北村さんちの遺跡めぐり
高槻市 高槻市の地図g
二子山古墳 | 大阪府高槻市上土室町 (訪問・撮影日2006/10/22 2012/6/24) |
太田茶臼山古墳の北、高速道路をくぐったところに番山古墳があるが、
途中、道が不自然に曲がっているところは二子山古墳だ。
二子山古墳 南西から見る
撮影日2012/6/24
道路をU字に曲げて、保存されている。
二子山古墳は、高速道路の北側の側道を迂回させて残されている。
「継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ち号 二子山」と名付けられ、宮内庁の管理となっている。
現状 全長40mの前方後円墳で 前方部を西に向ける
後円部径20m・前方部幅20m
元は前方部幅30mほどあったと考えられている。
外堤に円筒埴輪が並んでいた。
後円部が前方部より少し高く、南側くびれ部に造出がある。
葺石あり 埴輪あり。
円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪(家、楯、きぬがさなど)が出土。
二子山古墳 北から見る
撮影日2012/6/24
右側が前方部
向こう側には高速道路が通っている。
冬になり、葉が落ちると、前方後円墳の形が現れる。
番山古墳 (三島古墳群) |
大阪府高槻市上土室 |
太田茶臼山古墳の北、高速道路をくぐったところに番山古墳がある。
番山古墳全景
直径56m・高さ7mの円墳と思われていたが
濠跡などから、南西部に短い前方部を持つ
帆立貝式の前方後円墳だと訂正された。
外提には、円筒埴輪・家形埴輪などの埴輪列があった。
墳丘に並べられていた埴輪などから、5世紀中ごろのものと推定されている。
このあたり「土室」地区の丘陵地域から平野部にかけては、
「塚原」といわれ、5世紀の高槻を代表する古墳が集中して造られたところとして知られている。
あらゆるかたちの古墳がある、古墳の宝庫だった。
古墳群は、北から番山古墳、土保山古墳、石塚古墳、二子山古墳、高樋古墳などが分布。
S22年に調査が行われた土保山古墳は長持形木棺を納めた竪穴式石室が発見され、
副葬品として、弓や刀、盾、短甲など貴重な遺物が多数出土した。
現在は番山古墳と二子山古墳しか残っていない。
闘鶏山古墳 ツゲヤマコフン 国指定史跡 |
大阪府高槻市氷室町 (撮影日2012/6/24) |
駐車場がない。
闘鶏野神社
創建の年月は不詳だが、もとは八幡大神宮と称し、
氷室の氏神として崇拝を集めたという。
闘鶏野は仁徳天皇の時代の猟場だったといわれている。
「闘鶏」を「ツゲ」と読むのは、
鶏鳴が神託を「告げる」ことに由来するという。
(闘鶏野神社説明板から)
闘鶏山古墳は闘鶏野神社の裏山にある。
闘鶏山古墳の現状
調査から5年以上経ち、
二重のフェンスに囲まれて、雑草に覆われている。
闘鶏山古墳は、墳丘全長86.4mの前方後円墳
後円部径60m・後円部高約7m 前方部幅約25m・前方部高約4m
2002年の調査で 後円部に未盗掘の竪穴式石槨が2基あることが明らかになった。
石槨内は未調査で、古墳の保全目的で現在は墳丘内に立ち入ることができない。
前方部端部に接するように、一辺約17mの方墳がある。
ハニワ工場公園 |
大阪府高槻市上土室 |
ハニワ工場公園は住宅街の中の公園となっているが、全く駐車場が無く、車中から眺めて終わってしまった。
あとで調べたら、ここは太田茶臼山古墳と今城塚古墳に使われた埴輪が作られた場所だった。
写真だけでも撮って来れば良かった。
正確には、新池埴輪製作遺跡という。
住宅地の開発に先立ち、発掘調査され、
5世紀から6世紀にかけて、断続的に埴輪の生産が続けられた場所だとわかった。
長さが10mもある窯が18基発見された。
正暦450年ころ太田茶臼山古墳のために、窯3基(A群)と工房3棟、住居7棟で埴輪作りが行われた。
窯1基と工房1棟を一つのチームが運営し、3チームが同時に操業していた。
正暦480年ころ、新たに窯5基(B群)と住居7棟がつくられ、番山古墳などの埴輪を作る
正暦530年ころには今城塚のために10基の窯(C群)が作られた
工房は5棟で、住居兼用のものもみつかっている。
550年ころには埴輪作りが終わる。
A群の窯は斜面に溝を掘り、粘土でドームをかけてある。
B・C群の窯は、斜面をトンネル状に掘り抜いて造ってある。
A群窯の復元と埴輪工房の復元がなされている。
今城塚古墳 (三島古墳群) 国史跡 |
大阪府高槻市郡家新町 |
本当の「継体天皇陵」といわれている今城塚古墳。
今城塚古墳は、太田茶臼山古墳の東1.5kmのところにある。
2006年の今城塚古墳 (撮影日2006/10/22)
なんと全域立ち入り禁止!!
2007年3月までに史跡公園となり、公開されるという。
その整備のため、一歩も中に入れない。
柵の外から、案内板を写真に撮る。
史跡公園完成予想図
(案内板より)
6世紀前半の前方後円墳。
墳丘長190m・後円部径100m・前方部幅140m
全長約350m、二重の濠(空濠か?)を持ち、淀川北岸では最大級の古墳
墳丘や堤に円筒埴輪や形象埴輪をめぐらしていた。
堤に並べられている円筒埴輪(復元途中)
東側の柵から写す
今城塚の名は戦国時代に三好長慶が出城を築いたことに由来する。
埴輪祭祀場の想像図
(案内板より)
平成13年の発掘調査で、
墳丘の外側の堤からたくさんの埴輪が出土した。
堤に60mにわたり舞台のような部分を付け足して
埴輪が並べられていたことがわかった。
その場所は「埴輪祭祀場」といわれているが、
それは宮殿の様子を表しているのか?
埴輪祭祀場から出土した埴輪
(案内板より)
出土した埴輪
家形埴輪18・柵形埴輪24・門形埴輪2
器台形埴輪5・蓋形埴輪1・太刀形埴輪15
盾形埴輪1・人物埴輪28・鶏形埴輪5
水鳥埴輪13・獣埴輪15・不明9など
計136点
平成16年の発掘調査では、後円部に排水口が発見された。
排水口があるところは、横穴式石室の入り口と考えられる。
1288年に盗掘を受けたという記述が残っていることなどから、石室は破壊されていると思われる。
レーダー探査では石室の存在は確認できなかった。
墳頂や斜面の調査で、石棺の一部やガラス玉・鉄鏃・小札・馬具・金銅板などの副葬品の断片が出土した。
石棺の石材と思われるものが3種類出土した。
@大阪府と奈良県境の二上山産の白色凝灰岩(二上山白石)。
A兵庫県播磨地方の流紋岩質凝灰岩(竜山石)
B熊本県宇土の阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)
継体天皇が葬られた石棺はどれなのか?
そしてほかの石棺には誰が埋葬されていたのか?
周辺には史跡嶋上郡衛跡附寺跡、史跡阿武山古墳をはじめ、
弁天山古墳群、郡家車塚古墳、前塚古墳、岡本山古墳群などがあるという。
熊本県宇土の阿蘇溶結凝灰岩の石棺といえば、滋賀県の野洲にある大岩山古墳群の石棺もこの地方のものだった。
どうやって熊本県の岩を運んだのだろうか?
古代の技術は、現代より上なのかもしれない。
太田茶臼山古墳付近の地図y
真の継体天皇陵? 今城塚古墳で大規模な石組み遺構 大阪府高槻市 2007年3月1日 読売新聞のインターネットニュースから 真の継体天皇陵?今城塚古墳で大規模な石組み遺構 石室自体は解体されて失われていたが、その存在が裏付けられたうえ、規模の壮大さもうかがえる。 宮内庁の陵墓指定により 遺構は後円部中央北側の上部で出土し、東西17・7メートル、南北は11・2メートル。 石材の平面をそろえて石垣のように高さ約80センチまで積み上げ、 遺構のゆがんだ形状などから、大阪平野北部が震源とされる1596年(文禄5年)の伏見地震によって これらの結果から、市教委は、後円部の墳丘はこれまで2段を確認していたが、 今城塚古墳を指す「島上陵」の盗掘に関する記載が残る鎌倉時代の文献などから、 現地説明会は4日午前10時〜午後3時。 |
2012年の今城塚古墳 (撮影日2012/6/24)
2011年4月に古墳公園「いましろ大王の杜」として整備公開された、御存じ「今城塚古墳」。ようやく見学できた!
古代歴史館
駐車場完備
開館して1年以上たつが、多くの見学者が訪れている。
今城塚古代歴史館では、三島の古墳から出土した遺物の展示や今城塚古墳のジオラマや映像で、歴史背景を解説している。
乗れる埴輪?
古代歴史館と今城塚をつなぐ通路にある。
車止めとして使われているのだが、撮影スポットとなる。
孫初登場!
今城塚古墳復元模型 古代歴史館にて
前方部が大きいなあ!
今城塚古墳は墳丘長190mの前方後円墳
後円部径100m・前方部幅140m
西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、
総長約350m・総幅約340mとなる。
淀川流域では最大級の前方後円墳
墳丘は、のちの城砦や地震により変形されている。
横穴式石室があったが、壊れている。石棺の破片(3種類の石)が確認されている。
北側内堤からみつかった埴輪群は、埴輪祭祀区といわれ、
大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして注目されている。
6世紀前半の築造と推定されている。
今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用されたからで、
江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されている。
現在の今城塚に並ぶ円筒埴輪 2006年10月に来た時にも並んでいた。 |
2006年10月の今城塚の円筒埴輪 中には入れないので(復元途中)、東側の柵から写す 2007年には史跡公園になる予定となっていたが・・・・。 |
実物大に復元された埴輪群 その1
実物大に復元された埴輪群 その2
内堤から後円部を見る 右は造出部 |
内堤から前方部角を見る |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
前方部から見る内濠 奥が後円部 |
後円部の横穴式石室はこの下にある。 |
墳丘も復元されるのかと思ったが、地震や砦で改変されたままの姿となっている。それがまた良い!
継体天皇陵の話
今城塚古墳が継体天皇陵にならなかった理由 幕末、幕府の力が低下したとき、尊王攘夷運動が盛り上がる中、うちすてられた天皇家の墓を探し出し整備し直そうという動きが盛り上がった。 宇都宮藩の蒲生君平(前方後円墳の名付け親)などがこの動きのきっかけを作った。 この動きを受けて、幕府が文化年間(1804〜1808)に、平安時代に記された「延喜式」にある継体天皇陵「三嶋藍野陵」の探査を摂津高槻藩に命じた。 ところが、今城塚古墳が領内にあるにもかかわらず、藍野陵に該当する古墳はないと報告してしまった。 なぜ、そう報告したかというと、 @ 今城塚はもともと大きく墳丘が崩れていたうえに、1596年の慶長伏見地震でさらに崩れていた。 A 中世、城が築かれ、当時はもう古墳という認識がなかった。 B 「藍野」という地名ではなかった。 などの理由が考えられている。 それで、1.5km西にある太田茶臼山古墳が「継体天皇陵」となってしまった。 |
空から見れば大きな前方後円墳とわかるけれども、地震で崩れ、田畑になってしまった地形の中で
古墳と認識するのは難しいのかもしれない。
今城塚古墳が継体天皇陵「三嶋藍野陵」と考えられるようになった理由 考古学会では現在、今城塚古墳が継体天皇陵とされている。 (今城塚古墳が真の継体天皇陵であるとしたのは歴史学者の故天坊幸彦氏だった) なぜ、そうなったのかというと @ 歴代天皇の中で摂津にあるとされる墓は「継体天皇陵」だけである。 継体天皇は531年(6世紀前半)になくなった。 築造年代から考えると、天皇陵にふさわしい大古墳は「今城塚古墳」だけである。 太田茶臼山古墳の築造年代は5世紀だから違う。 A 天皇陵築造当時は、今城塚のあたりも、藍野地区であった。 |
太田茶臼山古墳・今城塚古墳 形と大きさの比較
太田茶臼山・実測図 墳丘長226m・全長286m 後円部径138m・前方部幅147m 全幅217m 5世紀の大古墳(仁徳陵・応仁陵など)と形が似ている。 つくりが丁寧な円筒埴輪が出土 |
今城塚・推定復元図 墳丘長190m・全長350m 後円部径100m・前方部幅140m 全幅343m 6世紀の古墳(岩戸山古墳など)と形が似ている。 円筒埴輪のつくりには手抜きが見られる。 |
前塚古墳 (三島古墳群) |
大阪府高槻市岡本 |
今城塚古墳のすぐ北にある。
2006年の前塚古墳 (撮影日2006/10/22)
前塚古墳
南側から見る
今城塚のすぐ北のすし屋の駐車場の向こうに
小山として残っている。
現状は径64m・高さ7mの円墳状だが、前方部が削平された帆立貝形前方後円墳。
周濠があった。
番山古墳とほぼ同形・同規模。
家形埴輪などの埴輪がある。
凝灰岩製の長持形石棺が出土した。(大阪府の有形文化財となっている。)
蓋石と左右長側石の両端部に縄状突起・前後の短側石の中央やや上方に方形突起がある。
鏡・鉄刀・鉾などが出土した。
もうひとつ陪墳といわれているものとして狐塚古墳というのが、
前塚古墳の東のほうにあるらしいが、見てこなかった。
2012年の前塚古墳 (撮影日2012/6/24)
前塚古墳 西から
こちらに前方部があったのだろうが・・・・
残っている後円部も、上部が半分くらい削平されて、
駐車場となっている。
前塚古墳は 墳丘全長94mの前方後円墳 前方部を西に向ける。
高槻市の番山古墳とほぼ同形・同規模と判明している。
周壕あり 埴輪あり(家形埴輪もある)
前方部が削平されていて、現状は径64m・高7mの円墳状。
戦前に後円部墳頂から凝灰岩製の長持形石棺が出土した。(大阪府の有形文化財で、近つ飛鳥博物館で展示)
石棺の中からは倣製鏡や鉄刀、鉄鉾が見つかる。
5世紀中〜後半の築造と推定されている。
前塚古墳 東から
後円部側 丸みがある。
周壕の跡の田んぼも丸い。
写真を撮っていたら、近くに住んでいるらしい男性(70代か)が来て、話してくれた。
・・・・・・・
この前塚は、今城塚の前にあるから、前塚といわれているのではない。
北の岡本山古墳の前にあるから前塚という。
前塚古墳から出土した石棺は、私が通学していた学校(茨木高校)に保管されていたが、
現在は資料館(近つ飛鳥博物館)に展示されている。
近くにはもう一つ、ヒムロ塚というのがあったが、消滅して住宅地となっている。
・・・・・・・・
まだまだ話をしたそうだったが、先を急ぐので・・・・・
郡家車塚古墳 | 大阪府高槻市岡本 (撮影日2012/6/24) |
今城塚から北に300mほどのところにあるが、今まで知らなかった。
きれいに墳丘が残る。
郡家車塚古墳 南から
周りが田んぼとなっている。
郡家車塚古墳は 墳丘全長86mの前方後円墳 西側に前方部がある。
後円部径44m・後円部高6m 前方部幅35m・前方部高4m
埋葬施設は、粘土槨に木棺と考えられている。
埴輪(円筒、鰭付円筒)、銅鏡、勾玉、管玉、小玉などが出土している。
墳丘の形は、柄鏡形に近い古式の様相を呈している。
4世紀末の築造と推定されている。
郡家車塚古墳
くびれ部がきれいに確認できる
電柱がジャマだなあ・・・・
弁天山古墳と岡本山古墳 弁天山古墳群 |
大阪府高槻市南平台1丁目 (撮影日2012/6/24) |
今城塚の北にある高速道路の、すぐ北の山には古墳がある。弁天山古墳群という。
群中の盟主墳が弁天山古墳と岡本山古墳だ。どちらも山の中で、どこから入っていいのかもわからない。
弁天山古墳のある山。 西側から
弁天山古墳(弁天山B1号墳)は
全長100mの前方後円墳
後円部径70m・後円部高12m 前方部幅50m・前方部高7m
弁天山古墳群は、15基確認されている。
前方後円墳5基 岡本山古墳(A1)・弁天山古墳(B1)・B3号墳・C1号墳・D4号墳
前方後方墳1基 D2号墳
円墳 7基
墳形不明 2基
弁天山古墳と岡本山古墳は発掘調査はされていない。
3世紀末〜4世紀中ごろの築造と推定されている。
(古墳辞典から)
岡本山古墳のある山 西側から
前方部が高速道路で、斜めに切断されて、
板石が露出したという。
岡本山古墳(弁天山A1号墳)は
全長120mの前方後円墳
後円部径70m・後円部高11m 前方部幅60m・前方部高8m
葺石あり 埴輪は確認されていない。
前方部に竪穴式石槨がある。
殿岡神社古墳 | 大阪府高槻市奈佐原 (撮影日2012/6/24) |
殿岡神社古墳は、殿岡神社社殿の東横にある。
殿岡神社
かつては稲荷神社といった。
社伝によれば
奈佐原近在の4か村が、干ばつに苦しんだとき、神輿を阿武山の山頂、殿岡の峰に埋めて降雨を祈願し、
その霊験にちなんで殿岡神社と称するようになったという。
この伝承は、古来、当社が奈佐原四箇庄の鎮守であったことを示している。 (説明板から)
説明板には、古墳があると書かれているだけ。
殿岡神社古墳 南側に開口している。 社殿の横に石室がある。 |
殿岡神社古墳 石室内部 狭くて入れない。 |
殿岡神社古墳を 石室入口の背後から見る。 社殿のために、墳丘はスッパリと半分に削られている。 |
殿岡神社古墳の石室前には、 古墳を守るように小さな社が建てられている。 |
殿岡神社古墳は、社殿建築のときに削平されているので、墳丘の形状や規模はよく分かっていない。
殿岡神社から道路をはさんで南にも、小さな神社がある。
大神宮 殿岡神社向かいの神社 懸額に「大神宮」と書かれている。 古墳ではないのか? |
大神宮 小さな社の中には、石が祀られている? 殿岡神社古墳の前の社とそっくり! |
服部連塚古墳 塚脇古墳群 |
大阪府高槻市塚脇3丁目 (撮影日2012/6/24) |
そぱに唯徳寺や塚脇公民館があるが、駐車場がない。広めの道路になんとか駐車。少し歩く。
古墳の前には説明板がある。
塚脇一帯には、6〜7世紀に築造された三十数基の古墳が群集していた。
その中の1基が、服部連塚古墳。
他の1基は南平台の市立埋文調査センターに移築・保存されているそうだ。(説明板から)
服部連塚古墳 全景
径14m・高さ2.5mの円墳
横穴式石室を持つ。
5世紀中ごろに諸国の機織り(織部)を統率した服部連の墓だという伝承があり、
上宮神社と呼ばれていたが、明治41年(1908)に神服神社に合祀された。当時の鳥居が今も残っている。
(説明板から)
服部連塚古墳 墳丘
どこに横穴式石室があるのか?
きれいに掃除されているので、大事にされているのが分かる。
塚脇F1号墳 |
大阪府高槻市塚脇1丁目 |
塚脇F1号墳は妙力寺境内にある。
妙力寺には、立派なホームページがある。古墳についても詳しい説明がある。
南側の道路からは、道が狭くて車では入れないが、南東から迂回するように行くと、駐車場がある。
詳しい交通案内も妙力寺ホームページに掲載されている。
展示室もある。
塚脇古墳群は、高槻市の北部、名勝摂津峡を西に望む帯仕山のふもとに営まれた約50基の古墳で構成される古墳群で、
横穴式石室を埋葬施設として6世紀後半から7世紀にかけて築かれた。
F1号墳 墳丘測量図 (展示室パネルから)
F1号墳は 帯仕山の南西の麓に位置する、
直径20m・高さ1.8mの円墳
(塚脇古墳群の中で最も大きな古墳)
墳丘には盛土の崩壊を防ぐために
石垣状の列石をめぐらせている。
F1号墳 石室平面図 (展示室パネルから)
左片袖式横穴式石室は
玄室長4.3m・幅2.5m 羨道長3.6m・幅1.4m
盗掘をされていたが、
石室から、須恵器をはじめ鉄鏃や直刀などの武器、鉄斧などの工具や
鞍金具、轡、引手、雲珠、辻金具、飾金具などひとそろいの馬具、
耳飾り、首飾りに使用されたガラス玉などが出土
平成2年度に発掘調査
発見当初は、天井石が割れて落ち込んだ状況だったが、発掘調査を行ったところ、
横穴式石室の下半分が良好に残されていることがわかった。
また、南側の羨道部には、閉塞石がそのままの状態でみつかった。
塚脇古墳群の中では最大規模を誇る古墳で、他では見られない豪華な馬具などの副葬品が出土している。
塚脇F1号墳石室 羨道入口から玄室を見る 奥に見える新本堂の中に古墳展示室がある。 |
塚脇F1号墳石室 羨道から玄室を見る |
塚脇F1号墳石室 玄室から羨道を見る |
塚脇F1号墳石室 玄室の石積みの様子 |
本堂では、法事が行われているようだったが、展示室を見せていただいた。
パネルでの説明がしっかりされていて、出土品の複製などが展示されている。
塚脇F1号墳出土のガラス玉と琥珀玉 (模造) |
塚脇F1号墳出土の耳飾り (模造) |
詳しくは妙力寺HPをご覧ください。
移築石室 塚脇古墳群 |
大阪府高槻市塚脇 (撮影日2012/6/24) |
服部連塚から西に、芥川を渡り、川沿いの道を南に行くと、道路沿いに石室が見えてくる。
道路工事中に見つかった古墳の石室を移築したものだそうだが、説明板もなく、詳しい事は分からない。
移築石室の入口側 左手前の大石はどこの石? |
移築石室 入口 羨道部の天井石はあるが、奥の石室の天井石はない。 右手前の石が大きい! |
移築石室 羨道入口から玄室を見る |
移築石室 玄室から羨道を見る 片袖式の石室とはっきりわかる。 |
石室の天井石がないので、石室内は明るくて、石積みの観察にはとても良い。
説明板があれば、言うことない・・・・・。
芝谷古墳 | 大阪府高槻市芝谷町 (撮影日2012/6/24) |
芝谷中学校の北側の公園に保存されている。
もとは丘陵だったのだろうが、まわりは宅地開発が進んでいる。
路肩に駐車。墳丘には近寄ることができないので写真だけ。
南から見た芝谷古墳
芝谷古墳は全長50mの前方後円墳。
円筒埴輪片が採集されている。
古墳時代中期の築造と推定されているが、
発掘調査が行われていないため、詳細は不明。
東から見た芝谷古墳
フェンスに囲まれている。
上宮天満宮 | 大阪府高槻市天神町1 (撮影日2012/6/24 |
上宮天満宮内に駐車場がある。
上宮天満宮は「てんじんさん」と呼ばれ親しまれている。
境内が荒れていた時期もあったらしいが、防犯システムの確立により、現在は清々しい環境が保たれている。
創建後1050年以上で全国の天神神社のうち、2番目の古社とされている。
上宮天満宮参道
正面に拝殿と本殿
左の建物は絵馬堂
戦国の天正年間、山崎合戦(天王山の戦い)の際には羽柴秀吉が、
この参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を討った。
その戦勝を感謝して、天正18年(1590)に秀吉は社殿を寄進した。
が・・・・・・豊臣秀吉から寄進された本殿は、平成8年(1996)、放火され焼失した。
徹底した防犯システム確立の契機となった出来事となる。
上宮天満宮拝殿
その後ろに本殿
上宮天満宮の「竹の本殿」
柱、壁、屋根のほとんどが竹でつくられている。
平成14年(2002)、日本初の竹製の本殿として再建。
上宮天満宮の本殿の屋根拡大
竹で葺かれている。
節が見える。
境内に2ヘクタール、8000本の竹林を持ち、その整備と資源活用を通じて全国各分野の専門家集団とかかわり、
世界で初めてとされる竹による外部構造物を完成させ、建築・行政・環境分野で反響を呼んだ。
10年をめどに屋根の葺き替えが予定され耐用期間の長期化を図っている。
(説明板から)
野身神社 宿禰塚古墳 スツネヅカコフン |
大阪府高槻市天神町1 (撮影日2012/6/24 |
上宮天満宮参道に接して東側に、野身神社という小さな社がある。
この野身神社は、野見宿禰の墳墓とされる小墳丘の上にある。
(奈良県にも、野見宿禰の墓があったと思うが、世襲の名前なのかな?)
宿禰塚古墳という。
宿禰塚古墳は天神山に築造された後期古墳で、
昼神車塚古墳と同じ古墳群を形成する古墳であると考えられている。
墳丘の形状や規模、出土遺物など古墳としての詳細については不明。
野身神社
入口は固く閉じられていて、中には入れない。
土師器を製作する土師氏を率いる族長がノミのスクネと呼ばれ、神に対する直系の長を意味する。
相撲の神様としての伝承もある。
この日神(ヒルガミ)山を北端として、東西1km・南3kmの地域は野見郷といい、その族長が連綿と祭祀された。
927年に制定された「延喜式神明帳」に記載されている式内社。 (説明板から)
元々この地に、延喜式神名帳に記載される「野見神社」(現 摂社「野身神社」)があり、
後になって道真を祀る天満宮が創建されて、野見神社がそれに吸収されたということらしい。
倭彦命が亡くなり、埋葬の際に殉死の凄惨な光景を見て心を痛めていた垂仁天皇の意向を汲んで、
殉死の代わりに埴輪を古墳に立てることを進言したのも野見宿禰だったりする。
塀越しに見た野身神社の敷地内部
大きな石が転がっている。
横穴式石室の石材と考えられている。
野身神社前の説明板には
「この天神山(日神山)には南北に4基の古墳が築かれている。
境内には、車塚古墳と宿禰塚古墳の2基がある。」
とあるが、あとの2基は・・・・中将塚古墳と?
昼神車塚古墳 |
大阪府高槻市天神町1 (撮影日2012/6/24 |
上宮天満宮の参道入口近くのトンネルの上にある。
上宮天満宮の境内で、神域のため、墳丘内に入ることはできない。
昼神車塚古墳実測図 (説明板から作成)
北(左)が前方部
全長60mの前方後円墳
後円部径35m・前方部幅40m
前方部は後円部より1.5mほど高くつくられている。
埋葬施設は明らかになっていないが、横穴式石室ではないかと推定されている。
6世紀中ごろの築造と推定されている。
昼神車塚古墳の前方部が府道の建設予定地にかかっていたため、1975年に発掘調査が行われた。
調査により、弥生時代の墓地の上に土を盛って築造されていたことがわかった。
中段のテラス部には2列の埴輪列があった。
埴輪列の外側は人物埴輪や盾形埴輪、円筒埴輪で構成され、内側は動物埴輪のみで構成されていた。
道路の予定地にかかっていた部分は削平されたが、
トンネルの建設後、その上部に調査成果に基づいて復元し、出土した埴輪のレプリカが設置されている。
トンネルの上にある昼神車塚古墳
右奥に後円部がある。
左が前方部前面。
前方部前面のテラスに復元された埴輪群。
雑草に埋もれている。
中将塚古墳 | 大阪府高槻市天神町1 (撮影日2012/6/24) |
上宮天満宮の東側にある竹林を北に抜けると天神山公園があり、
その北側にフェンスで囲まれているのが中将塚古墳。
中将塚古墳は、全長約45mの前方後円墳で、後円部を北に向ける。
一帯の宅地造成で墳丘は一部崩れている。発掘調査が行われていないので詳細は不明。
昼神車塚古墳や宿禰塚古墳が築造された時期と同じころの築造と考えられている。
南から見た中将塚古墳
前方部側
フェンスで囲まれて立ち入ることはできない。
西から見た中将塚古墳
雑木で墳丘を確認するのは難しい。
天神山遺跡 | 大阪府高槻市天神町1 (撮影日2012/6/24) |
中将塚古墳の南側 (上宮天満宮本殿の北側) は天神山公園になっていて、天神山遺跡の説明板が立つ。
この丘陵では弥生時代中期から後期にかけての集落遺跡が見つかってる。
調査では、複数の住居跡や方形周溝墓の溝とみられるものが確認された。
標高50〜100mにある高地性集落と考えられている。
1952(昭和27)年には、上宮天満宮が鎮座する尾根の西隣にあった尾根から袈裟襷銅鐸が出土している。
天神山公園の入口には、天神山遺跡の説明板がある。
天神山遺跡周辺の古墳配置図
(説明板から)
この図には、中将塚古墳の北に「伊勢寺古墳」がある。
天神山の4基の古墳の4番目は、この伊勢寺古墳か?
説明板の横には、埴輪男子が立っている。
安満山古墳群 | 大阪府高槻市安満御所の町 (撮影日2012/6/24) |
高槻市安満御所の町の墓地公園内にある。
地図で見ると安満宮山古墳まで立派な道路が付いているが、
墓地公園内の車道は午後5時で閉鎖される。徒歩では行ける。
公園入口には、「安満宮山古墳」と「安満山古墳群」の説明板がある。
安満A1号墳まで徒歩で15分くらい。安満A1号墳から安満宮山古墳までは徒歩で5分くらい。
墓地公園入口の「安満山古墳群」の説明板から・・・・
安満山古墳群は、6世紀後半〜7世紀にかけて築造された大規模な群集墳。
1969年(昭和44年)、公園墓地の造成に先立ち、
1帯の分布調査を実施、横穴式石室を持つ40基以上の円墳が確認された。
大部分は破損埋没しているが、なかには天井石が残り、墳丘の形状をよくとどめたものがある。
安満宮山古墳とその周辺
説明板から
安満山古墳群・A2号墳は 径14mの円墳で、被葬者は4体とみられ、
堤瓶や高杯、金環、ガラス玉など多数が出土した。
この他の古墳からも、土器や馬具片、紡錘車などが出土
安満A1号墳
(安満山古墳群)
墓地公園の入口から1kmくらい歩いたところに、A1号墳が保存されている。
A1号墳の説明板がある。
墓地の一角に保存された安満A1号墳
(安満山古墳群)
大きな案内板(これは墓地の案内板)の後ろに
横穴式石室が露出している。
安満山A1号墳は 径12mの円墳 安満山の岩盤を削って造られている。
南に開口する横穴式石室は 全長5.1m
玄室長2.2m・幅1.3m 羨道長2.9m・幅0.9m
玄室の床には礫が敷きつめられていた。
金環、鉄釘、須恵器20点以上が出土した。
石室内から鉄釘が出土していることから、木棺があったと考えられている。
出土遺物から少なくとも二人以上の人物が埋葬されていたと考えられている。
安満A1号墳(安満山古墳群)
墳丘はかなり崩れてしまっている。
石室石材が見える。
南に開口する石室で、側壁の上部と天井石はすでにない。
安満A1号墳の石室 |
安満A1号墳の石室 方向を変えて見る |
安満宮山古墳
アマミヤヤマコフン
(安満山古墳群)
安満山では、群集墳の安満山古墳群が先に発見されて、後期古墳がある場所と思われていたが、
1997(平成8)年に墓地の拡張に先立つ調査で発見された安満宮山古墳は、古墳時代前期の古墳だ。
安満宮山古墳が発見されて、安満山には、古墳時代前期の古墳と後期の群集墳が混在することとなった。
公園 「青龍三年の丘」入口
安満宮山古墳が保存されている。
安満宮山古墳 説明板
出土した鏡のレプリカが飾られている。
安満宮山古墳は 標高125mの安満山南西斜面にある東西18m南北21mの長方形墳
埋葬施設は箱型木棺を安置した墓坑
墓坑は東西7.5m×南北3.5m ・現存深さ0.4m
木棺埋納坑は、5.3m×1.3m・深さ1.2m 木棺は コウヤマキの割竹形木棺で直径0.8m・長さ5m
青銅鏡5面(1号鏡〜5号鏡)、ガラス小玉1000点以上、鉄製品(直刀・ヤリガンナ・刀子・鉄斧・ノミ・鎌)
などが出土
3世紀後半の築造と推定されている。
安満宮山古墳 復元された墳丘
墳丘上には、埋葬施設が展示されている。
安満宮山古墳 埋葬施設展示
墓坑には
透明の強化アクリルでできた覆いが被せられている。
安満宮山古墳墓坑内部
墓坑内での、鏡や鉄製品の出土の様子が再現されている。
出土した鏡の中で、2号鏡は、中国・魏の年号、青龍3年(235年)銘をもつ方格規矩四神鏡で、
1992年に丹後半島の大田南5号墳から出土した鏡と同形である。
この2号鏡が、古いタイプの三角縁神獣鏡(1号鏡)などと、一緒に出土した。
「魏志倭人伝」には、景初3年(239年)6月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発、12月に魏の都・洛陽に到着。
魏は倭国女王・卑弥呼に「親魏倭王」の印綬とともに「銅鏡百枚」などを与えたと記されている。
安満宮山古墳から出土した鏡は、この「銅鏡百枚」に関係あるのかないのか?・・・・・・・・・・
高槻市の遺跡終わり