北村さんちの遺跡めぐり
藤井寺市
古市古墳群は
大阪府の東南部、藤井寺市から羽曳野市にかけて東西4km、南北4kmの範囲に分布する。
4世紀後半、それまで大和で築造されていた大王墓は河内平野に造営されるようになる。
巨大な応神天皇陵古墳から、一辺10mにも満たない小型の方墳まで127基の古墳が6世紀中ごろまで連綿とつくられている。
古市古墳群配置図 (パンフレット)
河内 |
古市古墳群 津堂城山古墳 国史跡 藤井寺陵墓参考地 |
大阪府藤井寺市津堂 |
北東側の外濠跡のあたりに駐車。
陵墓参考地になっているのは、後円部の中心部分、
国史跡になっているのは、墳丘と内濠の部分なので、その外側は割と自由にみんなで利用しているようだ。
ガイダンス施設もある。
津堂城山古墳 墳丘
津堂城山古墳は、古市古墳群の中で最初に築造された、最も北側にある古墳と考えられている。
津堂城山古墳 復元図 (ガイダンス展示から)
墳丘長208mの前方後円墳
後円部径128m・高さ16.9m 前方部幅117m・高さ12.7m
くびれ部に造出
周囲には二重の濠と堤がある。全長は440mになる。
内濠の前方部側には、両側にの方形の島状施設があり、
北東側島状遺構は、一辺17m・高さ1.5m、
斜面に葺き石を施し、南斜面から3体の水鳥形埴輪が出土。
葺石あり 3段築成 内堤にも葺石がある。
後円部頂の竪穴式石室から巨大な長持ち型石棺と
銅鏡や巴形銅器、短甲や鉄鏃、石製腕飾類や模造品などが出土
4世紀後半の築造と推定されている。
室町時代中期以降に河内守護の畠山氏の執事、安見一族の小山城として、
天正年間(1573〜92)まで利用されていたため、墳丘の一部が大きく削られていて、
盛土で古墳時代の遺構が埋め立てられていることが確認されている。
発掘された石棺 (現地パンフレットから)
石棺は埋め戻されたという。
1912年、神社合祀で廃社となった津堂八幡神社の記念碑をつくろうと、
津堂城山の山頂部から石材を掘り出したところ、 その下から立派な石棺が現れた。
この石材は、竪穴式石槨の天井石だった。
それを機に調査され、竪穴式石槨から長持形石棺をはじめ、
鏡9面と硬玉製の勾玉と棗玉、碧玉製管玉、車輪石・剣形および刀子形の石製品、刀剣、
鉄鏃や大量の朱など、多くの副葬品が出土した。
(石材は予定通り、八幡神社の記念碑になった)
その後、後円部頂だけが、宮内庁によって陵墓参考地に治定された。
(石棺は埋め戻し、出土物は全て国が買い取った)
1980年の調査で、内堤と外濠を検出し、内堤にも葺石があるとわかった。衝立形埴輪が出土。
1983年の調査で、内濠、造出が確認され、円筒埴輪やキヌガサ形、盾形、衝立形、家形の埴輪が出土。
内濠の中に島状遺構などを確認し、衣蓋形、水鳥形などの多数の埴輪が出土
2009年の調査で、葺石の様子やテラスの様子が明らかになってきた。
津堂城山古墳 東側のふもとから見た後円部 |
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津堂城山古墳 西側から見た後円部 後円部西側にある八幡神社に続く道 |
津堂城山古墳 内濠の部分は、花園になっている。 左奥の平屋の建物が ガイダンス棟「まほらしろやま」 |
津堂城山古墳 くびれ部斜面から前方部を見る |
津堂城山古墳 前方部脇斜面から後円部を見る |
津堂城山古墳 後円部墳丘から前方部を見る |
津堂城山古墳 前方部から後円部を見る 柵の向こうが、陵墓参考地となる。 |
津堂城山古墳後円部の竪穴式石槨の天井石 (竜山石製) ガイダンス棟「まほらしろやま」の前に 展示されている。 八幡神社の記念碑の痛みがひどくなってきたので、保存処理をして、 石碑周辺にあった破片と、津堂地区の民家に保存されていた天井石などを 合わせて展示している。 天井石はほかに、葛井寺の忠魂碑、専念寺の庭石、善光寺の敷石などに転用されている。 八幡神社には別の新しい石碑が立てられている。 |
ガイダンス棟「まほらしろやま」では、
衝立形埴輪の展示やパネル展示で、津堂城山古墳ほか古市古墳群の説明がなされている。
アイセルシュラホール(生涯学習センター・藤井寺3丁目)の2階には、
「歴史展示ゾーン」があり、いろいろな遺跡の資料が展示されている。
津堂城山古墳から出土した埴輪
(アイセルシュラホール)
3体の水鳥形埴輪は、北東側島状遺構から出土し、
2006(平成18)年、重要文化財に指定された。
大きいものは高さ1m以上
モデルはコハクチョウと考えられている。
アイセルシュラホール外観
外観デザインは、舟形埴輪と修羅をモチーフに、
歴史を継承し未来へと出帆する船をイメージしているそうだ。
1978年三ツ塚古墳のそばで、大小二つの「修羅」が発見された。
この発見にちなんで名付けられたのが、このアイセルシュラホール!
河内 |
古市古墳群 岡ミサンザイ古墳 仲哀天皇陵 |
大阪府藤井寺市藤井寺4丁目 |
仲哀天皇陵「恵我長野西陵」として、宮内庁が管理している。
アイセルシュラホールの西側の墓地の向こうにある。墓地から塀越しに撮影。
岡ミサンザイ古墳 北東方向から見る
仲哀天皇陵として宮内庁が管理している。
仲哀天皇との年代とは一致しない。
岡ミサンザイ古墳周辺図
岡ミサンザイ古墳は 羽曳野丘陵の北東部外縁に築造された
墳丘長242mの前方後円墳
後円部径148m高さ19.5m 前方部幅182m・高さ16m
後円部の標高53.5m
古墳の大きさでは全国16位。
平成8年の宮内庁による発掘調査で、
墳丘は中世に城郭として利用され、大規模な改変を受けており、
古墳本来の姿を大きく失っていることが判明した。
前方部を南南西に向ける。三段築成
くびれ部東側のみに造出しがある。
幅広の濠と 堤を周囲にめぐらせている。
墳丘には明瞭な葺石を施していない。
内部施設や副葬品については不明。
外堤では円筒埴輪列が確認されている。
東側外堤上では、
濠の掘削に伴う湧水を段丘崖に排水するため開削されたと推定される大規模な溝が検出されている。
墳丘と外堤から、円筒埴輪のほか盾等の形象埴輪が出土して いる。
墳丘に明瞭な葺石がないことと、出土埴輪の特徴から、5世紀後葉〜末の築造と推定されている。
仲哀天皇は 第14代天皇 (先代は成務天皇 次代は応神天皇)
父親は日本武尊 母親は両道入姫命 皇后は神功皇后
子どもは 応神天皇・忍熊皇子・誉屋別皇子
長持山古墳の石棺 |
大阪府藤井寺市沢田3丁目 |
道明寺小学校の入口の覆い屋の下に保存されている。
長持山古墳は、現在の道明寺小学校の北東にあった直径40m・高さ7mの円墳。
5世紀の築造と推定されている。
明治の初めごろ、日本に滞在していたイギリス人ウイリアム・ゴーランドさんが
長持山古墳の頂上にほぼ全形を露出している石棺を、写真入りで報告していた。
昭和21年(1946)の発掘調査で、墳丘上に露出していた石棺の北側から、新たに別の石棺を発見した。
長持山古墳そのものは消滅している。(いつ消滅したのか?)
長持山古墳1号石棺(左)と2号石棺 |
長持山古墳反対側から 左2号石棺 |
長持山古墳1号石棺 |
長持山古墳2号石棺 |
明治の初めごろ長持山古墳を訪れたイギリス人のウイリアム・ゴーランドさんが、 長持山古墳の頂上に露出した石棺を、写真入りで報告している。 ゴーランドさんが報告したのは2号石棺で、 戦後の発掘調査では、2号石棺の北側から1号石棺が見つかった。 1号石棺は河原石積みの石槨の中におさめられていて、盗掘は受けていたが、 装身具(ガラス小玉・金銅製帯金具)、武器(鉄刀・鉄矛・鉄鏃)、 武具(甲・挂甲)、農工具(鉄鎌・鉄鍬)、馬具(金銅製鞍金具・鐙・轡・杏葉)などが出土した。 現在アメリカ・ボストン美術館に保管されている画像鏡も長持山古墳出土といわれている。 2基の石棺はともに阿蘇の凝灰岩製のくりぬき式で 1号石棺は、傾斜の強い屋根形の蓋と舟形の身がぴったりと組み合わされている。 身と蓋の小口には一対の大きな縄掛け突起がつくり出されている。内部は赤い顔料が塗られている。 2号石棺は、1号石棺と比較して、蓋は高さがなく、縄掛け突起が長辺側に二対計4個つくり出されている。 身の方は箱形に近いものとなっている。 形からみると、1号石棺がまずおさめられ、後から2号石棺がつくられおさめられたと考えられている。 5世紀後半の築造と推定されている。 長持山古墳の東にある市野山古墳の陪塚的存在のものと考えられている。 |
市野山古墳 允恭天皇陵古墳 |
大阪府藤井寺市国府(こう)1丁目 |
「允恭天皇恵我長野北陵」に治定されて、宮内庁が管理している。
国府台地の北縁にある。
市野山古墳 前方部角からみる 左奥後円部 右前方部先端の直線部分 |
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市野山古墳は前方部を北に向けた 墳丘全長230mの前方後円墳 後円部径140m・高さ22.3m 前方部幅160m・高さ23.3m 3段築成 くびれ部の両側に造出がある。 幅25〜30mの盾形内濠と外堤、さらにその外側にも周壕をもつことが発掘調査で判明している。 外側の濠は後円部や前方部側では確認されていないため、全周しない可能性がある。 内部施設や副葬品については不明 外堤上で円筒埴輪列は確認されていないが、外側の溝から埴輪が出土している。 出土した埴輪は、円筒埴輪のほか家・盾・靱・蓋・人物等の形象埴輪がある。 埴輪の特徴から5世紀後半の築造と推定されている。 周囲には、前方後円墳の唐櫃山古墳や長持山古墳、宮の南塚古墳、衣縫塚古墳などがある。 (説明板から) 墓山古墳ときわめてよく似た規模と形とみられている。 |
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市野山古墳 後円部の丸み 周壕に水がなく、菜の花がきれいに咲いている。 |
市野山古墳 後円部脇から墳丘を見る 右奥前方部 |
市野山古墳と周辺の古墳分布図(説明板から) 市野山古墳の周りには、数基の小古墳があったが、 現在残っているのは、 衣縫塚古墳と宮の南塚古墳(共に允恭天皇陵陪冢)、 鍋塚古墳(仲津山古墳の陪塚) だけとなっている。 八王子塚古墳(允恭天皇陵い号陪冢)は、 現在小さな高まりが残っているが、 周辺の発掘調査から、 古墳ではない可能性が指摘されているという。 高塚山古墳は、説明板では円墳になっているが、 調査の結果、方墳と確認されたので、 方墳に直して表示した。 |
前方部の北東角の外濠は最近まで「長池」と呼ばれて残っていたらしいが、保育園建設のため、埋め立てられた。
濠と堤は地形の高低差で今でも確認できるそうだ。
式内社 志貴縣主神社
市野山古墳のすぐ北にある。
古代この辺りは「志紀郡」といい、
地元に密着した神社と考えられている。
衣縫塚古墳 允恭天皇恵我長野北陵ろ号 |
大阪府藤井寺市国府1丁目4 |
允恭天皇恵我長野北陵ろ号に治定されて、宮内庁が管理している。
衣縫塚古墳配置図 (HP世界遺産暫定一覧表より) 衣縫塚古墳は 市野山古墳の前方部東にある 径約20mの円墳 古墳の北東側の調査で周壕が確認された。 また濠から、 円筒埴輪や家形、人物、太刀形などの埴輪が多量に出土した。 平成18年の墳丘西側の調査では、円筒埴輪棺が2基検出された。 5世紀後半の築造と推定されている。 市野山古墳の周辺には衣縫塚のほか宮の南塚古墳、長持山古墳などの小円墳がある。 平成18年の調査で、後円部北西で新たに兎塚古墳、兎塚2号墳などが見つかった。 平安時代の初め衣縫塚古墳周辺にいた衣縫造金継という人の娘は、 たいそう親孝行で、両親が亡くなった後も嫁がずに墓守をしていたという。 現在、潮音寺にある衣縫孝女碑は、もともとこの墳頂部にあったといわれており、 そのため「衣縫塚」と呼ばれるようになったといわれている。 衣縫氏は在野の有力氏族と考えられている。 北側にあったという衣縫廃寺も衣縫氏が関与した可能性が考えられている。 (説明板から) |
衣縫塚古墳 現在は 元の円墳より一回り小さい 方形の地形になって残っている。 |
住宅に囲まれて、見つけにくいかも・・・・
宮の南塚古墳 允恭天皇恵我長野北陵は号 |
大阪府藤井寺市国府1丁目5 |
国府八幡神社のすぐ南にある。
允恭天皇恵我長野北陵は号に治定されて、宮内庁が管理している。
国府八幡神社 国府の氏神様 衣縫孝女の墓がある潮音寺は、 国府八幡神社に隣接している。 |
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宮の南塚古墳配置図 (HP世界遺産暫定一覧表より) 宮の南塚古墳は 径40mの円墳 現在の形は半円形に近い 円筒埴輪、きぬがさ形埴輪が出土している。 5世紀後半の築造と推定されている。 |
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宮の南塚古墳 北東から 古墳の北側3分の1ほどが 神社と道路で削られている。 |
北西から見た宮の南塚古墳 |
消滅した唐櫃山古墳にも長持山古墳石棺と同じ様な石棺があったというが、その石棺はどこにあるのだろう・・・?
(oobutaさん情報・・・・市野山古墳の南にある民家の庭に、唐櫃山古墳の石棺が置かれている。)
鍋塚古墳 国史跡 |
大阪府藤井寺市沢田4丁目 |
土師ノ里駅を出たら、目の前にはげ山が・・・・。
整備がほぼ終わった鍋塚古墳。 後ろの森は仲津山古墳。 |
鍋塚古墳 配置図 (説明板から) 鍋塚古墳は 前方部を南西に向ける 現状では一辺40mの方墳だが、 周辺の調査で一辺63mに復元することができる。 2段築成 高さ7m 葺石あり 墳丘から円筒埴輪のほか、家・きぬがさ・盾・ゆぎなどの形象埴輪が採集されている。 仲津山古墳の堤に食い込む位置にあり、堤と同時期、もしくは先行する時期に築造されたと考えられている。 4世紀後半の築造と推定されている。 (説明板から) |
北から見た鍋塚古墳 現在は、芝生育成中で立入禁止だが 階段が付いているので、 いずれは上れるようになるのかな? 奥に見える森は仲津山古墳 |
東から見た鍋塚古墳 はげ山は味気ないなぁ・・・・・ |
鍋塚古墳の周辺には「沢田の七ツ塚」と呼ばれた中小規模の古墳が数多くあったが、
戦後の宅地化等の工事のため、次々とその姿を消し、
最後に残った鍋塚古墳が昭和31年(1956)、国の史跡に指定された。
(藤井寺HPから)
仲津山古墳 仲姫皇后陵 |
大阪府藤井寺市沢田4丁目 |
「皇后仲姫命仲津山陵」として、宮内庁が管理している。
仲津姫は景行天皇の孫で、応神天皇の妃、第16代仁徳天皇の母である。
仲津山古墳実測図 (説明板から) 仲津山古墳は 前方部を南西に向ける 墳丘全長290mの前方後円墳 後円部径170m・高さ26.2m 前方部幅193m・高さ23.3m くびれ部両側に方壇状の造出がある。 3段築成 幅が狭く深い盾形の濠と、幅の広い堤(基底部で幅45〜50m)がめぐっている。 周壕は、市野山古墳と同じ様にほとんど空濠 古市国府台地の中で最も高所にある前方後円墳。 埋葬移設は不明だが、石棺があったこと、勾玉が出土したことが伝えられている。 外堤上の発掘調査で、円筒埴輪列や外堤外法面の葺石が確認されている。 堤から出土した埴輪には、円筒埴輪のほか蓋・盾・靱等の形象埴輪がある。 5世紀前半の築造と推定されている。 (誉田御廟山古墳より古い) 古市古墳群内では、誉田御廟山古墳の次に次ぐ2番目の大きさで、全国では9番目に大きい古墳。 後円部北側に鍋塚古墳・高山塚古墳(消滅)の大型方墳がある。 |
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仲津山古墳 後円部の丸み 周壕がきれい!初めから空濠のようだ |
仲津山古墳 後円部脇から前方部方向を見る |
仲津山古墳 北側くびれ部外から後円部を見る |
仲津山古墳 前方部先端の直線部分 |
仲津山古墳 御拝所 |
古室八幡神社 仲津山古墳の前方部北側にある。 |
御拝所は、民家と民家の間の狭い場所にあり、気づかずに通り過ぎてしまいそう。
拝所の前に狭い通りを挟んで、古室山古墳がある。
古室山古墳 国史跡 |
大阪府藤井寺市古室2丁目 |
仲津山古墳の御拝所の南に前方部がある。仲津山古墳と前方部を向かい合わせてつくられている。
陵墓に治定されていないので、墳丘に登ることができる。周濠があったあたりは埋め戻されている。
古室山古墳 北西から見る 中央あたりが後円部、 その左側に前方部がつづく |
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古室山古墳の実測図 (説明板から) 国府台地の西側縁の地形を 利用してつくられている。 古室山古墳は 前方部を北東に向ける 墳丘全長150mの前方後円墳 後円部径96m・高さ15.3m 前方部幅100m・高さ9.3m 後円部頂上の標高が約39m。 3段築成 造出は東側のみ残存している。 葺き石あり。円筒埴輪列あり。 発掘調査では、後円部西側からくびれ部にかけて堤があったことが確認されている。 埴輪は円筒埴輪のほか、家・盾・きぬがさ形埴輪がある。 埋葬施設や副葬品については不明だが、 後円部の頂上に板状の石材が散乱していたので、竪穴式石室だと考えられている。 4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。 前方部の北側にある高まりは堤の一部である。 仲津山古墳や誉田御廟山古墳より先行して築造されたと考えられていて、 古市古墳群の中では初期に築造された前方後円墳のひとつである。 |
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古室山古墳 前方部先端から後円部を見る |
古室山古墳 前方部から後円部を見る |
古室山古墳 後円部から見た前方部 |
古室山古墳 南から見た後円部 後円部側に石碑と説明板がある。 |
1615年(元和元)の大坂夏の陣のとき、豊臣方の真田大助が本陣を置いたところだそうだ。
松川塚古墳 |
大阪府藤井寺市古室2丁目 |
史跡指定がされていないので、雑木林となる。
松川塚古墳周辺図 (HP世界遺産暫定一覧表より) 松川塚古墳は一辺20mの方墳。 現在は埋没しているが、 推定幅6mの周壕をもつことが判明している。 |
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松川塚古墳 墳裾東側は駐車場となる |
松川塚古墳 墳丘 北東から |
三ツ塚古墳 |
大阪府藤井寺道明寺6丁目 |
国指定史跡となっている助太山古墳の前に説明板がある。
三ツ塚古墳配置図 (説明板から)
仲津山古墳の南側段丘の下にある3基の方墳
西から
助太山古墳(国史跡)、
中山塚古墳(仲姫皇后陵い号陪冢)、
八島塚古墳(仲姫皇后陵ろ号陪冢)
といい、周濠を共有し、南辺をそろえて築かれている。
助太山古墳は一辺36m
中山塚古墳と八島塚古墳は一辺50mの方墳
5世紀中ごろの築造と推定されている。
助太山の墳丘上には凝灰岩の巨石が露出していて、他の2基より新しい可能性が指摘されている。
北側段丘斜面には埴輪を焼成した登り窯が10基以上発見されていて、
「土師の里埴輪窯跡群」と呼ばれている。
昭和53年の調査では、
八島塚と中山塚の間の周濠から大小2基の修羅(運搬用の木ソリ)と付属のテコ棒が出土した。
現在、大修羅とテコ棒は大阪府近つ飛鳥博物館に、小修羅は藤井寺市立図書館に展示されている。
助太山古墳 一辺36mの方墳 | |
助太山古墳 南からみる 手前に駐車場らしきものがある・・・・・。 |
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助太山古墳 西からみる |
助太山古墳 北からみる |
中山塚と八島塚は南からは墳丘がよく見えない。
中山塚古墳 一辺50mの方墳 | |
中山塚古墳 南から見る |
中山塚古墳 北から見る |
八島塚古墳 一辺50mの方墳 | |
八島塚古墳 南から見る |
八島塚古墳 北から見る |