北村さんちの遺跡めぐり

2009年・奈良の旅その1
奈良市・大和郡山市
2009年11月3日〜11月7日

第61回正倉院展が2009年10月24日から11月12日まで開かれる事を知り、
それに合わせて奈良に行く。
現説には間に合わなかったが、桜井茶臼山古墳も見学の予定。
11月3日
午前7時20分 自宅出発。寒い日になってしまった。
    徳光ETC専用ICから北陸高速に入る。
 気温5度の表示
 敦賀は雨
 刀根SA休憩  コーヒー  120
 伊吹山山頂にはうっすらと雪が積もる。
9時17分   米原JC
 草津SA 休憩
10時20分 瀬田東JCT
10時25分 巨椋ICから 24号線
10時34分 城陽ICから 自動車専用道路
10時50分 木津IC出る
有料道路料金は、計1700円
11時20分  24号線高架下の駐車場に車を預ける。
  奈良市では「交通社会実験」と名づけられた「パークアンドライド」が行われていたので、
  まず24号線高架下の駐車場に車を預け(スタッフの誘導が下手だった)
  無料シャトルバスで国立博物館を目指す。
  国立博物館を通り過ぎ「ならまち」で下車。
  昼食を済ませてから正倉院展を見学する事とする。

ならまち散策 奈良市ならまち
撮影日2009/11/3

ならまちのひさごやで 月見うどん・肉うどんの昼食
おいしいうどんだった。

12時30分から ならまち散策


道祖神社(猿田彦神社)
勝負運(バクチ)の神様だそうな
思っていたより小さな神社だった。





店の前の狸の置物の前には
盛り塩がなされていた



 



猿沢の池隣の率川の石の船
どんな意味があるのかなあ




ご存知!猿沢の池



奈良市の地図g

旧大乗院庭園 奈良市高畑町
撮影日2009/11/3

大乗院庭園は、15世紀の半ばすぎ、善阿弥とその子が京都から招かれてつくったもの。

名勝大乗院庭園


大乗院は、興福寺の門跡寺院で1087年創建、庭園も造られたが、15世紀に荒廃した。
その復興のために招かれた善阿弥(銀閣寺庭園を作った人)とその子が庭園を改造した。
明治初頭まで南都随一の名園とされてきたが、大乗院は廃仏毀釈で明治初年に廃寺となった。
庭園は残され、戦後その一部が整備されて1958年(昭和33年)国の名勝に指定された。
庭園の南側には「名勝大乗院庭園文化館」がつくられている。入場無料。
名勝大乗院庭園文化館では、大乗院の復元模型や大乗院に関する資料が展示されている。
織田信長直筆の書状なども展示されている。

庭園の南側には「名勝大乗院庭園文化館」がつくられている。入場無料。



「名勝大乗院庭園文化館」から見る庭園


ボランティアスタッフさんのお勧め撮影ポイント






大乗院庭園で休むアオサギ


名勝大乗院庭園文化館では、大乗院の復元模型や大乗院に関する資料が展示されている。
織田信長直筆の書状なども展示されている。

頭塔 奈良市高畑町
撮影日2009/11/3

以前は全体が鬱蒼とした森だったが2000年(平成12年)復元整備が完了、
北半分に方形7段の土塔の姿がよみがえった。

頭塔石仏入口
南側の石段を上ったところ

南側は現状保存


1987〜1998年まで発掘調査。
一辺32mの石積みの基壇上に建つ7段の階段状石積みからなり、
基壇を含めた全体の高さは約10m、
石積みの上に瓦葺の屋根がのっており、奇数段には石仏が安置されていた。
現状の頭塔内部にはひとまわり小さい頭塔がある。

頭塔石仏の北側
基壇と7段の石積みを復原し、
残存していた石積みと復原のために
  積み足した石積みとの境界には鉛板を入れ明示。
抜き取られていた石仏の位置には新石を補充。

第1・3・5・7の奇数段4面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていた。
44基のうち28基が確認されている。
そのうち1基は郡山城の石垣に転用されている。


石仏 拡大

現在石仏の上にのっている屋根は、
 石仏を保護するものであり、
  江戸時代に据えたものと考えられている。

石仏の表現は天平盛期の特徴をよく示し、
記録にあるとおり神護景雲元年(767)に造立されたと考えられている。

今回は見学しなかったが、大安寺町に、
杉山古墳・野神古墳などの大安寺古墳群がある。

杉山古墳(大安寺4丁目)
 全長154mの南面する前方後円墳。
 後円部径80m・高さ9.8m、前方部幅95m・高さ7m
 くびれ部東側に造り出しがある。葺石あり。幅30mの唐濠。
 5世紀中ごろの築造と推定されている。
墓山古墳
 杉山古墳の東200mにある。墓地となっている。
全長80m以上の南面する前方後円墳
野神古墳  墓山古墳の東にある。
 墳形は不明だが刳り抜き式家形石棺がある竪穴式石槨が露出している。
 天井石も縄状突起を持つ。
 古墳時代中期末〜後期初頭の築造と推定されている。 

  

正倉院展 奈良国立博物館

奈良国立博物館の近くでは食事ができないと思ったが、テントの食堂があり、にぎわっている。
30分ほど並んで、午後2時ごろ正倉院展に入場。

すごい人で、もたもたしていると何にも見えない。
人をかきわけて、音声ガイドを聞きながら展示品を見学。
琵琶
琵琶を包んでいた袋の残欠
金銀花盤
沈香木画箱
など、書ききれないがすばらしいものがたくさん展示されていた。
フェルトの敷物は、最近手芸教室で小さなものを作った経験があり、
現代も通用する普遍的なデザインと保存のすばらしさに感動した。

音声ガイドでは、展示されている琵琶の、以前に弾いた時の音が聞けた。
不思議な気持ちだった。

正倉院展の新館から本館へ。
本館には多くの仏像が展示されている。
じっくり鑑賞した。
正倉院展は1人 1000
   音声ガイド1台 500

国立博物館から、シャトルバスの乗り場である奈良県庁まで歩く。
県庁前に、セントくんがいたので、記念撮影。
午後4時50分ごろ、シャトルバスに乗り、24号線高架下の駐車場へ。
パークアンドライドをしても道は混雑している。
「交通社会実験」の成果はどうだったのだろうか?

今日の宿泊「スーパーホテルJR奈良駅前」に、6時ごろ到着。
なんと!二人で5090円の低料金(一泊朝食付)
夕食はホテル一階の{なか卯」にて
牛とじ丼とカツカレー 計1080円

  

二日目に入る。11月4日
パン・サラダ・卵・飲み物などの朝食を食べ、
8時20分にホテルを出て、歩いて開化天皇陵に行く。
近いと思っていたのにかなり遠い。
大通りから行くが開化天皇陵に入る道がない。

開化天皇陵 (念仏寺山古墳)
(春日率川坂上陵)
カスガノイザカワノサカノウエノミササギ
奈良市油阪町
撮影日2009/11/4

「山の寺念仏寺」とある。
今は繁華街の真ん中だけれど、山の寺だったのだねぇ。
徳川家康が、大阪冬の陣(1614)の折、木津の戦いで真田幸村に破れ奈良に入り、
 この地小字山の寺に落ちのび桶屋の棺に隠れ九死に一生を得たという。

開化天皇陵の入口は大通りにはない。
ぐるっと南に回ったところ、三条通りから北のほうに参道が延びている。

参道から見る開化天皇陵
陵墓となっているので中には入れない。
繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
開化天皇陵は春日率川坂上陵(カスガノイザカワノサカノエノミササギ)という。
古事記には「伊邪河之坂上」と記す。
別名念仏寺山古墳という。
全長約100mの前方後円墳
後円部径48m・前方部幅48m。

大急ぎで戻り「三井のリパーク」(800円)においてある車に乗り
富雄丸山古墳を目指す。

若草山の山頂の鶯塚古墳にも行きたいが、混雑する道を抜けねばならないので、あきらめる。
 (30年ほど前、若草山ドライブウェーの途中にあった「大和山荘」というホテルに泊まった事があるが、
 そのホテルは現在取り壊されて、跡地が心霊スポットになっているという噂で、
 それもちょっと見てみたいのだけどね)

前回の奈良旅行で見学した垂仁天皇陵のそばを通ったら、
「垂仁天皇陵飛地い号」という案内板を見つけ、写真を写す。

垂仁天皇陵飛地い号

陪塚なのだろう
垂仁天皇陵から西へ。

富雄丸山古墳 奈良市大和田町丸山
撮影日2009/11/4

10時15分、富雄丸山古墳付近に到着。
すっかり宅地化されて、富雄丸山古墳だけが現状保存で残る。



富雄丸山古墳のある山
説明板も見あたらない。





富雄丸山古墳墳丘実測図
 (大和古代遺跡案内・吉川弘文館から引用)

昭和46年宅地造成計画に先立ち、発掘調査。
径86m・高さ10.5mの円墳(巨大!)
葺石あり・円筒埴輪あり
北東に短い造り出しをもつ可能性がある。
4世紀後半の築造と推定されている。
丸山古墳に近接して2基の後期の小円墳がある。

墳頂部には巨大な盗掘穴があった。
内部には墓壙があり粘土で保護した木棺の痕跡が確認されたが、破壊されていた。
装身具の管玉や鍬形石製品などの玉・石製品類や
   刀剣などの武器類、斧・きり・のみなどの工具類や巴形銅器が出土した。

以前盗掘された時、
「伝富雄丸山古墳出土品」として多数の遺物が市場に出て、
 現在その一部が京都国立博物館に所蔵されているが、
  その中の鍬形石製品の破片と発掘調査で出土した破損部分が一致。
「伝」ではなく「富雄丸山古墳出土品」と確認された。
(参考「大和の古墳を語る」)

奈良市の地図y  

割塚古墳
市指定文化財
大和郡山市千日町市営住宅内
撮影日2009/11/4

大和郡山市。
千日町の住宅地の中に古墳公園として保存されている。

割塚古墳全景


頂上には盗掘されたと思われる大きなくぼみがあり、
このために割塚(車塚)の名で呼ばれてきた。

石室は埋め戻されていて、見ることはできない。
昭和43年、宅地造成に伴い発掘調査。
矢田丘陵の1支脈の先端に造られた古墳。
径49m・高さ4.5mの円墳
片袖式横穴式石室は、天井石を含めた上半部の石材は抜き取られていたが、
全長13.6m、玄室長7m・幅3m
玄室の床面には石が敷かれ、羨道には排水溝が設けられていた。
玄室には凝灰岩製の刳りぬき式家形石棺がおかれていた。

石棺内から銅鏡や垂下式耳飾が
周辺からは馬具・けい甲・須恵器などが出土。
5世紀末〜6世紀前半の築造と推定されている。

大和郡山市の地図y

小泉大塚古墳
県指定
大和郡山市小泉町
撮影日2009/11/4

前方部は古くから削られている。後円部裾も削られている。
擁壁に囲まれて保存されているが,墳丘のうえにのぼることはできない。


小泉大塚古墳の後円部
昭和37(1962)年、平成8(1996)年に調査
前方部を西に向ける全長88mの前方後円墳 後円部径50m・前方部幅40m
後円部2段築成  埴輪なし・葺石なし
後円部中央に竪穴式石室がある。
石室の内部は、長さ5.5m・北小口幅1.1m・南小口幅0.7m・現存高さ1.3〜1.5mで
 床面には割竹形木棺を設置した際のU字形粘土床が設けられている。
盗掘は受けているが、石室内から内行花文鏡、獣帯鏡などの銅鏡(7面以上)や
 鉄剣,刀子、鉄斧、,土師器などが出土。
奈良盆地西北部に所在する前期(4世紀)の築造と推定されている。
出土した銅鏡の中には三角縁神獣鏡がないことが特徴

「大和の古墳を語る」には、「天井石が無い合掌形の構造の石室か」と書かれていた。

丘陵の尾根を利用して築かれた西向きの前方後円墳というが、
 現在は市街地の中に取り込まれてしまっている。

六道山古墳 大和郡山市小泉町六道
撮影日2009/11/4

慈光院駐車場南側に道路向こうに見える。小泉大塚の東300m。


六道山古墳全景

前方部が削平され慈光院の駐車場となっている。
(手前の広場)
後円部も周囲が削られている。
全長100mの前方後円墳   後円部径75m・高さ14m、前方部幅50m・高さ6m
3段築成
5世紀初頭の築造と推定されている。
慈光院の南にあるので慈光院山とも呼ばれる。

小泉大塚近くの「しまむら」でトイレ休憩。しまむらさん、お世話になりました。

 大和郡山市の地図y

大和郡山市には、今回は見学できなかったが、笹尾古墳(国立療養所松籟荘内に保存)や
 新木山古墳(アピタ大和郡山店の東にある・陵墓参考地)などがある。

西名阪自動車道の南にある額田部狐塚古墳は、道路の下に保存されている。

笹尾古墳(小泉町)
昭和56(1981)年発見、翌年調査
径27mの円墳
幅4mの周壕
両袖式横穴式石室は
全長12.5m 羨道長さ4m 玄室長4.5m 
玄室内には家形石棺が置かれていた。
6世紀から7世紀前半の築造と推定されている。
羨道には木棺材や釘がかたまって出土、
大理石製の石帯が3個出土したことから後世の追葬も考えられている。
新木山古墳
陵墓参考地。丸山古墳とも呼ばれている。
全長122.5mの前方後円墳。南南西に前方部を向ける。
後円部径67m・前方部幅75m
周囲には馬蹄形の堀がめぐる。
現在は墳丘の西北部は県道で破壊、数基あったといわれる陪塚もすべて消滅している。
額田部狐塚古墳
全長50m前方後円墳。5世紀末の築造と推定されている。

お昼少し前に、斑鳩町に入る。瓦塚古墳群を探す。

A 奈良・その2 につづく


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