北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2016/1/15
大阪府南部から和歌山県へ
その1 大阪府岬町2015/12/3~12/6
12月になってしまったので、暖かい所へと、選んだのが和歌山県。大阪南部の古墳も探索。
夜中の3時50分 自宅発 徳光スマートICから北陸自動車道へ
神田PA
第二京阪道路ー京田辺本線料金所(ETC 4810)ー門真本線料金所(ETC 970)
東大阪PA
松原JKTから阪和自動車道ー岸和田料金所(ETC 510)
岸和田SA
泉南IC・出口 (ETC 750)
8時45分 淡輪ニサンザイ古墳 着
雨がようやく止んできたかなぁ・・・・
岬町見学にあたり、HP邪馬台国大研究「岬町・淡輪散策」を大いに参考にさせていただいた。
ありがとうございました!
淡輪ニサンザイ古墳 (宇度墓古墳) |
泉南群岬町淡輪 |
駐車場がない・・・・
前方部南側角の道が少し広いので、路駐しながら、陪塚も見学。
明治14年に、宮内庁により「宇度墓(ウドノハカ)」として第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命の墓に治定されている。
宮内庁管理なので、立ち入りはできない。
淡輪ニサンザイ古墳は 推定全長200mの前方後円墳。(後世に削られ、現存長170m) 後円部径110m 幅120m 前方部を西南西方に向ける。 墳丘南側のくびれ部には方形の造出(約30m×約20m)がある。 現存はしないが、北側くびれ部にも造出があった。 墳丘周囲には幅約35mの周濠が巡り、 そのさらに外側には兆域を区画した浅い溝(外周溝)があった。 3段築成 葺石がある 須恵質の円筒埴輪列、家・盾・キヌガサ・鳥などの埴輪がある。 内部施設(埋葬施設)は明らかでない。 5世紀中頃から後半の築造と推定されている。 宇度墓古墳とその陪塚 (宮内庁83年度調査位置図) 周濠付近の後円部外周部分には 陪塚7基が分布し、 うち6基が現存、 宮内庁が管理している。 岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られるが、 この技法は和歌山平野の木ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも見られることから、 古墳群は紀伊勢力(紀氏)との強い関わりの中で成立したと考えられている。 |
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南から見た淡輪ニサンザイ古墳 中央から左・前方部前面 右奥が後円部 |
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前方部前面にある御拝所 |
北東側から見た淡輪ニサンザイ古墳後円部 |
1号陪塚 線路の向こうにある。 右端手前は2号陪塚 |
2号陪塚 左奥は、1号陪塚 |
3号墳は、民家と銀行に囲まれていて、 どういうわけか、近づけない・・・・ |
4号陪塚 |
5号陪塚 |
6号陪塚 墳丘は削られている。 |
天気が良くないので、写真が暗い・・・・
セブンイレブン岬町淡輪中店にて、トイレ休憩
鴻ノ巣山(コウノスヤマ)1号墳(移築) 府指定史跡 鴻ノ巣山古墳群 |
泉南群岬町366淡輪 撮影日2015/12/3 |
個人所有ということなので、隣接したお宅に挨拶をして見学。
少し手前に案内板がある。
説明板は、かつてはあったようだが、見当たらない。
1号墳は、石室が復元されて、1976年に大阪府指定の史跡になっている。
鴻ノ巣山古墳群は 番川の右岸、淡輪遺跡の背後、鴻ノ巣山丘陵尾根筋にある。 2つの尾根筋の北側の尾根に4基、南側尾根に5基の計9基、経8m~10mの円墳からなる。 1970年に4基の古墳が調査され、横穴式石室を持っていることが確認されている。 鴻ノ巣山1号憤の横穴式石室は、玄室長2.5m・玄室幅1.4~1.5m・玄門幅0.95m 羨道幅1.2m・羨道長1m。 玄門の石材を内側に突出される構造は、8号、9号憤にも見られ、 閾石(シキミイシ)の使用が9号憤に見られ、これらは紀ノ川流域の影響が窺える。 石室天井はアーチ型になっており、須恵器・土師器・金銅環・滑石製紡錘車などを出土した。 6世紀後葉に築造が始まり、7世紀前葉には使用されなくなったと考えられている。 |
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復元された石室 |
石室入口から内部を見る |
奥壁 |
石室内部から外を見る |
西小山古墳 | 泉南群岬町淡輪 撮影日2015/12/3 |
現状は、50cmほどもある深い草で、入り込むのが怖いくらいだ。
石柱があるということなので、必死に探す。
駐車場なし。
墳丘は削られていて、単なる草むらだが、淡輪古墳群の大型古墳3基というと、
淡輪ニサンザイ古墳・西陵古墳とこの西小山古墳を指すという。
西小山古墳は 尾根筋の先端部分を利用して築造された、径40~50m・高さ5mの円憤だった。 北西部に造りだしを持っていて、 周濠を持っていた可能性がある。 葺石がある 円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪とともに、 陶質土器と考えられる長頸壺、須恵器の器台、瓶の破片が出土。 石室は、和泉砂岩の扁平な割石で築かれた長さ3.3m・幅0.7m・高さ 0.76mの竪穴式石室。 側壁は上部へ行くに従い内側へ傾斜し、石室底面には河原石の厚いものを敷き、 天井には花崗岩の扁平な6枚の大石を乗せている。 金銅装堅矧細板鋲留眉庇付冑1、三角板鋲留短甲1、三角板横矧板併用鋲留短甲1、 頸甲・肩甲1組、桂甲小札800余、篠籠手小札、鉄刀33以上、鉄鉾2、鉄鏃107、絞具1、 異形鉄製品・不明鉄製品、滑石製勾玉16個が出土している。 副葬品の大半が武器・武具類で占められ、古鏡が全く見られず、玉類が少ないことが特徴。 5世紀中葉から後葉の築造と推定されている。 1930年に発掘調査、1980年に憤丘調査。 |
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墳丘っぽく見えるが、背の高い草むらだ。 |
叢をかきわけやっと見つけた標柱 |
やっと見つけた石柱は、なんと書いてあるのかわからなかったが、
「西小山陵之跡」となっているらしいので、跡だけが残されているということかな。
西陵(サイリョウ)古墳 国史跡 |
泉南群岬町366淡輪 撮影日2015/12/3 |
大きな前方後円墳で、墳丘に入れるのはあまりない。ぜひ見学してください。
ただ、駐車スペースがないのが、つらい。
前方部の東角から、墳丘へ続く道がある。
西陵古墳は 全長210mの前方後円墳 前方部幅100m・後円部経115m 淡輪平野に突出した尾根を利用して築造されていて、泉南部で最大の規模をもつ。 西側くびれ部に方形造りだしがある。 周囲には盾形の周濠があるが、溜池に利用されてきたため現在では変形してしまっている。 3段築成 葺石あり 円筒埴輪列あり 1921年に、後円部墳頂から凝灰岩製長持ち形石棺の蓋石(長さ約2.35m)が出土し、 周囲に板石がみられることから、 竪穴式石室に長持形石棺が安置されていたと考えられている。 この石棺の位置は後円部墳頂西側に偏ったところに主軸を南北方向に置いていて、 墳丘主軸と少し異なっている。 円筒・鰭付円筒埴輪、形象埴輪では蓋形、盾形が多数採取されている。 5世紀前葉~中葉の築造と推定されている。 |
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東から見た西陵古墳 左・後円部 右・前方部前面 真ん中付近に白く見えるのが 説明板 説明板には「この古墳は西二山在(ニシニサンザイ)と称し、 紀小弓宿禰(キノヲユミノスクネ)の墓であろうかと言われている。」と書かれている。 |
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前方部東角の墳丘入口 周濠には、水がある。 |
前方部裾を南に進む・・・。 左は周濠 |
墳丘頂部に上がる小道 |
前方部から後円部を見る |
くびれ部から後円部を見る |
後円部頂 |
後円部から前方部を見る |
くびれ部から前方部を見る |
真鍋山(マナベヤマ)古墳 | 泉南群岬町淡輪 撮影日2015/12/3 |
西陵古墳の南にある。
円墳だそうだが、工事現場の向こうにあり、近づくこともできない。
西陵古墳の南にある。
円墳だそうだが、工事現場の向こうにあり、近づくこともできない。
真鍋山古墳は、直径40mの円墳で、周濠を持つ。 1971年の調査で、憤丘直下に横穴式石室があることが判明している。 古墳時代後期の築造と推定されている。 |
中央あたりが、真鍋山古墳か。 北側に池があるが、 周濠のなごりなのかもしれない。 |
遠くから眺めるだけ・・・・
白峠山(シラトヤマ)古墳 大阪府指定史跡 |
泉南群岬町淡輪 撮影日2015/12/3 |
白峠山(しらとやま)古墳は真鍋山古墳の東にあるが、どうしても近づけない。
立ち入り禁止の石段を上がれば、あるのかな・・・。
石室が残っているというが・・・・。
白峠山古墳の石室は、 和泉砂岩の割石を用いた横穴式石室で、 全長6m、玄室長2.72m・玄室幅2.07m 羨道長3.3m・羨道幅0.9~0.95m。 羨道の前には地山を利用した長さ5.2mの墓道がある。 1967年の調査で、 須恵器、耳環、瑪瑙(めのう)製勾玉、緑泥岩製勾玉、 琥珀製とう玉、ガラス製小玉、水晶製切り子玉、金銅環、 杯に流し込んで作った鉄塊が出土している。 6世紀中葉~7世紀前葉の築造と推定されている。 1972年に大阪府指定史跡になった。 |
これが、大阪府指定史跡か・・・・・
午前10時30分、岬町の見学を終え、和歌山県へ向かう。
和歌山市・木ノ本古墳群につづく