北村さんちの遺跡めぐり
松原市 古市古墳群付近の地図g
河内大塚山古墳 大塚陵墓参考地 |
松原市西大塚1丁目 |
駐車場がないので道端に駐車しながら、撮影。
この古墳は古市古墳群に入るが、松原市と羽曳野市で分けあっていて、
松原市側に詳しい説明板がある。全国で5番目に大きい前方後円墳だ。
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河内大塚山古墳実測図 河内大塚山古墳は、 墳丘全長335mの前方後円墳 後円部直径185m・高さ20m 前方部幅230m・高さ4m 周囲に壕をめぐらせている。周濠を含めた全長は420m。 周濠の外には、周庭帯があったと考えられている。 前方部はほぼ北面している。 後円部頂は海抜45mで、松原市で最も標高が高い。 @前方部は平板低平で、やや不整形をとる A埴輪や葺石の存在がはっきりしない B後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、 江戸時代後半の書物に「磨戸石」とよぶ巨石が、18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られた C古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石や花崗岩が 柴籠神社(松原市上田7丁目)などへ移されている などから横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、 6世紀中葉〜後葉の築造と推定されている。 中世には丹下氏が古墳を利用して丹下城を築いた。 織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、 後円部には氏神の天満宮が祀られた。 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、 昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。 現在宮内庁が管理する陵墓参考地である。 (説明板から) |
河内大塚山古墳 渡り堤の左側が前方部前面 右奥後円部。 |
河内大塚山古墳は、大きさからみると、
百舌鳥の大仙陵古墳(仁徳陵古墳)、古市の誉田山古墳(応神陵古墳)、
百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)、岡山県の備中造山古墳に次ぐわが国で5番目の巨大古墳。