東へ、行くと墳丘が見える。
みやす塚古墳 |
みやす塚古墳の墳頂にある小祠 |
みやす塚古墳は 楕円形状の円墳 (現状は南北47m・東西35m・高さ約7.5m) 墳頂部盗掘のための凹地あり。 埴輪が出土 埋葬施設は不明 勾玉1個、漢式鏡1個が出土し、調査もされているようだが詳細不明 |
巨勢山古墳群・条池支群 | 御所市條 撮影日2011/11/23 |
みやす塚古墳から東へ。道路沿いに 「巨勢山古墳群 条池支群」の立派な説明板がある。
調査されていない條庚申塚古墳は、石室が残っているようだが、雨が降って来たので外側から、眺めて終わり。
條庚申塚古墳(巨勢山642号墳) 円墳で石室が見られるというが藪の中 おまけに雨降り。 傘をさして、 カップルが古墳を見学しながら歩いている。 歩きも大変だ・・・ |
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左から條池南古墳、條池北古墳、條庚申塚古墳 右側が北、道路がある。 荒廃のひどかった条池北古墳・条池南古墳の発掘調査が行なわれた。 石室は破壊され、石材の大半が抜き取られている。 |
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巨勢山には800基の古墳が分布していて、東西約3km南北2.5kmの範囲に及ぶ。 条池支群は北から條庚申塚古墳・条池北古墳・条池南古墳で構成され、 いずれも横穴式石室がある。 条池北古墳(巨勢山641号墳)は、 玄室長4.80m・幅2.44m 羨道長3.30m・幅1.80mの右片袖式横穴式石室がある。 奥壁部分に石敷きがあり、棺床が設けられていた。 閉塞石が玄門付近に残る。 碧玉製管玉、須恵器の破片、馬具、銀装の刀、鉄鏃、円筒埴輪の破片などが出土 江戸時代には石室を再利用していた痕跡が認められた。 6世紀後半の築造と推定されている。 条池南古墳(巨勢山640号墳)は掘割によって区画された16mほどの円墳 西向きの左片袖式横穴式石室は、玄室長6m・幅1.8mので短い羨道があった。 玄室内前面には長さ2.34m・幅1.24m・身の高さ0.72m・蓋までの高さ1.2mの 二上山白色凝灰岩製の刳り抜き式家形石棺がある。 蓋には四角い縄掛け突起が4個ある。 棺内にはつくりつけの枕(直径約20cm)が彫られ、足元には排水穴が設けられ、 石棺内部には全面に朱が塗られていた。 須恵器と馬具、鉄鏃、鉄刀、コハク製棗玉、ガラス製小玉などが出土 6世紀中葉〜後半の築造と推定されている。 |
條ウル神古墳 (巨勢山658号墳) |
御所市條 撮影日2011/11/23 |
條ウル神古墳の前に、立派な説明板があり、「私有地につき立ち入り御遠慮下さい」と赤字で書かれている。
平成13年度の石室の所在と現状確認のための調査で、巨大な石室と石棺が存在することが明らかとなった。
奈良県遺跡地図では、群集墳の一つとして点(巨勢山658号墳)で記されている。
現在の條ウル神古墳 どこに石室があるのかなぁ・・・・ 今石室はどんな状態なのだろうか? |
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入口から奥壁を見る (説明板から) |
奥壁から入口を見る (説明板から) |
石棺実測図 (説明板から) |
條ウル神古墳は 形は不明だが全長100m以上と推定されている。 (円墳又は前方後円墳) 両袖式横穴式石室は、泥がたまった状態で、 玄室長7.1m・幅2.4m・高さ2.7mで、 泥を取り除けば高さや長さが50cmほど増えるのは確実。 最大で横2.4〜2,7m・縦1.8mの花崗岩を積み上げている。 石棺は二上山(当麻町)産の凝灰岩の刳抜式家型石棺 (長さ2.78m・幅1.47m) ふたには8個の縄掛け突起があり、石棺の内側には朱が塗ってあった。 ふたが約30cmずらされ、盗掘されていたが、 ふたの上に冠の金箔飾りや直径2mmのガラス玉が散乱していた。 6世紀後半の築造と推定されている。 |
馬具も見つかっているそうだが、そのまま埋まっているという。
市尾墓山古墳 国史跡 |
高取町市尾 撮影日2011/11/23 |
見た目は、午前中に見学した黒田大塚古墳にそっくり。
まわりには、建物がなく遠くからでも見える。
駐車場は特にないが、路駐が可能。
北から見た市尾墓山古墳 周壕の形も確認できる。 左後円部 |
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市尾墓山古墳 南側に回ると石室が階段付きである。 |
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市尾墓山古墳 階段上の石室には扉がある。 鍵がかかっている。 |
市尾墓山古墳の石室内部 ガラス越し 雨のせいでガラスが曇って見えない! ぼんやり石棺が見える。 |
市尾墓山古墳は 前方部を北西に向ける 全長66mの前方後円墳 後円部径39m・高さ10m 前方部幅49m・高さ10m 2段築成 周濠幅3m、外堤幅12m・高さ3m。 葺石あり、埴輪あり。くびれ部両側に造り出しあり 1978年(昭和53年)発掘調査で 後円部に横穴式石室が検出され、家形石棺が確認された。 後円部南東に開口した右片袖式横穴式は全長9.45m 玄室長5879m・幅2.6m・高3m 羨道長さ3.58m・幅1.82m・高さ1.7m 奥壁は小石が積み込まれている。 二上山の白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺は 長さ2.7m・幅1.3m・高さ1.4m (4個の縄掛突起) 縄掛け突起4個 棺の内側には赤色顔料が塗られている。 石室内から、鉄刀、刀子、鉄鏃、飾金具、馬具、玉類、須恵器、土師器、 石室外から、円筒埴輪、朝顔形埴輪、鳥型木製品他が出土。 テラス部分に埴輪列、周壕から鳥、笠、石見型などの木製品が出土した。 6世紀初めの築造と推定されている。 (1978年・2004年 発掘調査) |
1978年の調査前までは、石室は墳丘中に埋め込まれていたという。
市尾宮塚古墳 国史跡 |
高取町市尾 撮影日2011/11/23 |
集落内の天満神社の裏にある。
天満神社の前の道路が交差できない位の狭い道で、駐車場所に一苦労。
後で調べたら近くに公民館があるので、そこに駐車すればよかった。
市尾宮塚古墳上り口 |
市尾宮塚古墳 後円部 円墳のように見える |
市尾宮塚古墳 石室開口部 扉に鍵がかかっている。 |
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市尾宮塚古墳 石室内部 中は入れないが近付くとライトアップ 石室内がくっきり! |
市尾宮塚古墳 石棺 石材を足してあるのがちょっと気になる。 ふたに赤色顔料が残っているようだ。 |
市尾宮塚古墳は東に前方部を向ける 全長44mの前方後円墳 後円部径23m・高さ7m 前方部幅24m・高さ4.5m。 後円部北に開口する両袖式横穴式石室は全長11.6m 玄室長6.2m・幅2.5m・高さ3m 羨道長5.4m・幅1.5m・高さ1.8m 石室内にY字形の石組みの排水溝を設け玄室に小石を敷いている。 石室内の二上山の凝灰岩製刳り抜き家型石棺は、身の外側長さ1.9m・幅1.2m 赤色顔料が塗られ、ふたには縄掛け突起がある。 金銅装太刀・馬具・鈴・耳環、金銀の歩揺、 鉄製の小札・鉄鏃、水晶やガラス製の玉や土器が出土 6世紀中頃の築造と推定されている。 |
説明板の中の調査時の写真には、ぼろぼろの石棺が見えている。ふたも見当たらない。
現在石室の中にある石棺はレプリカ?
市尾墓山古墳もこれくらいハッキリと石室が見られるといいのだけれど・・・・。
カンジョ古墳 (乾城古墳) 県史跡 |
高取町与楽 撮影日2011/11/23 |
飛鳥病院の東にある。ここも駐車場所に悩む。道が狭いんですね、やはり。
説明板がある。
カンジョ古墳 南側の道路から見る 帽子をかぶったような外観 墳丘の崩壊を防止している。 |
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カンジョ古墳 石室開口部 鍵がかかっている |
カンジョ古墳 石室内部 奥や天井がよく見えない |
カンジョ古墳は 一辺35m・高さ11mの方墳 |
与楽鑵子塚古墳 ヨウラクカンスヅカ 県史跡 |
高取町与楽 撮影日2011/11/23 |
カンジョ古墳の北によく似た墳丘が見える。
雨も本降りとなり、タイムリミットも迫っているので、そばまで行くのをあきらめる。
雨にけむる与楽鑵子塚古墳 カンジョ古墳から見る |
与楽鑵子塚古墳は 径28mの円墳 高さは南面約9m、北面約6m 北側墳丘裾に幅4.4m、深さ1.1mの掘割がある。 南に開口する片袖式横穴式石室は 玄室長さ4.2m・幅3m・高さ4.4m 羨道長さ4.6m・幅1.9m 石室から、土師器でつくられたミニチュアの炊飯具や鉄製馬具が出土 (2011年8月 高取町教育委員会発表) 6世紀後半の築造と推定されている。 |
午後4時となり、家路に着くことにする。渋滞に巻き込まれ、道も間違え・・・・
午後7時 草津PA
午後8時15分 賤ヶ岳SAにて 夕食
午後10時15分 石川県白山市の自宅到着
900kmを超えるドライブだった。
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