北村さんちの遺跡めぐり
更新日2013/7/5

河内の古墳探索・その15
百舌鳥古墳群追加
2013/4/23

三日目、朝7時25分にホテル出発。 まず 百舌鳥古墳群・乳岡古墳へ。

空き地に駐車、徒歩で乳岡古墳の裾を一周する。道が狭い。
古墳のそば(上)まで家が建つ。

百舌鳥古墳群の地図g

乳岡古墳
チノオカコフン
国史跡

堺市堺区石津町2丁
 (撮影日2013/4/23)

百舌鳥古墳群の最も南西部、石津町にある。

 乳岡古墳は 前方部を南に向ける
 墳丘長155mの前方後円墳  径94m・高さ14m
 百舌鳥古墳群では6番目の大きさ。
 後円部は3段築成
 昭和47年(1972年)の墳頂部の発掘調査で、
  後円部中央から、粘土で覆われた長持形石棺が検出され、
   その被覆粘土の南に接した所から
       碧玉製腕輪形石製品(車輪石)・鍬形石等の破片と石棺材片が散乱して発見された。
 長持形石棺は、蓋石・底石・4辺の側石の6枚の部材で構成され、蓋石がカマボコ状にふくらむもの。
 石棺は埋め戻されている。

 古墳群で最も古い古墳であることが判明した。
 葺石あり 埴輪あり 濠がめぐっていた。

 昭和60年(1985)の調査で、後円部西側では幅約3mの濠があったことが確認されている。
 4世紀末頃の築造と推定されている。
 濠は埋められて、前方部の大半が削られている。

乳岡古墳 
細長く残った前方部幅2mくらいしかない。

乳岡古墳 
前方部の向こうにほぼ完存の後円部が見える

乳岡古墳 
住宅の間から垣間見る後円部その1

乳岡古墳 
住宅の間から垣間見る後円部その2

以前は乳岡山 摂取院念佛寺という寺が墳丘上にあった。地元の人から「お山の寺」と呼ばれたという。
昭和55年に、現在の堺区浜寺石津町東三丁十一番五号に移転した。

乳岡山 摂取院念佛寺のHPには、古墳の上に寺があったころの写真が載せられている。

大仙公園の南西側にあるみどりの駐車場に駐車。午前8時10分。
昨秋見学しなかった古墳の見学。

旗塚古墳

堺市堺区百舌鳥夕雲町3丁
 (撮影日2013/4/23)

大仙公園内にある。周りを含めきれいに整備・保存されている。
すぐ横には、グワショウ坊古墳がある。


旗塚古墳の図
 (HP世界遺産暫定一覧表より)
旗塚古墳は 前方部を西に向ける
全長53.8mの帆立貝形古墳
 後円部径41m・高さ3.8m 前方部幅21m・前方部高1.3m
2段築成で、、盾形の濠がめぐる。
本格的な調査は行われていない。
主体部の構造や副葬品は不明。
葺石あり 埴輪あり
埴輪は、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、盾・蓋などの形象埴輪も出土している。
5世紀中頃〜後半の築造と推定されている。


旗塚古墳の前方部周壕は水がなくて、
         歩けるように整備されている。

 左手前前方部 右奥後円部

旗塚古墳 左前方部 右後円部

旗塚古墳 前方部側

旗塚古墳  後円部の丸み


グワショウ坊古墳

堺市堺区百舌鳥夕雲町3丁
 (撮影日2013/4/23)

旗塚古墳のすぐ西側にある。前回も見学した。

 グワショウ坊古墳は 直径61mの大形の円墳
 2段築成。
 周囲には濠がめぐる 葺石あり 埴輪あり。
 主体部の構造や副葬品は不明
 大仙古墳の陪塚とされている径62mの大安寺山古墳に次ぐ大きさ。
 大仙古墳や百舌鳥ミサンザイ古墳の陪塚ではないようだ。


グワショウ坊古墳

公園内に整備保存されている。


銭塚古墳

堺市北区東上野芝町1丁
 (撮影日2013/4/23)

グワショウ坊古墳の南約100m、大阪府立堺養護学校の敷地内にある。

 銭塚古墳は、前方部を西に向けた帆立貝形前方後円墳だが、
  前方部が削られているために、現状では円墳のような形になっている。
  昭和56・57年(1981・82年)の調査で、
   墳丘長72.5m 後円部径54m 前方部幅44mで、周濠があったと確認された。
  濠の中からは円筒埴輪などが出土している。

銭塚古墳

北側の「花と緑の交流館」付近からみる。
古墳の向こう側の建物は、堺支援学校。

柵があって近付けない。

長塚古墳
国史跡

堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁
 (撮影日2013/4/23)

JR阪和線百舌鳥駅のすぐ南西にある。柵があって中には入れない。東側の道路から後円部をのぞき見る。

 長塚古墳は、前方部が西を向く
  墳丘長102mの前方後円墳 後円部径57m・高さ8.2m 前方部幅67m・高さ8.3m
  百舌鳥古墳群では11番目の大きさ
  2段築成  葺石あり
  南側のくびれ部には造出しがある。
  周濠もあるが、すでに埋没していて家が建っている。
  近年の小規模な調査で、前方部の西側では幅14mの濠があったと判明した。
  円筒埴輪が採集されている。
  主体部の構造や副葬品は不明
 埴輪の形状・前方部の高さや幅が発達していることなどから、5世紀中頃〜後半の築造と推定されている。

長塚古墳全景 南から 左(西)前方部

長塚古墳 後円部

長塚古墳後円部側の柵の中にある二つの石碑


「史蹟長山古墳」と「仁徳天皇御陵」


「仁徳天皇御陵」は、昭和6年に現在のJR百舌鳥駅付近に建てられたものが移設されたもの。
「長山古墳」は、大正9年、史蹟名勝天然記念物保存法で史蹟に仮指定された際に使用されたもの。
  昭和33年、文化財保護法により「長塚古墳」の名称で史蹟指定された。
                            (説明板から)

百舌鳥ミサンザイ古墳
履中天皇陵

堺市西区石津ヶ丘
 (撮影日2013/4/23)

現在は百舌鳥耳原三陵の南陵・履中天皇陵として宮内庁が管理している。
石津ヶ岡古墳・百舌鳥陵山古墳ともよばれている。

 百舌鳥ミサンザイ古墳墳長365mの前方後円墳
 後円部径205m・高さ27.6m 前方部幅235m・高さ25.3m (日本で3番目の大きさ)
 西側くびれ部に造出がある。
 3段築成
 主体部の構造や副葬品などは不明
 葺石あり 埴輪あり、
 一重の盾形周濠と堤がめぐっているが、
 平成6年(1944年)に、外側に幅10m程の2重目の周濠が見つかっている。
 江戸時代の記録には、後円部中央に大きなくぼみがあったと記されている。
 5世紀前半の築造と推定されている。
 陪塚は、10基以上あった。
 陪塚の七観山古墳の出土資料などから、
  大仙古墳(仁徳天皇陵)よりも古くに造られたと考えられている。


百舌鳥ミサンザイ古墳

北東から見る


南側に御拝所があるのだろうが、先を急ぐので、北側から眺めただけであきらめる。
 
七観音古墳

堺市堺区旭ヶ丘中町4丁
 (撮影日2013/4/23)

大仙公園内に整備保存されている。本来の墳丘を保護するために、盛り土をして保存したそうだ。
発掘調査をしたら、すごいものが出土するかも・・・・・。


七観音古墳の図  (HP世界遺産暫定一覧表より)

七観音古墳径25m・高さ3.5mの円墳
葺き石がある。埴輪が立てられていた。
履中天皇陵の陪冢と考えられている。 
  
       (説明板から)


七観音古墳全景

本当は、この西側にあった七観山古墳の方が有名らしいが・・・・
よく似た名称でまぎらわしい。

七観山古墳

堺市堺区旭ヶ丘中町4丁
 (撮影日2013/4/23)

七観音古墳の西側、履中陵古墳(百舌鳥ミサンザイ古墳)の後円部北側にあった円墳で、
履中陵古墳の陪塚と考えられている。

破壊されて、現在展望台となって古墳もどきの姿を見せている。

 七観山古墳径56m・高さ8mの円墳
 二段築成 周濠あり 葺石あり 埴輪あり
 墳頂部には鰭付円筒埴輪をならべた埴輪列がめぐっていた。
 家・短甲・蓋(きぬがさ)・靱などの形象埴輪も出土している。
 鉄製甲冑・鉄製素環頭太刀・鉄刀・蛇行状鉄剣・鉄剣・鉄鉾
      ・鉄鏃・鉄斧・手斧・やりがんな・金銅製帯金具・馬具などが出土
 ほかに、滑石製勾玉や剣形鉄製品が採集されている。
 中でも、衝角付冑7鉢、短甲6領以上、鉄刀130口前後、鉄鏃百数十本など
      多量の鉄製武器・武具類に特徴がある。
                    (HP堺市 古墳データベースから)
 5世紀前半の築造と推定されている。
 七観山古墳は 戦争中に防空壕が掘られ、昭和27年の土取り工事、病院建設で消滅。
 その時の調査で、
   墳丘上の埴輪列による方形区画と、その下の3基の副葬品埋納施設が確認され、
   その中に鉄製武器が大量に納められていた。
 第1槨には鉄鏃と馬具、 
  第2槨には5領以上の甲冑、第3槨には鉄刀剣類が納められていた。
 大型古墳に隣接して築かれた陪塚の特徴とみられている。
 現在病院移転後国有地化され、展望台として再現された。

展望台があるのは気が付いていたが・・・・・知らなくて、写真は撮らなかった・・・・・。残念

寺山南古墳

堺市西区上野芝町5丁
 (撮影日2013/4/23)

七観音古墳の南側にあったのに、勘違いして、大仙公園の築山ばかり写真を撮り・・・・・・。
大仙公園のすぐ外側にあり、現在雑木林となっている。
写真がない・・・・・。


寺山南山古墳の図
  (HP世界遺産暫定一覧表より)
寺山南山古墳は、
  履中天皇陵の後円部の北側にある
長辺が約41.5mの長方形の方墳
高さは、現状約3.4m(上部が削り取られている)
周壕があった
2段築成
 平成22年度の範囲確認調査で、墳丘テラスの埴輪列並びに上段斜面の葺石が検出され、
   正方形と考えられていた墳丘は、やや北東〜南西辺の長い長方形の方墳と判明した。
 また、履中天皇陵古墳の外周溝の痕跡も検出された。
 が、百舌鳥ミサンザイ古墳(履中天皇陵)との関係は明らかになってはいない。 

大仙公園みどりの駐車場に戻る。駐車料200円
堺市役所21階へ。  9時半ころ

堺市役所21階からの眺め

堺市堺区
 (撮影日2013/4/23)

堺市役所21階は、地上80mの市役所最上階で、360度の展望が楽しめる回廊式ロビー。
天気が良ければ、素晴らしいが、かなり曇っている・・・・・・。

 堺市役所21階から見た百舌鳥古墳群

大仙古墳

百舌鳥ミサンザイ古墳

手前は大仙古墳 奥は御廟山古墳

田出井山古墳

ちょうど30分で堺市役所を出る。
   
田出井山古墳
反正天皇陵

堺市堺区北三国ヶ丘町2丁
 (撮影日2013/4/23)

田出井山古墳の北にある方違神社の駐車場に駐車、神社と古墳の見学。
田出井山古墳は、百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として、宮内庁が管理している。


田出井山古墳の図  (古墳辞典から)
田出井山古墳は 前方部を南に向けた
墳長148mの前方後円墳
 後円部径76m・高さ14m 前方部幅110m・長さ84m・高さ15m
百舌鳥古墳群では7番目の大きさ
3段築成 西側くびれ部前方部寄りに造出がある。
盾形二重周濠
堤がある。円筒埴輪あり 葺石あり
内部は不明
5世紀後半の築造と推定されている。
1981年(昭和56)の前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。
田出井山古墳の東側に、鈴山古墳(1辺22mの方墳)と天王古墳(1辺11mの方墳)の陪塚がある。(見学していない)

方違神社から見た田出井山古墳
後円部側から前方部を見る  その1

方違神社から見た田出井山古墳
後円部側から前方部を見る  その2


方違神社 入口
河内、和泉、摂津の三国の境にあるので、三国丘と称されている。
三国の境にあるので、方角のない聖地と考えられて、
     昔から方災除けの神として知られている。
遠くへ旅する時や家を移る時などに
 この神社に参れば災難に会わないという言い伝えがあり、
 新築や転居等の際に厄除けのために各地からたくさんの人が参詣に訪れるという。
正式には「かたたがえ」というが、「ほうちがい」さんと呼ばれて親しまれている。

午前10時半になった。百舌鳥古墳群の見学はここまで。
玉手山古墳群へつづく・・・

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