北村さんちの遺跡めぐり

松原市 古市古墳群付近の地図g

河内大塚山古墳
大塚陵墓参考地

松原市西大塚1丁目
羽曳野市南恵我之荘

 (撮影日2012/10/27)

駐車場がないので道端に駐車しながら、撮影。
この古墳は古市古墳群に入るが、松原市と羽曳野市で分けあっていて、
松原市側に詳しい説明板がある。全国で5番目に大きい前方後円墳だ。


河内大塚山古墳
前方部の北西の
 渡り堤手前から見る
 右(南)が後円部


河内大塚山古墳実測図

河内大塚山古墳
は、
 墳丘全長335mの前方後円墳
  後円部直径185m・高さ20m 前方部幅230m・高さ4m
 周囲に壕をめぐらせている。周濠を含めた全長は420m。
 周濠の外には、周庭帯があったと考えられている。
 前方部はほぼ北面している。
 後円部頂は海抜45mで、松原市で最も標高が高い。
 @前方部は平板低平で、やや不整形をとる
 A埴輪や葺石の存在がはっきりしない
 B後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、
   江戸時代後半の書物に「磨戸石」とよぶ巨石が、18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られた
 C古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石や花崗岩が
   柴籠神社(松原市上田7丁目)などへ移されている
 などから横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、
 6世紀中葉〜後葉の築造と推定されている。

 中世には丹下氏が古墳を利用して丹下城を築いた。
 織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、
  後円部には氏神の天満宮が祀られた。
 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、
 昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。
 現在宮内庁が管理する陵墓参考地である。   (説明板から)

河内大塚山古墳

渡り堤の左側が前方部前面
 右奥後円部。

河内大塚山古墳は、大きさからみると、
百舌鳥の大仙陵古墳(仁徳陵古墳)、古市の誉田山古墳(応神陵古墳)、
百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)、岡山県の備中造山古墳に次ぐわが国で5番目の巨大古墳。

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