北村さんちの遺跡めぐり

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花塚山古墳

平野区瓜破東四丁目 瓜破霊園内
 (撮影日2013/11/29)

地下鉄谷町線出戸駅から南西約500m、瓜破霊園の北端に墳丘が残っている。徒歩10分。9時30分 着。

 花塚山古墳は 径25m・高さ2.5mの円墳である。
  幅約5mの周濠があったと考えられている。
 5世紀の築造と推定されている。
 本格的な発掘調査が行われていないので内部構造は不明だが、
  頂上部には木棺直葬の遺物があるものと推定されている。
 「花塚山古墳」の石標には、
  「5世紀に築造された円墳で、同じころにつくられた古市・百舌鳥古墳群や、
   近くの長原の小方墳群とは形式が異なる。」と刻まれている。 

 南西から見た墳丘

東から見た墳丘

ゴマ堂山古墳

平野区瓜破東四丁目 瓜破霊園内
 (撮影日2013/11/29)

花塚山古墳と同じく瓜破霊園内にある。  花塚山から南西約200m。
石碑も説明板もない。円墳らしいが・・・・。詳細不明。


ゴマ堂古墳

ゴマ堂山古墳  方向を変えてみる
削られて方墳のようにも見える。

 

酒君塚古墳

大阪市東住吉区鷹合2丁目5
 (撮影日2013/11/29)

長居公園通「鷹合4丁目バス停」から北東600m、
斜めに進むわけにいかないから、1kmほど歩かなければならない。
10時38分 着。
酒君塚公園となっているが、古墳には見えないな。

 日本書紀仁徳天皇の41年3月条によれば、
  酒君は百済の王族で、仁徳天皇の命を受けて鷹を飼育したとある。
 鷹合という地名もこの伝承による。
 江戸時代中期に成立した「摂津誌」によれば、鷹合村に、鷹甘部の墓があり、平塚と称すとある。
 発掘調査の結果、上部を削られて低くなった古墳に、
  江戸時代の終わりから明治時代の初めに盛り土をして、墳丘状にしたものと分かった。
  もとの古墳の形など、詳しい事は分かっていない。       (説明板から)
  
 酒君塚古墳
  5世紀初頭頃の形象埴輪片が出土
  地籍図からは、西向きの前方後円墳と推定されている。

酒君塚と刻まれた碑が、
1901(明治34)年に立てられている。

東から西方向を見る

  

住吉大社

住吉区住吉2丁目
 (撮影日2013/11/29)

千躰バス停から西に約500m。南門から入る。
住吉大社は、摂津国一の宮。
昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社。

現在ある本殿は全て1810年(文化7年)建立。
第一本宮から第四本宮にいたる4棟の御本殿は「住吉造」という。
いずれも国宝建造物に指定されている。


南門

石舞台(重要文化財)

住吉鳥居   四角柱の鳥居

反橋(ソリハシ) 別名太鼓橋

第一本宮

第二本宮 右手前は第三本宮

住吉大社境内には、古墳と思われる高まりが残っているそうだが、よく分からなかった。

住吉大社から東に約400mの東大禅寺も古墳の上にあるという。
山ノ中古墳ともよばれ、前方部を北北西に向けた推定全長65mの前方後円墳と推定されている。 

帝塚山古墳

住吉区帝塚山西二丁目8
 (撮影日2013/11/29)

南海高野線・帝塚山駅から西にすぐ。12時37分 着。
門が閉じられていて、入ることは出来ない。
通りかかった男性は、長く住んでいるが、掃除の時くらいしか門は開かないと言っていた。

 帝塚山古墳は、
 西南西に前方部がある全長88mの前方後円墳
  後円部径49m・高さ9m 前方部幅39m
  前方部は後円部より約2m低くなっているが、
    基底が後円部から前方部にかけて1m低くなっているから、実質的には1mの差があることとなる。
 墳丘には円筒埴輪が樹立していて、往時南北両側には周壕の一部であるため池があった。
 4世紀末~5世紀初めの築造と推定されている。
  
 現在、後円部頂には、明治天皇の記念碑が立てられている。所有者は財団法人住吉村常盤会。
  
 今は、帝塚山古墳は一つだけだが、
  明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、
  この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。
 大帝塚の方は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、
  小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。      (説明板・HPから)

東から見た帝塚山古墳
門が閉じられていて入ることはできない。
まわりには家が立ち並び墳丘もなかなか見えない

立派な墳丘があるようだ。
説明板があるようだが、遠すぎて読めない。
望遠でようやく読めた・・・・・

住宅のすき間から見る墳丘その1

住宅のすき間から見る墳丘その2

 

聖天山古墳

阿倍野区松虫通の聖天山公園内
 (撮影日2013/11/29)

阪堺電軌阪堺線・北天下茶屋駅から東250m、聖天山公園に残っている。
円墳で、現在は径10mほどか?

 聖天山古墳
  元は大きな古墳だったらしいが、昭和26年に、採土で削っていくうちに、石室が発見され、
  埴輪・土器・直刀・馬具等の副葬品が出土したが、現在は行方不明。
  6世紀の築造と推定されている。
  付近には、かつて天狗(てんぐ)塚・柘榴(ざくろ)塚といわれる小丘があり、
     土器・刀剣・馬具類が出土したそうだが、現在その痕跡は見あたらない。

聖天山古墳

外周を高さ3m程の石垣で保護されている。
中に大きなクスノキが1本立っている。
案内板はない。

聖天山公園の南側には正圓寺があるが、この正圓寺のある丘も、古墳ではないかといわれている。
(西に前方部のある前方後円墳か?)


北から見た正圓寺境内

古墳だとしたら、
長さ100mくらいの大きなものになるかも・・・
左(東)が後円部かな
お寺なのに狛犬と鳥居がある。
いろいろおもしろいお寺だ。

正圓寺本堂前には、
「聖天山山頂」の標識がある。

「大阪五低山」に選ばれことを知り、
      お寺で作成したとのことである

珍しいお寺の鳥居
      上が盛り上がっている。
奥の院はお稲荷さん?

正圓寺境内には、松虫塚白龍神社というのもある。
お百度参りをしているらしい女性がいる。

聖天山古墳から北東150mくらいのところに 丸山古墳があった。
丸山古墳は、円墳で、優れた埋葬品が出土しているが、現在は碑があるだけだ。

この付近は、吉田兼好が隠棲し、その間「徒然草」を著述したところと伝えられている。

松虫塚

阿倍野区松虫通1-11-5
 (撮影日2013/11/29)

聖天山から、南の松虫通りに出て、東に約400m歩くと、道路わきに石碑がある。
14時10分  着。  松虫塚の伝説の説明板もある。

松虫塚

元は小さな古墳だったと考えられている。

近くには、同じような
  小町塚・播磨塚などもあるそうだが・・・・・。
松虫塚にはいろいろな物語が伝承されているようだが、元は古墳だということは間違いないようだ。

茶臼山古墳
府指定史跡
(天王寺公園)

大阪市天王寺区茶臼山町1
 (撮影日2013/11/29)

茶臼山古墳は天王寺公園の中にある。
天王寺公園に入るには、大阪人以外は、150円の入園料が必要だ。(15時すぎ)

茶臼山は 大坂夏の陣や冬の陣(1614・1615年)で、激戦の地となったが、
 元々前方後円墳と考えられ、河底池は周濠の痕跡とみられていた。
 昭和61年(1986)に発掘調査で、家康の本陣跡の建物や堀割が確認されたが、
 全長200mの大前方後円墳だという確証は得られていない。
 四天王寺には、茶臼山古墳から出土したという石棺が残っている。 (説明板ほか)


南から見た茶臼山古墳

周壕のある前方後円墳に見える…

盛土で作られているそうだから、
やはり前方後円墳?

前方部とみられる付近
「茶臼山古戦場跡地」の説明板がある。

後円部とみられるあたり



旧黒田藩蔵屋敷長屋門
    (天王寺公園内)

「軍師官兵衛」でおなじみ黒田藩だ。




天王寺公園から見る通天閣




天王寺公園内の美術館の向こうに見える
     あべのハルカス


あべのハルカスの低階はオープンしていて、
たくさんの人が訪れていた。
   

四天王寺と古墳

大阪市天王寺区四天王寺
2017/3/11

茶臼山古墳の北東にある四天王寺には、長持形石棺蓋が保存されている。
四天王寺に古墳があったということか。
これとは別に、現在「熊野権現礼拝石」となっている石材も、石棺材と考えられている。
この「熊野権現礼拝石」は阿蘇ピンク石といわれる石材だ。

R大阪駅 地下鉄「東梅田駅」から谷町線で「四天王寺夕陽ヶ丘」駅下車、南へ徒歩5分。


四天王寺表参道
四天王寺は南大門が正面だが、
 この参道途中にも「乾門」と「中の門」と「石ノ鳥居」という門があり、境内に入ることができる。

乾門

墓苑に入る時、近い門
門の奥に見えるのは元三大師堂

元三大師堂は、寄棟造、瓦葺の建物
1618年建立 重要文化財
実は市天王寺境内では、最も古い建物かも・・・


中之門


中の門から入ったが、やはり、南大門から紹介しよう。

なんと、四天王寺は改修工事中・・・。
回廊の中には入れない。つまり五重塔・金堂・講堂の見学はできないということ。

全体に建物が新しいような気がすると思ったら、
 現在の中心伽藍は、昭和38年に完成したもので、鉄筋コンクリート製である。

 四天王寺の創建は、推古元年(593)。
 聖徳太子が鎮護国家と衆生救済のため、
  仏教の守護神である四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を安置して建てたと伝えられている。

 南から北に向かって中門、五重塔、金堂、講堂といった主要な堂宇が一直線上に並び、
  それを回廊が囲む建築様式を「四天王寺式伽藍」といい、日本で最も古い伽藍配置様式だ。

 たび重なる戦火や災害に見舞われ、多くが焼失したが、現在の建物は創建当時の様式を忠実に再現。
  古代の建築様式が今に残るのは貴重といえる。

南大門

南大門から入ってすぐの石灯篭の後ろには、
熊野権現礼拝石がある。
 熊野権現礼拝石は、
  四天王寺四石(転法輪石、引導石、伊勢神宮遥拝石、熊野権現礼拝石)の一つ。
 この礼拝石をお詣りすると、熊野権現をお詣りしたことになるという。

左側

右側
 実はこの熊野権現礼拝石は
 赤褐色の安山岩質火山礫凝灰岩で、熊本県宇土半島の馬門の石。
 阿蘇ピンク石の名で呼ばれている

 つまり、どこかの古墳の石棺の石材ではないかと思われるのだが・・・・?

仁王門は閉じられていて、中には入れない。回廊の内部は改修工事中・・・・。


仁王門の奥に五重塔

聖霊院は 木造建築。  1979年建立

普賢菩薩

東重門の奥に五重塔

宝物館の前に、石棺蓋が展示されている。

 長持形石棺蓋
 荒陵(現在の茶臼山古墳)付近から出土したものといわれている
 いつの頃からか四天王寺境内に移されて、亀井堂東の小溝に架けられ、
  江戸時代にはその形態から、巻物石、蛙石とも呼ばれていた。
 この橋を渡ると安産になると評判になり、四天王寺の七不思議の一つとして言い伝えられてきたが、
  明治時代になって、古墳時代の石棺の蓋だと判明してからは移転し、保管されている。
                        (説明板から)
長持形石棺蓋

播磨産の石材だと考えられている。






左側

右側

この角度で見ると、生き物のように見える
奥は石鳥居笠石

縄掛け突起拡大
 石棺蓋の右には、石鳥居 笠石が展示されている。

石鳥居 笠石(部分)

忍性建立の
石鳥居笠石の一部と伝えられている。

 西門石鳥居(重要文化財)は、四天王寺の浄土信仰を象徴する建造物。
 鳥居の創建は平安中期と推定され、初めは木造であったが、鎌倉時代・永仁2年(1294)、
 当時の別当であった忍性上人(1217~1303)の発願により、木造から石造りに改められた。
 幾度の災害により、石鳥居も伽藍同様被害を受け、その度に修理を重ねて今日に至っている。
 笠石とは鳥居の最上部のこと。   (説明板から)

宝物館は休館中。翌日からは春季名宝展が始まる。残念・・・・。


亀井堂

太鼓楼

左・楽舎  右奥・北鐘堂

手前は 亀の池

石舞台と六時堂


石舞台は、
住吉大社の石舞台、厳島神社の石舞台とともに
「日本三舞台」のひとつ

元は白木造だったが、現在は御影石造
昭和29年に重要文化財に指定された。
 六時堂は、 四天王寺の境内中央に位置する雄大なお堂で、重要文化財に指定されている。
 1623年建立。
 昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから、「六時礼讃堂」の名になった。
 薬師如来や四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)等をお祀りしていて、
  回向(供養)、納骨等を行う当寺の中心道場でもある。
 入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めている。

六時堂 境内では一番、風格がある建物かな
  

六時堂の横には、一足早く満開の桜!
  
おもかる地蔵は 六時堂内にある。

持ち上げたら重く感じたので、
      願い事かなわず・・・




大黒堂

地蔵堂

中之門から出る

境内から見た中之門

結局、石鳥居は見なかった・・・・
四天王寺では、毎月21日・22日に縁日が開かれていて、にぎわうそうだ。
歴史的建造物が少ないからできることなのかもしれない・・・

御勝山古墳
府指定史跡

大阪市生野区勝山北三丁目16
 (撮影日2013/11/29)

バス停の東200mに墳丘。 区役所内に、御勝山古墳の説明と出土品が展示されている。

推定復元図 (区役所内展示から)

南北112m・東西55m・高さ8m
周壕を含めると全長150mの前方後円墳

昭和49年(1974年)の発掘調査で埴輪や葺石が発見された。
その後も数度の発掘調査が行われている。

4世紀末~5世紀前半の築造と推定されている。
岡山ともいわれている。
前方部は道路(勝山通)と公園に姿を変え、西側は周濠の名残りをとどめるのみである。
大坂冬の陣のとき、徳川秀忠の陣所になり、戦勝を記念して御勝山と呼ばれるようになったという。


西から見た後円部

歩道橋上から見た後円部

北から見た前方部
公園です。

空から見た御勝山古墳 (区役所内展示から)

 古墳から出土した埴輪  円筒埴輪、家形埴輪の破片など  (区役所内展示から)

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