北村さんちの遺跡めぐり
更新日2013/7/14
河内の古墳探索・その17
二子塚古墳から2013/4/23
太子町へ。太子町には磯長谷(シナガダニ)古墳群がある。
梅鉢御陵とよばれる用明天皇陵・孝徳陵古墳・推古陵古墳・敏達陵古墳・聖徳太子墓の5基のほか、
小野妹子墓、九流谷古墳、葉室石塚古墳、松井塚古墳、仏陀寺古墳、二子塚古墳などがある。
二子塚古墳 国史跡 |
南河内郡太子町山田 |
推古天皇陵を横目にさらに南へ・・・・。
南から見た二子塚古墳 左が西丘 草むらのあたりに 西丘の石室が埋もれているのか・・・? 墳丘は土取りのため かなり崩れている。 |
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内部に刳抜式の石棺がそれぞれ1基ずつ収められている。 石棺は凝灰岩をくりぬいた家形石棺で、蓋はカマボコ形をしていて、縄掛け突起はないと考えられている。 石室は側壁のすき間に小さい自然石を詰め込み、表面をなだらかにするために、 側壁に漆喰を塗っていたといわれていて、漆喰の痕跡が残っている。
東丘の石室は露出している。 1915年(大正4)、両墳丘からほぼ同形同大の石室と石棺が発見された。 当時の調査では、竪穴式石室をもった前方後円墳とされたが、 1956年(昭和31)の調査で、短い羨道のある横穴式石室の双方墳と判明した。 |
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二子塚古墳 北東の進入口から見る 東丘が見えている。 ⇒ |
二子塚古墳 東丘の横に石碑がある。 石碑の向こうは西丘 |
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二子塚古墳 北西脇から見た東丘 |
二子塚古墳 北西脇から見た西丘 |
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二子塚古墳東丘 東西墳丘の間から見る 石室の天井石が見えている。石が落ちている。 石室入口は、右側の木の後ろの暗い所 |
二子塚古墳西丘 東西墳丘の間から見る |
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東丘の石室 左が奥壁側 右の暗い所が石室入口 どちらも開口している。 天井石も露出している。 |
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二子塚古墳東丘の石室 奥壁側から石室内部を見る。 |
二子塚古墳東丘の石室入口 かなり埋まっている。 |
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二子塚古墳東丘の石室内部 かまぼこ形の石棺が埋もれている。 白く見えるところは、漆喰の痕跡か? |
二子塚を推古天皇と竹田皇子の合葬墓とする言い伝えがあるそうだ。
1956年、所有者が、個人では古墳の保存には限界があると、「古墳ゆずります」という新聞広告をだし、一躍有名になった。
現在は太子町が所有・管理している。
二つの墳丘を「東丘」・「西丘」と記したが、古墳辞典では「北墳」・「南墳」と記されている・・・・・。
山田高塚古墳 (推古天皇陵) |
南河内郡太子町山田 |
「磯長山田陵」として、宮内庁が管理している。
二子塚古墳から北西200m、二子塚古墳から推古天皇陵全体が見える。
推古天皇は、当初竹田皇子墓とともに葬られた大和の植山古墳から、改葬してこの地に葬られたと考えられている。
山田高塚古墳の図 (古墳辞典から) 磯長谷古墳群中の1基 東西59m・南北55m・高さ11mの方墳 3段築成 最上段は東西34m・南北25mの長方形 江戸時代の文書によると、 羨道の前面が崩落して横穴式石室が露出し、 石室内は右に推古天皇、左に竹田皇子の 石棺がおかれていたとある。 また、墳墓は江戸時代以降の改修で、 原形とは異なる修築がおこなわれたともいわれている。 7世紀代の築造と推定されている。 |
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西から見た山田高塚古墳 よく見ると墳丘がすけて見える。 |
山田高塚古墳 御拝所 二子塚古墳から望遠で。 |
春日向山古墳 (用命天皇陵) |
南河内郡太子町磯長 |
「河内磯長原陵」として、宮内庁が管理している。
用命天皇は、欽明天皇の第4皇子で、聖徳太子の父、
当初は大和に葬られ、蘇我馬子の時代に河内磯長の地に改葬されたという。
春日向山古墳の図 磯長谷古墳群中の1基 東西65m・南北55m・高さ10mの方墳 一辺が正しく南北に沿って整備されている。 2段築成 周囲に6mの空堀と土塁がめぐっている。 土塁を含むと、東西100m・南北90mとなる。 空堀・土塁は幕末に修復が行われたといわれている。 江戸時代の廟陵記には、墳丘中央に巨石が露出していたと記されているので、 横穴式石室があると推定されている。 7世紀前半の築造と推定されている。 |
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春日向山古墳 左奥に御拝所がある。 |
春日向山古墳 御拝所 |
(廟陵記とは、歴代天皇の陵墓の研究書。二巻。松下見林著。1696年成立,1778年刊。)
叡福寺北古墳(聖徳太子廟) と 叡福寺 |
南河内郡太子町太子 |
叡福寺に隣接したなごみの広場に駐車。
叡福寺は、太子墓を守るために創建されたと伝えられている。
叡福寺北古墳は、「聖徳太子磯長墓」といわれている。 径55m・高さ10mの円墳とされてきたが、 2002年の宮内庁書陵部の調査で、 これまで内側の結界石間際まであると思われていた墳丘の裾は確認されず、 径55mよりもひとまわり小さいと判明。 2段築成とされていた上段部分が本来の墳丘であり、直径35mの円墳となる。 花崗岩の切石で築かれた岩屋式の両袖式横穴式石室は、 全長12.6m 玄室長5.4m・幅3m・高さ3m 羨道長7.2m・幅1.8m・高2m、 玄室の奥には刳抜式石棺が1基、石棺の正面には切石造りの棺台が2基安置されている。 明治時代に、石室内部に入り、調査した際の詳細な記録が残されている。 叡福寺は、 寺伝によれば、 620年、聖徳太子がみずから人夫を督励して、横穴式墓所を造営したが、 621年生母の間人(ハシヒト)皇后が死去したので、まず墓の奥に石棺で葬り、 622年2月、太子と膳姫(カシワデヒメ)が同時に死去したとき、母の石棺の手前に乾漆棺で横に並べて葬り、 「三骨一廟」の陵墓「聖徳太子磯長墓」となった。 聖徳太子の死後、推古天皇の命によって創建されたと伝えられている。 |
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叡福寺 二天門 |
叡福寺 多宝塔と本堂 |
聖徳太子御廟 (叡福寺北古墳) |
脇から見た叡福寺北古墳 墳丘が見える! 裾には結界石が二重にめぐっている。 |
叡福寺に隣接した「和みの広場」の片隅には、 聖徳太子墓の石室模型がある。 石棺には聖徳太子の母である穴穂部間人皇后、 手前の二つの棺台には聖徳太子と妃の膳臣娘を それぞれ納めた夾紵棺が安置されていたと考えられている。 |
「和みの広場」には、尼ヶ谷古墳石室移築・松井塚古墳石棺も展示されている。
尼ヶ谷古墳石室 (移築復原) |
南河内郡太子町太子 |
尼ヶ谷古墳は、 墳丘上部が、古くに削り取られているので、正確な大きさや形は分からないが、 径20mほどの円墳か方墳と考えられている。 横穴式石室は、 玄室の左側壁と羨道部の1から2段目が残されているだけだが、 石室全長約10m、玄室は長さ5m・幅1.2mの規模を持つことがわかった。 石室内から、粉々にされた凝灰岩製の組合式家形石棺の破片が多量に出土、 木棺に伴う鉄釘や棺床があったことから2体の埋葬があったと考えられている。 副葬品の大半は失われていたが、 多くの須恵器や土師器とともに、 装身具の玉類や金銅製の耳環、垂飾付耳飾の一部と考えられる金製のリング2点が出土。 6世紀後半頃の築造と推定されている。 |
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尼ヶ谷古墳石室 入口から玄室を見る |
尼ヶ谷古墳石室 奥壁側から入口を見る |
松井塚古墳石棺 |
南河内郡太子町太子 |
「和みの広場」に保存されている。
松井塚古墳石棺は、 |
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松井塚古墳石棺の展示 |
松井塚古墳石棺の横口 |
松井塚古墳石棺 横から見る |
松井塚古墳石棺内部 |
太子西山古墳 (敏達天皇陵) |
南河内郡太子町山田 |
「科長中尾山陵」として、宮内庁が管理している。
敏達天皇の妃が推古天皇である。
太子西山古墳は、墳丘長113mの前方後円墳 後円部径58m・前方部幅67m 磯長地区で唯一の前方後円墳 2段築成 北西に前方部がある。 「日本書紀」では「崇峻4年(590)に生母石姫(欽明皇后)の陵に、敏達天皇を追葬した」との記録がある。 |
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太子西山古墳への参道 左手前は駐車場 |
太子西山古墳 御拝所 |
近くで女性に道を尋ねた時に、「びだつさんですか?」と親しみを込めた言い方をされているのに、心が和んだ。
敏達天皇陵と聖徳太子御廟の中間あたりに、葉室塚古墳という大きな方墳があったが、見てこなかった、残念!
一須賀古墳群につづく・・・・。