北村さんちの遺跡めぐり
更新日2012/12/19

近畿のお散歩シリーズ・その3
五色塚古墳
2012/10/26

時間がなかなか取れないので、少しずつ、ページを作っていこうと思います。

大阪に住む長男の家から、孫と五色塚古墳までドライブ。
1時間半ほどかかってしまった。
五色塚古墳には駐車場がある。

五色塚古墳周辺の地図g

史跡 五色塚古墳 小壺古墳
国史跡

兵庫県垂水区五色山
 (撮影日2012/10/26)

教科書にも登場するくらい有名な古墳だ。


五色塚古墳 パノラマ



五色塚古墳(別名・千壺古墳は)兵庫県で一番大きな古墳。(全国では40番目)
 全長194mの前方後円墳
  後円部の直径125.5m・高さ18.8m 前方部の幅82.4m・高さ13m
 周囲を深い濠と浅い溝で二重に囲んでいる。濠は空濠だったと考えられている。
 3段築成で、下段は地山を前方後円形に掘り残し、中段及び上段は盛土
  下段の葺石は付近のものだが、
  中段及び上段の葺石は分析の結果、日本書紀の記述通り淡路島の東側の海岸から運ばれたものと考えられている。
 墳頂と2段のテラスには、・朝顔形埴輪などを巡らす。その総数は、2,200本と推定されている。
 埴輪のほとんどは鰭付円筒埴輪で、4〜6本に一本の割合で鰭付朝顔形埴輪が立てられおり、
  ほかに蓋形埴輪や盾形埴輪が少数出土している。
 濠の中に前方部と後円部が接するあたりの東側に1辺20m・高さ5m方形の島状土壇が造られている。
 後円部の東側にも高さ1.5mのマウンドがある。当時は石が葺かれていた。祭祀を行った場所であると考えられている。
 ほかに円筒棺を埋めたマウンドもある。
 埋葬施設は未調査
 4世紀後半の築造と推定されている。

五色塚に関する最初の記事は、日本書紀で、「仲哀天皇の偽の墓で、葺石は淡路島から船で運んできた」と書かれている。
江戸時代にはさまざまな人が訪れ、記録を残す。
明治・大正時代は、人類学者や考古学者が調査をし記録を残す。
ほとんどの学者は、埴輪に興味を示し、配列状態を記録に残している。
第二次世界大戦中は、古墳に生えている松を切り船材としたり、戦後は畑として開墾されたりした。
昭和30年代後半になって、五色塚古墳を守ろうと、文化財保護委員会が計画を立てて、
神戸市が、国の史跡整備の第1号として補助金を得て、昭和40年から10年の歳月をかけて整備した。


五色塚古墳 前方部斜面中程から後円部を見る

五色塚古墳 前方部から後円部を見る

五色塚古墳 前方部から中段テラスを見る

五色塚古墳 広い後円部で遊ぶ

 五色塚古墳 後円部から前方部を見る

五色塚古墳
後円部から、くびれ部東側の方形壇を見る

くびれ部西側にもあるはずだが、残っていない?

五色塚古墳の後円部東側の方形壇を見る
壇の横にも積み石がある。埴輪棺が発見された。

五色塚古墳 
後円部西側の3段築成と周濠の様子


五色塚古墳と小壺古墳のCG復元図
 (パンフから)

右下は瀬戸内海



五色塚古墳の西側には小壺古墳がある。
小壺古墳は、径70m・高さ8.5mの円墳
古墳の裾は、現在の道路の部分までひろがっている。
2段築成 
墳頂部と中段の平坦部には、五色塚古墳と同形の鰭付円筒埴輪がめぐっていた。
家形埴輪も数個分発見されている。
葺石はない
4世紀後半ごろの築造と推定されている。


五色塚後円部から小壺古墳を見る
かなり大きな円墳だが、小さく見えてしまう。

小壺古墳 東から見る
裾は道路となっている。



管理事務所に展示されている五色塚古墳の埴輪









五色塚古墳から見た明石大橋と淡路島

霞んでいる・・・・・




このページの内容は現地で頂いたパンフレットを、大いに参考にさせていただきました。

近畿のお散歩シリーズ・その3   終わり

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