北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2013/4/6
近畿の古墳めぐり2013晩秋その3 尼崎市・伊居太古墳から |
2013/11/28 |
朝から電車で、神戸市灘区まで行ってきたが、帰ったら今度は、車で・・・・。
14時40分 豊中市山の上町を出発。
伊居太古墳 イコタコフン 猪名野古墳群 |
尼崎市下坂部四丁目 伊居太神社境内 (撮影日2013/11/28) |
伊居太神社境内にある。 15時8分 着。
古墳についての説明板がある。
伊居太古墳実測図 (説明板より) 伊居太古墳は 社殿建築築で、原形は著しく失われているが、 南に前方部のある 全長92mの前方後円墳 後円部径53m・高さ3m 前方部幅46m 周壕幅20m 5世紀の築造と推定されている。 前方部南側には、かつて サムライ塚、白馬塚と呼ばれる2基の小墳丘があって、陪塚といわれている。 埴輪片、土師器片、須恵器片などや、鏡や鉄剣が出土したと伝えられているが、詳細不明。 この古墳の周辺には若王子遺跡や下坂遺跡がある。 |
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伊居太神社正面 手前が前方部 |
社殿がある所が 後円部 |
社殿の後ろには、周堀のような地形もあるが、よくわからない。
古墳と知らなければ、全く分からない。
岡院の石棺 ゴインノセッカン 猪名野古墳群 |
尼崎市御園 |
尼崎市御園の阪急神戸線のすぐ北にある。 15時20分 着。
説明板がある。
岡院の石棺は 永らく岡院の用水路に架けられ、スズリ橋と称せられて保存されてきた。 昭和38(1963)年保存のため、この地に移され、現在に至る。 凝灰岩製の長持形か家形石棺の蓋石で、表側がコンクリートで固められている。 当時の記録によれば、内面にかすかに朱が付着していた。 長さ191.7cm・幅81.2cm・最大厚さ30.0cm。 周辺には、 御願塚古墳(伊丹市)・御園古墳・大塚山古墳・南清水古墳・池田山古墳(消滅)があり、 猪名野古墳群を形成している。 この石棺は、消滅した猪名野古墳群の一つから出土したものと考えられている。 (説明板ほか) |
岡院の石棺 阪急神戸線の線路そばの 駐車場の一角に保存されている。 そばに 「三平井組」という顕彰碑もある。 |
朝、阪急神戸線に乗っていた時、この場所が見えた!
御園古墳 石棺は尼崎市指定文化財 猪名野古墳群 |
尼崎市塚口本町 |
岡院石棺の西300mにある。
墳丘は墓地となっており、現在、工場の敷地に取り囲まれて残る。
ヤフーの航空写真では、前方後円墳の形に見える。東側が丸い。
御園古墳は 東西に主軸をおく全長60mの前方後円墳 西側が前方部 5世紀の築造と推定されている。 現在は三菱電機伊丹製作所の敷地にとり囲まれていて、墳丘が御園地区の墓地になっている。 昭和初期の墓地整理の時に、 前方部から6世紀中ごろに追葬されたとみられる箱式石棺が発見され、 その際多数の追葬時の遺物が出土したと伝えられているが、 わずかに環頭太刀(鉄製)と須恵器数点が残るだけである。 この石棺は、厚さ20cmほどの切石を組み合わせたもので、長さ215cm・幅120cm・高さ110cm。 4枚の切石をつないだ底石と4枚の側石、2枚の蓋石をかぶせた長持形。 蓋石は両辺に縄掛け突起がある。 石材は、神戸層群中の白色系の泥質堆積岩で、小さな黒粒を含んだ細粒の砂岩質のもの。 発見後位置を移し、長期間露天にさらされていて、損壊が著しくなったため、 昭和56年に樹脂加工による保存処理を施し、出土した位置に近いところに戻した。 (説明板・尼崎市HPなどから) |
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後円部から前方部を見る (東から西を見る) といっても墓地です 中央左の小屋に石棺が保存されている。 |
前方部から後円部を見る (西から東を見る) といっても墓地です |
保存された石棺 (窓からのぞくだけ) |
石棺の蓋の半分はお供えの台になっているのか? まさか! |
南から車が入れるようにはなっているが、Uターンができないので、バックで戻る事になってしまった。
駐車するには、他に方法がないが・・・・。
御園古墳のある「塚口」という地名は、周囲に古墳が多数存在することに由来すると考えられている。
北東には池田山古墳(消滅)・大塚山古墳(消滅、後述)・南清水古墳、東に御園古墳、南に伊居太古墳、
西に柏木古墳、北西に御願塚古墳などがあり、猪名野古墳群といわれている。
大塚山古墳 猪名野古墳群 |
尼崎市南清水 |
山陽新幹線とJR福知山線の交差するあたりから東に約200mの大塚山公園に、
2分の1のサイズで復原されている。ぼけて読みにくくなった説明板がある。
15時35分 着。
中ノ田遺跡分布図 (説明板から) 弥生時代後期から奈良時代後半まで続く集落跡。 主な遺跡としては、弥生時代の溝、井戸 大塚山古墳 奈良時代の掘立柱式建物群 などがある。 大塚山古墳実測図 (兵庫県史跡名勝調査報告1941から) 大塚山古墳は 全長42〜45mの前方後円墳 後円部径24m 前方部幅20m 南北方向に主軸をおく。 周壕は後円部から前方部の東西にかけて幅10m 前方部北側では、3〜6mでやや変形している。 昭和初期の土取りで、墳丘の大半がなくなり、その時の緊急調査で、 主体部は、木棺(高野槇)を粘土で固めた粘土槨と木炭層をもった竪穴式土壙で、 五鈴鏡、鉄刀、鉄鏃、馬具、工具、玉類、土器なとが多量に出土した。 周濠から埴輪や須恵器が出土している。 6世紀前半の築造と推定されている。 昭和初期の大塚山古墳 (説明板から) 上の実測図とは向きが反対だ。 墳丘は全て盛土。 現在、墳丘が実物の1/2サイズで復元されている。 |
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南から見た墳丘 手前が後円部 |
東から見た墳丘 |
実物の1/2サイズで復原というのがどうなのか・・・・・??。
南清水古墳 猪名野古墳群 |
尼崎市南清水 |
大塚山古墳から南に約200mの須佐男神社は古墳だ。 16時 着。
鳥居の前の空間にギリギリ駐車して見学。 説明板がある。
南清水古墳模式図 (説明板から) 東西に主軸をおく全長40mの帆立貝形前方後円墳 後円部に須佐男(スサノオ)神社が祀られている。 周壕はほぼ旧状を保っている。 散布していた出土品から、中期古墳と推定されている。 |
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南から見た南清水古墳 後円部はかなり高くなっている |
後円部脇から前方部を見る |
南西側の周壕跡は、小道になっている。 ほかの周壕跡には、ぎっしり家が建つ。 |
御願塚古墳 県指定文化財 猪名野古墳群 |
伊丹市207稲野町 |
大塚山古墳から西に約900m、阪急伊丹線稲野駅のすぐ西にある。
周壕に水をたたえるきれいな前方後円墳。 16時15分 着。
あたりは公園になっているが、駐車場は全くない。
離れた所に路駐し、急いで見学。
御顔塚古墳実測図 (説明板から) 上が南となる。 後円部は東側にある 墳丘長52mの帆立貝式古墳 後円部径39m・高さ7m 前方部長さ13m・幅19m・高さ2m 幅7〜11mの馬蹄形の濠がめぐる。 後円部2段築成 くびれ部北側にに造出がある 造出は幅5.8m・高さ1.4m・現状長さ5.2mで、円筒埴輪が2列に並べられていたほか、 多数の須恵器片が出土。 第1段テラスとくびれ部にも円筒埴輪を立てる 濠の外側に堤と外濠がある。 外濠は幅4〜5mで内濠と同じく馬蹄形で、埴輪片が出土 5世紀後半の築造と推定されている。 埋葬施設の構造は不明。 明治8年(1875年)に地元の人々により一部が発掘され、地中より石組が現れたが、 それ以上の発掘は許可されなかったそうである。 昔は周囲に、温塚(ヌクヅカ)・掛塚(カカリヅカ)・破塚(ヤブレヅカ)・満塚(ミチヅカ)とよばれる塚があり、 、「五ヶ塚」と呼ばれていた。 「五ヶ塚」が変化して「御願塚」になったという説もある。 |
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前方部側(西)から墳丘を見る 右手前前方部前端 |
後円部脇から前方部を見る |
後円部の丸み |
後円部上がり口 |
後円部頂にある南神社 |
後円部から前方部を見る |
街の中に、きれいな前方後円墳があるとは思わなかった。
御願塚古墳の南760mに、柏木古墳がある。現在径38m・高さ6mの円墳状で墓地となっている。
機会があったら見に行きたい。
中山荘園古墳 国史跡 |
宝塚市中山荘園12-298ほか |
御願塚古墳から、車で約30分、夕方の渋滞に巻き込まれながらも、宝塚市の中山荘園へ。
17時ちょうどに 着。 日暮れとなってしまって、薄暗い中見学。
駐車場があるという情報があったが、実際はなし。隣りのマンションのロータリーに路駐し、急いで見学。
大型マンションの西隣りに整備保存されている。立派な説明板がある。
中山荘園古墳実測図 (古墳辞典から) 古墳時代終末期の八角形墳 径13m・高さ2.6mの円墳状 周囲の外護列石が八角墳を意図した多角形。 列石は北から南へ傾斜し、 墳丘裾に6面に巡っており、 一部で2〜4列、基本的には2列。 南面する前庭部には テラス状の張り出し部(幅8m・長さ4m)があり その裾部にも葺石状に こぶし大の石を張り付けている。 主体部は南に開口する横穴式石室で、極めて特異な形をした羨道部を作っている。 玄室部はやや持ち送りになっていて幅1.3m・奥行き3.4m・高さ1.3m。 石室内の床には全面に板石が敷かれ、この中央部にベンガラによる赤色顔料が見られ、 この場所に木棺があったと考えられている。 羨道部は幅0.7m・長さ1.2mで、玄室部に挿入されたような形で構築されている。 この幅では羨道の本来持つ機能は果たさいない。 終末期の古墳を考えるうえで、貴重な例。 石室内からは備前焼のすり鉢片が1点出土しただけで、はやくから盗掘されたようである。 墳丘北面で1片、前庭部で2片の須恵器の坪と杯蓋が採取されている。 7世紀中ごろの築造と推定されている。 昭和57(1982)年に発見され、翌年、集合住宅の建設に先立ち発掘調査を実施。 長尾山丘陵の西部に位置し、南に伸びた尾根の突端部に位置。 中山寺白鳥塚古墳(兵庫県指定史跡)の西約400m、標高75m。 |
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墳丘は、階段の上 |
墳丘 |
石室 |
石室内部 |
石室内部から外を見る |
墳丘は斜面の景色がいい所につくられている。 |
午後5時10分、完全に日が暮れてしまった。
今晩は、長男一家と、イオン伊丹店で食事。しゃぶしゃぶ食べ放題をごちそうになった。
大阪市内の古墳につづく