北村さんちの遺跡めぐり
寝屋川市 寝屋川市の地図g
石の宝殿古墳 国史跡 |
大阪府寝屋川市打上元町 (撮影日2013/4/21) |
高良神社の裏山にある。
高良神社の鳥居横にある「ねや川文化と歴史のみち」と刻まれた石碑には、
打上地区の自然についての説明があり、展望台もある。
高良神社 一の鳥居 鳥居をくぐった左奥に、 古墳への上り口がある。 |
高良神社 二の鳥居と本殿 高良神社の氏子の名字は、 ほとんどか「田伏」「田中」「井上」らしい。 |
石の宝殿古墳は 生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれていて、現状は巨大な横口式石槨が露出している。 主体部の横口式石槨は2石を組み合わせたもの。 上面を平坦に加工した底石(下石)の上に、直径3m・高さ1.5mで埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねている。 内部は幅0.9m・高さ0.8m・奥行き2.2mで、入口部分は幅0.5mとせまくなっている。 入口部分の左側には丸いくぼみがあり、この部分に軸をはめ込む扉状の施設があったと推定されている。 玄室部の前面には板状の2石が平行に建てられていて、羨道部を形成している。 古墳の背後には3個の巨石が一列に並んでいるが、 1988年(昭和63年)に行われた発掘調査ではこの列石の西側に続く石が埋っていることが確認された。 この石と列石との設置角は135°で、この石を古墳の外側のラインにすると、 古墳の平面形が八角形になる可能性がある。 石槨内に納められていた棺の形状や副葬品などは不明 発掘調査のときに石槨の周辺から須恵器の小片が出土していて、 この土器や石槨の構造などから7世紀中ごろの築造と推定されている。 北河内唯一の古墳時代終末期に属する古墳。 横口式石槨は大阪府に約20例あるが、 全て石川流域に集中しており、石の宝殿だけが他より離れていて、 形式的にも明日香村の鬼の厠・鬼の俎と同じく、非常に特異なもの。 日本に仏教文化が伝わって、死者を火葬した後、骨を容器に入れて納めたと推定されている。 『河内名所図会』(江戸時代後期)によれば、このそばから、金銅製の骨壷が見出されたという。 前面左に、「天岩戸大日如来」と刻んだ元禄9年(1696)の石碑があるが、 天照大神の岩戸隠れにちなみ、神仏習合の信仰を表すものと言われている。 (寝屋川市HP・じゃらん観光ガイドから) |
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石の宝殿古墳 上り口。 右側の立て札は、石の宝殿古墳の説明板 ここから50mぐらい。 |
石の宝殿古墳 巨大な横口式石槨が露出 前面左の石碑には、 「天岩戸大日如来」と刻まれている。 |
石の宝殿古墳 東側から見た石槨 右の石が石槨 |
石の宝殿古墳石槨入口 左の石の入口部分には丸いくぼみがある。 扉があったようだ。 |
石の宝殿古墳 西側から見た石槨 |
石の宝殿古墳 石槨内部 |
「石の宝殿」は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称で、兵庫県と大阪府に5ヵ所あるそうだ。
河内 |
太秦古墳群・尾支群 |
大阪府寝屋川市太秦高塚町 |
寝屋川市東部の太秦高塚町、国守町とその周辺の丘陵には、「〜塚」「〜山」の地名が残っていて、
1962年には太秦熱田神社の裏山から牡鹿の頭部と考えられる埴輪が出土
1965年には太秦高塚古墳の南約300メートルで木棺直葬と考えられる主体部が発見され、鉄鏃、直刀などが出土
これ以外にも三環鈴、金環、銅鏃、子持勾玉2、勾玉3、紡錘車2などが付近にあった古墳の出土遺物として知られている。
これらを総称して太秦古墳群と呼ばれている。
近年の住宅開発に伴う発掘調査で、数か所で古墳の周壕と思われる遺構も検出されていた。
第二京阪道路の建設に伴う2001年から2003年にかけての大阪府文化財センターの事前調査で、
25基の小型の古墳がみつかった。(太秦古墳群の尾支群と呼ばれることとなる)
多くの古墳は、一辺10m程度の方墳で、墳丘はすでに失われていて、埋葬施設は不明。
埴輪が見つかっているのは2基の古墳
お供え用とみられる土器が見つかったのは16基
土器や埴輪が出土しなかった古墳は7基
古墳時代中期(5世紀)の築造と推定されている。 (説明板から)
太秦古墳群・尾支群の発掘当時の様子
(説明板写真から)
太秦古墳群・尾支群の復元
第二京阪道のトンネルの上に保存されている。
調査地西側でみつかった18号墳(一辺9mの方墳)を復元して、
築かれた当時の状態を再現したそうである。
固められていて、復元というのには違和感があるが・・・。
説明板には、太秦高塚古墳についての記述がある。
河内 |
太秦高塚古墳 太秦古墳群 |
大阪府寝屋川市太秦高塚町 |
高台にあり、整備復元されていたのですぐ見つかる。
太秦高塚古墳 全景
左側に造り出しがある。
秦・太秦の丘陵上に所在する太秦古墳群で、
唯一現存する古墳
太秦高塚古墳は、史跡整備のために2001年(平成13年)に発掘調査された。
太秦高塚古墳 墳丘復元図
(説明板から)
全長39m、円丘部の直径37m、高さ7mの造出付円墳
2段築成
1段目の平坦部(テラス)には、円筒埴輪列がめぐる。
古墳の周りには、幅約7.5m、深さ2mの濠がある。
北西側には、「造り出し」があり、
まつりを行った区画と考えられていて、
ここから人物・水鳥・鶏・家・盾・衣蓋などの形象埴輪や
土器が集中して出土。
古墳の頂上は盛土が大きく流出して大きく変化していたが、東側で主体部の一部が残っており、
南側より短甲 ・鉄鏃・鉄斧・鐙(あぶみ)などの副葬品の鉄器がまとまって出土。
墳頂部の大きさから西側にも主体部があったと考えられている。
出土した埴輪や土器などから、太秦高塚古墳は5世紀の後半の築造と推定されている。
太秦高塚古墳 テラスには埴輪が並べられている。 |
太秦高塚古墳 小さな造出を横から見る |
太秦高塚古墳 埋葬部が示されている |
太秦高塚古墳 墳頂から見る造出 |