北村さんちの遺跡めぐり
茨木市 茨木市・高槻市の地図g
青松塚古墳 | 大阪府茨木市室山1丁目 (撮影日2012/6/24) |
北大阪警察病院の駐車場に駐車。
駐車場の奥に入っていくと、青松塚古墳と紫金山古墳の案内板がある。
青松塚古墳は病院の中から行くと聞いていたが、病棟の裏から行くことがてきた。
何となく道が続いていて、青松塚古墳に着く。
青松塚古墳は、径20mの円墳
円筒埴輪列があり、形象埴輪(家形、衣笠、人物)も出土
左片袖式横穴式石室は、玄室長3.3m・幅2m・高2.4m 羨道長3.6m・幅1.1m・高1.3m
石室内から、画文帯神獣鏡1・倣製乳文鏡1
・切子玉7・平玉1・小玉27・銀製空玉2・銀環2・銀製指輪1・三輪玉3
・鉄刀1・鉄鉾1・鉄鏃62・鉄斧1・鉄鑿1・鉄鍬1
・馬具(轡、鐙、雲珠、辻金具、杏葉、馬鐸、帯金具)、須恵器、土師器などが出土
6世紀前半の築造と推定されている。
1947年(昭和22年)発掘調査 (古墳辞典から)
青松塚古墳 墳丘 |
青松塚古墳 奥壁側も開いている。 |
青松塚古墳 本当の入口 |
青松塚古墳 羨道部から内部を見る。 |
すぐそばには南塚古墳(全長50mの前方後円墳)というのがあったようだが・・・・・もう無いのだろうか?
(oobutaさん情報・・・・南塚古墳は墳丘はなくなっているが、病院裏の草叢に石棺があるはずです)
紫金山古墳は青松塚古墳から行けるのか? 行く道が見つからず・・・・断念。
紫金山古墳は全長100mの前方後円墳
後円部径76m・高さ15m 前方部幅40m・高10m
竪穴式石槨があり、三角縁神獣鏡など10面以上の鏡などの豊富な副葬品が出土した。
4世紀中〜後半の築造と推定されている。
(oobutaさん情報・・・・案内板通りに進めば行けたかと思いましたが、説明板があるだけです。)
海北塚古墳 府指定文化財 |
大阪府茨木市福井 (撮影日2012/6/24) |
海北塚古墳を探す。近くまで来ていると思うが、よく分からず・・・・・
海北塚古墳がある辺り
林の中にあるのだろうが、入る道が分からず、
早々にあきらめて・・・次へ・・・・
反対側からしか入れないらしい。
oobutaさん情報・・・北側の細い道から入っていきます。
石柱が建っていたと思います
海北塚古墳は、規模は不明だが円墳で、横穴式石室に箱形石棺が安置されている。
左片袖式横穴式石室は、全長約11m
玄室長4.6m・幅2.5m・高3.3m 羨道現存長6.3m・幅約1.4m・高約1.8m
石室内から、鉄刀、鉄槍、鉄鏃、馬具(鉄地金銅張製鏡板付轡、杏葉、雲珠、辻金具)、須恵器(坏)など
墳丘上から、獣帯鏡、銀製鍍金勾玉、銀製鍍金山梔玉、金銅製三輪玉、須恵器(高坏、壷、ハソウ)などが出土。
大織冠神社 将軍塚古墳 | 大阪府茨木市西安威2丁目 (撮影日2012/6/24) |
西安威1丁目の住宅街の北側の山にある。
すぐそばまで住宅が迫っているので、石段にくっつけて、何とか駐車。石段を上る。
将軍塚古墳(将軍山1号墳)への石段を上る。
石碑には 大織冠神社と刻まれている。
平安中期の頃から、藤原鎌足公の墓所は、
初め「摂津の安威にあったが、後に大和多武峰に改装された」との説があり、
それが江戸時代になって、この塚をあてるようになった。
そのために鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、
毎年10月16日には、京都の九条家から使者が来て、
反物2千匹を持参し、お祭りをされていた。 (説明板から)
将軍塚古墳そのものが大織冠神社となっている。
横に「大織冠鎌足公古廟」と刻まれた石碑が立つ。
将軍塚古墳は径約25mの円墳 山頂を利用して造られている。
南に開口している片袖式横穴式石室は全長約9m
玄室長4.5m・幅1.7m・高2.4mで5枚の天井石がのせられている。
羨道長4.5m・幅1.4m
丸みのある花崗岩を積み上げている。
早くから開口していたので出土品は不明。
6世紀後半の築造と推定されている。
将軍塚古墳 石室
石室入口には、格子戸がはめられて、
覗いてもよく見えない。
将軍塚古墳の墳丘 西から
右側下に開口部がある。
将軍山古墳 移築復元 |
大阪府茨木市西安威2丁目 (撮影日2012/6/24) |
将軍塚古墳の西側に、将軍山古墳の竪穴式石室がある。
将軍山古墳はもと将軍塚古墳から100m程南にあったが、宅地開発で消滅した。
破壊前に発掘調査が行われ、その調査データに基づいて現在の場所に、竪穴式石室が移築復元された。
将軍山古墳竪穴式石室 全景
実際の石材を使って復元している。
将軍山古墳竪穴式石室 |
将軍山古墳は、全長107mの前方後円墳
後円部径70m・高さ13m 前方部幅44m
3段築成 葺石あり 円筒埴輪あり
結晶片岩でつくられた後円部中央にある竪穴式石室は、
全長6.4m・幅1m・高0.8mで、長さ10.14m・幅7.14mの墓壙内に築かれていた。
12枚の天井石があり、U字型の粘土棺床が造られていた。
早くから盗掘にあっていた。
硬玉製勾玉、ガラス製小玉、碧玉製鏃形石製品、
銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄針状鉄製品、甲片 などが出土。
4世紀後半の築造と推定されている。
1956年(昭和31年)発掘調査、
1964年(昭和39年)に墳丘の破壊に先立ち、石室の移築が行われた。
鼻摺古墳(耳原方形墳) | 大阪府茨木市耳原3丁目 (撮影日2012/6/24) |
周りが住宅になっていく中で、四角く残されている。
いかにも方墳だが、柵で囲まれていて、雑草に覆われていて、なにも分からない。
これから、どんな保存を考えて行くのだろうか?
鼻摺古墳 全景
鼻摺古墳は耳原方形墳ともいわれ、一辺33m・高さ5.5mの方墳
1960(昭和35)年に発掘調査が行われたが、埋葬施設は見つからなかった。
須恵器片が出土。
耳原(ミノハラ)古墳 府指定文化財 |
大阪府茨木市耳原3丁目 (撮影日2012/6/24) |
耳原古墳は帝人大阪研究センターの敷地内にある。
休日で、門が閉じられていて、見学は出来なかった。(平日でも見学できないといううわさ?)
(oobutaさん情報・・・・平日は見学できるようです)
柵越しにみる
耳原古墳のある(はずの)林
耳原古墳は 推定径30m・高さ8mの円墳
両袖式横穴式石室は、全長14m
玄室長6.8m・幅2.4m・高3.3m 羨道長7m・幅1.7m・高1.7m
石室内には二つの石棺が安置されている(組合式家形石棺、刳抜式家形石棺)
6世紀後半の築造と推定されている。
太田茶臼山古墳 (三島古墳群) |
大阪府茨木市太田3丁目 |
太田茶臼山古墳は「継体天皇陵」となっていて、宮内庁の管理のため、中に入ることはできない。
太田茶臼山古墳正面(南側)
天皇陵なので、礼拝所が設けられている。
立ち入り禁止の墳丘は鳥たちの楽園になっている。
とうとうと水を湛える周濠に感動!
古墳の周囲には
幅約28〜33mの一重の濠がめぐっている。
北から南に延びる低い台地上に築かれた全長226mの前方後円墳
前方部幅147m・高さ19.8m、後円部径138m・高さ19.2m。
前方部と後円部の接するところに、両側に造り出しが設けられている。
S63年、古墳の西南部(前方部側)の外提で、数個の円筒埴輪が並んだ状態で発見された。
形式から5世紀の築造と推定されている。
この古墳は、「継体天皇三島藍野陵」とも呼ばれ、宮内庁による第26代継体天皇陵とされているが、
「日本書紀」によると、継体天皇の没年は531年(6世紀)とされ、古墳の築造年代とは異なる。
太田茶臼山古墳(継体天皇陵) 陪塚 | 大阪府茨木市太田 (撮影日2012/6/24) |
太田茶臼山古墳(継体天皇 三嶋藍野陵)は以前眺めたが、今回は周りにある陪冢を探してみる。
2基の前方後円墳を含む8基(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号・と号・ち号)と
「継体天皇 三嶋藍野陵 域内陪冢 車塚」が宮内庁管理の陪冢。
この他に宮内庁管理ではないが、8号墳も陪冢と考えられている。
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢と号
墳長30mの前方後円墳。
人物埴輪が出土。
後円部のみが「くすのき公園」内に残る。
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢へ号
北から見る。
道路に囲まれて残っている。
宮内庁の指定になっているのは、頂上の一部だけで、
他の部分は花壇となる。
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ほ号
周濠と造り出しを持つ直径19mの円墳。
さくら公園に保存されている2基の中の1基(東側)
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢に号
径21mの円墳で3.5mの周壕がある。
円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土。
さくら公園に保存されている2基の中の1基(西側)
大田茶臼山古墳とその陪冢の配置図g
継体天皇 三嶋藍野陵 継体天皇 三嶋藍野陵 域内陪冢 車塚 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢い号 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ろ号 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢は号 太田山 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢に号 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ほ号 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢へ号 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢と号 継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ち号 二子山
「継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ち号」に指定されている二子山古墳は、高槻市内にある。
阿武山古墳 (三島古墳群) |
茨木市安威・高槻市奈佐原 (訪問日2006/10/22) |
京都大学阿武山地震観測所の前まで行くが、駐車できなくてあきらめる。
高槻市奈佐原と茨木市安威の境に位置する。
京都大学阿武山地震観測所の構内にある。
昭和9年に観測所建設の際、発見。
堀を含むと東西84m・南北80mの円墳。
南側墳裾に2〜2.7mの周濠がある。
墳頂部は溝と段によって画された一辺18mの方形区画がある。
墳丘から7世紀前半の須恵器の蓋が出土した。
石棺式石室があり、南に羨道・墓道(排水口)がある。
玄室と羨道が扉石で分かれている。
玄室は長さ2.6m・幅1.1m・高さ1.1mで漆喰が塗られている。
漆喰で塗られた高さ25pの棺台が置かれ、きょうちょ棺が置かれていた。
棺の身の大きさは長さ1.97m・幅0.62m・高さ0.51m
棺の蓋の大きさは長さ2.03m・幅0.68m・高さ0.09m。
棺内には、南枕仰臥伸展葬の60歳代の男性の遺体があった。
その遺体は玉枕が置かれ、冠帽をかぶり、金糸や樹皮にくるまれていた。
昭和9年の発見のとき、高貴なお方の墓だとわかり、恐れ多くてそのまま埋め戻したが、
出土品の一部ときょうちょ棺のX線フィルムを保管した。
これらが行方不明になっていたが、1987年(昭和62年)に見つかった。
棺内の遺体を写した数枚のX線フィルムを画像解析した結果、
大織冠と思われる冠・玉枕、藤原鎌足の死因と考えられる落馬を思わせる骨格が浮かび上がった。
これにより、阿武山古墳に眠るのは「藤原鎌足」だと認識された。
大織冠・・・中臣鎌足が天智天皇から賜った最高の冠位。この後鎌足は藤原姓を名乗ることとなる。
近くに鎌足塚というのがあるが、これは藤原鎌足の亡くなる100年も前に築造されたもので正しくない。